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2011/05/28

近々未来予想ショートストーリー 『暑がりません、秋までは』

110528(写真は龍脊棚田)

中国の広西チワン族自治区と貴州省へ行ってきます。そのためブログ、ツイッターはしばらく休みです。コメントもお返しできません。ご了承ください。なおブログは、6月10日ころ再開します。

その代わりというのもなんですが、ショートストーリーをひとつ書いて出ます。

                 ☆


 『暑がりません、秋までは』 (近々未来予想ショートストーリー)


2011年7月28日。

その日、午前中から30度を越え、午後2時には38度の猛暑日になった。

扇風機では我慢できず俺はエアコンをつけた。天国からの風だ。これで生き返ると思った。

そのとき表から声がした。

「この家の人、出てきなさい!」

玄関の戸を開けると、緑色の腕章を付けた10数人のおじさん、おばさんが立っていて、ぎょっとした。なぜぎょっとしたかというと、おじさんたちは海パン、おばさんたちはビキニだったからだ。

そのうちのひとり、拡声器を持ったメガネをかけたおばさんが、「エアコンは切ってください!」と俺に向かって叫んだ。

「なんですか、あなたたちは?」

「私たちは、節電組の者です。みんなが節電に励んでいるとき、あなたはなんですか? エアコンなど使って。恥ずかしくないんですか?」

額に青筋を立てたおじさんは、

「節電しない人は非国民ですよ、あなた」

改めてよく見たら、彼らは幟を掲げていて、それには、

「暑がりません、秋までは」 「エアコンは国民の敵だ」

などと書いてある。

「私たち節電組は、住宅街を回って、節電の啓蒙をしているんです」

「とくにエアコンを使っている人たちに。室外機が動いていれば、使っているのがすぐわかりますよ」

そのとき、ひとりの若い女性が通りかかった。そして彼女は節電組のおばさんたちに捕まった。

「あなたスカートの丈が長すぎます。ダメじゃないですか。これじゃぁ暑すぎるでしょ」

「自己批判しなさい。『私は長いスカートを履いた愚か者です』と」

若い女性は、「いやです」と答えた。すると、

おばさんたちはスカートを無理やり脱がせてしまった。スカートを脱がされた女性は、泣きながら走っていった。

「ひどくないですか? そこまでやらなくても」と俺は抗議した。

「何を言っているんですか、この非常時に。あなたたちのような人がいるからダメなんです」とメガネのおばさんはいった。

「あなたのズボンも脱がしますよ」と青筋立てたおじさんはいった。

彼らは額から汗を滴らせながらも、顔には自信がみなぎっていた。反論できるような雰囲気ではなかった。いや正直な話、俺はそのとき恐怖を感じた。それで俺は、

「わかりました。すぐ消します」

といって家の中に入りエアコンを切った。カーテンの陰から見ると、表の集団は、みんな満足げな顔をして、3丁目の方へ歩いていった。

その夜、俺は自己嫌悪に陥った。なんて情けないやつなんだろう、俺は。あんなやつらに屈してしまうとは。

それから俺はネットでこんな商品が闇で売られているのを知った。勇気がわいてきた。すぐに注文した。

「音がしない室外機。これで思う存分エアコンを使うことができる。同士よ、立ち上がれ! 反節電レジスタンス一同」

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2011/05/27

BSプレミアム「熱中スタジアム----里山を楽しまナイト」に出ました

110527

NHK BSプレミアム『熱中スタジアム----里山を楽しまナイト』という番組の中で、最後の15分間、棚田コーナーに出ました。

日本の棚田の他、中国雲南の棚田、マダガスカルの棚田、イランの棚田も写真で紹介されています。

2011年5月26日(木) 23時30分~ 0時14分

再放送があるので、こちらでどうぞ。

2011年6月1日(水) 18時00分~18時44分

再々放送があります。(これが最後だと思います)

