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2015/08/30

映画『レイン Rain(Three Days of Rain)』を観て

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『 レイン Rain(Three Days of Rain)』は、ヴィム・ヴェンダースが製作総指揮を担当し、チェーホフの短編を映画化した6組の男女の破滅的で悲劇的な群像ドラマです。この作品はヨーロッパ各国の映画祭にも出品されました。

日本では劇場未公開だそうです。刑事コロンボでおなじみのピーター・フォークも、印象的な徘徊老人を演じています。

雨とジャズ音楽がずっと画面に映り、流れています。どこか憂鬱で、幻想的な雰囲気をかもし出しています。不思議な映画です。

6組の中で、ある成功者といってもいい男が一番気になりました。

見た目は恵まれているので、どうしてこの男が破滅的、悲劇的なのか、最初はわかりませんでしたが、映画を見終わった後、そうか、こういうことかもしれないと思いました。

雨の夜、夫婦で高級レストランからの帰宅途中、路上で「食べ物をくれないか」と声をかけてきたホームレスと出会います。男はあげようとしますが、奥さんはホームレスを拒否し、食べ物をあげませんでした。それから夫婦関係がぎくしゃくしてきます。

男はホームレスが気になってしかたなくなります。奥さんはそんな夫に、すべてのホームレスを助けるつもりなの?と嫌味を言います。

男はいったん気がついたことを、頭から振り払うことはできなくなってしまったようです。食べ物をあげなかったことを後悔し、ホームレスを探しにいきます。見つけることはできませんでしたが、近くのキオスクの親父は彼のことを知っていて、名前を教えてくれました。

名前を知ったことで、「ホームレス」というカテゴリーから一人の人間へと意識が変わりました。そしてますます頭から離れなくなります。いい人間になるチャンスを逃したともいいます。

男は気がついてしまったのです。「天使のささやき」、いや、「悪魔のささやき」なのかもしれませんが。

たぶん、妻の言うことは一理あるのです。世界中至ることころにホームレスはいるし、彼らをすべて助けるなんてことは不可能です。それなら自己満足にも見えてしまう、生半可なことはしないで、最初からすべてのホームレスに関わらないという選択肢は、現実問題としてありでしょう。

でも…

男は気がついたのです。ひとりの「人間」に気がついてしまったらもう取り返しがつかないのです。

妻(つまりは世間)が主張する考えが、いかに正しくとも、いかに合理的でも、たぶん男にとっては、辛くてしかたないのです。自分は彼を助けて、いい人間になりたい。しかし現実には助けられない。この無力感や矛盾を抱え込む辛い思いがずっと続くのです。

これこそが男にとっての悲劇だったのではないのでしょうか。

ただラストシーンは、雨も上がり、男の顔もどことなく穏やかになっています。男は引き受ける決意をしたのか、あるいはあきらめたのか。この矛盾というか、不条理というか、無力感というか。そういったもろもろのこと。

それが明るくなった空に一抹の未来が感じられて、俺たち観客もほっとできるのでした。締め付けられるような感情から開放されて日常生活に戻れるのです。多少の後ろめたさを感じつつも・・・
 
 
 
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2015/08/29

子供の自殺は9月1日が多いと聞いて思い出したこと

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報道番組を見ていたら、子供の自殺は9月1日が多いと聞いて思い出しました。

こういう問題は微妙だし、専門家でもないので、個人的な話しかできませんが。

俺は自殺までは考えなかったような気がしますが(情報も無くてそういう発想にはならなかった時代だったし)、どうやってあの時期の危機を脱出したかもよく覚えていません。

集団が苦手ということだったんだろうと思いますが、幼稚園・小・中学校時代は、とくに休み明けの日、突然学校に行きたくなる日があり、「今日学校に行きたくない」というと、親は何も聞かずに休ませてくれました。それが嬉しかったことは覚えています。

そういう意味では、いいかげんな親だったことが幸いしたのかもしれません。今から思えば、休ませてくれたことが「逃げ場」になっていたからです。

大人になってからこのことを親に聞いたら、「何かあるんだろうから休ませようと思っていた」そうで、「いいかげんな親」でもなかったなと感謝しなおしました。

どうして行きたくないのかは自分でもわからなかったのです。それを「どうして?」なんて聞かれたら俺は爆発していたでしょう。(たまに爆発していましたが)

「腹が痛い」とか「頭が痛い」とか言って仮病も使いました。子供ながらに病気のほうが理解されるだろうと思ったのかもしれませんが、正直、本当の理由は自分でもわからなかったのです。

別にいじめられていたわけでも、勉強が嫌いだったわけでもありません(特定の科目を除いて)。ただ集団で同じことを同じ時間でやることが苦痛だったのは覚えています。たまに給食を時間内に食べることができなくて、泣いたこともあります。いつも、というわけではないのですが、実際吐き気がして喉を通らないのです。とくに覚えているのは、食パンの妙な塩味です。

