2020/08/10

今日は、山の日

131008(ポカラ郊外ダンプス ヒマラヤの山々)

 

130925_1(カトマンズ スワヤンブナート)

 

130925_3(カトンマンズ スワヤンブナートから見た旧市街)

 

131011_4(カトマンズ タメル地区)
130927_1(伝統的なネワール料理)

 

131018_8(ポカラ郊外ダンプス ヒマラヤの山々と棚田)

 

131002_1(ポカラ郊外 棚田)

 

 

今日は「山の日」だそうです。写真は数年前に行ったネパールの写真です。

神々しく輝く早朝のヒマラヤ山脈。ふもとまで続く波打つ棚田。ヒンズー教、チベット仏教などの宗教が息づく町や村々のたたずまい。すばらしいところです。

エベレストは、サンスクリット語で「サガルマータ」、「大空の女神」という意味です。アンナプルナは「豊穣の女神」という意味だそうです。ネパールでも、山は女神だったようです。日本でも山の神が女神(が多い)だったことは、先日「山の神」にも書いた通りです。

最近、狼信仰を調べていて、だんだん山への関心が高まってきました。と言っても「登山」ではありません。基本的に、俺は山登りがそれほど好きではありません。ただ、目的があって、山に登らざるをえないから登っているだけです。

ネパールでも、棚田が目的だったので、稲作の高度限界、ダンプス村あたりまでしか上りませんでした。チベット高原の5000メートルに近い山に登ったときも、メコン源流を探すためであって、登山がしたかったわけではありません。

俺にとっては、「山」は、むしろ下から見上げて満足するものです。これは山への信仰心のあり方と関係するのかもしれません。人によっては、もちろん頂上を征服することが山への信仰心なのかもしれないし。

山は狼の生息場所でもあったので、「山」と「狼」は、切っても切れない関係ですが、どうして日本に狼信仰が生まれたかを考えると、山への感謝=信仰抜きにしては成り立たないことをあらためて知ることになりました。

今までの俺の理解では、狼は、田畑を荒らす鹿や猪から守ってくれる益獣であることから、つまり「農耕の守り神」として狼信仰は始まったという説は、いろんな本に書いてあることだし、俺も、その説に従って、いろんなところに書いてきたのですが、そうすると、狼信仰は人々が定住して農作物を作るようになった後に始まったことになります。

秩父でお犬さま(御眷属様)信仰が始まったのは、享保5(1720)年、三峯神社に入山した大僧都「日光法印」が、境内に狼が満ちたことに神託を感じ、「御眷属拝借」と称して、山犬の神札の配布を始めたのが最初だと言われています。もちろん、このときはすでにそうだったのでしょう。

でも、狼信仰のルーツは、太古の昔にさかのぼるらしいのです。まだ日本列島に住む人たちが山で主に狩猟採取をしていた縄文時代、あるいは、もっと昔まで。

国や民族を越え、ある意味、人間の根源に迫った狼信仰のルーツを求めることは、意外にも、自分の内なる宇宙、深層心理につながるという予感がします。 

 

 

 

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2020/08/08

山の神

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最近、「山の神」に関する本を読んでいて、あらためて「山の神」について忘れないように書いておきます。

自分の奥さんのことを「うちの、かみさん」「やまのかみ」と呼ぶ人がいます。俺は使ったことはありませんが、「かみさん」「やまのかみ」は本当の「山の神」から来ているようです。

春には山の神が里に下りて田の神となり、秋の収穫後に、ふたたび山へと帰るという交代説はよく聞く話だし、何度か原稿で書いたことがあります。狼像を探して歩いていると、よく「山の神」の石碑や祠に出会いますが、運が良ければ、そこに狼像が伴います。

大護八郎著『山の神の像と祭り』には「人類の信仰の発達史からいえば、山の神こそその原初のもの」とあります。山の獣や鳥を狩り、山草や木の実などを採り、山から流れる水が生活に欠かせないものだった太古の時代から、山に対する感謝が生まれ、いつしか信仰になった。山の神に対する信仰は、山自体をご神体に感じていたという。

町田宗鳳著『山の霊力』には「 人間がこれらの動物の肉を口にするとき、それは山という巨大な動物の分身の肉にほかならなかった。 古代人の眼には、山は決して無機質な物体ではなく、切れば真っ赤な血が吹きでるほど、肉感をそなえていたのではないか。それは、人間と山が同じ〈いのち〉で繋がる生き物だという感覚でもある。」とあります。

