カテゴリー「犬連れ旅や犬にまつわる話」の291件の記事

2019/08/15

【犬狼物語 其の三百八十四】 忠犬ハチ公像が建立されてから71年

170729_1

 

渋谷の「チュウケンハチコー」は、外国人との待ち合わせでも使う、国際的なランドマークにもなっているようです。

終戦記念日の今日8月15日、渋谷駅前の忠犬ハチ公像が建立されてから71年になります。

1代目の忠犬ハチ公像は軍需品をつくるための金属回収運動で供出され、溶解されて無くなりました。機関車の部品になったそうです。

1代目ハチ公像の製作者であった彫塑家・安藤照は空襲で亡くなったため、彼の息子である安藤士が、現在の2代目ハチ公像を製作しました。終戦の3年後、1948年(昭和23年)のことです。

この再建像の除幕式は、8月15日に行われました。日本はまだ連合国軍の占領下にあって、GHQの代表も参列したそうです。

設置にあたり、「忠犬」では軍国主義を思わせるなどの意見が出たようですが、結局、「忠犬ハチ公」という名前が浸透していたので、そのまま「忠犬ハチ公」になったようです。

あれほど日本の軍国主義を嫌い恐れていたGHQが、よく「忠犬」を許したなぁと思うわけですが、実は、忠犬ハチ公の物語は戦前既に欧米でも有名でした。アメリカの社会福祉事業家のヘレン・ケラーもこの物語は知っていて、1937年来日し秋田県で講演をしたとき、秋田犬が欲しいと言って、子犬を譲り受けたくらいです。2代目ハチ公像再建にあたっては、その物語に感銘を受けていたGHQの愛犬家有志が支援を行ったとのことです。(wiki参照) つまり「犬」の像だったから許されたということではなかったのでしょうか。いや、もっと言えば、主人を健気に待ち続けたハチ公の物語は、心の琴線に触れる万国共通の「昔話」だということなのでしょう。

再建当時は駅前広場の中央に設置されたようですが、1989年(平成元年)5月に駅前広場が拡張されたのを機に今の場所に移され、ハチ公口方向に向きも直されました。また、このとき台座の高さもハチ公像に触れやすい高さに変更されたそうです。今は外国人が台座に腕を伸ばして記念写真を撮っています。 

 

 

 

にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2019/08/12

マイケル・W・フォックス著『オオカミの魂』

1_20190812060601

 

マイケル・W・フォックス著『オオカミの魂』を読みました。

「イヌのことなら狐(フォックス)に訊け」(デズモンドモリス)という言葉があるそうで、フォックスはイヌ科動物の権威。心理学、行動学の博士号を取得して『イヌの心理学』、『イヌのこころがわかる本』などの著書もある生態学者・獣医師です。

この本は、単なるオオカミの生態・行動を紹介した本ではなく、行動学、心理学、哲学、社会科学など幅広い領域の成果をもとに、現代の人間が抱える精神的な問題に踏み込んだ本です。オオカミだけではなく、あらゆる生き物への畏敬の念の大切さを訴えています。

「オオカミは野生状態の象徴的な存在、つまり野生に対する意識の元型になっています。」

「自然は、わたしたち人間が健全さと文明を取りもどす最後の望みなのかもしれません。そしてオオカミはわたしたち人間にとって、高貴な野蛮人といういくぶん空想的な存在よりもずっと現実的で、実際により適切でもある水先案内人、元型となりうるのです。」

フォックスはイヌの研究もやっていて、飼いイヌが野生の動物から家畜化したとき、どういうことが起こったか、という興味深い観察を述べています。家畜化は、オオカミの行動の儀式的な側面を薄め、単純化するというのです。そのため人間に懐くようになりました。イヌは、儀式を捨てて、フレンドリーになった。逆に言えば、だれにでも懐くフレンドリーさを獲得したから、人間の伴侶動物として生き延びることができたということなのでしょう。

