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2016/11/30

【愛犬物語百景 其の九十八】 千葉県君津市 久留里城址の和犬像

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161201_2(久留里城址 紅葉と模擬天守閣)

161201_3(城山神明社 和犬型狛犬)

161201_4(城山神明社 和犬型狛犬)

161201_5(城山神明社 和犬型狛犬)

161201_6(城山神明社 和犬型狛犬)

161201_7(城山神明社 和犬型狛犬の後姿)

161201_8(石盥盤)


千葉県君津市の久留里城址を訪ねました。

雨上がりの朝は、霧に朝日が射し込み幻想的な風景でした。さすがにここは別名、「雨城」「霧降城」とも呼ばれたところだと納得しました。

本丸跡には、天守台跡と模擬天守閣があります。天守閣に上ることができ、回廊からは周囲の紅葉の山々を眺めることができます。

本丸跡から少し下った二の丸の場所には貴重なものが展示されている資料館があります。和犬型狛犬の資料を読んだ後、スタッフに和犬像の場所を聞いて、資料館の裏側を通る旧道を下っていきました。折からの雨で、道も泥だらけ(雪も少し残っていました)でしたが、400mほど下ると城山神明社にたどり着きました。

ここに和犬型の狛犬が1対鎮座しています。

資料館のスタッフから聞いていた通り、社殿に向かって左側の像は鼻が欠けていました。横から見るとまるでパグ犬のようになっています。また右側の像は垂れ耳で、まるでビーグル犬のように見えます。両方とも首輪を結ばれています。

江戸時代には西洋から入っていた洋犬と和犬の雑種も増えていたようで、いろんな里犬(地域犬)がいたようなので、必ずしも「垂れ耳だと洋犬」とは言えないようですが。ビーグル犬に見えるのは、俺が単にヴィーノと暮らしているからです。

後ろからみると、現実にはありえない形ですが、尻尾が水引のような形に収まっているし、首輪の結び目も可愛らしい。「奉納品」らしい形ですね。

それにしても竹林をバックにした犬像は造形的にもすばらしいものがあり、ほれぼれします。2日間かけてこの犬像を撮影した俺は異常なのでしょうか。どんだけ好きなんだと笑われそうですが。

ところで、犬像にはこういう由来がありました。

8代目の黒田直静は嘉永2年(1849)に丹生神社に石鳥居を建立し、翌3年には藩の家老、要人たちがこの和犬型の狛犬を奉献しています。

どうして和犬型狛犬だったのか?

かつて空海が密教の根本道場の地を求めてさまよっていたときに、高野御子大神(こうやみこのおおかみ)が黒と白の二匹の犬を連れた狩人に化身して空海の前に現れ、高野山へ導いた故事にならったもので、黒田氏の先祖が関東に来た時、高野山の丹生明神を勧請したからだといいます。

元々丹生明神(神社)は城山の一番高い場所にありました。現在の模擬天守閣の北西側にある小高い場所がそうです。碑と解説看板がありました。

明治末に丹生神社は城山神明社に合祀され、和犬型の狛犬、石鳥居も移されました。

それと、社殿のそばに置かれていた石盥盤(いしだらいばん)は独特の模様があって一見の価値があります。これは6代目の黒田直方(なおまさ)が文化3年(1806)に丹生神社に奉納したものです。

石盥盤は、いわゆる手水石のことで、参詣で心身を清めるために設けられたものです。それも明治末に城山神明社に移されました。
  
 
 
 
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【愛犬物語百景 其の九十七】 東京都立川市 南極・北極科学館 カラフト犬の像

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静岡県から自宅に戻る途中、立川市の国立極地研究所、南極・北極科学館のカラフト犬のブロンズ像を訪ねました。

昭和34年(1959)に、15頭をイメージしたモニュメントが彫刻家安藤士氏によって製作され、東京タワーに設置されましたが、東京タワー周辺の整備事業にともなって撤去されることになり、日本動物愛護協会から寄贈をうけて、平成25年秋にここに移設されました。

第3次南極観測の際、タロとジロの生存を確認した第1次隊の犬係だった北村泰一氏の次の言葉を参考にして配置されているそうです。(北村さんたち犬係については以前の記事でどうそ)

「残されたカラフト犬たちの脳裏に故郷北海道の懐かしい風景が浮かんだと思うのです」

故郷を思う15頭の犬たちの姿なんですね。

悲しそうに遠吠えしているような姿の像もあります。2頭が体をくっつけて寝ている像もあります。北海道の夢でも見ているのでしょうか。夢を見ている間は北海道に帰ることができます。

犬も夢を見ます。ヴィーノもよく夢を見て寝言(寝鳴き)を言っています。何かおいしそうなものを食べている夢なのか、草原を走りまわっている夢なのか。

犬は匂いで周りの風景を「見ている」といわれているので、北海道の牧草や牛や馬や草花の匂いを懐かしく思っていたのかもしれません。とくに南極大陸という雪に閉ざされたところに残された身では。

ところで展示物の中には、カラフト犬の越冬についても解説がありましたが、1998年、環境保護のため犬は持ち込み禁止になったそうです。

なので日本隊の最後のカラフト犬は「ホセ」という名前のカラフト犬になりました。

ちなみに年表を見ると、第4次隊のときには、「ハチ」という名前のカラフト犬がいました。他の犬と越冬しています。ジロも越冬しましたが、途中病死で亡くなりました。タロは帰国し、1970年まで生きました。14歳で老衰だったそうです。数奇な運命を生きた犬でした。

老衰ということは犬の天寿を全うしたことでもあり、やはりタロは南極で生き抜いた通り、生命力は強かったといえるのではないでしょうか。

犬係であった北村さんたちも、それを無意識で感じていたからこそ、北村さんは2頭の犬が南極大陸を走っている夢を見たのだろうし、また菊池徹さんは、弔辞の中でタロとジロの名前だけ度忘れした(言いたくなかった)ということも起こったのでしょう。


 
 
 
 
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2016/11/29

2016年初冬撮影旅(05) 静岡県三島市 「三嶋暦(みしまごよみ)」

161129_1_2(三嶋大社)

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161129_3_2(現在の来年用三嶋暦)

161129_4(資料館の三嶋暦のレプリカ)


三島は富士山からの湧水が潤す美しい街です。文豪たちが愛した街で、水路沿いの遊歩道には文学碑が点在しています。

三嶋大社にも行きました。大鳥居をくぐってすぐ右側に大きな石があります。これは「たたり石」と呼ばれるもので、富士山の山体崩壊にともなう泥流によって運ばれてきたという。

「たたり」とはもともと糸のもつれをほどくなど「整理」の意味があり、旧東海道の真ん中にあって行き来する人を「整理」していたらしい。でも、石を動かすと災いがおこったりしたので、いつの間にか意味が「祟り」に変わっていったようです。

そしてここは「旧暦」と大いに関係のあるところだということを、社務所で「三嶋暦」を見て気が付きました。旧暦に関する本を読んでいるとときどき出てくる「三嶋暦」。そういえば「三嶋暦」の街でもあったと。すっかり忘れていました。300円でさっそく購入しました。

三嶋暦は暦師河合家が代々発行してきた暦です。暦はだれでも勝手に発行できるわけではなく、ちゃんと許可を受けた暦師しか発行できませんでした。

今はいいですね。「旧暦棚田ごよみ」を作っても、逮捕されることもないし。今は、天気予報士がそんな感じかな。勝手に予報を出すことはできません。

三嶋暦の起源はわかっていませんが、少なくとも鎌倉時代にさかのぼるだろうと言われています。仮名文字の暦としては日本で一番古いということです。(日本最古!!)

京都で発行されていた京暦に対し、関東では三嶋暦が独自の計算方法で編さんされて発行されていました。

三嶋暦は東海道を通る旅人のお土産としても有名だったそうです。江戸時代には道中記などにも三島名物として登場するほか、本陣宿泊客の盆暮れの贈答品としても利用されていました。
 
 
 
 
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2016/11/28

2016年初冬撮影旅(04) 静岡県熱海市から函南町、そして三島市へ

161128_1_2(熱海市 市外通話発祥の地)

161128_0(函南町 畑毛温泉 富士見館)

161129_1(三島市 楽寿園)

161129_2(三島市 楽寿園)

161129_3(三島市 楽寿園)


天気予報では「晴れ」だったはずですが、熱海は小雨交じりの雨が降っていました。

今回の熱海の一番の目的は、大湯間欠泉跡に建つオールコック(イギリスの初代駐日総領事)の愛犬「トビー」の墓碑です。

その隣に建つのが、この電話ボックス。「市外通話発祥の地」だそうで、せっかくなので「日本最古シリーズ」に入れようと思います。

政治家や政府高官など熱海に保養や会談にきていたため(前都知事舛添氏を思い出してしまいますが)、東京ー熱海間に電話線が敷かれ、明治22年1月1日に開通しました。

これは日本最古のボックス公衆電話を模して復元したものだそうです。

ネットで調べたら朝風呂もやっていたので、熱海から山越えして函南町の畑毛温泉「富士見館」へ。湯船は3つあり、ぬるめ、中間、熱めがあります。午前9時でしたが俺ひとりだけ。のびのびできて良かったです。

そして三島市へ。

圓明寺にある「孝行犬の像と墓」。これは日をあらためてブログに書きます。

三島は富士山からの湧水が潤す美しい街です。楽寿園は菊祭りの最中でした。

三嶋大社にも行きましたが、ここは「旧暦」と大いに関係のあるところだということを、ここに来て気が付きました。なので、三嶋暦について、明日あらためて書きます。
 
 
 
 
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2016年初冬撮影旅(03) 千葉県から神奈川県へ

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久留里城址で撮り忘れたものがあったので、もう一度久留里城址へ寄った後、木更津から東京湾アクアラインで神奈川県に入りました。

途中、海ホタルで休憩。扇状のものは、海底トンネル掘削時に使ったドリルの歯でしょうか。

横須賀市には、「忠犬タマの碑」があります。来年は、タマの像が建てられるようですが、今はまだ碑だけです。

次に、大磯町の旧吉田茂邸に。吉田氏は大の犬好きでした。

ところで、旧吉田邸はリニューアル中で、公開予定は来年春のようです。庭園は今も見学可能です。
 
 
 
 
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2016/11/27

2016年初冬撮影旅(02) 千葉県南房総市 『南総里見八犬伝』の里

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『南総里見八犬伝』と言えば、伏姫と八房です。もちろん目的は、伏姫ではなくて、八房の方ですが。

これも帰宅後、詳しく書きたいと思います。写真は、岩井駅前の「伏姫と八房の像」です。
 
 
 
 
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2016/11/26

2016年初冬撮影旅(01) 千葉県久留里城

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千葉県の久留里城址。再現された天守閣があります。

昨日まで雪があったらしく、ところどころ雪が残り、旧道は泥でぬかるんでいます。

ここにも犬像があるのでやってきました。和犬の像です。片方は鼻が欠けて、まるでパグ犬状態です。それについては、また帰宅後【愛犬物語百景】の中で詳しく報告します。

資料館が充実していていますが、今、『描かれた城と藩』という企画展が開催中です。12月4日までです。

幕末の「前橋領御山書込亀山分見絵図」など初公開の貴重なものを見ることができます。
 
 
 
 
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2016/11/23

【愛犬物語百景 其の九十六】 岐阜県恵那市 中山神社の「お犬さま」信仰

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静岡県から岐阜県に抜けたところの旧串原村(恵那市)には、ちょっと変わった民間信仰があります。

舞台は、「お犬さま」信仰がある中山神社です。

ここは、数年前に紅葉の、ほぼ今と同じ時期に行っていますが、例大祭が10月に行われると聞いていたので、今年こそ行こうと思っていたら、同じ日に岩手県でのイベントの仕事が入ってしまい、また見逃してしまいました。

それでも、ここも【愛犬物語百景】からははずせないと思い、もう一度取り上げることにしました。

中山神社の何がそんなに面白いのかというと、造形的にも優れている独特の犬像があるからです。

それと秩父の「お犬さま」は紙に刷ったお札でしたが、中山神社では土焼き製の狛犬をお借りすることができるのです。ここの「お犬さま」はとくに、狐憑きを祓う効果があるという信仰があります。

今ではあまり聞かなくなりましたが、「狐に憑かれた」とか「狐憑き」とは、狐の霊に取り憑かれたと言われる人の精神の錯乱した状態で、今でいうと精神病の一種と考えられる症状です。

お祓いを受けて、狐の霊を追い出すことで治そうとした、ということです。その効果があると信じられたのが中山神社のお犬さまです。

10月の例大祭のときに、その狛犬を持参してお祓いをしてもらい、自宅に持ち帰って祀り、病気が治ればその狛犬を翌年神社に返します。ただその時は、倍の数を返すことになっているそうです。

昔からこの中山神社のお犬さまの効果は知られていたらしく、日本各地から、ここのお犬さまの狛犬が発見されているという。

神社の境内には、お犬さまを祭った祭壇が設けられています。髙さ5~10cmくらいのお犬さまがたくさん並んでいました。素朴な美しさがあります。これは病が治った信者が返した狛犬なのでしょうか。

生産された窯場も異なっていて、硬い陶質のものもありますが、一番多いのは瓦製で、黒灰色をしています。神社前の狛犬は2匹で1対ですが、このお犬さまは1匹単位で、阿吽の区別はありません。多くは口を閉じている吽形です。(「狐憑きを祓うおいぬ様信仰」より要約)
 
 
 
 
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2016/11/22

今日から二十四節気「小雪」、七十二候「虹蔵不見(にじかくれてみえず)」

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今朝の地震で目が覚めました。

揺れがけっこう長かったので、大きな地震ではないかと思ってテレビをつけたら、福島県には津波警報が出ていました。

現在(7:48)時点で、相馬市で90cmの津波が観測されています。まだ第2波、第3波が来る恐れもあるので気が抜けません。

福島第二原発3号機では、使用済み燃料プールの冷却装置が停止していることで、心配です。
 
 
 