2011年8月22日(月) 18時00分~18時44分

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2011/05/23

東日本大震災の現場 (20) 写真の大切さ 「がれき」と呼ばれる思い出

110523_1(↑) 2011年4月29日、女川で撮影

110523_2(↑) 2011年4月26日、陸前高田で撮影

何気なく「がれき」と言ってしまうが、他人には「がれき」でも、本人には貴重な思い出の品だ。本当なら瓦の一枚残らず取っておきたい気持ちだろう。

今回被災地の報道を見ているとき、何度も出てきたシーンがある。流された家の中から写真を拾っている家族、福島第一原発問題で一時帰宅をした家族も、思い出の写真を運び出していた。

写真というものがどれほど大切なものなのか、教えられた。

それを自衛隊員たちもわかっているので、「がれき」の撤去をしているとき、写真やアルバムを見つけると、ちゃんと拾得物置き場に届けてくれるという。

この中から自分の写真を探すのは至難の業だ。たぶん全部を持ち主の手に返すのは不可能かもしれない。

担当者に聞いてみた。すると、位牌や貴重品の類は、身元がわかるものを提示してもらうが、写真やアルバムは、自分で見つけたらそのまま持っていっていいのだそうだ。

そして女川の場合、この拾得物は3ヶ月保管することが決まっているが、その先は未定だという。

廃棄処分になってしまうのだろうか。ただ、これだけの大量の写真とアルバムを保管する場所があるのか、という現実的な問題もたしかにある。

でも、3ヶ月経ってもまだ写真を探す余裕というか、時間がない人もいるのではないか。何かいい方法はないのだろうか。時間と人手があればプリントをデータ化できるが(南三陸ではすでに始まっている)、そこまでしなくても、最低限どんな写真かわかる程度の写真に撮っておくことでもいいかもしれない。保管場所さえあればこれで充分だ。ナンバリングしておけば、写真を掲載したホームページから現物を探すことができる。

地元の状況がどうなっているのか、来月、被災地へ行ったとき聞いてこようと思う。それで何かできることがあれば、と思っているのだが。

こういう活動が行われている。

5月28日(土)~6月5日(日)に南三陸町で、思い出探し隊のボランティアさんが展示会。
Ya_2南三陸町災害ボランティアセンター


これでいったん「東日本大震災の現場」の連載を終わります。


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2011/05/22

東日本大震災の現場 (19) 海の上で咲く桜「津波桜」 (石巻市雄勝町水浜)

110523(↑) 2011年4月29日撮影

海岸や港はどこも地盤沈下していた。海水がひたひたと岸壁の上にまで流れ込んで、岸壁と海の境がわからなくなっていた。

石巻市雄勝町水浜の港も同じような状況だった。80cm近くは沈んだのではないだろうか。

近くに桜並木があった。岸壁は海に崩れていて、桜の木が完全に水没していた。そんな桜の木で、1本だけ花が咲いていた。

陸前高田の海に咲く桜よりも、もっと厳しい環境だ。根は完全に海の中なのだ。枝は海水面から伸びて、花を咲かせていた。

このギャップはなんだろう?と思う。うららかな春の日差しと桜の花。後ろを振り返れば瓦礫の山だ。

それでも異常な桜が「そんな桜もあったなぁ」と思い出になる日は、必ずやってくる。


Ya_2『被災地の桜』 東日本大震災の桜


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2011/05/21

東日本大震災の現場 (18) 海の上で咲く桜「津波桜」 (陸前高田市)

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110522_2(↑ 2点) 2011年4月28日撮影

その桜は陸前高田の海の上に立っていた。

もともとあった海岸沿いの桜が地盤沈下で沈み、海水にさらされるようになったらしい。

でも、地震が起きてから1ヶ月半経っている。根はずっと海水に漬かっていたはずだ。それでも花が咲くというのが驚きだ。

「意地でも咲いてやる」とでも言っているような強さを感じた。

海の中で咲く桜もまた、被災者の姿とだぶって見えた。


Ya_2『被災地の桜』 東日本大震災の桜


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2011/05/20

東日本大震災の現場 (17) 宮古市の津波の形をとどめた桜

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110520_4(↑ 4点) 2011年4月27日撮影

宮古市の防潮堤の付近にも桜並木があった。

幹や枝が折れても花が咲いている。

防潮堤に上ってみると、たくさんの漁具といっしょに、桜の枝が防潮堤を乗り越えるような形になって満開の花を咲かせていた。「津波の形」をそのままとどめているようだった。