これは人間の文化にも言えるようです。

「行動の点でいうと、現代人の行動・文化の伝統の多くからしだいに儀式の要素が失われつつあり、この現象にはファッションから社会的な役割にまで及んでいます。」 

「文化化も似たような影響を及ぼし、さまざまな儀式の効果を弱めることで、人間の行動の幼形成熟をさらに強化させるのかもしれません。疎外と社会の不安定さといった問題はありますが、利点としては、人間の態度が柔軟性を増し、もはや規定された儀式やタブーに束縛されずにすみ、将来、異なる文化間での争いの可能性が少なくなる、ということがあげられるでしょう。」

いいとか、悪いとか言っているわけではありません。生き延びる術を獲得したことを「進化」というなら、飼いイヌも、人間も進化していると言えるのでしょうね。

だからこそ、オオカミに魅力を感じるわけです。人間が失ってしまった儀式を重んじる野生動物としてのオオカミ。自然の一部として存在するオオカミです。

 「先住民を「高貴な野蛮人」とみなしたルソーの視点は、野生動物、とくに、人間と同様ハンターであるオオカミなどに対するわたしたちの文化的な認識や理解といくぶん関連があります。「高貴な野蛮人」という言葉には、ある種神聖な神秘的な雰囲気、存在感、気品があり、「文明化した」人間に、再び自然と一体になりたいとか、文明化しすぎた科学技術の世界が生み出した付属物を捨てて自由な精神状態で暮らせたら、といったあこがれを生み出します。」

「高貴な野蛮人」と「オオカミ」は、社会的な儀式の点で高度に洗練されていて、自然と一体になって生きているという意味で、同じような存在です。そこにあこがれている現代人という構図でしょうか。 

 それと関係があるのか、今までの反動なのか、最近の若い世代は、けっこう儀式好きなのではないかと、最近ある写真を撮るようになって思っています。

 

 

 

にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2019/07/28

「悪夢」とはなんなのか

Img_20190414_112345664

 

「悪夢に苦しむ犬は起こした方が良いのか?」

(the WOOF :https://woofoo.jp/editors_desk/should-you-wake-a-sleeping-dog/)

という記事が目にとまりました。

前から、ヴィーノも夢を見ているのではないかとは思っていました。寝ているとき、声を出したり、手足を動かしたり、瞼がぴくぴく動くことがあって、それが人間の夢を見ている様子と同じだったからです。

「意外と」というのも、犬に失礼な話かもしれませんが、犬の精神活動も、それほど単純ではなく、意外と複雑で、犬にも意識があるはずだから、無意識もあるはずで、夢を見ることもあるだろうと考えた方が自然な気がします。

そこで、「悪夢」を見ているときにどうすればいいのでしょうか。

自分で夢日記をつけていて思うのですが、そもそも「悪夢」というのは何なのかはっきりした定義はないし、仮に「怖い夢」「うなされる夢」が「悪夢」としても、それは意識側から見た話で、無意識にとっては、その人にその夢が必要だから見ているのだろうということなのです。

たとえ、殺されるような夢を見ているとしても、実際に死ぬわけではなく、無意識内での「死」は、何か意識側で、今の自分を否定し(殺し)、新しく変わらなければならない、あるいは、新しく変わりたいという願望かもしれないのです。

だから意識側の人間が、勝手に「悪夢」と判断して、夢にうなされている人や犬を起こすのは、けっしていいことではないような気がします。そのままにしておく。

でも、そのままにしておくのは、意外と難しいものです。辛そうにしている人や動物を「助けてあげたい」という気持ちは大切かもしれませんが、それは、そうしない自分に対する後ろめたさであるかもしれません。

体と同じように、心にも自然治癒力はあると思っています。

 

 

 

にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2019/07/10

『遠野物語』カッパ淵でのヴィーノ

_mg_9464

Image_20190710152801

 