今日11月22日からは二十四節気「小雪」の初候「虹蔵不見(にじかくれてみえず)」です。

北国では、すでに「小雪」どころか「大雪」が降っていますが、まだ関東地方に雪はありません。

掲載写真は、来年版の「旧暦棚田ごよみ」でも使うものですが、犬連れ日本一周の旅のとき、四国の内子町の弓削神社へ向かう途中、石畳集落付近で撮影したものです。

急に気温が下がってきたと思ったら、とうとう山の上には雪が降り始めたのでした。

その後、里にも雪が降り、みぞれ交じりの中を、内子町の旧市街を歩いたことを覚えています。

「虹蔵不見」は、「虹を見かけなくなる」などといった意味ですが、冬場は日の光が弱まるので、確かに虹をあまり見ません。虹は「夏」のイメージの方が強いですね。
 
 
 
 
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2016/11/20

認定心理士の資格をとって 「旅」は「総合的アート」

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ようやく認定心理士の資格認定証が手元に届きました。

認定心理士とは、心理学に関する標準的な基礎知識と基礎技術を修得していることを、日本心理学会が認定する資格です。

でも、この資格を取ったからといって、すぐに臨床心理士になれたり、心理学者になれたりするわけではなく、今やっている自分の仕事を心理学的な側面からサポートするものです。

だから俺の場合、写真と結びついた「芸術療法」、「表現療法」、「写真療法」といった精神衛生向上のアートセラピーとしての面、今【愛犬物語百景】で連載しているような伝説や昔話を、心理学的な面から解釈できる、といったことです。

こういう資格は、直接的メリットはないとしても、このように、自分がやろうとしていることの裏付けにはなるので、自信が持てるということはありそうです。期待してます。
 
 
さて、これは昔から感じていたことで、「表現療法(アート・セラピー)」に含まれると思うのですが、認定心理士になったので、「旅療法(トラベル・セラピー)」についてあらためて書いてみたいと思います。

9月から10月と、鹿児島県から青森県までヴィーノといっしょに旅したので、感覚としては、まるで日本一周したような充実感と疲労感を覚えたのですが、旅が、俺の精神衛生上、大切なものなのだということをあらためて感じながらの旅になったのでした。

「旅」が「アート」だなどというと反発を受けるかもしれません。

でも、旅は白いキャンバスの上に、旅の軌跡を描く絵画のような感覚なのです。そして実際、自分の旅をその絵画のイメージでとらえています。

そう考えると、旅は、心理学を基としたアート・セラピー(表現療法)という側面があると思います。机上の理屈を言っているのではありません。すでに書いているように、理屈ではなく、俺自身の実践から思いついたことです。

表現には、絵やコラージュや粘土や詩やダンスやいろんな表現が含まれます。いや、表現できる手段なら、すべて使えるということでもあります。

すべての表現は遊びに通じ、どんな手段を使うかは、その時々で変わってくるのも自然なことです。

それは子供の遊びを見ていてもわかります。手段はまったく気にせず、楽しいことをやろうとしているだけです。それが本来の「遊び」というものでしょう。

アートセラピーでは、作品の上手、下手は関係ありません。(旅に、「良い」も「悪い」もないことは幸いです) アートはその行為自体に癒しや心の活性化をはかる効果があります。

しかも、旅の途中で写真を撮れば、写真療法にもなるし、帰宅後、友人や家族に旅の話をすることも効果があります。

社会心理学者ジェームズ・ペネベーカー著の『オープニングアップ:秘密の告白と心身の健康』には、他人に個人的な情報を打ち明ける「自己開示」やもっと内面を語る「告白」というものが、心身の健康や社会適応にいい影響を及ぼすという研究結果があります。

このように、言ってみれば、旅はセラピーの面からみると、総合的なアートなのではないかと思っているところです。
 
 
 
 
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2016/11/19

【愛犬物語百景 其の九十五】 茨城県北茨木市 五浦海岸 忠犬ジョンの碑

161119_0(茨城県五浦海岸 六角堂)

161119_1(茨城県五浦海岸)

161119_2(茨城県五浦海岸 忠犬ジョン之碑)

161119_3(茨城県五浦海岸 忠犬ジョン之碑)

161119_4(茨城県五浦海岸 忠犬ジョン之碑 碑文)

161119_6(茨城県五浦海岸 東日本大震災で崩れた忠犬ジョン之碑)


茨城県は民間調査会社の魅力度ランキングで、最下位の常連です。でも、個人的には、茨城県には縁があって、何度も撮影に行っているし、魅力的な観光地もたくさん知っているので、このランキングにはちょっと疑問です。

北茨城市の五浦海岸も魅力的な観光地のひとつです。

五浦海岸は明治時代に岡倉天心たちが新しい日本画の創造に励んだ所です。現在の茨城大学美術文化研究所敷地内の「六角堂」は天心の思索する場所として作られました。

六角堂が真新しいのは、3.11の津波で流され、2012年4月に再建されたからです。茨城県も津波の被害がありました。

そしてここにもひっそりと犬像が建っています。

「忠犬ジョン之碑」ですが、見つけたのは偶然でした。震災前です。妻とヴィーノと3人で茨城県を旅行中、六角堂を見下ろす高台を歩いていると、松林の中にありました。

立派な碑で、台座の高さが1.8mほどもあって、その上にジョンの像が四つ足を踏ん張って立っているので、見上げる感じになります。だから股間を覗くかっこうになるので、図らずも雄犬だとわかりました。

それと舌を出しているのですが、そういえば、【愛犬物語百景】撮影中、舌を出した犬像は少なかったなぁと思います。だからジョンの舌出し犬像は珍しいものではないかと。

ところで、碑は高台にあるので3.11の津波被害は免れましたが、強い揺れによって、ジョンの石像は壊れ、頭と胴体と手足がばらばらになって台座の横に積まれていました。それが震災1年後の2012年4月19日に撮影した上の写真です。

今では、六角堂同様、この忠犬ジョンの碑もちゃんと修復されました。

さて、忠犬ジョンのことです。

あまり詳しいことはわかりません。市役所で聞いても、この碑については把握していないようでした。

碑文を要約すると、こんな感じでしょうか。

ジョンは賢くてとてもいい番犬だったので、それをねたんだ人に農薬を盛られ、死期をさとったジョンは主人の枕元で息絶えました。

憐れに思った主人は風光明媚なこの地にジョンを葬りました。

その後、忠犬のおかげなのか、花咲か爺さんのような幸運が舞い込みました。

忠犬ジョンの勇姿に接する人には、福が訪れるとのこと。この墓地を詣でて、ジョンの加護を受けましょう。

とあります。


碑が建てられたのは昭和30年(1955年)11月です。61年も前です。

その当時のワンコたちはどんなだったのかなぁと想像してみます。首から買い物かごを下げたお使い犬が、商店街を闊歩していた時代ではないでしょうか。

ジョンもそんな賢い犬の一匹だったのかもしれません。「いい番犬」とあるので、吠えることは吠えたんでしょう。農薬を盛った犯人は、何度も吠えられたのかもしれないですね。

碑文に「花咲翁」を持ち出しているのは意味深で、飼い主の「弔い合戦」にも思えます。

花咲かじいさんの話は、こんな感じだからです。

犬が畑で「ここ掘れワンワン」と鳴いたので、正直者の老夫婦が畑を掘ると、大判・小判がざっくざく。老夫婦は近所の人たちにも喜んで振る舞います。

それをねたんだ隣の強欲夫婦が、無理やり犬を連れ去り、財宝を探させようとしますが、掘って出てきたのはガラクタばかり。強欲夫婦は犬を殺してしまいました。

正直者の老夫婦は、死んだ犬を引き取り、庭に墓を作って丁重に弔いました。

最後には、夢で現れた犬の助言で枯れ木に花を咲かせて、大名から褒美を受けるのでした。

それと対照的に、犬を殺した強欲夫婦は罰を受けるという勧善懲悪の話です。

どうでしょうか。この昔話を持ち出した飼い主の思いを想像してしまいます。犯人の目星はついていたのではないかなと。

 
 
碑文は次の通りです。

「忠犬ジョンは資性怜悧にして能く番犬任を果し為めに主家をしてその守り堅きを誇らしめつつあったがその任に忠なる為にうかがうべき隙なきを憎みてか一夜農薬入りの食を与えし人あり

ジョンはその服毒の激痛に耐え夜の明くるを待ち怜悧にも己れの死期迫れるを知り未だに臥床中の主人の床に近づき告別の意を傅いて息断えたり

主人その死を憐れみ僧を招き厚く囘向し風光絶佳の此の地に懇ろに之を葬る

爾来今様花咲翁のそれの如く主家の幸運之より至る
之も忠犬の余念の存する為めならんと厚く讃ふ

以来當地に杖を曳く人名犬の死き憐れみこの墓地に詣ずる者多し

忠犬ジョンの勇姿に接する人には忠犬の守護あり

福運必ずその身に及ばん

意ある人迷ふ事なく来り詣でその加護を受けられん事を」
 
 
 
 
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2016/11/18

【愛犬物語百景 其の九十四】 北海道小樽市 消防犬ぶん公 「犬はパンのみにて生きるものにあらず」

161118_11(北海道小樽市 運河と倉庫群)

161118_12(北海道小樽市 「消防犬ぶん公」像)

161118_13(北海道小樽市 「消防犬ぶん公」像)

161118_14(北海道小樽市 「消防犬ぶん公」像のプレート写真)
 
 
北海道小樽市を訪ねたのも日本一周した2009年のことです。

小樽市といえば、運河の街として有名で、俺たちも運河のレトロな石造りの倉庫群などを観光していました。

犬連れだと特にですが、「犬」に関するものが目につきます。いや、「犬」に関するものを嗅ぎ分ける感覚が発達するのかと思うほどで、この小樽市観光物産運河プラザ前広場に立つぶん公記念碑を見つけたのも偶然でした。

犬像の碑文を確かめると、この犬は「消防犬ぶん公」という犬だとわかりました。像の台座にはありし日の消防車のサイドステップに乗るぶん公の写真プレートがはめ込められていました。

さっそくヴィーノを像の前に座らせて記念写真を撮りました。

さて、このぶん公の伝説とはどういったものなのでしょうか。調べてみました。

小樽市のHPに、「消防犬ぶん公」の紹介が載っています。

また、関西学院大学社会学部島村恭則ゼミのHPにも、「「火災都市」小樽と「ブン公」伝説」という詳しい記事もあります。

これらと像の碑文を参考にして概略を書いておきます。

「ぶん公」は火事の焼け跡で泣いていたところを助けられ、大正から昭和の初めころまで小樽消防署で大切に飼われていた犬です。白とコゲ茶のまだらの秋田犬に似た雑種の雄犬(最初は雌犬と誤解されていたようですが)でした。

ぶん公は火災が発生すると消防車に飛び乗って現場まで出動し、火事場では集まってくる野次馬の整理や、水を掛けるホースのもつれを直したりして大活躍しました。その活躍で子供たちの人気者になり、ラジオ・新聞でぶん公は消防犬として知られるようになりました。

また、火災報知機のベルの音が鳴るとぶん公は消防士たちに吠えて火事を知らせ、一番先にポンプ車のサイドステップに乗って出動を待っていたという話や、気をつけの号令のときに「ワン」と一番に吠え、隊員が「2」と号令したという、ホントかいな?と笑ってしまうようなエピソードも残っています。

ぶん公の出動回数は1000回にも及びました。

歳をとってからは、出動のベルが鳴っても消防車に乗ることができなくなりました。そして昭和13年(1938年)2月3日、たくさんの人々にみとられて亡くなりました。

翌日には葬儀が営まれましたが、棺の前には「小樽消防犬文公之霊」という塔婆が建てられました。ぶん公の功績を記念するために剥製にされ、しばらくは小樽市消防団本部に飾られていましたが、後に小樽市立博物館に保存されるようになりました。

24年間生きたといわれる「ぶん公」は、人間の年でいえば100歳まで生きたことになります。

それにしても1000回も出動したというのはすごいですね。

逆に言うと、ぶん公の出動回数からみて、かつて小樽は大火が発生しやすい火災都市だったということでもあったようですが。

ぶん公自身は火事の深刻な状況をわかっていなかったかもしれませんが、消防隊員といっしょに活動するのが嬉しかったのでしょうね。生き生きと動き回わるぶん公の姿が目に浮かぶようです。

自分のやることが人からも受け入れられるのは嬉しいものです。仕事をしたいのです。「自己表現」といってもいいかもしれません。動物は活動してこそ動物です。

「犬はパンのみにて生きるものにあらず」

なのです。「生きている」ことを実感したいから活動するのは人間も同じです。

ぶん公には、子孫がいたという話もあります。

1958(昭和33)年1月4日の北海道新聞では、ぶん公は雌犬で子犬を生んだという間違った情報も出たらしいですが、ぶん公の子どもと思われていた子犬がいたのは事実らしく、北海道新聞(小樽版)2006年(平成18年)年3月10日版にはこうあります。

新井田さん(父親が小樽消防署で働いていた)は子犬を飼ったそうですが、父親から「ぶん公の子どもだから賢いよ」と言われ、家族で親と同じ「ぶん公」と呼んでかわいがっていたそうです。

その二代目ぶん公の「子ぶん」は、昭和14年(1939年)(初代ぶん公の死後1年)、新井田さんが引っ越ししたとき、行方不明になってしまいました。

ところで、初代ぶん公は雄犬だったので(雌犬と誤解されていましたが)、「子ぶん」がぶん公の子どもかどうかは今となってはわからないそうです。雄犬ならとくにそうでしょう。