それと集団での複雑な人間関係でしょうか。だから放課後少人数の仲の良い友だちと遊ぶのは楽しかったし問題ありませんでした。

ところで、子供の年間自殺者が300人を越えているという痛ましい状況ですが、自殺予防だといって、「命の大切さ」という正論を説かれても、あまりピンとこないかもしれません。俺の経験からは。

今の子供は賢いから、「命の大切さ」なんて百も承知だと思います。死にたくなるのはそんなことにはあまり関係ない気がします。(いじめを受けているなど、具体的な原因がある場合は別)

もっと個人的なことです。ここから逃げれば、もっと楽しいことがあるかもしれない、といった些細なことに気がつくだけでいいような気がします。

「明日、あのお菓子を食べてみようかな」と思い、そのお菓子のおいしさを想像して、とりあえず死ぬのはやめようかなと、そんな程度のこと。あるいは大好きなペットのワンちゃんのお腹をなでたときの感触。死んだら、もうあの手触りを楽しめないんだよ、とか。

騙し騙しでもいいので、何とかこの時期の危機を脱出できれば、世界は広いんだなぁと気がつき、どんな生き方・考え方をしても、まぁなんとかなると思える日がきっと来るのではないでしょうか。(そう信じています)
 
 
 
 
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2015/08/27

シャッターを押す瞬間---意識と無意識を記録するカメラ

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080328


前から気になっていたことがあります。

撮った写真をあとで詳しく見たとき、映りこんでいたものに初めて気がつくという体験があります。それと撮った記憶がない写真に気がつく(しかも、それがいい写真だったりする)という体験もあります。

写真を撮っている人ならきっとあるでしょう、こういう体験。

たとえば、こんな具体例です。

中国の雲南省元陽で撮影した棚田の写真なのですが、無人だと思っていたのに、あぜ道に人が立っていたのです。小さくてよく見ないとわかりません。撮影しているときはまったく気がつきませんでした。

自分の写真展のとき、大きくプリントした写真の隅のほうをじっくり見るのは面白いですね。棚田の「あぜ道の人」はそうやって見つけたのでした。

写真が客観的に見えるとでもいったらいいでしょうか。自分では「あぜ道の人」にも気がつかず、違ったところに注意を向けてシャッターを押しているのだから、当然ですね。自分の写真でありながら、他人の写真のように楽しめます。

キャノンの新しいEOS 5Dsは5060万画素という驚異的な高解像度を実現しました。性能的には一次元違ったカメラになった印象を受けます。EOS 5Dsの高解像度は、気がつかないものがもっとたくさん自動で写し撮られるということにもなります。あとでの発見がより楽しめるカメラになったのではないでしょうか。

それとこれも雲南省の写真ですが、当時はまだフィルムだったので、現像したら、まったく撮った記憶のないハニ族少年が藍染の布の間から顔を出している写真に気がついたのでした。

意外と何も見ないでシャッターを押しているのでしょうか。

「何も見ない」というと極端かもしれないので、「フレームの隅々まで注意を払って見て、シャッターを押しているのではない」ということです。ある狭い部分をスポットライトのように意識を集中させているか、あるいは反対に、全体をボヤ~っと見ているかもしれないなぁと。

細かいところまで注意を払っていたら、脳がいくら大きくてもたりません。写真の情報は膨大なメモリーを必要としますが、人間の脳でもカメラでも同じです。

ただ、ここが人間の不思議で面白いところなのですが、注意を集中してなくて、「何が映っているか」に気がついていなくても、目の網膜ではちゃんと捉えていて、無意識レベルではその情報も処理しているらしいのです。認知心理学では「無意識の認知」と呼ぶらしい。

意識しているところでは「見てない」と思っていても、無意識では「見ている」ということなので、頭がこんがらがってしまいますね。けっきょくどっちなんだ?と。

雲南省の棚田の写真も、無意識では「あぜ道の人」にちゃんと気がついていた可能性があるらしい。それどころか、この「あぜ道の人」になんらかの影響を受けてシャッターを切った可能性すらあるということ。

もっとすごいのは、写真を撮ったことさえ記憶がないハニ族少年の写真ですが、これなんかは、おばさんの写真を何枚も撮っている途中で、少年が布から顔を出した瞬間「はっ」と思ってシャッターを切り、今まで続けていたおばさんの写真を撮り続けたので、この1枚のことは意識されなかったのかもしれません。フィルムには、おばさんの写真の間に、少年の写真が1枚はさまっていたからです。俺の意識はおばさんしか見ていなかったということになります。

こういう面白い実験があります。「選択的注意 Selectiv Attention Test」というものです。

ネタバレ注意。内容が分かってしまうと意味がなくなるので、テストを受ける人は以下の文章はその後で読んでください。

https://www.youtube.com/watch?v=vJG698U2Mvo

バスケットボールのビデオなのですが、「何回パスをしたか正確に数えてください」と言われて数えることに集中すると、試合会場を横切ったゴリラの着ぐるみの人物に気がつかないという実験です。