痛々しくも力強い桜は、「津波なんてへっちゃらさ」と笑っているようだった。


Ya_2被災地の桜』 東日本大震災の桜


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2011/05/19

東日本大震災の現場 (16) 大船渡市の桜

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110518_2(↑ 2点) 2011年4月26日撮影

陸前高田からさらに国道45号線を北上すると、大船渡市に入ったとたん瓦礫の原が現れた。満開の花を咲かせる1本の桜の木が目に付いた。

近づいてみると、線路脇の児童公園に立っている桜の木だった。周辺は瓦礫が散乱し、この木も津波を被ったのがわかる。

地震によって、被災地は地盤沈下した。とくに岩手県、宮城県にまたがる地域が大きく、大船渡市は73cmだった。

この地盤沈下によって津波の威力は増した。それでもこの桜はなんとか耐えた。そして花を咲かせた。

なんという強さだろうか。今までどちらかというと桜に「強さ」のイメージはなかったが、被災地の桜を見ているうちに、そのイメージはだんだん変わっていった。


Ya_2『被災地の桜』 東日本大震災の桜


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2011/05/17

東日本大震災の現場 (15) 津波に耐えた陸前高田の「希望の松」 

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110517_3(↑ 3点) 2011年4月26日撮影)

瓦礫の原の先に1本の木が見えた。89歳になるおじいさんに、

「もしかしたら、希望の松ってあれですかね?」

と聞くと、

「そう。1本だけ残った」

まさかこんなに離れたところから「希望の松」が見えるとは想像していなかった。多くの建物が流されてしまい、海まで見通せるのだ。だから20mある木はとても目立つ。

瓦礫の集積場の裏側に「希望の松」はあった。約7万本の松林のうち、この1本だけ津波で残ったという(本当はもう一本あるが、枝がなくなり、幹だけで、しかも海に浮いた島に取り残されて近づけない)。

樹齢200年以上、高さ約20mの松の木だ。木の真ん中に、何かがこすったような傷がついていた。浮遊物がぶつかったのだろう。これで津波の高さがわかる。

「奇跡的にこの松が残ったのは、海側にあったユースホステルの建物と、陸側にあった遊歩道が堤防のような役目を果たして、津波の力を弱めたためでしょう」と、宮城県から応援に来ていた工事関係者は教えてくれた。

かつての高田松原には、樹齢300年を超えるといわれる赤松黒松もあり、7万本の松林は潮風を防ぐために人間が作り上げたりっぱな文化的景観だった。

今、木の周りに壁を作って、海水が入らないような工事をしている。6月の大潮を何とか乗り切るためだ。

ただここは、約84cm地盤沈下してしまい、しかも砂地なので塩水が染み出してくる。木の根元のくぼ地に溜まる水を舐めたら、たしかに塩辛い。「希望の松」を残すのはそう簡単ではない。ちゃんと根付くかどうか、3ヶ月経たないとわからないそうだ。

専門家たちが保存すための会議を開いたらしい。

こちらにも「希望の松」の写真があります。

Ya_2「陸前高田市の高田松原」(2011/03/30)

Ya_2「津波104日後の希望の松」(2011/06/27)


Ya_2『被災地の桜』 東日本大震災の桜

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2011/05/16

東日本大震災の現場 (14) 陸前高田 「虎舞」の里

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110516_2(↑ 2点) 2009年5月10日撮影)

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110516_5(↑ 3点) 2011年4月26日撮影)

2009年5月10日、岩手県陸前高田市の図書館前広場では、伝統芸能が披露されていた。

「根岬梯子虎舞」という獅子舞で、岬の鶴樹神社に伝わる無形民俗文化財に指定されている虎舞だ。

梯子の長さは、19.14m。全部で49段あり、先端の高さは10mくらいになる。大漁旗がはためき、太鼓や笛のお囃子の中、梯子の先端まで虎(獅子)が2頭づつ(合計4頭)上って踊る。