遠野について書くことになり、原稿を考えていたのですが、突然、思い出したことがあります。

これは、犬だけではなく、狼にも通じる(と俺が感じている)ことでもあります。

ヴィーノを連れてカッパ淵を歩いたときのことです。ヴィーノは嬉しそうに川の水を飲み、高さ60センチほどのカッパ像の匂いをかぎました。でも、どうもそわそわして落ち着きがない。クーン、クーンと鳴いて、リードを強く引っ張ってどこかへ行こうとしました。

「ヴィーノ、どうした?」

すると、観光客のおばさんが、騒ぎ始めたヴィーノを見て、

「このワンちゃんにはカッパが見えるようねぇ」

といったのです。

なるほど、と思いました。昔の人間にも見えていたカッパ。でも時代と共に、見えなくなってきました。犬にはわかるようです。(「ゲゲゲの・・・」の水木しげる氏にも見える?)

この場に漂うある種の気配です。自然との対話の場所。あるいは死と生の境をいったり来たりできる空間。そんな場が、カッパ淵にはあるのかもしれません。

犬は人間のように理屈で自然を理解することはありませんが、自然そのものを感じることは出来るに違いないのです。そこがどういうところか直感することはできるのでしょう。でなかったら、生きのびられないからです。

 そしてもう一カ所、遠野の北、荒川高原牧場への途中に、「犬淵」という地名があって訪ねました。その集落の入り口にあった山神さまです。人間がくぐるには鳥居が低く、まさか犬用の鳥居ではないでしょうが、ふしぎな光景です。

ここでもある気配を感じたのか、ヴィーノは落ち着きません。 

犬は、超高感度の感覚器官を持っています。人間には聞き分けられない音や嗅ぎ分けられない匂いもちゃんとわかります。

人間が発達させた脳によって「賢く」はなったかもしれませんが、そのかわり失った「感覚」というものがありそうです。犬は細部に敏感です。感覚器官から入った情報をそのまま生かしているようです。一方、人間は環境をそのまま見るのではなく、いったん脳で処理して、おおざっぱな概念で見ています。だから、極端に言えば、人間は見たいと思ったものだけ見ているらしいのです。

直接的に自然を感じる犬が、そばにいることは、人間に本当の自然を思い出させてくれるといえるかもしれません。先日の話の、犬(狼)が「自然への案内人」というのがよくわかります。

 

 

 

にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2019/06/22

マレーシア・ペナンの旅(05)ペナンの犬

Img_4601

Img_4599

Img_4572

Img_4226

Img_4431

Img_4437

Img_4836

 

海外に出ても、犬の存在が気になります。

そこでペナンでも野良犬・飼犬・地域犬の写真を撮ろうと思っていたのですが、意外と犬の姿が目に付きませんでした。(猫はいます)

ジョージタウンで見た野良犬は、4日間で真っ黒の犬1頭だけ。あとはチャウラスタ市場で見かけた飼犬が1匹。

たとえば、朝夕、犬の散歩をしているなどという光景も、ジョージタウンの中心部では皆無でした。ペットフードの専門店もあったので、飼犬はもちろんたくさんいるんでしょう。暑いから家の中から出さないのでしょうか? そういえば、犬の糞もあまり落ちていません。マナーがいいからなのか、それとも犬の数が少ないのか。

もしかしたら、外国人の長期滞在者が多い、ガーニーやタンジュンブンガ地区のお金持ちエリアなら、犬の散歩光景も見られるのかもしれませんが、そのへんの事情はわかりません。

そのかわり、ジョージタウンからフェリーに乗って対岸のバタワースの街をぶらついていると、何匹かの野良犬と地域犬に遭遇しました。こちらは俺が今まで東南アジアで見てきた予想通りの犬の姿がありました。

可愛い子犬がいました。母犬といっしょの野良犬です。声をかけると警戒して逃げて行ってしまいました。やっぱり野良犬で、地域で飼っている犬ではなさそうです。それから寺院のところで見たでっぷりと太った犬は、リードなど付けてませんが飼犬でした。