山に対する信仰は、人間に命の糧を与えてくれる山に対する感謝に他なりません。山の獣の王者であった狼が山の神を守る神使になったというのも、自然な成り行きだったのかもしれません。

ネリー・ナウマン著『山の神』では、熊野の山詞では狼そのものを「山の神」と呼んだり、中部地方の山地では、「山の主(あるじ)」と呼ぶことを紹介しています。また、鎌倉時代に狼を山の神とする伝承もありました。

山の神は豊穣の神、お産の神でもありました。狼や犬の多産・安産のイメージとも相まって、山の神と狼との親和性が生まれたとの指摘もあります。だから、山の神を守っている狼像を見ることも多いのです。

ただ山の神像の多くは、仏教伝来以降、仏像などの影響を受けて造られるようになったらしい。だから、地方によって、山の神の像は千差万別です。男の神像だったり、女の神像だったり、男女の神像だったり。中には鳥の形をした山の神像もあります。

山で失くしものをしたときは、山の神の前で、オチンチンを見せると、失くしたものが見つかる、などという話もありました。この場合、山の神は女神ということです。また、マタギは、山の神にオコゼの干物をお供えしたというのがあり、これも、女神である山の神が「自分よりも醜いものがある」と喜ぶからだそうです。ただ、オコゼの干物が男根と似ているためだという説もあり、こちらほ方が有力らしい。オコゼの干物の実物を見たことはないので、本当に似ているのかどうか、そのうち自分のと比べてみたいと思います。

とにかく、山の神を怒らせない、喜ばせることが大切で、そうしないと獲物も得られないし、命の危険さえあると信じられていたのです。

ただし、オチンチンを見せれば山の女神が喜ぶというこの発想は、男性のものでしょうね。昔の山仕事は主に男性のものだったろうから、仕方ないかもしれませんが。今、この通りにやったら、変質者です。

『山の霊力』にはこうあります。

「修験者が山中での荒行終えてから、精進落としといって、淫蕩にふけることも、よくあった話だ。峰入りを済ませた山伏が集結する大峰の洞川にも、江戸時代には遊郭ができていた。」

埼玉県上尾市ですが、江戸時代から明治時代にかけて大山講(石尊講)がたくさん組織され、大山詣りをする人がたくさんいました。信仰心もあったようですが、娯楽的意味合いが多かったようです。大山と江の島観光がセットだったらしい。(阿夫利神社の下社からは江の島が見えます)

『大宮市史』『上尾市史』によると、大山は出世神でもあったそうです。上尾では、14、5歳になると、男子は大山詣りをしました。これが一種の大人の儀式のようで、借金してまでも大山詣りをしないと、一人前として認められなかったといいます。初めての登拝を「初山」といいました。

上尾から行く場合は、平塚まで汽車で行き、そこからは遠い距離を歩きでした。そのため下駄では大変なので、草鞋や地下足袋で行きました。でも、帰り、江の島、鎌倉、東京を通るとき草鞋ばきは恥ずかしいので、せめて地下足袋をはいて行きたいと言って買ってもらった人もいたそうです。いつの時代も同じですね。ちなみに境内に立っている「大山詣り」の像は、裸足ですけどね。

この「初山」は、山の神に会いに行く、山の神との合体(童貞を捨てる)する旅でもあったようです。「男」としての通過儀礼です。たぶん、大山に参ったあとの、江の島、鎌倉、東京の花街が本当の「初山」の場所だったのではないかなと勝手に想像しています。(今のところその資料は見ていません)

 こういうふうに、山の神が女神であることと関係あるそうですが、たとえば、大相撲での女人禁制、山の女人禁制が、進歩的なある種の人たちにとっては、女性差別だ、男尊女卑だ、時代遅れだ、と映るかもしれません。

でも、どうなんでしょうか。男女が、何事においてもすべて同じでなくてはならないと考えるのは、むしろ、「男性が子供を産めない」という決定的な欠点を、サラ~ッと無視することにつながらないでしょうか。この山の神を考えた時、男性はすでに女性には勝てないことを自覚しているのではなかと思います。だから、せめて山の神の歓心を買おうと男性はやっきになるのではないかと。