先端から体を乗り出し、上下左右に大きく動くと、観客からは盛大な拍手が沸き起こる。この出来不出来が、舞手の評価につながるのだろう。ここで、大きく体を動かすことはかなりの度胸が必要なのだ。


2011年4月26日、気仙沼から通行止めになっている国道45号線を迂回し、山の中を通って、陸前高田に下りた。海から直線距離で4kmもある竹駒地区に出たとたんに、あたり一面瓦礫の原っぱになった。

変わり果てた陸前高田の街が広がっていた。瓦礫は、車、木材、金属などに分別して集積場に集められていた。風が吹いて埃が舞い上がる。

89歳になるおじいさんと出会った。

「この町から出兵したよ」
「どこへ行かされたんですか?」
「ビルマへ行った。しかし、ビルマでもこんな惨状は見なかった。戦場よりもひどい」

海沿いから、虎舞を見物した図書館まで歩いた。途中の踏み切りも覚えていたが、遮断機も折れ、線路も曲がっていた。それにしても、こんな大災害地なのに、人の姿を見ないし、シーンとしていて不気味だ。

図書館、博物館、体育館も、建物は残っていたが、中はめちゃくちゃだった。駐車場には自衛隊の車両がたくさん停まっていた。行方不明者の捜索をしているらしい。でも、自衛隊員の姿もたまにしか見ないほど、被災地は広すぎる。

桜のそばに立てられた鯉のぼりがあった。少しづつだが日常生活を取り戻そうとする人たちの姿とだぶって見えた。


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2011/05/15

東日本大震災の現場 (13) 気仙沼の魚市場

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110512_2(↑ 2点) 気仙沼港と魚市場 (2009年5月撮影)

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110512_4(↑ 3点) 気仙沼港付近 (2011年4月25日撮影)

初めて気仙沼を訪ねたのは、2009年5月上旬のことだった。

港の美しさもさることながら、魚市場の活気ある姿は、気仙沼港が日本の遠洋漁業の基地のひとつであることを実感させた。また気仙沼は「フカヒレ」で有名だ。全国のサメ水揚げ量の9割を占める。

魚市場は2階が見学デッキになっていて、水揚げされたマグロや、サメのヒレを切る作業を見ることができた。作業員の手際の良さには感心したものだ。


4月25日の夕方、港へ向かったが、途中であきらめた。海に近いところは地盤沈下で、油と魚の腐ったような匂いを放つ、どす黒い水で覆われていた。水が引かないので港へなかなか近づけない。復旧の障害だった。

建物がありさえすれば街が成立するわけではない。人が住んで、そこでいろんな活動が行われて初めて「街」になる。

御輿は流されて壊れたかもしれない。でも、お祭りの意味ややり方が失われたわけではない。だから街は必ず復活できる。

後日、関東から土を運び、ここを埋め立てるというニュースを聞いた。これで復旧作業が進むかもしれない。

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2011/05/12

東日本大震災の現場 (12) 気仙沼 大川の桜並木

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今日(2011年5月12日)発売の「週刊新潮」5月19日号の後ろのグラビアに、津波の被害に遭った桜の写真が掲載されています。

海の中から咲いている桜を見つけたときは驚きでした。ただ、隣の桜は塩水で死んでいたりするので、咲いているのは、やっぱり特別強い桜なのでしょう。「意地でも咲いてやる」といった強さや勇気、「津波なんてへっちゃらさ」と言っているような、ひょうひょうとした姿の桜が、「被災地の今」を象徴していると思いました。青空を背景にした桜がなんともたのもしいのです。

この桜を見つけたのは、陸前高田へ行った4月26日です。雑誌の取材のために、津波に耐えた「希望の松」を撮影したあと、瓦礫の集積場の裏側を歩いていたら、海に立っている桜の木を見つけたのです。

まだ桜は満開ではなかったので、2日後再び訪れました。ところが、やっぱり塩水の影響なのでしょうか、本来の桜の「満開」という咲き方にはなりませんでした。それでも咲いているだけですごい桜ではあります。