野良犬が普通に生きていられる社会は、いいところだと思います。犬にとってだけではなく。どこかの国のように、「ちゃんと飼う」ことが当たり前のようなところよりは。

犬にしてみたら、人間の決めたルールなんて関係ない話ですからね。野良犬を「かわいそうだ」などというやつは、どうなんでしょうか。犬は犬そのもので生きているだけです。「かわいそう」なんて言われたくはないはずです。

ところでジョージタウンにあったペットフード専門店を覗いたら、フードのほとんどは外国製(タイやアメリカ)でした。マレーシア製を探したら、犬用ガムを見つけたので買いました。留守番していたヴィーノへのお土産です。3本入ったガムの細い方が1袋1.1リンギット(約31円)で、太い方が1袋2.5リンギット(約70円)です。

 

 

 

にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2019/05/24

【犬狼物語 其の三百三十】埼玉県長瀞町 野上下郷の犬塚

287a0076

287a0080

287a0103

287a0097

 

情報では、「石上神社の犬塚」とあったので、長瀞町の石上神社へ行ってみましたが、それらしい塚が見当たりません。光玉稲荷神社の狛狐像はありましたが。

近所のお宅から人が出てきたので尋ねてみると、犬塚はここではなく、ちょっと離れたところにあるという。

犬塚は観光パンフにも載っているそうで、それなりに、大切にはされているようなのですが、「解説看板なども立っていないしね」とのこと。わかりにくい場所にあるようです。

県道に突き当たるちょっと手前というので行ってみると、碑が立っていて、これのことだろうか?と思って近づいてみると、「馬頭観音」の文字が。

道を行ったり来たりしていたら、奥の家から女の人が歩いてきました。ちょうどいい、道を聞こうと思ったら、たまたま通りかかったわけではなく、さっき犬塚を聞いた人から電話があって、そっちに犬塚を探しに行く人がいるからと連絡があったという。なんと! 俺を案内するために、わざわざ家から出てきたというのです。

犬塚は、馬頭観音とは関係なく、民家の庭を30mほど上がったところ、畑の横にありました。そもそも、ここの地名が「犬塚」という小字だそうです。

たまたまその家には草刈りに来ていた男の人がいましたが、その家の息子さんだったらしい。もうここには誰も住んでいません。ときどき息子さんがこうして草刈りなど、手入れをするために帰っているのだそうです。今日はたまたまその日でした。

犬塚の板碑には、このあたりで多く採れる青っぽい石を使っていて、屋根掛けされています。この石材は、三波川結晶片岩帯に分布する「緑泥石片岩」といいます。「青石塔婆」とも呼ばれるそうです。板状に剥離する性質があり、加工がしやすいので、板碑に多く使われてきました。

近くに採掘跡があります。県指定旧跡「板石塔婆石材採掘遺跡」です。

息子さんによると、昔は文字も見えたそうですが、年々板碑は細ってきて、今はわからなくなっています。梵字が書いてあったらしいのです。

今でも12月のある日曜日に、念仏をやっているそうです。この念仏については、栃原嗣雄著『秩父の民俗: 山里の祭りと暮らし』に載っていました。

「犬塚耕地では毎年旧十月戌の日に、犬神様の念仏が行われている。
 この犬神様は、鉢形城の軍用犬で、天正十八年鉢形落城と共に、主を失った犬は秩父方面の出城である天神山城、竜ヶ谷城、根古屋城、日尾城、高松城等を巡り歩いていたが、ついに力尽きて杉郷地内のシケンブチ(四犬淵)で水死したという。その犬を祀ったものが犬神さまと伝えている。
 その犬の供養のため念仏講がつくられている。宿は回り番で小字のイノズカ、カラサワの十六軒もち回りである。米五合と小豆一合を出しあい宿番の家でボタモチをつくって出す(昭和四十五年からパック入りのスシ)
 午後六時ごろから集まり、お日待ちをして念仏になるが、前の方に八匹の犬(オス五匹、メス三匹)が描かれた掛軸をつるし、お燈明を上げ、線香を立て、鉦たたきがその前に座って先導する。まず「犬の念仏」と称して、八匹の犬の名を唱えながら、八回くり返す。

