地震の予言者は起こったあとに現れる
(写真は、イスラエル・エルサレムの「岩のドーム」)
最近、このブログに「予言」というキーワードで検索してきてくれる人が増えているようです。
以前「【ひとり会議 その十五】 予言者、占い師、霊能者について」で、予言者のことを書いたからだと思います。
アメリカ 911同時多発テロを予言した(?)と言われる、ブラジル人、ジュセリーノ・ルース氏の予言では、「2008年6月13日、大阪でM6.3の地震が発生」と言っていたそうです。正確には当たりませんでしたが、拡大解釈して「当たった」という人がいます。(すごい拡大解釈!)
そしてネットで話題になったのは、手塚治虫氏の漫画『ブラックジャック』第17巻・第158話「もらい水」の中で、「6月14日午前8時ごろ 東北一帯にマグニチュード7.5の地震発生」とあるそうです。(年は書いてません) それを今回の岩手宮城内陸地震の「予言が当たった」と騒いでいる人たちがいます。
このふたつ、ジュセリーノ・ルース氏の場合は「予言がはずれた」ということだし、手塚治虫氏の場合は、「予言」でも「予知」でもなく、単なる偶然。(あっ、「偶然」なんて書くと、怒られるか)
必ずといっていいほど出ますよねぇ。こういう大きな事件や災害が起こったあとは。
俺は、彼らの「予言」が当たっていても、外れていても、どっちでもいいです。予言の内容そのものにあまり興味がありません。
俺が興味を持っているのは、どうして、こういう大地震や大災害が起こったとき、「この大地震は予言されていた」とか「大災害の予言が当たった」と思う人たちが、起こったあとにたくさん現れるのだろうか?ということです。こういうのを「事後予言(じごよげん)」と呼ぶらしい。(Wiki 「予言」参照)
ここに、人間の不思議さと、おもしろさと、いかがわしさを感じます。言うなれば、人間臭い部分です。こういう胡散臭いところ、嫌いではありません。(霊視や占いもしかり。信じませんが、おもしろい)
起こったあとに「予言」が増えるのは、やっぱり当たらないと思っている証拠でしょうか。ホントに信じていたなら、あとに、ではなくて、起こるであろう大地震に備えるからです。でも、そういう備えをしたという話は、いっさい聞きません。
つまり、「予言」というドラマを、ワクワクしながら楽しんでいるとも考えられます。逆説的に言えば「予言は信じます」という人ほど、「予言は当たらない」と無意識では思っているのかもしれません。「当たることはない」とわかっているからこそ、ワクワク感を安心して楽しむことができるからです。とくに災害の場合は。
予言者を期待する人間の気持ちというのはわかります。予言は当たっても外れても、結局たいした問題ではありません。(偶然に当たるときもあるでしょうが)
人間の能力を超越したところのものへの憧れ、あるいは、期待。いつの時代も、「予言者」の存在は必要でした。これからも存在し続けると思います。
社会が不安定であったり、先が見えないときは、とくにそうだと思います。今の時代がまさに「その時」なのでしょうか。
ただし、あくまでも「予言者」です。「予言」はその付録みたいなものでしょう。
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