そして、こういう健気な話もあります。

昔、妊婦が出産する産屋には山の神の画像をかけていたそうです。『山の霊力』には、「新しい生命が誕生するのには、どうしても山の神の応援が必要とされたのである。その証拠に、妊婦が産気づくと、山の神を迎えにいく儀式を営んでいた地域も、岩手県遠野市をはじめ全国的に多い。ふつうは夫が里から馬を連れ出して、山の方に向かって歩き、たまたま馬が立ち止まったところで、山の神が馬の背に乗ったとみなし、ふたたび産屋に戻ってくるのである。(略)難産だと、それは山の神の到着が遅れたためだとし、死産だったりすると、とうとう山の神が来てくれなかったと考える。」

なかなか馬が止まってくれないと、止まってくれるまで歩き続けた、とかいう夫の話を別な本で読んだ気がするのですが、とにかく、夫は妻と生まれてくる子のために必死で山の神を頼ったわけですね。

 

 

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2020/08/07

新型コロナの虫送り

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10年ほど前に、埼玉県皆野町の「虫送り」を撮影したことがあります。今年は行われるでしょうか。

虫送りは、3本の「オンベイ(御幣)」を持って村を練り歩き、害虫の悪霊を呼び寄せ、村の外へ出してしまい、村の安泰を祈願する行事です。

オンベイというのは、神霊の依代で、竹竿の先に幣を取り付け、その下に七夕飾りに使った色とりどりの短冊をつなぎ合わせて作ったもので、高さは5mほどあります。

害虫には、いろんなものが含まれるようです。農作物の害虫はもちろん、疫病神なども、すべて災いを招くものを「虫」として呼び寄せます。今年なら「新型コロナの虫」も含まれるかもしれません。

昔は、最後にこのオンベイを、村外れの谷川に流し、村の安泰を願っていましたが、今は、流せなくなった(流さなくなった)とのこと。

それを聞いて、今はそんな時代なんだなぁと思ったものです。別な灯篭流しの祭りでも、下流にボランティアが待機していて、流れてきた灯篭を全部回収することをわざわざアナウンスしていました。だから流さないでと。

物を勝手に川に流せないんですね。物だけではありません。「悪霊」「災い」も流せなくなったということです。昔なら、「虫」にみたてた「悪霊」「災い」を村の外に出してしまえば、村の中の安泰は保てました。

でも、意地悪な見方をすれば、「虫」を村外に出すということは、他の村(下流の村)がその「虫」の被害に遭うかもしれないことになります。

つまり、今の時代、災いは、その村だけで解決すれば良いという問題ではなく、災いは、すべての村(あるいは物)が大なり小なり何らかの関係性を持っているということでもあります。

 村から町、県、そして国、世界へと、俺たちの生活範囲は広がっているのに、「新型コロナの虫」に関しては、まるで村の「虫送り」に逆戻りしているような感じを受けます。外からの「新型コロナの虫」が自分の村(町・県・国)に入ってくるのを心配しています。

でも、「新型コロナの虫」が自分の村(町・県・国)からいなくなっても、別なところにいる限り、平穏な生活は戻ってきません。つまりこの「新型コロナの虫」送りは、全地球規模で、みんなで協力してやらなければならないことです。

にもかかわらず、今は、外からの人間を「虫」扱いせざるをえない状況です。観光業で潤っていたはずの観光地が「来ないで」と言うところもあります。罹った人間に対する誹謗中傷も止まりません。人をウイルス扱いする客や店員のレジハラも起こっています。「人間」が「虫」ではなくて、「新型コロナウイルス」が「虫」なんです。

新型コロナの一番怖いところは、人間関係を分断するところにあるようです。

そこで、虫送りを復活させてみてはどうでしょうか。

オンベイをロケットに載せて宇宙に放つのが、現代版の「虫送り」としては一番の方法かもしれません。実際やるのは難しいですが、その代わり「花火」があります。その象徴的な儀式として、これを「虫送り」に見立てればいいのではないかと。

それとも秩父市・椋神社の「龍勢」でしょうか。こちらはまさに竹製の「ロケット」なので、「宇宙に放つ」イメージと合致するような気がします。

こういう儀式は象徴的なものです。これで人間が「虫=ウイルス」でないことの感覚を取り戻すことができたらこの「虫送り」という民俗も役に立つのかなと思います。

 