新聞でも「雌犬」と誤って書かれるほどなので、雄雌がわからない何か特別の理由はあったのでしょうが。たとえば、事故か何かでオチンチンがなかったとか。(この件に関しての情報はまだ探せていません)

「消防犬ぶん公記念碑」建設の中心になったのはかつて消防団副団長として活躍されていた木下合金の木下会長でした。「お世話になった小樽市に何か恩返しをしたい」と考えていたとき、ぶん公の存在を思い出し、消防・防火の意識を多くの人に感じてもらうためにぶん公の銅像を造ろうと決めたそうです。

平成18年2月、ぶん公の死後68年目の命日に、元小樽市消防団在籍の人たちが中心となり、「消防犬ぶん公記念碑建設期成会」を発足させました。多くの人から募金が集まりました。そして同年7月21日にぶん公記念碑の除幕式が行われました。

なお余談ですが、昭和36年、消防署に一匹の犬が迷い込んできたので飼うことになりました。ゴローと名づけられた犬は、二代目消防犬として可愛がられたそうです。
 
 
 
 
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【愛犬物語百景 其の九十三】 北海道南富良野町 忠犬ハチ公の碑

161118_4(北海道南富良野町 幾寅駅(映画では幌舞駅))

161118_1(北海道南富良野町 道の駅「南ふらの」のドッグラン)

150310_1(北海道南富良野町 幾寅峠ハチ公之碑)

161118_2(北海道南富良野町 幾寅峠ハチ公之碑)

161118_3(北海道南富良野町 鳥獣魂碑)


南富良野の「忠犬ハチ公」の像を訪ねたのは、日本一周していた2009年のことです。あらためて【愛犬物語百景】として取り上げたいと思います。

南富良野には映画『鉄道員(ぽっぽや)』の中で、「幌舞駅」として登場するJR北海道根室本線の「幾寅駅」があります。駅舎は映画のために改装されているそうですが、木造の駅舎は魅力的です。

幾寅駅から北へ1kmほどいったところに、道の駅「南ふらの」があります。道の駅には、ドッグラン「ワンちゃん広場」が併設されていました。

「ドッグランでワンちゃんの旅の疲れを癒してあげてください」というようなことが書かれており、やけに犬に優しい道の駅だなぁと思いました。全国の道の駅を泊まり歩いている身ですが、今も、ドッグランのある道の駅は少ないと思います。

ヴィーノをこのドッグランで遊ばせた後、観光案内の看板地図を眺めていると、この近くに、「忠犬ハチ公の碑」というのがあることがわかりました。

「どうしてここにハチ公の碑が」?と不思議に思ったものです。この「ハチ公」とは渋谷の「ハチ公」だと思い込んでいたからです。

ところが、この「ハチ公」は、渋谷の「ハチ公」とはまったく関係のない犬だと分かりました。

南富良野町の国道38号線の樹海峠(碑には幾寅峠と書かれていますが)に、「鳥獣魂碑」と「幾寅峠ハチ公之碑」は建っていました。

あるとき、この幾寅峠に薄茶色の北海道犬が姿を見せるようになりました。その迷い犬は、通り過ぎる車や人を眺めながら、ひたすら主人の戻るのを待っているようでした。

幾寅の住民がこの迷い犬を見守っていました。でも、昭和50年1月18日、その迷い犬は除雪作業車に轢かれて死んでしまったそうです。

のちに全国の愛犬家の人たちがお金を出し合ってこの碑を建てました。

台座の上に立つ御影石に、彫った犬の絵があります。尻尾が太くて、首輪をしています。

「迷える忠犬の碑」の碑文には、

「この坂道を下れば心あたたかい人里あり、遠く望むれば北国の雄大な原始の姿蘇る   雪深き昭和50年1月18日、一頭の迷えるうす茶色の北海道犬ここ幾寅峠に歿す   麓の里にひとときのねぐらも 一片の糧も求めんとせず通い来る人々の愛と恵みに支えられ一年有余に亘り 何故か道行く車を見つめつつ只ひたすらに恩のある主人のみ慕いて迎え来る日をここに待つ   主よ何処に 悲哀なるその姿 死せる今なお脳裏離れず ■の絆 永遠に断ち難し   この忠犬の在りし日を偲び世の心ある人々の志を得てここに碑を建立す」

と、あります。

完全に飼い主がわからない迷い犬に対しての慰霊碑というのも珍しいかもしれません。たいていは、誰かが可愛がっていた愛犬とか、盲導犬やセラピー犬といった、有名な犬の像や碑が多いからです。

でも、この「北の国と南の島」というHPには、当時の思い出としてハチのことに触れていて、碑が建ったいきさつがわかりました。

「その犬のことは、地元の北海道新聞にも写真入りで記事になり、飼い主に置き去りにされたので、じっと飼い主の帰りを待ち続けているらしいと書いてあったように記憶しています。そのため、忠犬ハチ公と呼ばれるようになりました。」

まぁ、最終的には新聞に載ったのですね。それじゃぁ、もう無名犬ではなく有名犬なわけです。名前も同じで、新聞で有名になり、碑が建ったといういきさつも渋谷の忠犬ハチ公と同じです。

ところでこれは、40年くらい前の話です。迷い犬とは言え、住民に見守られ、1年あまりそこで暮らしていたのだから、「野犬」とはいえず、立派な「里犬(地域犬)」といってもいいでしょう。

今ならどうでしょうか。そのまま見守ってあげられるのでしょうか。「里犬(地域犬)」も存在するのが難しい世の中です。

新聞に載ったとはいえ、碑を建ててもらえたというのは、それだけ愛されていたんだという証拠でもあるだろうし、「里犬(地域犬)」冥利につきるでしょう。
 
 
 
 
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2016/11/17

【愛犬物語百景 其の九十二】 群馬県太田市 石原賀茂神社 例幣使一行を助けた「救命犬之像」

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群馬県太田市の石原賀茂神社には、例幣使一行を助けたという「救命犬之像」があります。

石原賀茂神社は国道122号線太田バイパスの交差点「東長岡」を少し東へ入ったところにあり、ちょうど出勤通学時間帯だったので、車と人で混雑した中での撮影になってしまいました。

この神社は、「鳥居のない神社」と」しても有名です。入り口にはその碑も建っているくらいで、「ナニコレ珍百景」などテレビでも紹介されました。

二本の柱が立っていますが、てっぺんはしめ縄で結ばれているだけです。

犬像は、社殿を正面に見て左側にあります。もっといかつい犬を想像してきたのですが、かわいらしい犬像です。「鳥居がない」ことには、この犬が関係していました。

平成18年(2006年)に建立されたこの「救命犬之像」の後ろには、「鳥居の無い由来の碑」があります。それによると、

「徳川のむかし、京都を発した日光御礼参の例幣使の行列が道中の安全祈願をかねてしばらく賀茂神社の境内で休んでいる時、にわかに一匹の犬が激しく吠えはじめた。

不審に思った供侍が吠えたてる犬を追い払おうとして何度も何度も制したけれど犬はなお激しく訴えるように吠えたてて逃げようともしなかった。怒った供侍はとうとうこの犬を切り捨ててしまった。

すると意外なことに胴をはなれた犬の首は空に飛び上った。あれよと人々が見上げると犬の首は鳥居の上の大蛇に噛みついた。たまたま鳥居下に休んでいた例幣使に犬は大蛇のいる危険を知らせる為に盛んに吠えたのだった。

例幣使は自分を助けようとして吠えたことがわかった。このため日光から帰ってくるまで犬の供養をして塚をこしらえておくようにいってこの神社を去った。

そこで犬を供養しその上に石尊様をまつった。この為村では鳥居があったので蛇がそこへあがったということで神社の鳥居をはずしてしまい今もないのだという。」

鳥居がないのは、こういう理由だったのですね。へ~。

ところで、「例幣使」とは何なのでしょうか?

徳川家康の没後、東照宮に幣帛(神への供物)を奉献するための勅使だそうで、一行が通ったところが日光例幣使道と呼ばれる街道です。

「犬が猛烈に吠えるので首を切られ、その首が蛇に噛み付いて人を助け、助けられた人が後悔する」というパターンの伝説は全国各地にあるようです。

古くは室町時代、15世紀前半にできた説話集『三国伝記』に出てくる「小白丸伝説」でも犬が誤解されて殺されてしまうというのがあるそうです。

図を想像するとすさまじい。地獄絵図のようでもあります。

Wikiには、もっとすごい話が。

犬の怨念を利用した呪術について載っています。犬好きが聞くと卒倒しそうな方法ですが、食べ物に飢えた「犬頭」を使うというものです。そういう「犬頭」のイメージも何かこの伝説には関係しているのでしょうか。

いろんな解釈ができると思うのですが・・・。

類型化した伝説は歴史的事実というより、もっと人間が共通して持っている普遍的無意識を表したもの(だから夢にも似ている)、と心理学的には考えることもできると思います。

賀茂神社の場合は、日光例幣街道という地理的なものと類型化した話がくっついたのでしょう。

その類型化した話が表す、人間の深層心理とは何でしょうか。

これは伝説ですが、現代の教訓話としてみても、似たようなことはあるかもしれません。

たとえば、「他人の耳の痛い忠告を煩がって、その人を遠ざけたけれど、何かトラブルが起きて、忠告されたとおりになってしまった。自分のために忠告してくれていたんだとわかっても、後の祭り。その人は自分の元から去ってしまって後悔する」などという話は、ありそうではないですか。

本当の忠義とは何なんだろう?と考えさせる話でもあります。

ここで犬が登場し、忠義の象徴になっているのは自然なことのように感じます。自己犠牲の精神で飼い主を助ける忠犬の話は、全国各地にたくさんありました。

そしてもうひとつ、皮肉というか、戒めというか・・・。

犬は首を切られてまで忠実に主人を守ったのです。ところが主人は、犬を信用していなかったという話でもあります。
  
 
 
 
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坂本長利さんの1180回目の公演 「米寿記念公演 独演劇『土佐源氏』」

160403_4(2016年4月 埼玉県浦和、楽風での公演)


先日、座・高円寺2で行われた、坂本長利さんの「米寿記念公演 独演劇『土佐源氏』」を観てきました。初演から今回で1180回目の公演だそうです。

最期のあいさつで、「演じている男の年齢を越えてしまいました」と笑っていましたが、ますます男と坂本さんとの「一体化」が進んで、ほとんど芝居とは思えない領域に達しています。

『土佐源氏』は俺はこれで3回目ですが、前回は写真撮影していたので(↑の写真)、ゆっくり観ることができませんでした。今回はじっくり坂本ワールドに浸ることができました。

同じ独演劇のはずですが、新しい発見もありました。

民俗学者・宮本常一さんが、昭和16年の冬、高知県梼原村で聞き取った話で、『忘れられた日本人』に収められています。

ひとりの盲目の老人の口から語られるのは、楽しくて明るい色彩豊かな世界なのです。これには驚きます。

あまりによくできた話なので、これは宮本氏のねつ造ではないか?と疑われるほどでした。

馬喰(ばくろう)をしていた男の女性遍歴の語りですが、なぜか女にはモテた(懺悔も含まれる)、という話なんです。

結果、自慢話なのですが、自己分析も面白いのです。

「牛と女子(おなご)にだけは嘘をつかなんだ」

「牛と女子(おなご)の尻はなめる」

相手の宮本さんに、「あんたも、女子をかまったこと、ありなさるじゃろ?」と聞きます。そして、女子はどんなに身分が高かろうが、やさしさを求めているんだという意味のことを語るのでした。

何もない自分がなぜ女にだけはモテたか、真理をついていた自己分析といってもいいでしょう。

ところで、当時の牛に対する人間の接し方もすごいと思いました。牛を手放す時は、牛に赤飯を食べさせ、酒も飲ませたのだという。人間と同じ様な扱いをして別れたのですね。

このあたりの話は、西洋の「動物を管理する」という発想とはまったく違う、当時の日本人と動物(家畜)との関係性がよくわかるエピソードだと思います。
 
 
もうひとつ印象的なセリフがありました。

「百姓は石を金に換えてくれる」

という言葉です。

馬喰の話は牛をなんとか高値で売ろうとするので、嘘が8割くらいになってしまうのだそうです。ただ、牛を百姓に渡して育ててもらう、そうすると、百姓はいっしょうけんめいに育ててくれるので、牛の価値が実際に上がる。だから結果的に、馬喰の嘘は3割に減る。そんな内容です。

つまり優秀な百姓がいなかったら、馬喰としての生活は成り立たなかった。深いところで、男が百姓に感謝していたことを感じます。

そしてこの話を採取し、選択し、発表したという行為は、日本全国の百姓たちに対する、宮本さんなりの感謝や尊敬のメッセージでもあったのではないでしょうか。
 
 
 
 
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【愛犬物語百景 其の九十一】 青森県弘前市 大狼(おおかみ)神社

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青森県弘前市に「大狼(おおかみ)神社」がありますが、名前に引かれて訪ねてみました。

場所は弘前市の南、大和沢です。 

大狼神社の名前の由来は、「大神」から転化したという説、付近の地名「狼森(おいのもり)」からきている説があるようです。

一の鳥居を入って急な階段を上って行くと、境内に至りますが、途中に「熊出没注意」という看板が目に入りました。

最近では市内にまで熊が出てきて、人にも被害が出ているというニュースが多く、この看板は、けっこう刺激的です。

番犬であるはずのヴィーノも下の車に残しているし、人気はまったくなくて、ちょっと怖くなりました。

社殿の横に由緒書きの看板が立っています。

「昭和29年に大和沢地区にある稲荷神社の分神として建立された。家内安全、護国豊穣、交通安全、厄払いと町内の守護神として奉られているが、特に合格祈願に御利益があるといわれている」