オーゴー オーレイ ナムアミダ
ユウズマ フクズマ ナムアミダ
ツーツキ ツマブキ ナムアミダ
チユーヤ マンプク ナムアミダ

 (略)

犬たちは、大切な文書を首にさげて走り回る伝令の仕事をし、「天正十八年鉢形落城」とは、豊臣秀吉軍の攻撃によるものだったらしい。当時北武蔵一帯を支配していたのは鉢形城の城主だった北条氏邦。氏邦は、約3500の兵で城を固めました。中山道を南下した前田利家、上杉景勝らの軍勢5万人と激しい攻防を1か月続けたましたが、ついに城は落ちました。秩父の出城も運命を共にすることになりました。
 こうして主を失った犬たちはさ迷い歩き、この地で死んでしまいます。それを憐れんだ大沢藤左が自分の所有地に犬神様として葬ったのが「犬塚」だという。それから念仏講が作られました。

また8匹のうち、死んだのはツーツキ、ツマブキ、ユウズマ、フクズマの4匹だったとのことです。

息子さんは、犬が描かれた掛軸があったはずだといい、家の中へ探しに入ってくれましたが、「ありませんね」という。「犬の名前も、変わった名前だったし、狼犬だったのかなぁ」とのこと。念仏の時に掛けた8匹の犬が描かれた掛軸だったのかもしれません。

12月の念仏は、毎年日が変わるそうですが、その時に掛け軸は見ることができるのではないでしょうか。

 

 

 

にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2019/05/22

【犬狼物語 其の三百二十八】東京都新宿区 動物とのゆかりが深い市谷亀岡八幡宮

287a0039
(市谷亀岡八幡宮)

287a0051
(市谷亀岡八幡宮のロボット狛犬)

287a0044
(几号水準点)

180415_3
(犬次神社に奉納されている麻奈志漏の絵)

_87a0550
(善峯寺の桂昌院と子犬の像)

 

市ヶ谷駅に近い市谷亀岡八幡宮は、動物とのゆかりが深い神社です。

祭神である応神天皇は、シカ狩りのとき、猟犬がイノシシと戦って死んだのを哀れみ、丁重に葬りました。猟犬の名前は「麻奈志漏(まなしろ)」です。(『播磨風土記』)

その場所が、兵庫県西脇市の犬次神社ではないかといわれています。「犬次」の名前の神社は、全国にここだけで、犬を葬った「犬塚」が転訛したものと考えられているそうです。

「麻奈志漏」については、NHK総合で2017年8月24日放送された「人名探究バラエティー 日本人のおなまえっ!」で、最も古いペットの名前のひとつとして紹介されました。

市谷亀岡八幡宮はまた、第5代将軍徳川綱吉の母・桂昌院ゆかりの神社でもあります。綱吉はもちろん「生類憐みの令」で有名だし、桂昌院も愛犬家だったようです。京都の善峯寺には、桂昌院と子犬の像があります。

そんなことで、この市谷亀岡八幡宮では、現在、ペットの健康長寿・病気平癒の祈祷やペット同伴の初詣、ペットの七五三なども行われています。

 階段を上ったところに一風変わった狛犬が鎮座しています。まるでAIBOを思わせるようなロボット狛犬。これは、何か、犬や狼と関係があるのでは?と想像をたくましくしましたが、違ったようです。神社によれば、直接の関係はないそうです。火災の多かった江戸時代に火消しの人たちが身に付けていた刺し子を付けた狛犬だという説もあるそうです。