海の上で咲いている桜は陸前高田だけではありませんでした。2本目は石巻市雄勝町水浜で見つけました。こちらは完全に海水から枝を出して花を咲かせていました。

「週刊新潮」には、気仙沼市内を流れる大川の桜も掲載されています。

            ☆

上に掲載の写真は4月25日、気仙沼大川の桜並木。

大川の土手は、見事な桜並木だった。本来ならちょうど花見で混雑していたのだろう。昨年は「気仙沼大川さくらまつり」というイベントが行われた。

でも、今年はほとんど誰も見向きもしない。当然だ。桜どころではない。生活をなんとか立て直さなければならない。避難所暮らしの人も多い。だから俺がこの特別の桜を記録しておく意味はあるのかもしれない。何年か後のために。


Ya_2『被災地の桜』 東日本大震災の桜

Ya_2『花咲【わら】う 被災地の櫻と復興』
 
 
 
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2011/05/11

東日本大震災の現場 (11) 南三陸町 志津川

110511_0(↑)志津川湾の養殖場(2007年5月上旬撮影)

110511_2(↑)防災センター前(4月25日撮影)

110511_3(↑)町内北東側の丘から(4月29日撮影)

南三陸町には数回行っている。

志津川湾内には荒島や椿島などの島々が散在し、穏やかな海が絶景スポットとなっていた。

一番上の写真は2007年5月に撮影した朝方の養殖場だ。ブイの下では主にホタテやカキが養殖されていた。

2008年4月は、郊外の廃校の宿「さんさん館」の取材で訪れた。廃校に1泊し、翌日は、町内の八幡川河口付近を歩き、カキの養殖場に出て、船の上ででカキを食べさせてもらった。そのあとは漁師さんの自宅の庭で、カキを焼いてもらった。こんなにカキ三昧の食事は初めてのことだった。濃厚な味わいのカキを忘れられない。

いつかきっと養殖場も再開されるだろうが、湾に沈んだ瓦礫や漁具や船の撤去には時間がかかってしまうだろう。復興はそれからだ。

南三陸町のシンボル的存在になった防災センターへの道は水没したままだったが、町に入る国道45号線は、片側通行の仮設の鉄橋を24時間通れるようになったところだった。少しづつだが、前に進んでいるようだった。


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2011/05/10

東日本大震災の現場 (10) 石巻市雄勝町と新北上大橋

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雄勝町の真ん中に、まだビル(石巻市図書館分館)の屋上に乗っかったままの大型バスが残っていた。「戦場」でもこんな光景はありえない。

埃が舞い上がる中、自衛隊員が瓦礫の撤去作業をしていた。

雄勝町から北上し、北上川に出た。ヘリコプターが旋回し、テレビの中継車、警察、機動隊の車両がたくさん停まっている。周辺はただならない雰囲気だった。

ここは市立大川小学校。多くの児童が亡くなっていた。

自衛隊、警察、機動隊員が、行方不明者の捜索をしていた。何十人も一列になって丁寧に丁寧に進んでいた。北上川の河口付近がとくにひどい。遺体が見つかったところには花が供えられていた。

機動隊の車両の前には、隊員のカッパと靴が干してあった。車で泊まりながらの捜索活動らしい。

堤防を走る道は壊れていた。津波が北上川に沿ってさかのぼってきたのがよくわかる。

志津川まで行こうとしたが、新北上大橋も北側が落ちていて、通行できなかった。それで約12km上流にある河北の飯野川橋まで迂回しなければならなかった。

鉄板を敷いただけの仮道を徐行して走る。

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2011/05/09

東日本大震災の現場 (9) 石巻市雄勝町の漁村 「被災格差」

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110509_2(↑)石巻市雄勝町波板海水浴場付近(2009年5月、2011年4月25日撮影)

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110509_4(↑)石巻市雄勝町水浜(2009年5月、2011年4月25日撮影)


女川町からリアスブルーラインを通って石巻市雄勝町まで走る。ところどころ道は破損している。

入江の漁村はことごとく津波の被害にあっていた。

2009年5月、ここを通ったことがある。そのときも、写真を撮るために何度も停まり、なかなか前に進まなかったくらい、美しい漁村が多かった。(とくに、上に掲載の写真の村)