 

 

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2020/08/06

【犬狼物語 其の五百十四】埼玉県春日部市 建御雷神社内の三峯神社

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建御雷神社(たけみかづちじんじゃ)に参拝しました。境内に三峯神社が鎮座します。

三峯神社の横には、小山とも呼べないような土の盛り上がったところに、冨士淺間宮大権現の碑が立っていました。これも「富士塚」なんでしょうね。

「山」と「里」の相似形のような神社の配置にも心動かされます。

 

 

 

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2020/08/05

「東北お遍路写真コンテスト2020」の作品を募集開始

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東北お遍路写真コンテスト2020の作品を募集始めました。

締め切りは2020年12月15日です。

※ 今年の応募方法は、2019と変わりました。去年はデータでしたが、今年は、2L版プリントとエピソードの募集です。今回からは、写真とエピソードの両方が審査の対象になります。

詳しくは、募集要項(チラシ)をご覧ください。こちらからpdfファイルをダウンロードできます。

https://touhoku-ohenro.jp/pkobo_news/upload/88-1.pdf 

 

 

 

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【犬狼物語 其の五百十二~五百十三】埼玉県川越市 的場御嶽神社2社

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埼玉県川越市的場に鎮座する御嶽神社2社を参拝しました。

コンビニの横の狭い道路を入っていくのですが、行き止まりになっていて、民家の庭のようなところに続いていました。

その道の小山のてっぺんに御嶽神社の碑が立っています。もともとはこの小山(岩?)が磐座だったんですかね。

もう一社は、川越中心へ向かうバス通りに面していて、やはり同じように小山(岩?)のてっぺんに碑がありました。

どちらの碑にも「三笠山」と「八海山」ともあるので、これは御嶽(おんたけ)信仰の神社のようです。

 

 

 

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2020/08/04

【犬狼物語 其の五百十~五百十一】埼玉県日高市 原宿三峯・御嶽神社と下鹿山御嶽神社

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埼玉県日高市の原宿三峯・御嶽神社と下鹿山御嶽神社を参拝しました。

原宿の方は、敷地が、もともと原宿尋常小学校跡だったらしく、いくつかの建物があります。

聖観世音菩薩のお堂の前では、ゲートボールを楽しむ人たちがいました。その隣には、稲荷神社、そしてその隣が、5社合祀殿で、その中に、三峯神社と御嶽神社が祀られています。お札もあります。隣り合ってお札が祀られているところを初めて見ました。

ちょうど歩いてきた近所の女性に話を聞くことができました。毎年4月18日には祭りがあって、すべてのお宮を御開帳するそうです。その時、三峯と御嶽のお札も取り替えます。だからお札をいただいてくるのは、その前で、区(自治会)長さんを中心に、何人かで神社へ参拝し、各家のお札と区宛のお札をいただいてくるそうです。

代参のようにも見えますが、今、これらの神社は、講というのではなくて、区として管理しているとのこと。

祭りの前日は、農家から藁をもらってきて水で濡らし、注連縄を作、張り直します。職人さんなどはボランティアで、お宮の修繕などをやるそうです。地域の神社として、今でもみんなでしっかりと守っているというのはすばらしいですね。

もう一カ所、下鹿山御嶽神社は、住宅地の奥にあり、この時期は草が生い茂り、一見雑木林のように見えますが、鳥居があったので、かろうじて神社であることが分かりました。いくつかの碑や祠が祀られています。

 

 

 

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2020/08/03

【犬狼物語 其の五百七~五百九】埼玉県春日部市 3社境内の三峯の石祠

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 江戸時代、春日部は日光街道の宿場町のひとつでした。1944年(昭和19年)、南埼玉郡内牧村と町村合併するまでは粕壁町と表記されました。

また江戸時代、全国的なコメの番付の上位に、「武州越ヶ谷米」(現越谷市)・「武州忍蔵米」(現行田市)・「武州葛西米」(現葛飾区・江戸川区)・「御蔵松伏米」(現松伏町)に並んで「武州新方米」(現春日部市・越谷市)があげられていて、当時の武蔵国東部がコメの一大産地だったとのことです。