とありました。

御祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)で、稲荷神社の分神。だから狛犬が狐なんですね。名前の先入観から、犬でも、狼でもなかったことに、少し残念な気が。

尻尾が太い一対の狐狛が鎮座していますが、台座には「金婚式記念」の奉納とあります。

このあたりに狼(山犬)がたくさん棲んでいただろうという雰囲気はいまだにありますが。

なお、ここから東北自然歩道が延びていて、山頂には「陸羯南詩碑」があるそうです。陸羯南は、弘前出身の新聞記者、思想家。欧化主義に反対し、国民主義を唱え政治評論で活躍した人物。
 
 
 
 
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2016/11/16

【愛犬物語百景 其の八十四〜九十】 秋田県大館市 大館駅、秋田犬会館、市役所、八幡神社、橋の秋田犬像

161115_2(大館駅前の忠犬ハチ公像)

161115_3(大館駅前の秋田犬の群像)

161115_1(大館駅 観光案内所)

161115_4(秋田犬会館 望郷のハチ公像)

161115_6(秋田犬会館)

161115_7(秋田犬会館)

161115_8(秋田犬会館)

161115_10(秋田犬会館 忠犬ハチ公像)

161115_11(市役所入口のポスト)

161115_12(八幡神社)

161115_13(八幡神社 秋田犬の狛犬)

161115_14(八幡神社 秋田犬の狛犬)

161115_15(二井田大橋の秋田犬像)

161115_16(二井田大橋の秋田犬犬像)

161115_17(西大橋の秋田犬像)

161115_18(西大橋の秋田犬像)


大館市は秋田犬の故郷というだけあって、市内の大館駅、秋田犬会館、市役所、八幡神社、二井田大橋、西大橋など、ハチ公や秋田犬をテーマにした銅像・モニュメントなどが点在しています。

まずは大館駅前。

数年前日本一周したときも来ていますが、今回もせっかくヴィーノを連れているので、また「忠犬ハチ公像」や「秋田犬の群像」といっしょに記念写真を撮りました。「もうやめてくれ」と、ヴィーノはうんざりしているんでしょうが。

ハチ公銅像の除幕式は昭和62年11月14日に行われました。この時、国立科学博物館の好意によって剥製のハチ公も列席しました。

なお、ハチ公像の近くに「秋田犬群像」がありますが、これはハチ公像よりも前、昭和39年5月に造られた、ハチ公の若いころの姿を表したものです。

駅の中には、観光案内所があって、秋田犬像が迎えてくれます。ここで昨日アップした「多茂木神社」や「老犬神社」についての情報を仕入れました。
  
 
そのあと、秋田犬保存会が運営する「秋田犬会館」へ向かいます。会館門の前には「望郷のハチ公像」が立っています。

昭和20年(1945年)、太平洋戦争の金属回収令によって初代ハチ公像は回収されてしまいました。平成16年10月、保存されていた初代ハチ公像の台座に60年ぶりにハチ公像ができましたが、これが会館前の「望郷のハチ公像」です。晩年のハチ公の姿を表しています。

会館の玄関で秋田犬がお出迎えをしてくれます。クロベーという名前のこの秋田犬は1歳2か月の雄ですが、おとなしい性格です。

あとでヴィーノを連れてきて会わせてみました。吠えるようなことはなかったのですが、ヴィーノはクロベーにはあまり興味がないようで、反応は薄かったですね。

博物室には、秋田犬についての写真、像、パネルなどいろいろな資料が展示されています。記念スタンプが数種類あります。秋田犬好きには必見の博物室です。

昨日も書きましたが、秋田犬は、狩猟(マタギ)には絶対欠くことのできない伴侶でした。番犬としても飼われていましたが、徳川時代から大正期まで、闘犬も行われたそうです。それで雑種化が進み、日本の伝統的動植物が失われていくことを危惧した世論を背景に、昭和6年、日本犬では最初に天然記念物に指定されました。

「東京渋谷のハチ公像が、大館市に引っ越しするという話がありますが、決まったのでしょうか?」

とスタッフに聞きました。それは渋谷の再開発に伴って忠犬ハチ公像が、工事中、一時的にどこかに移設されるというニュースの中で、その移設先候補に大館市の名前が出ていたからです。

スタッフは、

「まだですね。そういうことは聞いていますが」

もし、それが実現すれば、ハチ公の里帰りになるので、大館市の人たちはそれを望んでいるようでした。

秋田犬会館のHPはこちらです。
 
 
次は、大館八幡神社へ。

慶長15年(1610年)創建の大館八幡神社の本殿2棟が、由緒も明確で文化的価値も高く、東北地方の近世の社寺建築を代表するものとして、昭和43年秋田県有形(重要)文化財の指定を受け、平成2年には国指定重要文化財になりました。

狛犬は、2対鎮座していますが、そのうちの1対が、秋田犬の姿をしています。堂々とした姿は、由緒ある神社にふさわしい重厚な雰囲気です。

他に、秋田犬会館のスタッフに教えてもらい、市内各所の秋田犬像を撮影して周りました。

市役所入り口のポストの上に立っている秋田犬像。

米代川の支流にかかる二井田大橋には、車道を挟んだ両側に秋田犬像が建っています。

ひとつは飛び上がった母犬と子犬2匹の犬像「秋田犬の親子像」で、もうひとつは少女と戯れ、飛び上がった姿の犬像「秋田犬と少女の像」。青空に飛んでいくような躍動感があって好きな犬像です。

彫刻家・松田芳雄氏の作品です。大館駅前にある「忠犬ハチ公像」、秋田犬会館の「望郷のハチ公像」を製作したのも松田氏です。

松田氏は犬好きでした。どん・石松・さき・ちび・わか・ひめ、ほたるなど、アトリエには常に犬がいて、松田氏は犬との暮らしを楽しんでいたそうです。犬の個性が一番現れた瞬間を形にできたのも、犬との暮らしがあったからでしょう。

市内には、これ以外にも犬像はあるようですが、数が多くて今回は周り切れませんでした。
 
 
 
 
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2016/11/15

今日の月は、超スーパー十六夜(いざよい)

161115

昨日の夜は雨で見れませんでしたが、今夜は、晴れています。

旧暦は十月十六日。

なので、月は「超スーパー十六夜(いざよい)」です。「不知夜月(いざよいづき)」とも呼ぶそうです。

68年ぶりの月の大接近です。さすがに明るく感じます。

掲載の写真は、埼玉県狭山市、夜21:57ころ撮影のものですが、少し雲がかかっていたので、月の周辺がぼんやりしています。
 
 
 
 
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【愛犬物語百景 其の八十一〜八十三】 秋田県大館市 多茂木神社の犬神様、老犬神社の忠犬シロ、忠犬ハチ公の生家

161114_1_2(大館市 多茂木神社)

161114_2_2(大館市 多茂木神社)

161114_3_2(大館市 老犬神社)

161114_4_2(大館市 老犬神社)

161114_5_2(大館市 老犬神社)


161114_6_2(大館市 老犬神社)

161115_19(大館市 忠犬ハチ公の生家)

161115_1020(大館市 忠犬ハチ公の生家前の「ハチ公トイレ」)


秋田県大館市は、忠犬ハチ公が生まれた町でもあり、秋田犬の故郷です。

郊外の2つの神社には犬にまつわる伝説が残っています。

多茂木神社と老犬神社です。

まず、多茂木神社に残る伝説について、秋田県立図書館のHP「犬神様」から引用させてもらうと、

「昔、長走部落には守護神がなかったので、ある年、弘法大師が巡歴したとき、「神様を授けてください」とお願いした。

それから半年ほどして、めずらしい1匹の白い犬が村に来て、はずれの多茂木(たもき)の洞穴に住むようになった。村人たちは、この犬を犬神様と呼んでていねいに扱った。

ある年の夏、大日照りが続き、川は干上がり、田面が裂けるようになったので、犬神様にお願いに行った。すると、「私たち親子を祀ってから、あの滝壺の中に投げてくれ」と言ったが、犬神様を生きたまま投げることはできなかった。

その話を聞いた山師たちは祀りもしないで、親子の犬を滝壺に投げてしまった。すると大雨が降り、大洪水となった。しかし村の田畑には被害がなく、大豊作になったが、山師たちの木材は流れるどころか、川底に沈んでしまった。

村人たちが川底を探したら、犬の親子が抱き合っているような形をした立派な石があったので、これこそ犬神様の化身であろうと拾い、祀ることにした。これが多茂木神社で、村人たちは犬神様として今でも信仰している。」

という物語です。

多茂木神社は、市内から北へ10kmほど行った山際にある集落、長走にあります。大きな神社ではありませんでしたが、立派な狛犬が奉納されています。尻尾が太くてピンと立っているのは、犬っぽいのですが、どうなんでしょうか。

山の方からきれいな水が流れている水路があって、地元のおばさんが畑から採ってきた野菜を洗い始めました。昔からこの水路で洗い物をしていたそうで、かつては飲み水としても利用していたということです。

おばさんによると、この神社には馬頭観音も祀られていて、お犬様も祀られているのはもちろん知っていますが、ご神体は見たことはないそうです。

旧暦の4月1日には、紅白の餅をついて、犬神様や馬神様にお供えします。他に、新暦の正月のとき、大晦日と元旦にも神社を開けて、地元の人が集まっているそうです。
 
 
 
もう一カ所は、老犬神社です。

老犬神社は、大館市葛原の山腹にあります。一の鳥居からうっそうとした山道を上って行きます。本当にこの先に神社などあるのだろうかと、少し不安になったとき、大木の間に神社の屋根が見えてホッとします。

現在の社殿は昭和11年7月18日未明の火災で焼失した後改築したものです。

老犬神社には「シロ」という忠犬物語が残っており、そこに登場する「シロ」が祀られている神社です。この物語は実話であるとされています。その証拠に物語に登場する狩猟免状などが今も残されています。

大館市のHPには、「老犬神社(ろうけんじんじゃ)」にまつわる忠犬シロの伝説について書いてあります。

「その昔、鹿角市大湯(旧南部領)に代々定六と名乗るマタギが居り、先祖の功によって領主から天下御免の狩猟免状(他の領内はもとより、寺社内でも猟が認められる書状)が与えられていました。定六には、シロという飼犬がいて、狩猟のよき協力者でした。

ある寒い冬のこと。定六とシロはカモシカを追って、鹿角境を越え三戸城の近くまでいきましたが、獲物を見失い落胆していました。愛犬シロに励まされ帰路につこうとした矢先、突然数人の男に取り囲まれました。男達は三戸領の役人で、領内で発砲した罪で定六を捕らえに来たのです。定六は天下御免の狩猟免状を見せようと懐中に手を入れようとした瞬間、不覚にもその日に限って、狩猟免状を忘れて来たことに気付きました。日頃無口であった定六が一心に事情を釈明したものの、聞き入れてはもらえず、定六は役人たちに強引に捕らえられ投獄されてしまいました。

捕らわれた定六は、免状を取ってくるようシロに繰返し語りました。するとシロはブルブルと大きく身震いし、暗闇の中に消えて行きました。

シロは家にたどり着くと、定六の妻に向かってせわしなく吠えましたが、彼女には何のことか判りませんでした。

再び定六の元へ戻ったシロに、定六は免状を取ってくるようその場所を何度も語りました。そしてシロは疲れた体を休めることなく、また十幾里の雪の山河を家へと駆け戻り、免状の置き場所である仏壇の下で激しく吠えました。ようやく定六の妻は免状のことと思い当たり、慌ててそれをシロの首に結び付けました。

しかし、シロが精魂を尽くして三度、定六の元へ駆け戻ったときには、すでに定六は処刑されており、亡骸が無惨に横たわっていました。

その夜以来、森の山頂からは幾夜幾日となくシロの悲しい咆哮が三戸の城下に響きました。やがて、この地方には天変地異がおこり、定六の処刑に関連した人々は無惨な死を遂げたといいます。

その後、所払いを受けた定六の妻とシロは秋田領十二所館に近い葛原に移りましたが、いつからかシロの姿が見えなくなり、ある日白骨化した死骸が近くの丘で発見されました。この後、武士が馬でこの丘を通りかかると突然馬が暴れだし、落馬して大けがをする、ということが幾度となく繰返されたため、村人は主を殺した武士に対するシロの怨念だと恐れ、供養しようと山腹に神社を建ててシロを祀りました。」

必死で戻ったシロでしたが、主人は処刑されたあとだったんですね。悲しい話です。

このあと、北秋田市の阿仁マタギの里を訪ねたことはすでに書いたとおりです。

犬とマタギは切り離せない間柄です。

資料館には、マタギの由来と権利を記した巻物「山立根本之巻」が展示されていました。これを持っていれば、藩を越えても山で猟ができたというものですが、定六が忘れて、シロが必死に届けようとしたのも、この巻物でした。
 
 
 
忠犬ハチ公も秋田犬ですが、ハチ公の生家も大館市にあります。

大正12年11月にこの斎藤義一宅で生まれ、生後50日ころ上野博士のもとへ送られたそうです。

家の前には、ハチ公像と碑が立っていますが、道を挟んだ反対側には、「ハチ公トイレがあります。犬型をした建物で、遠くからでもわかるユニークな公衆トイレです。観光客のためなのでしょうか。
 
 
 
 
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2016/11/14

【愛犬物語百景 其の八十】 長野県駒ケ根市 霊犬早太郎の像

161114_1(早太郎が描かれている光前寺の看板)

161114_2(本堂前の霊犬早太郎の像)

161114_3(霊犬早太郎の墓)

161114_4(奉納された犬像と「しっぺい」のメダル

161114_5(霊犬早太郎の像)

161114_6(霊犬早太郎の像)

161114_7(早太郎土鈴)

161114_8(「護摩焚き祈願ごま」の飴)

161114_9(早太郎温泉 「こまくさの湯」)


静岡県磐田市のキャラクターになっているのは「しっぺい」ですが、「しっぺい太郎」伝説から生まれたもので、磐田市の見付天神には「しっぺい太郎」の像が建っているということは、すでに書いています。

静岡県磐田市 イメージキャラクター「しっぺい」とは?