  

なお、ここには新宿区指定有形民俗文化財の「力石 」や珍しい「几号水準点」があります。

几号水準点とは、高低測量を行うために明治時代に設けた基準となる測量点です。几号水準点は、水屋の台座になっていて、 水準点の位置が設置当初から移動していないことや、保存状況が良く、近代土木史上、貴重なものとして新宿区文化財に認定されているそうです。

 台座の下で、見づらいところにありますが、案内表示があるので、すぐわかります。

 

 

 

にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2019/05/20

犬は時間を気にしないのか

_mg_9797

 

「ほぼ日」から発行する絵本『生きているのはなぜだろう。』を前に行われた、養老孟司さんと池谷裕二さんの対談。

https://www.1101.com/yoro_ikegaya/2019-05-13.html

対談で、犬が時間の観念がないんじゃないかという話が出てきます。

「昨日とか一昨日という概念は、犬には絶対にないです。明日と明後日の区別つくのって、おそらく人間だけじゃないでしょうか。」

「時間が人間のようにしっかり流れてるのは人間だけ、ということは、「時間というものは、人間の脳にしか存在しない」ということです。つまり、時間は人間だけがもつ幻想である、ということになります。」

確かに科学的にはそうかもしれません。俺もそう思います。でも、一方で「日」「月」「年」単位の時間ではなく、もっと短い時間の観念はあるんじゃないかなとも思っています。

ヴィーノは、意外と「待て」が得意です。今までで一番長い「待て」は、犬のイベントで参加した「待て大会」。ボーダーコリーなど、賢い犬たちに交じって、ヴィーノも奮闘しました。惜しくも優勝とはなりませんでしたが、でも、「待て」は得意なんだなと知ったのでした。

人間は同じように「待て」を命令されたら、昔のことを思い出して、しばらく待てば、あとでこのおいしいおやつを食べられるんだ、だから我慢して待っていようと考えるでしょう。でも、「待て」がいつまでも解除されずに、5分くらい続いたらどうでしょうか? こんなに長い時間待っているのに、まだかよ!とイライラしてくるに違いありません。

このように、俺たちは時間を気にしています。ヴィーノを見ていると、同じように長い時間が経つほどイライラしているのを感じます。もし時間の観念がまったくないのなら、何分「待て」させられようが関係ないはずです。「待て」を命じられたら、「よし」をいわれるまで、ずっと待っていられるのではないでしょうか。

こうしてヴィーノを見ていると、ほんの短い時間ですが、少しは時間の観念があるようにも感じます。感じているのは飼い主だけなのかな。

どんな実験をすれば時間の観念があると証明できるのでしょうか。こいういう課題も心理学(比較行動学)で習ったはずです。考えてみます。

 

 

 

にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2019/05/13

芥川賞『ニムロッド』のテーマ、AIと人間について

Img_3069

 

第160回芥川賞に『ニムロッド』が受賞しました。まだ作品は読んでいませんが、著者の上田岳弘さんがインタビューを受けているのを見て、いろいろと考えさせられました。内容はどうかわかりませんが、テーマとしては興味があることです。

AIで効率化が進むと、人間はどうなるのか? それでも人間でい続けることができるのか。

「やがて僕たちは、個であることをやめ、全能になって世界に溶ける。「すべては取り換え可能であった」という答えを残して」 

どうなるかは誰もわかりませんが、個が無くなるという感覚はなんとなくわかる気がします。

以前、脳を100パーセント使う『ルーシー/LUCY』や『リミットレス』という映画について書きましたが、その映画では、脳が100パーセント使われるということは、肉体が必要なくなる、つまりは個がなくなり、「全体」に溶け合うということらしいのです。

ところで、オーストラリア先住民アボリジニーには「犬のおかげで人間になれる」ということわざがあります。気に入っていることわざで、時々引用させてもらっています。

このことわざは、テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン著『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』に載っているものです。