でも今回の津波でほぼ全滅だ。瓦礫もそのまま手付かずだ。田舎へ行くほど、作業が遅れているように見える。あまりにも被災地の範囲が広いのでしかたないかもしれないが、マスコミもほとんど来ない。有名な被災地と、そうでもない被災地。芸能人が慰問に訪れるのも、有名な被災地が多い。

取り残されるような怖さを感じているのかもしれない。

地元の人は「被災格差」と呼んでいた。

「被災格差」は市町村ごと、地域ごとだけではない。同じ避難所の中にもあるのだという。

ある家族は全てを流され、ある人は肉親をなくし、ある家族は犠牲者がなく、ある人は仕事をなくし、ある人は仕事を続けられている。そんな「被災格差」のある被災者たちが、同じところで暮らさなければならない。これもまた辛い状況だ。


Ya_2『被災地の桜』 東日本大震災の桜

Ya_2東日本大震災の現場 (38) 宮城県石巻市波板(2012/05/11)


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2011/05/08

東日本大震災の現場 (8) 石巻の日和山公園 「瓦礫は過去、桜は未来」

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ボランティアを終わった翌日(4月25日)、初めて被災地を目の当たりにした。日和山公園からは、瓦礫の原と化した石巻の被災地が広がっていた。そして桜が満開だった。ここ数日、桜の時期であることを忘れていた。

写真を撮っていると、ひとりのおじさんがカメラを持ってやってきた。

「すごいですね。桜、やっぱり満開ですね」

と声をかけてきた。避難所で暮らしている人だった。

おじさんの家は、この瓦礫の中にある。いや、かつて、あった。地震で壊れた家はほとんどなかった。すべては津波に持っていかれた。そして夜は、日和山にぶつかった車からガソリンがもれて火事になった。火は山の上にまでは来なかった。だから桜の木は残った。

「今が、どん底です。あっちの瓦礫の方は過去、こっちの桜の方は未来かな。このコントラストは今の石巻の象徴じゃないでしょうか。そう思って、桜の写真を撮りにきました」

そう言うと、カメラを構えてシャッターを押した。

「いつまでも被災者に甘んじていることはできません。自立しなければ。必ず復興できます。ただ、時間はかかる。この瓦礫をどかしたあと更地にします。でも、地盤沈下しているので、土地をかさ上げするのかどうか。元に戻るには10年20年の話じゃないと思いますが」

この大災害の中で、桜の明るい色が目に痛かった。


Ya_2『被災地の桜』 東日本大震災の桜


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2011/05/07

東日本大震災の現場 (7) 石巻市動物救護センターでのボランティア(続き)

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さて、動物救護ボランティアを実際にやってみると、「男の人は力が強い」という偏見(?)によって、俺は大型犬の散歩を頼まれた。ここまで来て「大型犬は怖いです」とも言えず、引き受けざるを得なかったが、最初はおっかなびっくりだった。象のような多量の糞をビニール袋で手づかみしていると、「なんで俺はこんなことをやろうとしてしまったんだろう」と、少し後悔した。

ところが、大型犬(とくにボーダーコリー)は賢い。うちのビーグル犬ヴィーノとはまったく違う「忠犬」ぶりに、だんだん恐怖心がなくなっていき、「かわいい」と思えるほどまでになった。まぁ大型犬に慣れたことは、今回のボランティアで得したことでもある。

福島県の原発周辺で保護された犬たちは、一晩目は、興奮して騒いだり、下痢をしたり、吐いたり、犬たちはたいへんだった。とくに、放浪していて浪江町で保護されたビーグル犬(上の写真)は、ケージの金属を噛みちぎろうとして騒ぎ、ケージをひとつ壊した。

やっぱりビーグルは活発だ。うちのヴィーノだけではないことを知って少し安心し、そして苦笑した。

犬たちも、突然知らないところへやってきて、恐怖と不安で精神的に不安定だったのだろう。

もしかしたら、放浪していたほうが幸せだったのでは? 連れてくることが本当に「いいこと」なのか?と言う人もいる。

でも、そんなこと誰もわからない。人間がいないと生きていけないペットが、うろうろしている状況を見て、何とかしたいと思う人の気持ち、それは目の前でおぼれかけた人を助けてしまう衝動と似ている。