その「しっぺい太郎」は、信州赤穂村(今の駒ケ根市)光前寺に飼われていた名犬で、若い娘を人身御供に要求する怪物(一説にはヒヒ・大猿)を退治ししました。

光前寺では「早太郎(はやたろう)」と呼ばれている霊犬のことです。

駒ケ根市のHP、光前寺のHP、この「霊犬早太郎伝説」が載っています。

伝説の概要は、次のようなものです。

700年ほど昔の話。

光前寺和尚さんは灰色の犬を「早太郎」と名付けてかわいがっていました。

ある日、お寺の裏山に恐ろしい怪物が出てきて子供をさらおうとしたとき、早太郎は風のような速さと、すごい力で怪物と闘って子供を助けました。

その頃、遠州(静岡県磐田市)では田畑が荒らされないようにと、毎年祭りの日、娘が生け贄として神様に捧げられる人身御供が行われていました。

ある年、村を通りかかった旅のお坊さんは、その正体をみとどけることにしました。祭りの夜に様子をうかがっていると、大きな怪物が現れ、「今晩、信州信濃の早太郎はおらぬか。このことばかりは早太郎に知らせるな」と言いながら、娘をさらっていきました。

お坊さんは一日も早く信州信濃の早太郎を探そうと思い、旅をしている六部という人に頼みました。六部は早太郎探しの旅に出かけ、ようやく光前寺の早太郎をさがし当てると、早太郎をかり受け、急いで遠州へと帰りました。

次の祭りの日には、早太郎が娘の身代わりとなって怪物(老ヒヒ)と戦いました。翌朝、村人が見に行ってみると 早太郎の姿は見えず、老ヒヒが血まみれになって死んでいました。

早太郎は怪物との戦いで傷を負い、血まみれのまま、光前寺までなんとかたどり着くと、和尚さんの前にきちんと座り、じっと和尚さんの顔を見ていましたが、「ワン」と一声ほえると倒れて死んでしまいました。

和尚さんは死んだ早太郎の体をやさしくなでながら「早太郎、よくたたかったな」とほめてあげました。そして杉の木に囲まれた本堂の左横に穴を掘り、永い眠りにつかせてあげました。

こういう伝説です。

実は、この霊犬早太郎と似た伝説は、磐田市だけではなく東日本に点在していて、たとえば、山形県鶴岡市の椙尾神社に伝わるのは「めっけ犬」、天童市の妙見神社に伝わるのは「べんべこ太郎」、栃木県佐野市の「ちょっぺ太郎」などあります。

こういう話の類型は、化け物から美女を救う話で、「滅怪(めっけ)」(妖怪退治)伝説というそうです。

駐車場から仁王門を入り、参道を進んでいくと三門がありますが、現在屋根の葺き替え工事中で、白いカバーがかけられています。

三門を抜けて階段を上がると本堂です。木彫りの早太郎の像が鎮座しています。

社務所には、「早太郎ちりめん守り」、「不動明王梵字入り早太郎守り」、「早太郎ツゲ根付守り」など、様々な早太郎お守りがありましたが、今回は茶色い早太郎土鈴をいただきました。

本堂から左へ進んでいくと、早太郎の墓があります。団子状の丸い石が重なった墓で、手前に小さい犬像が置かれています。「霊犬早太郎六百年供養塔」と碑が立っています。

墓の周りには奉納されたたくさんの犬像があって、磐田市の「しっぺい」のメダルがかけてありました。「しっぺい」の里帰りですね。

高さ17mの三重塔の手前に2mほどの台座に乗った霊犬早太郎の像がありました。

寺を出て門前の土産物屋を覗いてみると、早太郎が描かれた参拝記念の土産の飴がありました。「護摩焚き祈願ごま」と書かれています。ゴマ味がおいしい飴です。

また近くには早太郎温泉があると分かったので、入ることにしました。いくつか温泉施設がありますが、その中で日帰り温泉「こまくさの湯」に行きました。遠くに南アルプスを望む露天風呂もあり、ゆったりと温泉を楽しむことができます。

早太郎は市のキャラクターになっているのでしょうか。

それを知るべく最後に市役所を訪ねました。

2003年に行われた「KOMA夏」というイベントをきっかけに生まれた駒ケ根市のキャラクター「ALL STARS」があり、そのメンバーの中に「SPEED太郎」と「ヒッヒー」というキャラクターがいます。

もちろん「SPEED太郎」は霊犬早太郎の生まれ変わりで、「ヒッヒー」は伝説の遠州見付村の怪物(老ヒヒ)がモデルです。

早太郎伝説については、市民はみんな知っている馴染みの物語で、たとえば、保育園では紙芝居で教えているとのこと。市民に愛されている早太郎なんですね。

昔は、見付村の人々を助け、現代では、駒ケ根市民を楽しませているようです。
 
 
 
 
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2016/11/13

トランプ次期大統領の差別発言

160301


トランプ氏が次期大統領に決まりました。

みんな衝撃を受けています。専門家は予想を外し、面目を失っています。

だいたいにして、専門家と言われる人たちは、過去のデータの蓄積があるので、それに縛られてしまうからでしょう。新しいことに対応できないのです。

ここ数年、専門家の「想定外」に、何度煮え湯を飲まされてきたか。俺たちは「専門家」と言われる人々に対して警戒しなければなりません。

さて、トランプ氏と言えば、暴言の数々。大統領と決まった途端、借りて着た猫状態になった感じがして、早くも投票した人には失望感が漂っているのかもしれませんが、とくに彼の差別発言は、これからもあとを引くようです。

トランプ氏にお墨付きをもらったかのごとく、移民やマイノリティーに対する差別はエスカレートしています。

でも「トランプ氏が差別発言をしている」と批判している人の心の中はどうなのでしょうか。本当に差別をしない人たちなんでしょうか。

社会心理学者のゴードン・オルポートの心理学実験があります。スーツを着た黒人と、手にナイフを持った作業着の白人が、地下鉄車内でもめているような絵を見せます。

それを「どんな絵だったか?」と伝言ゲームのように伝達してもらう実験をすると、黒人と白人が入れ替わってしまうというものです。ナイフを持っているのは黒人に違いないという思い込みというか偏見が、白人の心の底辺にしみこんでいます。

「白人」とか「黒人」とか、「見かけ」が偏見や差別の原因の大きなポイントであるらしい。

「見かけ」というのが大きいのです。でもこれは、人間が生物として生き残るために獲得してきた、瞬間的に敵か味方を判断する方法でもあって、かならずしも「見かけ」で判断することが悪いわけではないところが、やっかいなところでもあるわけです。

見かけが「違う」と判断するだけなら「区別」ですが、「差別」は根拠のない理由で不当な扱いをすることです。

「いや、私は人を差別しません」と断言する人ほど、無自覚な、無意識的な差別には鈍感だったりするんですよね。「差別したくありません」ならわかるのですが。

以前書いた映画『クラッシュ』の登場人物はそんな無自覚な、だからこそ悲劇的な結末を迎える青年でした。

「イケメン」とか「美人」とかも、見かけによる判断をしているという意味では同じ差別、偏見につながっているということでしょうし。「私はいっさい差別したことがありません」などという人を、俺は信用しません。(と、いう俺もそういう人たちを差別しているんですが)

ありとあらゆるところで、人間は見かけだけで判断し、そして過去の情報を基にして、その判断をそのときも使っています。差別は、だからその人の「判断するときの偏った癖」と言ってもいいかもしれません。幼児は、差別しないというのはここからもわかります。

「差別はある」ということを前提に、それでも「なるべくなくしていこう」と行動するしかないのでは。自分の心の中にある差別をちゃんと意識して、それをコントロールするしかありません。無意識では、コントロールはできないのです。

トランプ氏の差別発言は、どこまで社会を混乱させるかわかりませんが、あらためて差別を意識化させたという意味はあるのかと思います。
 
 
 
 
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【愛犬物語百景 其の七十九】 岐阜県郡上市 盲導犬サーブの像

161113_21(岐阜県郡上市 さつき苑 盲導犬サーブ像)

161113_22(岐阜県郡上市 さつき苑 盲導犬サーブ像)

161113_23(海部俊樹氏が揮毫した「盲導犬 サーブの像」)

161113_24

161113_25(日本まん真ん中センター 手作りの巨大円空仏『不動明王像』)


盲導犬サーブについては、名古屋の墓や像を紹介しましたが、もう一基、岐阜県の郡上市にもあります。

それは、かつて日本の人口を重さで表すと、重心が旧美並村にあったというところから作られた「日本まん真ん中センター」の近く、健康福祉センターさつき苑の駐車場にありました。

周りの環境のせいでしょうか、3本足で立つサーブの姿には威厳が満ちています。どうも名古屋内の像は、自転車置き場の近くだったりして、落ちつかないところに立っていたので、それと比べてしまいます。

ここの「盲導犬 サーブの像」の文字は、設置当時の内閣総理大臣、海部俊樹氏が揮毫したものです。

また台座にはこうあります。

「盲導犬サーブよ あなたは全盲のご主人を交通事故から守ろうとして 自らの命までを投げ出そうとした そのためにあなたは 三本の足になってしまったけれども 私たちは教えられたのだ あなたの勇気と真実の愛を 私たちがめざすべき あたらしい心の時代を」

そうですね。犬は人間の心を映す鏡でもあるのでしょう。自己犠牲の精神は、なかなか人間には難しいことでもあって、だからなおさらハッとさせられるのです。

あらためて簡単に盲導犬サーブの話を書いておくと、

1977年(昭和52年)4月8日に生まれた雌のシェパード、サーブは名古屋市の中部盲導犬協会で訓練を受けた後、岐阜県のマッサージ治療院を営む男性を主人としました。

岐阜県郡上郡美並村(現・郡上市)の国道156号で、雪でスリップした車が突っ込んできて、サーブの主人であった男性をかばって重傷を負い、それが原因で左前脚を切断してしまいました。

この事故がきっかけとなって「盲導犬は視覚障害者の身体の一部」であるとの認識が広がり、事故にあった盲導犬にも自賠責保険が支払われるように法律が改正されました。

1988年(昭和63年)6月13日未明、老衰のため11歳で永眠しました。墓は名古屋市の長楽寺動物霊園にあります。

長楽寺の墓前には点字といっしょに、

「盲導犬たちよ。天国で遊んでください。盲人の目となり最良の友となり、明日への光となって愛と献身に生きたあなたたちの日々は私たちの心に生き続けています。盲導犬たちよハーネスを外して飛び跳ねてください。」

という碑文が掲げられています。
 
 
 
 
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【愛犬物語百景 其の七十七〜七十八】 滋賀県大津市「蓮如の義犬塚」と草津市「忠犬妙雪の碑」

161113_11(滋賀県大津市 蓮如の義犬塚と欅)

161113_12(滋賀県草津市 眞教寺)

161113_13(眞教寺 「忠犬妙雪の碑」)

161113_14(眞教寺 「忠犬妙雪の碑」)


蓮如の義犬塚は、滋賀県大津市の大津赤十字病院の通りにあります。

塚は道路から1.5mほど高い位置にあり、石碑と大きな欅の木が立っています。

これは、「犬塚の欅(けやき)」として市の天然記念物に指定されています。

大津市教育委員会の解説看板にはこうあります。

「欅はニレ科、ケヤキ属の落葉喬木で、山地に自生していますが、人家の周辺に移植されて大樹となることが、しばしばあります。

犬塚の欅は、老大樹として注目をとどめるだけでなく、この樹にまつわる伝説についても有名です。

それは、京都から大津へ難を逃れてやってきた蓮如上人が、上人の人気を心よく思わなかった他宗の門徒によって毒殺されようとしたときに、忠犬が身代わりとなって死んだので、この犬を埋めた塚に、欅を植えて弔ったというお話です。」

蓮如を救った犬の話のもう少し詳しい内容は、「ワン旅 Vol.4 蓮如上人の命を救ったわんこの義犬塚」のHPにありました。引用させてもらうと、

「比叡山延暦寺側の攻撃(延暦寺側にも理由はあります)により東山大谷の本願寺を追われた蓮如上人は近江の国を転々した後、大津の顕正寺(本願寺近松別院/大津赤十字病院東側に立地)に滞在していました。

他宗門の人が毒殺をくわだてたときに、いつもは庭で元気に遊んでいる蓮如上人の愛犬が、なぜかそばを離れようとせず、食事をとろうとした瞬間に食膳をひっくりかえし、あろうことか蓮如上人の御飯を食べてしまったそうです。するとまもなく血を吐いて愛犬は死んでしまいました。

食事に毒が盛られていたことを知った蓮如上人は愛犬を手厚く葬ったという伝説です。」

とのことです。
 
 
 
また、草津市の眞教寺には「忠犬妙雪の碑」があります。

明治32年11月23日の夜半、寺に拾われた犬の「白(しろ)」が、普段と違って吠えるので、何事かと思って出てみましたが妖しい者はいません。でも、犬は本堂正面で前足をかけて鳴くために、本堂を開けてみると、煙が立ち込め燃えていたので、驚いて消し止めました。

この碑は昭和7年1月、「白」の三十三回忌に、寺の火事を知らせ大事に至らなかったことに感謝して、住職が「白」のために建てたものです。

「妙雪」とは「白」の法名だったようです。

いろんな忠犬がいますね。

火事を発見した犬ということを聞くと、北海道小樽市の消防犬「ぶん公」や、東京都の回向院に葬られている「は組新吉の愛犬ハチ」とかを思い浮かべます。どちらも火事を知らせたという話は伝わってないようですが、犬の能力として、嗅覚は火事と関係があると思われます。