どういうことなのでしょうか? 本から要約します。

考古学によって、人間が飼い犬を埋葬するようになった1万年前から、人間の脳が小さくなったことがわかったというのです。(犬の脳も小さくなりました)

人間の脳のどこが小さくなったかというと、

「人間では、情動と知覚情報をつかさどる中脳と、嗅覚をつかさどる嗅球が小さくなり、一方、脳梁と前脳の大きさはほとんど変わっていない。」

だそうです。つまり、犬と暮らすようになって、こういうことが起こったようです。

「犬と人間の脳は専門化されたのだ。人間は仕事の計画と組織化を引き受け、犬は知覚の仕事を引き受けた。犬と人間はともに進化して、よき伴侶、よき仲間、よき友達になったのだ。」

犬は番犬、猟犬としての能力が重宝がられたはずなので、そういった番犬として、猟犬として、暗闇から敵を見つけたり、匂いで他の動物の接近を知ったり、獲物を探したり、という知覚能力を犬に頼ることができるようになったので、人間はその部分の能力を退化させたということのようです。

これが「犬のおかげで人間になれる」という意味のひとつです。お互いが補完しあう関係ですね。(ネアンデルタール人が滅んだのは、犬を飼わなかったからだ、という説まであります)

と、いうことは、もしかしたらAIによって、人間は犬を飼い始めたときのような大変革の時期に差し掛かっているのかもしれません。

今のAIによって、人間の能力を補完してくれるならば、人間は、そこはAIにお任せして、別なとこに能力を使えるようになる、とも言えるわけです。人間とAIは、犬と暮らすことで脳が専門化したように、お互いの能力を住み分けるのです。

例えば「計算」はAIには絶対かないません。「計算」でAIに勝とうとしても無理です。ここはAIに任せたほうがいいでしょう。

だから、たんに「AIで仕事を奪われる」などと悲観している人は、すでにAIに負けています。いや、勝ち負けではないですね。あくまでも「補完」なのです。お互いが必要不可欠な「仲間」と言ってもいいでしょうか。

どんな能力の発展が人間に可能なのかはわかりませんが、たぶん、AIには一番不得意な分野であるのは確かでしょう。じゃぁ、何が不得意かというと、「あいまいさ」ではないでしょうか。この「あいまいさ」はAIと比べて人間の得意分野だからです。「芸術」「宗教」などはその典型かもしれません。

まぁ俺は預言者でも占い師でもないので、この「あいまいさ」が、未来、どういった人間の姿を造り上げるかはわかりません。

ただし、「補完」関係ならまだ人間であることは可能でしょうが、それも進んで、もはや「補完」ではなく、すべてがAIが優先するなら、もう人間は必要ありません。まったく本末転倒な話ですが、ある意味、幸せなのかもしれないですね。今の人間の不幸は「悩む」ことにあるとも言えるだろうし、その悩みがなくなるのです。AIが答えを用意してくれるわけだから。

そういう新しい価値で生きる新しい動物が、その時代の「人間」なのでしょう。AIもまた犬と同じように「人間」を作るのではないでしょうか。

そして、その新しい価値を拒み続ける「人間」は、「旧人」として絶滅していくのかもしれません。俺も絶滅する「旧人」側になるんでしょうね。

 

 

 

にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2019/05/07

ゴールデンウィークの犬連れ車旅04 千葉県佐倉市 武家屋敷通り「ひよどり坂」

287a9763

千葉県佐倉市を訪ねました。

武家屋敷通りに隣接した「サムライの古径(こみち)」の「ひよどり坂」で、ヴィーノの記念写真を撮りました。江戸時代からほとんど変わらないという、凛とした美しさと静かさをもった竹林に囲まれています。

このヴィーノの写真は雑誌の連載で使えるかな。いいロケーションです。朝の光もちょうど美しく差し込む時間でした。

 

 

 

にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

より以前の記事一覧