人が何かに注意を集中していると、かなり大きな事が画面の中で起こっていても、意識できないということを証明する心理学実験です。

この実験を見れば、「あぜ道の人」や「ハニ族の少年」に気づかなかったことも、ありえる話だなぁと思います。

カメラは、「選択的注意 」の実験にはだまされません。だから、カメラは人間の意識・無意識すべて含めたところを記録してくれるすごい機械であると言えるかもしれません。

「すごい機械」というのは、良くも悪くも、その冷徹な感じさえする圧倒的な客観性です。それと比べると、人間のなんといい加減なことか。前も書きましたが人間は「見たいものしか見ていない」と言ってもいいでしょう。でも、そのいい加減さが人間らしく、また愛おしいところなのですが。
 
 
 
 
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2015/08/24

「ワンダーラストという旅の病」と「棚田病」

150824(長野県 原田沖の棚田)

先日、ワンダーラストという病について書きましたが、似ている病としては、「棚田病」とか「白い病」とかいうものもあります。

棚田病についてはこちらに書いています。「棚田病とは?(2006/09/27)

また「白い病」というのは、一度南極へ足を踏み入れた者は、また南極に行きたくなるという病だそうで、科学界のインディ・ジョーンズと呼ばれる生物学者の長沼毅氏のインタビューで知った病です。

いずれも、それをしないと精神的におかしくなるほどの状態、好きすぎてどうしよもない状態ということです。それを「病」と表現しています。

これらの病がワンダーラスト同様DNAに関係しているかどうか、研究した人もいないだろうし、まだ謎ですが、ただ、かなり心の深いところの「何か」と関係しているのでは?という直感があります。

そのことについては、先日「旧暦棚田ごよみ」の製作スタッフと食事したときにも話題になって、その直感は俺ばかりではなく、実際棚田を作っていて重度の棚田病であるスタッフたちも感じているものでした。

ユング心理学でいうところの、個人の無意識のさらに奥にある人類共通の「普遍的無意識」からのメッセージとも解釈できるかもしれません。「普遍的無意識」というのが、つまり遺伝子に刻み込まれた人類共通の「記憶」なのかもしれませんが。

たとえばアジアの国の棚田で欧米人と会ったとき、棚田の風景を見て「癒される」というのを聞いたとき、なぜだろう?と思ったのです。俺たち日本人なら、それは子供のときの原風景だからだろうと思うのですが、棚田に縁遠い彼らもそう感じるのが不思議だったのです。でも、これも「普遍的無意識」に関係するのであればわかりやすい。

人間が意識できるのは、氷山の一角でしかなく、ほとんどは無意識にうごめく「渦」のようなものが、人間を動かし、人間に感情を与えているようです。

無意識からのメッセージが意識されたものが「夢」であるのと同じように、無意識からのメッセージを、わかりやすい形として意識したのが棚田なのかもしれません。

だとしたら、そのメッセージとは何なのか?

夢もそうですが、その人が「変わらなければならない」「変わりたい」ことを暗示するという場合もあるようです。「これではいけない」という危機感かもしれないですね。

この無意識からのメッセージを、効率が重視され、自然から離れ、都市化した人間への警鐘と捉えるのは、うがちすぎと言われるかもしれませんが。

実際俺も、本当は何なのかよくわかりません。ただ、棚田の風景に立つことは気持ちがいいということを意識できるだけです。確実なのはそれだけ、今のところは。
 
 
 
 
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2015/08/21

2015年9月11日、山形県河北町どんがホール公開講座『旧暦のリズムで棚田を味わう』のお知らせ

150821(秋田県鹿角市の棚田)

150827_1(長野県千曲市 姨捨の棚田)

150827_2(長野県長野市の棚田)


公開講座『旧暦のリズムで棚田を味わう』が行われます。

日時: 2015年9月11日(金) 午後7時~午後9時

会場: 山形県河北町「どんがホール」

お問い合わせ: かほく町民大学ひなカレッジ実行委員会事務局
           tel: 0237-71-1111
           mail: syogai@hinanet.ne.jp

内容は、旧暦二十四節気にそった風物と棚田の写真で構成したスライド&トークショー形式の講座です。

旧暦は、明治5年まで使われていた太陰太陽暦で、1ヶ月が月の朔望の周期を基にしたもの、また、太陽の動きを基にした二十四節気、七十二候で季節を知る複雑な暦です。

生物には概日リズムというのがあるそうで、それは1日を刻む体内時計のようなものですが、概月リズムや、概年リズムというのもあるようです。

概月リズムは海の生物で確認されていますが、女性の生理のリズムもそうなのではないでしょうか。だいたい月の朔望の周期と一致します。それでラテン系の言葉では「月」も「生理」も「LUNA」という同じ言葉であらわされています。

こんな旧暦の説明を簡単にしてから、季節ごとの棚田の風景や「御田植え」「初穂曳き」など稲作に関係する祭りの話、お盆とイランのゾロアスター教との関係、「田毎の月」についてなど、月や棚田に関係するいろんな話をするつもりです。

公開講座ですので、無料でどなたでも参加できます。

お問い合わせ先は、かほく町民大学ひなカレッジ実行委員会事務局にお願いします。
 
 
 