俺はヴィーノの嗅覚のすごさにはいつも感心しています。北海道のエゾシカ、日光のサルなど、まだ肉眼では見えない距離であっても、匂いでわかるらしく、そわそわし、吠えだします。

眞教寺の「白」も煙の臭いで、異変を感じ取り、住職に教えようとしたのでしょう。

犬は鋭い感覚を研ぎ澄まし、危険を察知しいち速く人間に教えてくれます。一方、人間は、将来の計画を立てたりすることができます。

人間と犬がいっしょに暮らし始め、得意分野で仕事を分担し、お互いがお互いを必要とする仲間になったわけです。
 
 
 
 
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【愛犬物語百景 其の七十五〜七十六】 京都府宮津市「犬の堂」と与謝野町「麻呂子親王の白犬」

161113_1(宮津市 「犬の堂の碑」)

161113_2(与謝野町 大虫神社)

161113_3(大虫神社 手前が昭和6年奉納、奥が明治19年奉納の犬像)

161113_4(大虫神社 鏡を掛けた昭和6年奉納の犬像)

161113_5(大虫神社 明治19年奉納の犬像)

161113_6(大虫神社 明治19年奉納の犬像)

161113_7(大虫神社 明治19年奉納の犬像)


京都府宮津市に「犬の堂の碑」があります。東が宮津湾に面した「与謝の荘」の近くです。

宮津市教育委員会が立てた看板の解説文を参考にすると、このような内容の話です。

延宝6年(1678年)時の宮津城主永井尚長(なおなが)によって建てられたもので、碑文は江戸の林春斎(羅山の子)の作です。(「天橋立」を日本三景のひとつに選んだ人)

昔、波路村戒岩寺が九世戸文殊堂を兼官していたころ、一匹の賢い犬が毎日両寺の間を往来して寺用をたしていました。ところが年老いてその犬が死んでしまったので、僧は犬を憐れんでここに堂を建てて弔い、犬の堂と呼びました。以来、年が経ち堂も壊れたので修復してこの碑を建てました。

賢い犬は昔からいました。千葉県匝瑳市の円静寺の「愛犬之墓」の犬も、そんな賢い犬でした。寺の用事で江戸に行った犬・・・。それと聖徳太子の愛犬「雪丸」も人間の言葉が分かって、お経まで唱えていたとか。

昭和の初期ころまでは、犬の買い物などあったようで(実際には見たことありませんが)、お金と必要なものを書いたメモを入れた買い物かごをくわえて、近所の商店にお使いに行く犬が漫画に出てきたりしていました。

お使いする犬は、珍しくなかったのかもしれません。

「与謝の荘」の背後の丘は「虎ヶ鼻」といい、宮津から文珠方面への通り道で、天橋立の眺望ポイントでもあったそうです。碑も昔は丘の上にありました。明治16年、道路改修にともなって海岸道路わきの現在地に移されました。

「犬の堂」という呼称は近世初頭には既にあって、細川時代(1580~1600)の記録類にも散見するそうです。「細川家記」によれば細川幽斎がここに小亭をいとなみ、犬の堂と名づけて、

   犬堂の 海渺々と ながむれば かすみは舟の 帆へかかるなり

と詠んだといい、その子忠興は慶長5年(1600年)12月、九州への途中、宮津を去るときに、ここを通って、

   立別れ まつに名残は をしけれど 思ひきれとの 天の橋立

と詠んだそうです。
 
 
 
もう一カ所は、与謝野町の大虫神社です。

ここには「麻呂子親王の鬼退治と白犬」伝説があります。

「犬~イヌ(7)  麻呂子親王の鬼退治と白犬」のHP、「丹後の歴史と伝説」のHPなどによると、伝説は次のようなものです。

「与謝郡河守荘三上山(現在の京都府与謝郡・大江山)に、栄胡、足軽、土熊(土蜘蛛)の三鬼が棲み、朝廷の命に服さず、人々を苦しめていた。
鬼賊征伐を命じられると、用明天皇の第三皇子、麻呂子親王(聖徳太子の異母兄弟)は、自ら薬師如来像を刻み、神徳の加護を祈願したのち、征伐に向かった。
丹後におもむく途中、額に鏡をつけた(一説には、首に鏡を掛けた)白い犬が現れて、親王にその鏡を献上し、鬼賊の住む岩窟までの道案内を申し出た。これこそ神仏のご加護と感じた麻呂子親王は、喜び勇んで進み、鬼の窟に着くや、栄胡、足軽の二鬼を首尾よく退治することが出来た。
しかし、土熊には逃げられてしまった。親王は、逃げた土熊を追って竹野郡の岩窟に至ったが、土熊の姿はかき消えてしまった。
このとき、白犬から献上された宝鏡を松の枝に掛けたところ、肉眼では見えない土熊の姿が歴然とその鏡に映ったのでこれも退治できた。
鬼賊征伐成功の後、麻呂子親王は、この宝鏡を、三上山(大江山)の麓の大虫神社に納めた。
大虫神社には、この白い犬が付けていた宝鏡が祀られていたが、火災で焼失してしまったという。
(参照資料:加悦町誌1974年12月など)」

大虫神社は幽玄な雰囲気の境内です。杉の古木が強烈な太陽の日差しを遮り、涼しいくらいです。

階段を上って行くと「麻呂子親王の鬼退治伝説」に因んで奉納された2対の狛犬があります。

一対は、首に鏡を掛けた阿吽の和犬像です。和犬というより、これは山犬(狼)だろうということです。秩父の「お犬さま」と同じなのでしょうか。奉納されたのは昭和6年(1931年)です。

拝殿寄りのもう一対も、鏡は付けていないものの伝説の犬に因んで奉納されたようです。

ただ鏡を付けた犬像よりも、形がデフォルメされているからなのか、現代的な造形に見えたので、てっきり新しいものだと思ったら、明治19年8月奉納とあります。こちらの方が古いと分かって、「へぇ〜」となりました。

とにかく、この丸っこい犬像が気に入って、写真を撮りまくりました。

とくに後姿。背中からお尻にかけての曲線はとても美しい。

顔のアップを撮ろうとしたら、右目にハエが止まって、まるで黒目のように見えるのは奇跡というもんでしょう。

なお、この伝説にも、いろんな推理があって、そのひとつは、「鬼」とは製鉄民族のことではないかというものです。

「麻呂子親王伝説」のHPによると、

「丹後には沢山のタタラ場がありました。鉱物資源と優れた技術を押さえることは、古代に於いても現代に於いても、戦略上極めて重要な事です。丹後の鬼と官軍との戦いは、丹後の地方勢力と大和朝廷の、鉱物資源争奪戦だったのです。」

「タタラ」と「白い犬」と聞くと、宮崎駿監督の『もののけ姫』をすぐ結びついてしまうのは、悪い癖かもしれません。

伝説にはこのHPのように、犬だけが自分で現れたのではなく、老人(神の化身)が差し出したものというバージョンもあります。

「その道中、戦勝祈願のため大社に立ち寄ると、伊勢の神の化身である老人がどこからともなく現れて、「この犬が道案内をいたします」と白い犬を差し出しました。」

犬の色が「白」という点が重要で、「白」は神性に結びついているようです。

「羽犬」のところでも書きましたが、神話や伝説や昔話というのは、人々のこころの奥底、深層心理を反映していると考えられます。
 
 
 
 
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2016/11/12

【愛犬物語百景 其の七十四】 長崎県大村市 小佐々市右衛門前親の愛犬「華丸」の像

161112_11(長崎県大村市 本経寺)

161112_12(義犬華丸像と慰霊碑)

161112_13(華丸の像)

161112_14(大村藩主大村家墓所)

161112_15(小佐々前親の墓〔左〕と華丸の墓〔右〕)

161112_16(華丸の墓)


長崎県大村市の本経寺には、小佐々市右衛門前親(こざさいちうえもんあきちか)の「華丸(はなまる)」の像と墓があります。

門を入り、本堂を正面に見て、左手に「義犬華丸像」が建っていました。

まるまるとしてかわいらしいワンコの像です。

大村藩の義犬「華丸」像に」(長崎新聞2015年5月13日更新)には、

「義犬「華丸」の365回忌を記念して、大村藩士小佐々氏子孫の会の「小佐々氏会」は12日、華丸をイメージした石像を大村家の菩提(ぼだい)寺である本経寺(大村市古町1丁目)境内に設置した。6月21日に除幕する。
  …(略)…
石像は高さ約30センチで、かわいらしい幼犬の姿。前親の子孫で日本獣医史学会理事長の小佐々学さん(75)=さいたま市=は「本経寺と市民の理解に感謝する。たくさんの人になでてほしい」と話した。」

華丸像ができたのは2015年6月だったんですね。1年3か月前です。どうりで新しいと思いました。犬は、雄の狆(ちん)だそうです。そう言われれば鼻先がつぶれているようです。

そしてたびたび当ブログでも参考にさせていただいている「日本愛犬史」の小佐々学氏も大村藩士小佐々氏子孫だったのですね。

華丸像と碑がある場所から、さらに奥に進むと、広い大村藩主大村家墓所で、平成16年に本経寺やこの墓所と共に前親や華丸の墓碑が国の史跡に指定されました。

小佐々前親の墓と華丸の墓は、三代藩主純信公の区画の一角にありました。

「日本愛犬史」から引用させてもらうと、

「小佐々前親は肥前国大村藩三代藩主大村純信の幼少年期の傅役(もりやく)で家老であった。自分が守り育てた純信が33歳の若さで江戸表で逝去したという悲報に接した前親は、慶安3(1650)年6月に純信に追腹して殉死した。

前親は大村家の菩提寺である本経寺で火葬されたが、このとき前親の愛犬華丸(ハナ丸)が主人の死を悲しんで涙して鳴き、荼毘の炎の中に飛び込んで焼死した。藩主の死に殉じた忠臣と、忠臣に殉じた義犬のことを「武士道の鑑」として後世に伝えるため、高さ3mの前親の大型墓に並んで高さ90cm(3尺)の華丸の墓が建てられた。

華丸の墓碑の拓本を取って碑文を調査したところ、墓碑前面には132文字に及ぶ漢文の由緒書があり、その中には「前親と華丸はお互いに親しんでおり、前親は常に華丸を愛して膝元に抱いていた」ことなどが記述されていることが判明した。

この碑文から、華丸は主人に殉じた義犬であると共に、愛犬や伴侶犬であったことが分かる。この碑文は漢学者であった前親の高弟が選文したとされ、『孟子』を引用した格調高い漢文であるが、前親と華丸の日頃の親密な交情が見事に活写されている。

江戸時代初期の高さ3尺の墓は上級武士と同等であり、五代将軍徳川綱吉の「生類憐みの令」より35年も前に建てられており、また忠犬ハチ公の墓より285年も前のことである。

さらに、欧米でも動物愛護の考え方がまだなかった時代であることから、前親と華丸の墓は動物愛護史や人と動物の絆(HAB)の歴史などの世界的な史跡ということができよう。」

ということです。

悲しい話でもあったんですね。

「主人の死を悲しんで荼毘の炎の中に飛び込んで焼死した」とは。けっこうすさまじい。

ただ「前親は常に華丸を愛して膝元に抱いていた」というあたりを聞くと、ホッとします。犬と人間の触れ合いは、昔から変わってないなぁと。
 
 
 
 
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【愛犬物語百景 其の七十一〜七十三】 福岡県筑後市 羽犬の像

161112_1(JR九州鹿児島本線「羽犬塚駅」の羽犬像)

161112_2(山の井交差点の羽犬像)

161112_3(羽犬塚小学校正門南の羽犬像)


福岡県筑後市には羽犬の像があります。

「羽犬(はいぬ)」とは何なのか?