こんな非常時に正解を求めてからやり始めても何も進まない。頭で考えてもしかたない。多少の失敗はあるだろう。それなら次に活かせばいい。そんな試行錯誤の活動しかないのだ、非常時は。

仕事は、犬の散歩のほか、ペットフードの仕分け、積み上げ、仮設テントの設置、解体など体力がいる仕事もあった。とくに大嵐の中でテントの解体をし、物資を雨風から守る仕事は正直つらかった。下着の中まで雨が浸透し、寒くてしかたなかった。

2日目、3日目になるとだいぶ犬たちも落ち着いてきた。

そこで、たまたまデジカメを持っていた俺(写真家とは言っていなかった)は、別な仕事もすることになった。飼い主を探すHPにアップするため、保護した犬の写真を撮ることになったのだ。これなら俺にでもできる。いや写真家ならではのボランティア活動だろう。(だからギャラは発生しないが)

その写真は、こちら。

アニマルレスキューJARFのホームページ

妻からは「被災犬に見えない」と酷評(?)された写真だ。

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2011/05/06

東日本大震災の現場 (6) 石巻市動物救護センターでのボランティア

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石巻市に入ったのは、4月21日のことだった。それから4日間、動物救護センター(正確に言うと、この敷地で活動しているJARFという団体)で手伝いをすることになった。

俺は基本的にボランティアは好きではなかった。結果的にその仕事がボランティアになったということはたくさんあるので、ボランティアをやったことがないわけではないが、今回のように自分から進んでボランティアをやろうとしたことは初めてだ。

今回は俺ばかりではなくて、初めてボランティアする人が多いという。ここの動物救護センターでも聞いた話だ。それだけ今回の震災の衝撃は大きかったということ、そしてボランティア活動というものが、かなり一般的になってきたということが理由ではないかと思う。

ところで、俺があまりボランティアが好きではない理由は、「やる側」の理由よりも、「やってもらう側」の気持ちを想像してしまうからだ。

それはどういうことかというと、被災して疲労困憊しているときに、ただで仕事をやってもらって「ありがとうございます」と言わなければならない面倒くささといったらいいか、煩わしさというか、そんなことを想像してしまうからだ。たとえば、ここでテレビカメラでも向けられていたら「ほんとうに助かりました。ボランティアの人たちには感謝しています」と言わざるを得ないだろう。それが俺には苦痛だ。

その点、これがまったくのビジネス(仕事、アルバイト)であったら、「ちょっとここも掃除してよ」と、無理難題も遠慮なく言えるような気がする。被災者にとっては、自宅を掃除してくれる人が、善意のボランティアであろうが、金を稼ぐアルバイトであろうが関係ない。むしろ、気を使わないアルバイトの方が、俺は気が楽だ。そういうことを思っているので、ついボランティアに及び腰になっていた。

あるボランティアは言った。「ありがとうと言ってもらえると嬉しいです」と。俺はこの発言に違和感があった。彼(彼女)は感謝されたいためにやるのだろうか? じゃぁ依頼者が「ありがとう」と言わなかったら、彼(彼女)は、どう思うだろう? それでも「嬉しい」と思えるのかどうか。

俺がボランティアを躊躇してきたのは、まさにこの発言なのだ。感謝されることを期待されるのは、精神的な負担だ。ボランティアは自分のためにやるのではないか。ボランティアへ行っても仕事がないと「せっかく来てやったのに」などと言う輩がいるらしい。「ボランティアに仕事がない」ということは、被災地にとっては「いいこと」かもしれないのに。

感謝を期待するくらいなら、仕事としてアルバイトでやればいいのではないだろうか。無償の活動が純粋で、金儲けする活動が不純といった単純なものではない。無償とは言っても、「やりがい」や「満足感」を得て、ボランjティア自身も得しているはずだ。両者にメリットがあるから「無償でもいい」というボランティア活動が成立するのではないだろうか。あくまでも「対等」。俺は「対等」じゃないと気持ちが悪い。