 
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2015/08/18

旅に出たくてたまらない「ワンダーラスト」という病

150818_1(スリランカ ゴール)


「ワンダーラスト Wanderlust 」とは「頭がおかしくなるほど旅に出たくてたまらない!」という病気らしい。

世界人口の20%がかかっている「病気」- ワンダーラストとは?
ハフポスト日本版 http://www.huffingtonpost.jp/triport/wanderlust-trip_b_7953888.html

旅に出たくなる病については、このブログでも何度か書いています。「旅は麻薬みたいなもの(2006/07/22)」とか。

とにかく、旅に出なかったら精神的に死んでしまうのです。俺も完全に「ワンダーラスト」ですね。

たぶん、旅に出たくなることがない人が読んだら、「なんておおげさなんだ」と思われてもいるでしょう。それは若いころから自覚しているし、そう思う人たちのことは理解できます。

この記事を見つけて、俺と同じような「ワンダーラスト」はたくさんいるという安心感を覚えたのでした。これが単なる「わがまま」や「無責任行動」や「逃避行為」ではなくて、「病気」ならしかたない。しかもDNAならしかたないと思ってしまう自分がいます。

ただ、「それ病気ですよ」と言われたとたんに楽になって病気が治ってしまうということもあるので、正直「治ってほしくない」とも思います。旅に出たくなる病気には、治らないことで精神的に安定するという「疾病利得」も絡んでいるからです。

ワンダーラストには「DRD4-7R」という遺伝子がかかわっているようです。このDRD4-7Rを持っているのは世界人口の20パーセント程度。だからこの遺伝子を持っているからみんながワンダーラストになるというものでもなさそうですが。

ワンダーラストはもしかしたら、東アフリカを出た人類の祖先たちから続いているんでしょうか。

かつて人類の祖先たちが、どうして食料も豊かな東アフリカから出たのかは謎です。俺はきっと現状に満足せず、もっといい土地があると思ったから出たのではないかと思っています。

それともうひとつ、この宇宙というものが、ビッグバーン以降、膨張するという方向にあるなら、宇宙の構成要素である人間も、人間の細胞も、人間の気持ちも、膨張の方に向かうのは不自然ではないし、むしろ当たり前ともいえます。外へ向かうことは、人間にとって必然なのかもしれないのです。

外へ向かう、旅がしたいという人類の記憶が遺伝子に刻み込まれていることは十分に考えられることです。

ただ、最近はなんでもかんでもDNAに解を求めるのもどうかなと思うし、すべてが遺伝子ということはないでしょう。明らかに環境や後天的な学習がかかわっていると思われるからです。

それにしてもなんですね、この記事の最後にある文は…

「その気持ちに共感することはできないかもしれませんが、その人を大切に思うならぜひ理解してあげてください。」にはちょっと苦笑してしまいましたが。

こんなに労わられなくても、本人たちはまったく元気なんですが。
 
 
 
 
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2015/08/15

芸術作品は、「自己表現」などではなく「世界表現」

150814_1(クロード・モネ 「睡蓮」)

150814_2(ポール・ゴーガン 「海辺に立つブルターニュの少女たち」)

150814_3(ポール・シニャック  「サン=トロぺの港」)


「芸術は自己表現のような小さなものではなく、より根本的なものであり、一言で言えば、芸術とは、世界表現である」

と、美学・芸術論の青山昌文先生は『色を探求する』のかなで主張されています。

芸術作品が「自己表現」だというのは、長い人類の歴史から見れば、ごくわずかな期間の一部の価値観だそうです。

古代エジプトから始まる芸術の5000年の歴史を考えても、芸術作品が「自己表現」というくくりで評価されることになったのは、たかだか200年だといいます。

そうだったのかぁ。芸術作品は自己表現だと思っている現代人は、芸術に対して思い違いをしているということなのかもしれません。俺もまったくそう思い込んでいたし。

そうであるならば、200年前からの近代絵画は、新しく「自己表現」の価値を作り出し、その試行錯誤の過程は、印象派、新印象派、そしてキュビズムなどの表現の変化に表れていると考えられるということなのでしょう。

上野の国立西洋美術館に行ってきました。

中世末期から20世紀初頭にかけての西洋絵画が展示されています。フラッシュや三脚を使わなければ写真はOKです。

ところで、国立西洋美術館は、近代建築の巨匠、フランス人建築家、ル・コルビュジエが設計したものだそうで、今、フランスなど6か国と共同で世界文化遺産に推薦しているそうです。ニュースになっていました。

西洋絵画は、カメラが写し取った世界と同じような、線遠近法を取り入れた風景を目指してきましたが、印象派あたりから、その方向性が大きく変わってきます。

ふたたび絵は、写真のようなものではなくて、もっと人間性を重視した心の現実を描いた絵のほうに舵を切ることになります。昔に戻っていったともいえるでしょう。

2階の展示室にある印象派から、1階に下りると、新印象派、そしてキュビズムへと、絵の変遷は、展示室を移っていくことで実際に感じることができます。「自己表現」の試行錯誤の過程を見ることになります。