ネットで調べて前もって見てはいたのですが、羽犬はユニークでカッコいいですね。羽の生えた犬の姿なのです。いっぺんで魅了されてしまいました。

翼のある馬ペガサスを思い出してしまうのですが、もちろん羽犬も伝説上の動物です。

筑後市のキャラクター「チク号」は、羽の生えた犬が飛んでいる姿で、「はね丸」の着ぐるみも天使のような羽がある犬の姿をしています。どちらも「羽犬」をモデルにしています。

「羽犬塚」は古くから宿場町として栄え、その地名の由来は400年前から続くふたつの伝説にあるそうです。

どちらも犬を塚に葬ったというのが由来ですが、ひとつは、天下統一を目指す豊臣秀吉の行く手を阻んだ羽犬が仕留められたという説と、秀吉の病死した愛犬が羽が生えたように素早かったという説です。

久留米市と高田市を結ぶ国道209号線と、大川市と大分市を結ぶ国道442号線が交差する山の井交差点と、羽犬塚小学校正門南にある羽犬のブロンズ像は、今にも飛んでいきそうな躍動感があって、羽が生えたように素早かったという伝説に沿ったデザインなのでしょうか。

JR九州鹿児島本線に「羽犬塚駅」という駅があり、この駅前広場にも羽犬の像があります。ここの羽犬は駅ビルを向いていて、あまり動きは感じられないのですが、どっしりと安定感のある像です。

筑後市のHPには、このふたつの羽犬の伝説について書いてあります。

ひとつは、昔この地に羽の生えたどう猛な犬がいたというものです。「羽犬は旅人を襲ったり家畜を食い殺したりして住民から恐れられていた。天正15年(1587年)4月、天下統一をめざす豊臣秀吉は薩摩の島津氏討伐のため九州に遠征、この時羽犬によって行く手を阻まれた。大軍を繰り出しやっとの思いでそれを退治した秀吉は、羽犬の賢さと強さに感心し、この犬のために塚をつくり丁寧に葬った」

もうひとつは、九州遠征に羽が生えたように跳び回る犬を秀吉が連れて来たというものです。「その犬は、この地で病気にかかり死んでしまった。大変かわいがっていた秀吉は悲しみに暮れ、それを見かねた家来たちは、その犬のために塚をつくり葬った」

小学校の隣の宗岳寺に残されている石塔には、「犬之塚」と彫られています。犬に名前がないことから、秀吉の愛犬説はむずかしいかなと思います。どうして愛犬に名前がないのか不思議です。だから不特定の犬の供養塔だったと考える方が自然でしょう。

羽の生えた犬を探して」というHPでも、こんな推測をしていて、なるほどなぁと思います。
 
「この「塚」は一体何なのか? これについては、昔このあたりで殿様が狩りの練習のため「犬追い」をしていて、その際に追われた多くの野犬の霊を弔うために立てられた犬塚が地名として残ったのではないかという推測を見つけました。」

秀吉も信長同様、鷹狩りを好んだそうで、鷹狩用の犬である「鷹犬」は「御犬」と呼んで大事にされましたが、反対に、野犬は鷹の餌にされて殺されたという話もあり、この犬之塚も、そんな犬たちの供養のためのものだったのかもしれません。

そして「羽犬」についても、

「「はいぬ」という音から「羽犬」に転じて、そこから逆に意味が作られたのではないかという推理を私も推します。その線では、「駅馬(はゆま)塚」、「駿馬(はやま)塚」、「端犬(はいぬ)塚」、「灰塚」などから「羽犬塚」に転じたという説が有るそうです。」

伝説は過去の事実がそのまま伝わることもあるでしょうが、その話が地元の人にとって何か有益なことがあれば、尾ひれがついて、変わっていくということは考えられることです。

心理学者・大場登著『精神分析とユング心理学』には、神話について、

「その国・その文化圏の人々の心が一致して「受け入れてきた」、その意味で個人を超えた、文化的、あるいは普遍的な「世界観」の表現とみることもできる。人々の心によって受容されないものが歴史を超えて残り続けることはほほとんどありえない」

と言っています。伝説は神話より、もっと具体的な物語ですが、残り方としては同じでしょう。

そう考えると羽犬塚の伝説も、多くの野犬を殺してしまった事実は、そのままでは辛すぎるので、暴犬の話になってしまったり、豊臣秀吉の島津氏討伐という大きな歴史的な出来事に便乗して、愛犬の話に変わっていったという可能性もゼロではないのではないでしょうか。

そして、たとえば愛犬の死因についても、市のHPでは「その犬は、この地で病気にかかり死んでしまった」とありますが、羽犬塚小学校前の像の碑文には「この地で敵の矢にあたり死にました」とあります。

微妙な違いですが、物語の受け取り方が変わってきます。「病死」の方が、誰かを傷つけることは少ないのではないでしょうか。

このように現在でも物語は刻々と変化しています。良し悪しは別として、物語も生きているのだから時代とともに、人が望むように、変わっていくのは自然なことなのでしょう。

伝説に、「暴犬」と「愛犬」という一見矛盾するような2つの伝説が同時に伝わっていることも、心理学的な面から見たら、人間の心の葛藤をそのまま表しているような気がします。「野犬」と「鷹犬」の、あまりにも両極端な2つの犬の立場そのものが伝わった結果なのかもしれません。

個人的には、秀吉の羽が生えたように跳び回る愛犬の話に魅かれます。たぶん、ネットで初めて羽の生えた犬の像を見てしまったので、自分の中では、像と伝説がリンクして、最初にイメージが固まってしまったということなのでしょう。第一印象を崩すのはけっこう難しいのです。

とにかく史実はどうであれ、羽の生えた犬というユニークな動物を生み出した人々の発想に驚くし、面白いなぁと思うのです。この点が、一番「羽犬」というものに魅かれる理由です。

古くは鷹狩自体を「鷹犬」と呼んでいるケースも多くあるそうで、鷹狩では「鷹」と「犬」は切り離せないものだったようです。

空に飛び上がるような犬の像はまさに羽の生えた鳥と犬が合体したような姿です。「羽犬」はまさに「鷹犬」そのままではないかと思うのですが。
 
 
 
 
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2016/11/11

【愛犬物語百景 其の六十九〜七十】 熊本県熊本市 桜山神社と本妙寺雲晴院 小篠源三の愛犬虎(とら)の墓

161111_11_3(桜山神社 神風連の烈士123士の墓)

161111_12_3(桜山神社 義犬の墓)

161111_13_3(桜山神社 虎(とら)の墓)

161111_14_3(本妙寺雲晴院)

161111_15_3(本妙寺雲晴院 小篠四兄弟と「虎」の墓)


熊本県熊本市へ入りました。地震の爪痕は大きく、熊本城も一部を除いて、入城は規制されていました。

熊本市には、神風連の志士のひとり、小篠源三(おざさげんぞう)の愛犬「虎(とら)」の碑と墓があります。

「虎」の墓があるのは桜山神社の、神風連の烈士123士の墓です。

入口を入ってすぐ右側に「義犬の墓」とあったので、すぐわかりました。

墓石の前面には「義犬之墓」、裏面には「明治九年十一月十一日殉死」と刻まれています。

神風連の乱とは、1876年(明治9)に熊本市で起こった、明治政府に対する士族反乱のひとつで、敬神党の乱とも言われます。

2003年のアメリカ映画『ラストサムライ』(The Last Samurai )は、明治初頭の日本を舞台に、時代から取り残された侍たちの生き様を描いたものです。

「勝元」役を演じた渡辺謙さんの力強い姿が、今でも印象に残っています。

この映画はこの神風連の乱や、翌年に起こる西南戦争をモデルにしたそうです。

神風連は国粋保存を主張し、急激な文明開化を推進する明治政府の廃刀令や散髪令などの欧化政策を激しく非難して反対し、志士170人あまりが決起した乱です。

翌日鎮圧されて志士の多くが戦死あるいは自刃しました。小篠四兄弟も神風連に身を投じて出陣しましたが、敗戦後に四兄弟は自刃して果てました。

この時、四男の源三はまだ18歳でした。源三の愛犬「虎」は、源三の死を悲しんで墓前に座り続けて動かず、食餌を与えても何も食べず、ついに餓死してしまったそうです。

それで義犬(忠犬)としていっしょに葬られることになったわけです。

「小篠源三の義犬「虎」の墓は、欧米の教育法や思考法、とりわけ動物愛護思想の影響が一般民衆には及んでいない時代である維新期最後の犬塚として意義があろう」

と小佐々学氏は、「日本愛犬史」の中で書いています。
 
 
また市内から西へ行ったところにある本妙寺雲晴院にも小篠四兄弟と「虎」の墓があります。

雲晴院の本堂の裏側に、長男(一三)の墓、次男(彦四郎)の墓、三男(清四郎)と四男(源三)との合葬墓、「虎」の墓の4基が並んでいました。

四兄弟の3基の墓碑は全高約90cmで、正面には実名、裏面には自刃の日付、側面には辞世歌が刻まれています。

「虎」の墓碑は高さが約75cmの自然石で、前面に「殉死犬虎墓」とあります。(「日本愛犬史」参照)
 
 
 
 
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【愛犬物語百景 其の六十八】 鹿児島県薩摩川内市 藤川天神 西郷隆盛の愛犬ツンの像

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鹿児島県薩摩川内市の藤川天神に「ツンの像」があります。

「ツン」は西郷隆盛の愛犬で、上野公園の像でもツンを連れています。当ブログでは、すでに上野公園の像は紹介しています。

藤川天神には国の天然記念物に指定されている、龍が伏したように幹が地上を這っている「臥龍梅」といわれる梅が50数本あります。

「菅原道真公の墓」もあり、受験シーズンには、合格を祈願する受験生や家族などで賑わう神社です。

駐車場から境内に入る参道脇にツンの像はありました。上野の西郷さんの像からの思い込みで、てっきりここも西郷さんといっしょのツンを想像していたのですが、像はツン単独の像です。

「どうしてここにツンの像が建てられたんですか?」

と宮司さんに聞いてみると、

「ツンの元々の飼い主だった前田善兵衛の家が、ここから4kmほどのところにあります」

と、いいました。藤川村原(現在の東郷町藤川原地区)です。そうか、西郷さんの像がなくて、ツンだけなのは、ツンの故郷で主役なわけですね。

平成2年(1980年)のNHK大河ドラマ『翔ぶが如く』の放映を機に、制作を彫刻家・中村晋也氏に依頼し、ツンの像が建立されたとのことです。

ツンがどうやって西郷さんの愛犬になったのでしょうか。そのいきさつは、「愛犬ツンと西郷隆盛像」によると、

明治6年(1873年)、下野して鹿児島に帰った西郷隆盛は、鹿児島市武町の住居で過ごしながら、よく県内各地の野山に出かけて兎(うさぎ)狩りをしては温泉に入ったりして保養を楽しんだと言われます。
 
明治7年か同8年頃、藤川天神を参詣した西郷さんは境内で近所の犬と出会います。ツンと呼ばれるその犬は、ピンと立った耳と左尾が特徴の薩摩犬で、兎狩りが得意なメス犬でした。一目見て気に入った西郷さんは、前田善兵衛という飼主に犬を譲って欲しいと頼みます。
 
しかし、善兵衛は渋りこの申し出を断りました。あきらめきれない西郷さんは、土地の有力者であった三原隼人に交渉を頼みます。善兵衛はその情熱に折れ、ツンは西郷さんの飼い犬となりました。
 
西郷さんは大変に喜び、三原に自分の乗馬を与え、善兵衛には金20貫を与えたといわれます。ところが、ツンは、狩りの途中、猟犬の勘を働かして逃走を図り、はるばる藤川を慕って二度も逃げ帰ったといわれます。

西郷さんは本当に愛犬家であったらしく、ツンの他にも、カヤなど数頭の犬を飼っていたらしい。それと、西南戦争が起こった明治10年にも犬を連れて現場に向かったそうですが、敗走して追い詰められたとき、最期に犬だけは逃がしてやったとのことです。

宮司さんは、

「上野のときには、ツンは死んでいて、雄犬をモデルにしたのですが、ここのツンの像はちゃんと薩摩犬の雌犬をモデルにしています」

といいました。上野の銅像を造ることになったときには、ツンは既に死んでいたので、別の薩摩犬の雄犬をモデルにして造られたという話は聞いていました。

こっちの方が実物に似ているということになるのでしょう。地元ではちょっとした自慢なのかもしれません。

社務所には御札やお守りがあって、中に動物が2頭刷ってあるお札があって、小さいほうがチベット犬の子犬の姿にも似ていました。

確認のために、「これは犬ですか?」と聞いたら、馬頭観音の御札で、これは子牛の像なのだという。残念ながらやはり犬の姿ではありませんでした。

そろそろまた「棚田病」になってしまったか。何でも棚田に見えてしまうのが「棚田病」。さしずめ、これは「犬像病」とでも読んでおこうと思います。何でも「犬」に見えてしまう病気です。

「人間は見たいものを見てしまう」ということでもあるのですが。

拝殿の横には馬頭観音堂もありました。
 
 
 
 
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【愛犬物語百景 其の六十七】  大分県九重町 長者原 ガイド犬 平治の像

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ガイド犬、平治の像が、大分県九重町長者原にあることがわかりました。

町役場を訪ね、何か平治に関しての資料はないかと聞いてみました。観光センターの「長者原ヘルスセンター」に電話で聞いてくれましたが、当時を知るスタッフはもういないということでした。ちなみに、平治は九重町のユルキャラにはなっていないそうです。

長者原(ちょうじゃばる)は、阿蘇九重国立公園にあり、九重山群が望める高原です。タデ原湿原が広がり、木道が設置されていて、自然を楽しみながら散策することができます。

タデ原湿原は、九重連山の北側(標高約1000m付近)に位置しています。火山地形の扇状地にできた湿原は国際的にも重要な湿地であり、2005年11月に坊ガツル湿原とともに「くじゅう坊ガツル・タデ原湿原」として、ラムサール条約に登録されました。

ここで登山客を案内していたのが、ガイド犬平治(へいじ)です。Wikiを参照して概要を書いておきます。

平治はもともとは捨て犬で重い皮膚病を患っていました。平治の世話をしたのが、長者原ヘルスセンターで働いていた犬好きの荏隈保さんでした。

あるとき遭難しかかった夫婦が、長者原登山口まで導いてくれた平治にお礼として「その犬の皮膚病を治してやって欲しい」と金銭を置いて帰ったそうです。荏隈さんは皮膚病に効くとされる法華院温泉の湯の花を取り寄せて、平治の患部に繰り返し塗ると徐々に治っていき、同時に体も大きく成長していきました。

平治は最初、食べ物をもらうことを期待して、登山者といっしょに山へ登ることを覚えたらしいのですが、荏隈さんは「ガイド犬」としての才能を見出し、訓練することを思いつき、道を覚えさせたりしました。

山中で道に迷ったり負傷した登山者がいると、どこからともなく平治が現われて彼らを先導し、登山口や山小屋へ案内したこともありました。山小屋「すがもり小屋」を営む男性は「平治がしばしば危うい状況の登山者を連れて来た」と証言しています。

こうした「ガイド犬」の評判が九重連山を訪れる登山者の間で広まり、平治を目当てに登山に来る登山客もいました。

警察犬や盲導犬のような公的認定を受けた犬ではありませんでしたが、「山のガイド犬」または「ガイド犬」として知られるようになり、後に映画にもなりました。

1988年8月3日、平治は亡くなりました。前日まで登山客をキャンプ場まで案内したそうです。8月6日には約100名が集まって平治の追悼式が営まれ、当時の九重町長・高倉源八氏が弔辞を述べました。