そこで今回、動物救護のボランティアをやろうとしたのはどうしてか。

あるHPでJARFという団体の動物救護活動を知り、これならやれるかもと思ったわけだ。その理由は、保護された犬は、人間と違い俺に対して気を使ったり、感謝したりしないからだ(保護されて嬉しいのかどうかもわからないし)。「やってあげる」「やってもらう」という上下関係のようなものがない。ある意味、対等でいられる。気が楽だ。だから、俺にとってボランティアに入りやすかったということなのだ。

これを機に、人間相手のボランティアもやれるような気がしている。

(続く・・・)

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2011/05/05

東日本大震災の現場 (5) 田老の防潮堤

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「田老町(たろうちょう)は、岩手県下閉伊郡に置かれていた町である。旧東閉伊郡。リアス式海岸の湾の奥に位置し、幾度も津波の被害を受けているため、「万里の長城」とも称される総延長2.5kmにも及ぶ高さ10mの防潮堤を建設するなど、津波に対して強い街づくりを進めていた。」(Wikiより)


岩手県宮古市の北、田老地区を訪ねたのは、4月27日のこと。

ここには日本でも有数の防潮堤があることで知られていた。1896年、1933年の津波による被害を受けて建設されたものだが、今回の津波はこの防潮堤さえ越えてしまった。

「万里の長城」とも言われる堅牢な防潮堤の一部は、無残な姿になっていた(真ん中の写真)。津波の破壊力に、唖然とするばかりだ。

瓦礫の撤去作業が行われていたが、いつ終わるのだろうか。

そんな瓦礫の中を、学生たちの登校する姿を見かけた。小学生たちはスクールバスで学校へ向かった。

登校シーンは、この荒れた風景の中で、ゆいいつ、ホッとさせられるものだった。


Ya_2『被災地の桜』 東日本大震災の桜


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2011/05/03

東日本大震災の現場 (4) 那珂湊の魚市場

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茨城県那珂湊の魚市場を訪ねた。2年前の5月と、昨年は11月にも訪ねている。

那珂湊の魚市場は4月28日に再開した。この日(5月1日)はたくさんの客で大盛況だった。

「和風レストラン やまさ」は2階にあるので、他の店と比べると少し早く23日から再開できた。

「下の冷蔵庫で電気を使うので、冷房が使えないんです。すみません」と店員はいう。そんなこと気にしていない。那珂湊に来る客は、みんな魚市場が復活したことが嬉しいのだ。

地震の45分後津波が来た。沖にいた巡視艇から、確実に津波が来るという情報があって、みんな遠くへ逃げた。

品物、冷蔵庫、全部流された。駐車場は液状化で使えなくなった。建物が流されることはなかったが、水は1階の天井部分まで来た。

多くの客は聞く。「ほんとに津波がきたんですか?」と。それだけ以前の様子を取り戻したように見える。ただそのために1ヵ月半、市場の人たちはヘドロをかき出し、商品をそろえ、開店準備に奔走した。

「割と早く復旧できて良かったです」と店員は言った。

魚市場は明るい高揚感の中にあった。

俺はイカの塩辛を2瓶買い、海鮮丼を食べた。


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2011/05/02

東日本大震災の現場 (3) 飯舘村

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相馬市から福島第1原子力発電所の事故で計画避難区域に指定された飯舘村へ。

飯舘村の役場のまん前にあるりっぱな運動公園には人っ子一人いない。いつもの年なら満開の桜を眺めながら子どもや大人たちが野球の試合でもやっていたのだろう。

翌日(5月1日)から1ヶ月以内に出て行かなくてはならない。

娘の住む町へ移住するというおじいさんは、静かに言った。

「何年になるかな。わからんな」

本当なら4年に1度の例大祭が神社で行われるはずだった。そのために桜並木の土も入換えて新しくした。

いったいどうしてここを出て行かなくてはならないのか、その憤りをどこにぶつけていいのか。村の人たちは、政府も東京電力もふがいなく、憤りをぶつける相手でさえないように感じているのかもしれない。


Ya_2『被災地の桜』 東日本大震災の桜


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