印象派のクロード・モネの「舟遊び」や「睡蓮」。ポール・ゴーガンの「海辺に立つブルターニュの少女たち」も平面的な色使いが浮世絵のようで印象的です。好きな絵です。

新印象派ポール・シニャック の「サン=トロぺの港」は「錯覚の科学」にも出てきた点描の「視覚混合」。近くで見ると絵具の点々が並べられているだけですが、約7m離れてみたら点が見えなくなりました。これも一種の錯覚なのです。

最後はピカソの絵が何点か展示されています。

西洋絵画の歴史が写真的な絵からふたたび「心の現実」を描いた絵に回帰したわけですが、ピカソはその行程を自分一人で実現した画家でした。

多視点の作品、さまざまな時間をねじ込んだ作品という意味では、歌川広重の『六十余州名所図会』の「信濃 更科田毎月鐘台山」(嘉永六年八月)や『本朝名所』の「信州更科田毎之月」などの「田毎の月」なども、まさに多視点の絵であると言えるのでしょう。

光学的には、月はひとつしか映りませんが、自分が動くか、あるいは時間が経過すれば、他の田んぼにも月が映り、それを一画面の絵で表現すると「田毎の月」の絵になるのです。広重は「田毎の月」を描くことで世界の表現をしたわけですね。
 
 
 
 
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2015/08/14

平成28年度(2016年)版 「旧暦棚田ごよみ」

150815

平成28年度(2016年)版の「旧暦棚田ごよみ」の製作が始まりました。

メインの暦のデザインは変わりませんが、かねてから要望のあった卓上版もいっしょに作ることになりそうです。今のところB6版で。

とりあえず12か月分の写真を仮セレクトしました。季節感と地域、両方のバランスを考えながらのセレクトは大変ですが、この行程が一番好きだったりします。

表紙は棚田サミットも控えている佐賀県玄海町浜野浦棚田の写真になりそうです。
 
 
 
 
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2015/08/13

今日から「立秋」の次候「寒蝉鳴(ひぐらしなく)」

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二十四節気「立秋」の次候「寒蝉鳴」です。

「ひぐらしなく」と読まれていますが、もともと中国から入ってきた「寒蝉(かんせん)」は秋の訪れを告げる蝉といった意味らしい。

だから時期的に、8月中旬は、「ヒグラシ」ではなくて「ツクツクボウシ」ではないかという説もあるようです。広辞苑では、

「秋の末に鳴く蝉。ツクツクボウシまたはヒグラシの古称か。」

と書かれています。

ところで掲載した蝉の写真ですが、残念ながらこれは、ヒグラシでもツクツクボウシでもなく、アブラゼミです。

今、撮影総監督の栗林慧さんの映画『アリのままでいたい』が公開中です。

http://www.ari-no-mama.com/

迫力のある映像はすばらしい。昆虫の世界は知らないことだらけです。この映画は、地球が人間中心では周っていないことを感じさせてくれるものです。
 
 
 
 
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2015/08/12

安全保障法制(とくに集団的自衛権)について、2つの理由で反対

150812_1(沖縄県 キャンプシュワブ)

150812_2(沖縄県 嘉手納基地)


物理学者のアインシュタインと、精神分析学者のフロイトの『ヒトはなぜ戦争をするのか?』(花風社刊、浅見昇吾編訳)は往復書簡ですが、この中で、「人間は闘争本能を持っている」ということで一致しています。

戦争は避けられないということでしょうか。「知性が高まり、攻撃本能が内に向けられれば、戦争をなくす方向に動いていくことはできる」と、表現は弱々しい。天才たちでさえ、戦争に対しては無力であるようです。

最近では、個人の闘争本能と、戦争とは違うという研究結果もあるそうです。いずれにしても、戦争を完全になくす方法は、今のところない、というのが現実でしょう。ただし、遠い将来は、「しないで済む」ようになるかもしれません。それはいつのことかはわかりませんが。

俺も戦争は反対だけれど、それでも「戦争になることはある」という現実だけは受け止めていようと思います。たとえば個別的自衛権で、しかたなく戦争にはなるかもしれません。「戦争しない」といって反撃しないというのはありえません。

大事なのは「戦争をしない」というよりも、まず「戦争になる状況を作らないためにはどうするか」ではないでしょうか。

だから「戦争反対!」を叫ぶのは何も意味してません。「そりゃそうだ」というだけです。なぜなら多くの安全保障法制賛成派だって「戦争反対」と思っていることだろうし。それと「戦争法案」とラベルの貼り換えはどうなんでしょうか。

ラベル貼りは物事を「0」とか「10」に単純化しすぎます。「0」か「10」か、ではなくて、正解は「2.3」なのかもしれないし「6.5」なのかもしれません。反対しているように見えて、結果的に賛成派に有利になってはいないでしょうか。

人間の脳の大きさについては前にも書いた気がしますが、「社会脳仮説」というのがあります。類人などの群れの大きさと脳の大きさ(体重に対する割合)は比例するという研究があります。社会が大きくなればなるだけ、情報処理する件数も増えていき、それに適応するため脳が大きくなったという説です。

複雑な人間関係を調整して、自分も生き延びて、他者も生き延びるという方法を考え出すのは、たしかにむずかしい。数が多くなればなるほど、その複雑さは増して、利害関係の調整は至難の業になるでしょう。その調整はたまに失敗します。その結果が「戦争」。

で、今回の安全保障法制(とくに集団的自衛権)はどう考えるのか?