『新編武蔵風土記稿』による各宿場町の軒数(足立・埼玉・葛飾郡内)-文化・文政年間(1804 ~ 30)によると、粕壁宿は880軒ありましたが、宿場町が三峯信仰にとっての拠点となっていたようです。火災除け・盗難除けとして人々に信仰され、分社が勧請されました。

春日部市では、19世紀初期には三峰講の結成や末社としての三峰社が建立されているところから、18世紀中期ないし後期からこの地域に三峰信仰が浸透していったことが推察されるという。

昭和49・50年の石造物調査で三峰講中の石塔が発見されていますが、その地域の古老に尋ねても講中について聞くことが出来なかったそうです。また、旧庄和町域では、各地で三峰講が結成されていましたが、昭和30年代から40年代に中止になってしまったそうです。

ただ、平成17年には、飯沼では22戸が参加して三峰講を行ない、農作業が一段落した11月22日にくじ引きで決められた代参4名が三峰神社に詣で、神札を受けてきて各戸に配付していたとのこと(「三峰神社の眷属箱」より)ですが、現在も続いているのかどうかは聞いてないので不明です。

写真は、上から春日部市下柳香取神社「三峯山」石祠(天保九年)、春日部市八坂香取稲荷合社「三峯山大権現」石祠(文化十 年)、春日部市東中野香取神社の「三峰山」石祠(文久元年)です。

 

参考資料:

「関東平野における三峰信仰の展開―武蔵国東部を中心に―」三木一彦

「三峰神社の眷属箱」春日部市郷土資料館
http://www.boe.kasukabe.saitama.jp/siryoukan/shuzou30.html

 

 

 

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2020/08/02

【犬狼物語 其の五百六】埼玉県秩父市 柊木神社

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埼玉県秩父市の柊木神社を参拝しました。ネットにあがっていた情報を見て、長野からの帰り、寄ってみました。

ネット情報通り、道路からは高いところにあるので、見過ごしてしまいそうです。山の方へいったん上がってもなかったので、元来た道を下って来たら、鳥居が見えました。

お犬さまは、前足の開きが独特ですね。お犬さま像もすばらしいものですが、お狐像もいます。

 

 

 

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2020/08/01

昨日の「チコちゃんに叱られる! 」歳をとると若者の顔の区別がつきにくくなる

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昨日のNHK「チコちゃんに叱られる! 」では、歳をとると、若者の顔の区別がつきにくくなるという話題がありました。「どうして?」ということなんですが、若い世代と付き合うことが少なくなって、若者が外国人のようになっているからというものです。

これは心理学で習った「平均顔」説ですね。

人間はとくに人の顔に敏感だそうです。逆三角形の位置にある3点を見ると、「顔」を連想するらしい。生まれたばかりの乳児も、母親とそうでない人の顔の区別はついているらしい。

考えてみれば不思議です。人の顔は千差万別ありますが、そんなに変わりはないはずで、その微妙な差で、それが誰なのか、どういう感情なのかを、瞬時に判断しているわけです。それは神業といってもいいでしょう。

顔の判断は「平均顔」説というのがあります。たとえば日本人なら日本人の顔の平均を知っているので、そこからどれだけ外れているかの「差」で判断しているという。外国人が日本人の顔がみな同じに見えるというのは、日本人の「平均顔」を知らないからで、反対に、日本人は外国人の「平均顔」を知らないので、みな同じに見えます。

 若い世代との付き合いが減った人は、だから若者の「平均顔」がわからず、同じに見えてしまいます。

外国旅行すると、その国の滞在が長くなるにしたがって、その国の人の顔の区別がつきやすくなるという体験は俺にもあるので、この説は説得力があります。

反対の体験もあります。フランス・パリでアルバイトをしながら長期滞在しているとき、普段は鏡を見ない屋根裏部屋に住んでいたせいもあって、街のショーウィンドウに映った自分の姿がよりアジア人的で、自分だとは気が付かず、中国人だと思ってしまったという、逆の体験もあります。

これは人間の顔だけではなく、いろんなことに言えそうです。たとえば、お犬さま(狼)像にはバリエーションを感じて、細かい区別はつくのに、いわゆる狛犬はどれも同じに見えるのも、この「平均顔」説で説明できるでしょう。

よりたくさんのお犬さまを見ることで、お犬さまの「平均顔」がわかってくると、それぞれの微妙な差異にも気が付けるようになる、ということです。

 

 

 

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