俺は2つの理由で反対です。

まずひとつ目は、憲法違反の疑いがあること。

もうひとつは、アメリカという国への依存度が高まるのがあまりいい外交とは思えないからです。

憲法学者の多数が「違憲」あるいは「違憲の疑いあり」といっているのだから、これは違憲の可能性が高い。違憲でもOKというなら、それこそ時の為政者が何でもできてしまいます。憲法は為政者を縛る歯止めです。これが基本です。

安倍総理は「限定的」「戦争には参加しない」と言っています。でも、安倍総理が仮に本当にそう思っているとしても、安倍さんがずっと総理でいるわけでもなく、将来の為政者がどうするかはまったくわかりません。

まずはちゃんと憲法改正するならした後で議論すべきと考えます。歯止めが面倒だから変えてしまうというのはおかしい。面倒だからこその歯止めなのです。この面倒さは人間の知恵です。

内容うんぬんより、その前提条件でアウトなので反対です。

たとえば、選手のひとりが勝手にルールを拡大解釈して、手を使い始めたら、サッカーというスポーツが成り立ちません。

この大前提で反対なので、もうひとつの次の理由は付けたしみたいなものです。

アメリカが信用できないということです。アメリカ人には友人もいるし、決して個人個人のアメリカ人が信用できないということではありません。アメリカという国が過去行ったことから推測すると、どうも疑わしい点が多いのです。

たとえば尖閣諸島で何か起こったときも、アメリカがどうするかはまったくわかりません。

大量破壊兵器は無いのにイラクと戦争を始めたりもしています。自分が「悪」と思ったら「悪」にしてしまうような正義感に自己陶酔しているような「番長」と行動を共にする気にはなれないんですよね。たとえこの「番長」の腕っ節が強いく、子分になれば守ってくれるとわかっていても、「信用できない」という気持ちはなくならないんです。

今テロが世界中にはびこっています。アメリカがやっていることは、テロを少なくする方法とは逆のような気がします。アメリカとの同盟関係を強固なものにするということは、百歩譲ってもしかしたら中国などには効果があるとしても、今度はテロリストとのリスクは高くなってきます。とくに今まで築いてきた中東地域との友好的関係はどうなってしまうんでしょうか。中国は身近で隣国だから目立ちやすく、この脅威だけを考慮して判断しても、将来の日本の国益にはならないでしょう。

軍事アナリストの小川和久氏の話はわかりやすく参考にさせてもらっていますが、でも「戦後、米国の同盟国で国家主体から攻撃された国はない」というのはどうかな?と思います。専門家の「想定外」はこの数年でいやというほど見てきました。たしかに「今までは」そうかもしれません。そして、「テロという新しい型の戦争」には無意味なのではないでしょうか。「戦争はないがテロに怯える社会」というのは、はたして「平和」と言えるのか、俺は疑問です。

以上の理由で、少なくとも今の段階でアメリカだけに強く依存していく方向は、あまりいい外交姿勢とはいえないと思います。
 
 
 
 
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2015/08/11

「第9回 酒井英次絵画展」のお知らせ

150811

棚田や「雪形」の風景を描き続けている酒井さんの絵画展のお知らせです。

DMで使われている絵は、「藤里駒と横倉」です。世界遺産・白神山地の麓に広がる藤里町横倉地区の棚田を描いた絵です。

「雪形(ゆきがた)」というのは山肌にできる雪の模様のことで、自然暦として農作業開始の目安にもなっていたものです。


「第9回 酒井英次絵画展」

2015年8月21日(金)~30日(日)
10:00 A.M.~6:00P.M. (21日は1:00より、30日は5:00まで)
入場無料
NSTギャラリー
新潟県中央区八千代2-3-1 NST 1F
Tel: 025-245-8181
 
 
 
 
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2015/08/09

核兵器(原爆)が初めて人間に使われて70年

150809(広島市)

150809_2(長崎市)

核兵器(原爆)が初めて人間に使われて70年。

この原爆投下について、アメリカ人は戦争を終結させたから正しかったと主張しています。これはアメリカ政府公式の説明でもあります。最近の若いアメリカ人の考えは変わってきているようですが。

まぁアメリカ人だって、原爆投下で大量に人を殺しておいて、平気な顔をしていられるはずがなかった。その罪悪感を抱えながら生きることなんてできなかったはずです。だから、「これ以上犠牲者を出さずに済んだので原爆投下は正しかった」と思い込むことが罪悪感から逃れる方法でもあったし、政府の説明は都合が良かったと言えるでしょう。

「犠牲者を出さずに済んだ」のはもちろんアメリカ人の犠牲者のことです。日本人の犠牲者のことなんて考えていません。だから、日本人の中にも「原爆投下は正しかった」などと発言している人もいますが、まったくの勘違いだと思いますよ。

そもそも原爆なんか使わなくても、日本は戦争に負けていたし、戦争は終わっていたでしょう。だから原爆が唯一戦争終結のための必要条件だったわけではありません。原爆は絶対的悪なのです。

そして原爆はアジアの国だから落とせたということもあるでしょう。アメリカ本土からの距離(遠さ)もそうですが、「人種」の違う国だからです。

あのタイミングを逃せば原爆を実際に使ってみる機会を失うと恐れた、はっきり言って関係者の中には、「使ってみたい」と考えていた人間はいたでしょう。これからのソ連との戦争を想定して、原爆の被害がどうなるか知りたかったのかもしれません。実際アメリカは広島と長崎で原爆被害の詳細なデータを取っていました。

ベトナム戦争のときの映像でしたが、ベトナム人(敵)を同じ人間だと思わないように訓練していたアメリカ軍の新兵訓練教官のインタビューは衝撃的でした。

「同じ人間だと意識すると殺せなくなるので、ベトナム人は人間ではないと徹底的に教え込んだ」というのです。目隠しして殴り合いをさせる訓練もありました。相手(人間)の目を見ないと殺すことにも躊躇しなくなる「兵器」を作りあげるには効果的な訓練方法だったようです。

原爆投下の指令を承認したトルーマン大統領や、実際原爆を投下したB-29エノラ・ゲイ号の兵士がとくべつ残酷で非道な人間だったのかといったら、まったくそんなことはありません。家庭ではいい夫であり、優しい父親であり、犬なんかとじゃれて遊ぶ「普通の人」だったと思います。

問題はここなのです。

人は、「人が見えない」あるいは「人に見えない」と、相手に何でもやってしまうものなんだなということが、アメリカ軍新兵訓練の話からもわかるし、前に書いたフィリップ・ジンバルドの監獄実験、やミルグラムの服従実験(教師役が命令に服従し、生徒役に電流を流して罰を与える実験)の結果から明らかですが、状況によって人は何でもやってしまうんだということなのです。

「特別な人」ではなかったところが怖いのです。頭が悪いからとか、残忍な性格だからとか、相手を憎んでいたからなどというのではなくて、まったく利害関係も無い、普通の市民が、ある条件化では、命令に服従し、残酷なこともやってしまうというものです。

「性格」よりも「状況」の影響力ははるかに大きいのです。人はそれに気がついていません。

だから結論はこれしかありません。

核兵器を使わないようにするためには、核兵器を根絶する以外にないということです。核兵器を持たないようにするしかありません。

民主主義だの人権主義だの人道主義だのを標榜して世界の警察きどりでいるアメリカさえ、ある状況下では核兵器を使ってしまうのです。

核兵器を持っていたらいずれ使う。第二次世界大戦後も使いそうになった危機はあるそうだし、これからも必ずあるはずです。
 
 
 
 
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2015/08/08

今日から二十四節気「立秋」、」七十二候「涼風至(すずかぜいたる)」

150808(涼しげな写真をと思い、アクアマリンふくしまの水槽)


今日から二十四節気「立秋」、」七十二候「涼風至」です。

どこが涼風至?と突っ込みたくなるような気温で、東京では猛暑日連続日数が1875年の観測開始以降の最長記録を更新した今年の夏です。

「今年は冷夏」などという予報が出されていたのではなかったでしょうか。エルニーニョがどうたらこうたらいう理由でしたが、その法則には当てはまらないというのが、最近の傾向でもあるようです。下駄を放り投げてやったとしても50パーセントの確率で当たります。天気予報がいかに難しいかがわかります。

ただ今日は若干気温が下がったかなとも思います。今まで暑いと、30度でも涼しく感じるというのもすごい話ですが。そういう意味では今日「涼風至」です。
 
 
  
 
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2015/08/04

幽霊の探し方 Deep Neural Net Dreams

150804(下の元画像を変換した画像がこれです)

150804_2


「見ることは考えることだ」と言われます。

人間は目だけで物を見てそれがなにかを判断しているのではなくて、自分の体験・知識・期待などもいっしょに活用して「おそらくあれだろう」と考えて答えを出しているらしいのです。

目から入った情報処理を「ボトムアップ処理」、自分の体験・知識・期待を「トップダウン処理」といいます。その2つの処理で俺たちは物を何か判断しています。

だから、カメラと人間の目の違いは、カメラは物理的世界を正確に写し取るのに対して、人間は見たいものしか見ていないと言ってもいいのかもしれません。

逆に言えば、カメラのシャッターを押したとき、人間には見えていないものも写真には記録されるということでもあり、カメラの持っている客観的な記録性ということが、重要な特徴だということが分かります。

ところで、幽霊はなぜ見えてしまうのでしょうか? この答えは、目から入る情報よりも、頭にある情報が勝った場合の典型例といえるのではないでしょうか。

幽霊は、そこに無いものを見てしまうものです。壁のシミに幽霊の顔を見てしまったり、林の木々に幽霊の立ち姿を見てしまったり。つまり極端な言い方をすれば「幽霊に見たいから幽霊を見てしまう」らしいのです。

これがわかるような、おもしろいHPがありました。Deep Neural Net Dreamsというものです。これはグーグルの画像解析の技術で、コンピュータがこれまで学習してきた「知っているパターンに近い何か」を見つけたらそれを増幅させて表示するというものです。詳しくはこちらで。ついったーでも、#deepdreamで「作品」をいろいろと見ることができます。

そこにない物を無理やり見せてくれるという意味で、大変興味深い。それで実験してみました。コンピュータは何を見たがっているのか?です。

まずPhotoshopで、「雲模様」を作りました。具体的には何もない画像です。それを変換してみました。

それで出てきたのが、掲載した絵です。右上に、なにやら鳥のような動物のようなものが出てきました。それとお城や教会のような塔のある建物。微妙な雲の濃淡からコンピュータがパターンを見つけたのです。

グーグルでは、「夢 Dreams」と表現していますが、形を探し出すというところから、むしろ「幽霊」と言った方が合っているのではないかなと思います。

コンピュータは得体の知れない動物らしきものを見ようとしましたが(動物写真をたくさん学習しているからでしょう)、人はもっと「人」に近いものを見ようとするのではないでしょうか。でもそこにいるはずがないということも頭では分かっているので、そこに「人」ではない「幽霊」を見てしまうのではないかなと。

あいまいな模様の中に何かを見てしまう錯覚は「パレイドリア」と呼ばれますが、「何も無い」ことが意外と絶えられないのです、人間は。何かを見てしまいたくなる。

コンピュータは、ただ情報処理をしているだけで、絵の雰囲気(怖さ)がわかっているわけではないでしょうが、偶然にしろ、怖いものを見ようとしているのは共通しているのかもしれません。

あいまいな形からは怖いものを見つけてしまうというのは、でも、考えてみれば理にかなっています。危険な物をいち早く発見することが生き残っていくためには有効だからです。だから人間も幽霊を見たがるのは、「正しい」心理機能といえるかもしれません。
 
 
 
 
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2015/08/03

「露空港に日本人:「偽りの土地に帰りたくない」 男性2カ月生活」のニュース

150803


このニュースを聞いたとき、数年前の話を思い出しました。また現れたかぁと。

露空港に日本人:「偽りの土地に帰りたくない」 男性2カ月生活
毎日新聞 http://mainichi.jp/feature/news/20150801mog00m030012000c.html

どうもこういう人、興味があるんですよね。

安部公房の『箱男』を思い出します。主人公は箱に入ったカメラマンだったと思いますが、状況は違いますが、隙間から世間を見ている人間という意味で、同じような匂いを感じるからです。

数年前の話というのは、メキシコへ行ったはいいけどお金が尽きて空港に住み着いたという日本人、ノハラさんが、「捨て猫」のように現地のみんなに親切にされながら暮らしているというものでしした。

当時書いた記事はこちら

俺は、これについて「ホームレス 外国でやれば 文化人」と揶揄しました。批判したつもりはなかったのですが。むしろ俺もやってみたいくらいです。

「隙間で暮らす」こと自体はユニークで面白いと思いますが、今回のアボさんの目的(言い訳)がおかしい。というより嘘っぽい。

「嘘ばかりの日本には戻りたくない。ロシアに亡命したい」ですと? 

この言い訳は取ってつけた「嘘」の可能性が高いでしょう。こういう、いかにもな言い訳を語りだすと、とたんに陳腐になってしまいます。

「ホームレスをしてみたかった」と堂々と言えばもっと賞賛されるはずなのに。文化人として。

俺もこんな状態が実現したことがありました。10年ほど前、俺と妻も2日間だけ、ロシア空港の「ロシアではない場所」で暮らした(足止めされた)ことがありました。飛行機が遅れて、テヘラン行に乗り遅れ、ロシアのビザがないので、ロシアにも入れず、テヘラン行が出るまで空港(実際は空港から離れていましたが)のホテルに缶詰状態でした。

このときは本当に「隙間で暮らす」ことになっていました。理屈上は、どこの国でもなかったのです。それに気が付いた時、なんだかとても自由を感じました。「社会」から透明人間のように消えてしまったような痛快さがあったのです。

ところでアメリカから追われるスノーデン氏もこのロシアの空港の隙間で暮らしていたはずです。

Ya_2近々未来予想ショートストーリー   『モスクワのトランジットホテルで出会った男』
 
 
 
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2015/08/02

今日から「大暑」の末候「大雨時行(たいうときどきにふる)」

150802

連日の暑さにはまいってしまいますね。今日は旧暦水無月(六月)十八日、二十四節気「大暑」の末候「大雨時行(たいうときどきにふる)」。

関東地方、今日は天気が不安定らしく、大雨が降るかもしれないと予報では言っています。ゲリラ豪雨という言葉が現れて以来、年毎にその頻度が高くなっているように感じられます。
 
 
 
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