1989年6月10日、平治の銅像が建てられました。これは生前の平治を知る登山客らの要望を受け、荏隈さんが町長や他の人々と協力して、大分出身の彫刻家・佐藤正八さんに造ってもらったものです。

平治の像は、「筑後川源流の碑」の近くにありました。登山者を案内する姿で、生前登った九重連山に頭を向けて立ってます。碑文はこう結ばれています。

”くじゅうを、登山者をこよなく愛した平治号の声が聞こえます 「くじゅうを美しく 今日も安全登山を」と”

こういう話を聞くと、和歌山県九度山町の「高野山の案内犬ゴン」や、俺がフィリピンで出会った子犬を思い浮かべます。

それは3頭に共通項を感じるからです。いや、もっと言えば、「おかげ犬」や「こんぴら狗」にさえ、それを感じます。

犬にとって、「人といっしょに歩く」というのは習性なのではないでしょうか。自然なことなのです。平治も最初は荏隈さんが教えたわけではなく自分から登山客と歩き始めたようです。

こういう犬が特別に見えるとしたら、今では自由に歩ける犬がいなくなってしまい、犬が自然に行動するところを見る機会が減ってしまったことも原因なのではないかなと考えてしまいます。

だから、ゴンも、平治も、自由に歩けた幸せな犬だったということは間違いないでしょう。そして、人間にとってもいっしょに付いてくる犬には親しみを感じるし、楽しい気分にもなってきます。犬と人間、双方にとって、気持ちよいことなのです。

飛躍しすぎかもしれませんが、もしかしたら、こういった犬の習性があったから、人間が犬といっしょに暮らすようになったのでは、とさえ思います。すべてではないにしても、理由のひとつではあるでしょう。

オーストラリア先住民アボリジニーには、「犬のおかげで人間になれる」という言葉があるそうです。

奥が深い言葉だなぁと思いますが、犬がいなかったら今の人間はなかったし、犬もまた人間と暮らさなかったら、今の犬ではなかったかもしれません。

互いが互いを必要とし協力しながら暮らす仲間です。けっして一方的な愛玩道具ではありません。そして違う種でありながら家族という集団を築ける、これは奇跡といってもいいでしょう。
 
 
 
 
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2016/11/10

【愛犬物語百景 其の六十六】 愛媛県松山市 「潮見の宝 目の見えない犬ダン」の像

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「目の見えない犬、ダン」の像は、小学校の敷地内にあります。なので、まず学校に電話して、犬像を撮影させてもらえるかどうか尋ねました。

結果、校長先生のご厚意で撮影することができました。校長室にはダンの絵や写真、ダンを拾った少女たちの記事が載った新聞などが飾られていました。それとダンの物語も。

松山市立潮見小学校の公式HPにも、その物語「潮見の宝、目の見えない犬ダン」についての記述があります。そこから概要を引用させていただきます。

平成5年の夏、吉藤団地に住んでいる石井希さんと久保田望さん(当時5歳)は団地の横の川に捨てられている段ボール箱を見つけました。

箱はかすかに動き、中に何かがいるのです。二人は、団地の自治会長の坂本義一さんに頼んで拾い上げてもらいました。生まれて間もない白い子犬です。ぶるぶる震えていました。よろよろ立ち上がりましたがくるっと回って倒れたのです。

「この犬へんだぞ。きっと目が見えないんだ」

と、坂本さんは心配しました。

二人の少女は、犬を飼ってもいいかお母さんに相談しましたが、だめでした。団地では動物を飼えないのです。

「盲導犬は、目の見えない人を助けてくれるのに、目の見えない犬は、どうして捨てられるの」

と、坂本さんに訴えました。坂本さんの度重なる呼びかけや少女たちの熱意は、ついに周囲の人々の心を動かし、団地で預かるようになりました。子犬は、団地で飼うので「ダン」と名付けられました。

平成8年、潮見小学校の2年生になった二人は、ダンのことを紙芝居にしました。これが、「愛媛子ども文化研究会」の紙芝居コンクールで最優秀となり、その発表会の様子が新聞やテレビで報道されました。その二人の姿は多くの人々の心を動かしたのです。

平成10年頃から二人の少女と目の見えない犬との心温まる話は、新聞や雑誌で紹介され全国から手紙やお金が届き始めました。そのお金で、潮見小学校の児童会を中心としてダンの新しい小屋づくりを全校で取り組みました。やがて、児童のアイディアを生かした立派な犬小屋が、坂本さんの手で完成しました。

その後も坂本さんや二人の少女のことは、テレビや新聞などで報道され、全国の人々に感動や生きる力を与え続けています。

平成12年の春、この話は道徳の教材として取り上げられました。また、平成13年には、『目の見えない犬ダン』という単行本(大西伝一郎作)として出版されました。その後別の作家による物語や映画などにも取りげられました。潮見小学校では、全校行事の「ふるさと潮見めぐり」や3年生の道徳としてダンとの交流を図ってきました。

平成17年、潮見小学校創立130周年記念事業として、石でダンのモニュメントを造り除幕式を行ったり、全校児童による「ダンちゃんおめでとう集会」を行ったりしました。

平成18年11月15日、ダンは13歳という犬としては長寿を全うして亡くなりました。

この物語が道徳の教材として取り上げられることになったのは、「命の大切さ」と「規則を守る」ことの葛藤があるからです。命の大切さや、命の平等を考えることはもちろんのことですが、団地には規則があり、規則は規則としてちゃんと守らなければならないということもあります。

とくに道徳のような授業は、正解というものはありません。子供たちがいろいろ話をして考えることに意味があります。単に「かわいそうな犬を救った美談」ではないところが重要なのではないでしょうか。

そして坂本さんや少女たちの熱意は、ついに周囲の人々の心を動かし、ダンを飼うことができるようになりました。人の熱意が周りを動かすという意味でも、このダンの話は教育的なのかもしれません。

校長先生に案内してもらい、ダンの像まで行ったとき、先生は、「ここにはもうひとつ面白いものがあるんですよ」といいました。

それはダンの像にも近い、正門を入った正面の4階建ての校舎脇にありました。約17 メートルの大きな1本のイトスギです。

イタリアのソルフェリーノの丘は、国際赤十字誕生のきっかけとなった場所ですが、そこに群生していたイトスギが、赤十字のシンボルになりました。

昭和34年、日本の赤十字百周年を記念して、イタリアのソルフェリーノの丘で採取した種子が全国に配られたそうです。

潮見小学校のイトスギは、昭和38年、青少年赤十字の加盟を記念して植えられました。四国では、潮見小学校ともう1本植えられましたが、それは枯れてしまったそうで、平成元年に確認されたソルフェリーノの丘を起源とするイトスギは、日本全体で50本、愛媛県ではこのイトスギだけだったそうです。

現在、潮見小学校のイトスギの種子から育った苗が、愛媛県下の幼稚園・保育所・小中学校・病院など約60か所に植えられています。

先生は言いました。

「ダンは”思いやり”のシンボル、イトスギは、”真っ直ぐ”、”たくましさ”のシンボルなんです。子供たちにも思いやりがあってまっすぐたくましく育ってほしいですね」
 
 
 
 
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【愛犬物語百景 其の六十五】 香川県高松市 法然寺の白犬塚

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高松市の法然寺を訪ねた日は、台風接近の日で、大雨が降っていました。

寺自体は大きくて立派なところで、社務所へ行って白犬塚の場所を聞いてみました。

すると、境内の一番奥まった般若台にあり、安全性の問題から、今は普段、一般公開していないそうです。(命日か何か、特別の日にはお参りできるようですが)

塚がある場所は松平家歴代墓所で、門があって、そこからしか入れないそうで、しかも大雨なので足場も悪いだろうからと、やんわりと断られました。

それでもせっかく来てくれて悪いと思われたのか、白犬塚の写真が掲載されたパンフレットを奥の方から持ってきてくれました。

前もって取材申請するとか、もっと強気で粘れば、行けないここともなかったでしょうが。犬像はないことはわかっていたので、それほど法然寺が取材必須の場所ではなかったので、ここはあきらめることにしました。またの機会にしたいと思います。

と、いうわけで何だか言い訳がましいですが、塚の写真も無しで、話だけということになります。でもこれは【愛犬物語百景】でも例外中の例外になります。(書籍には使わないので、当ブログ限定の記事です)

法然寺のHPによると、

「般若台の松平家墓所には白犬の墓がある。九代賴恕公の奥方、倫姫の亡骸が江戸から讃岐に帰るとき、お棺の列に付き添う一匹の白犬がいた。葬式を終え一行が江戸に帰るとき、白犬は船上から瀬戸内の海に身投げしてしまう。この白犬、江戸屋敷で殺され倫姫が手厚く供養した白犬の子犬ではないか、と倫姫の墓の後ろに白犬の墓を建てた。犬好き、動物好きの方に愛される墓である」

江戸屋敷で何があったのでしょうか。詳しくは、このHP「白犬墓の話」によると、

「昔,文政12年(1829)頃,今の東京,その頃の江戸に松平賴恕(よりひろ)といわれる讃岐のお殿様がいらっしゃった。その奥方は大変な慈悲深い方であった。それは動物にいたるまで憐れみを持っておられた。
 ある日のこと,どこからとなく迷い込んで来た一匹の白犬をお屋敷の門番が見つけた。「やい,ここはお殿様のお屋敷だ。野良犬(のらいぬ)の入るべき所ではない。出ろ,出ろ!!」お屋敷の門番は荒々しくも六尺棒(ろくしゃくぼう)を振り上げたが,白犬は「門番さま,どうぞひとめ奥方様にあわせて下さいまし。」というように尻尾(しっぽ)を振り振り頼んだが聞いてくれなかった。「何んだッて出なければこうしてやるッ!」と,無惨(むざん)にも六尺棒は白犬の頭上めがけて振り下された。「キャン!」バッタリと一撃の下に倒された白犬。このことを聞いた奥方は不憫(ふびん)に思い,白犬を浅草清光寺に葬られた。」

白犬を殺してしまった門番はどうなってしまったのでしょうか。それについては何も触れられていませんが、罰せられたと考えるのが自然でしょう。最悪打ち首になったかもしれません。ここが気になります。

そんな悲しい出来事があって、奥方(倫姫)の亡骸に付いてきた犬を、その時の白犬の生まれ変わりではないかと考えてしまう家臣の心理は十分理解できます。いや、「普通に死んだ」のではないからこそ、家臣たちも犬に対して後ろめたさや憐憫の情を感じていたかもしれないのです。

だから、もちろん塚を作ったのは、奥方の動物好きの気持ちを汲んだということもあるでしょうが、白犬の祟りを恐れたのかもしれません。そもそも「供養」には後ろめたさの解消という意味もあるとのことです。

塚の写真は寺のHPで見てもらうことにして、寺の写真だけ掲載しておきます。
 
 
 
 
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2016/11/09

【愛犬物語百景 其の六十四】 徳島県徳島市 モラエスと犬の像

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徳島県徳島市の眉山公園を訪ねたのは、数年前、日本一周しているときで、偶然そこに犬といっしょの外国人の像を見つけたのでした。

この和服を着た外国人は「モラエス」といいました。

ヴェンセスラウ・デ・モラエスは1854年にポルトガルの首都リスボンに生まれた軍人であり、外交官であり、文筆家です。

初来日したのは1889年。日本に初めてポルトガル領事館が開設され、在神戸副領事として赴任し、後に総領事となりました。

神戸在勤中、出会った芸者おヨネ(本名 福本ヨネ)と暮らし始めますが、ヨネの死後、1913年、ヨネの故郷である徳島市に移住しました。

徳島での生活は必ずしも楽ではなく、スパイの嫌疑をかけられたり、「西洋乞食」とさげすまれることもあったという。

1929(昭和4年)年6月30日夜、飲み過ぎて土間に転落し、打ち所が悪くて亡くなったそうです。

林啓介著 『「美しい日本」に殉じたポルトガル人―評伝モラエス 』(角川選書)には、

「晩年は幾多の偏見と疎外に苦悩しながらも、片思いに終わった日本への愛を失うことはなかった。」

とあります。消滅しつつある古き日本の良さを見出し、日本を愛し抜いた人物だったようです。

生前には日本では注目されませんでしたが、モラエスの死後、著書が日本語に翻訳され、日本賛美だとして広く知られることになりました。「徳島の小泉八雲」と称されました。

1954年(昭和29年)に建てられたモラエス生誕百年記念の顕彰碑の碑文には、

「著書に「日本精神」「徳島の盆踊」「おヨネと小春」等二十冊あり「日本の魂に取替えた人」と評される程日本を心から愛し「故国の銀河を遠く離れて燦と輝く明星」と讃えられた。麗筆でわが国の文化や人情風俗などを広く海外に紹介した。」

とあります。

1975年(昭和50年)には「モラエス通り」もできました。モラエス生誕150年記念事業として、この眉山公園の「モラエス像」の除幕式が行われたのは2004年(平成16年)10月18日のことです。

日本一周の旅から数年たち、今回【愛犬物語百景】で、全国の犬像を訪ねようと思ったとき、この徳島市のモラエスと犬の像ははずせないと思い、再訪したのです。

この像を見て、よほどのひねくれ者でない限り、きっとこの犬はモラエスさんの愛犬なのだろうと思うと思います。

それでそれを確かめようと思い、市役所を訪ねました。でも、犬がどういった犬なのかは、知られていませんでした。

職員の人たちはいろんなところに電話してくれて、その中で、徳島日本ポルトガル協会で聞いた情報は、衝撃的なものでした。

それはモラエスさんは、猫好きであったらしいということなのです。猫を飼っていたという記述はあるそうですが、犬を飼っていたという証拠はないということでした。だから犬は、モラエスさんの愛犬ではないようだということがわかったのです。

あとで、モラエスさんと犬の関係をしらべてみましたが、モラエス著『徳島の盆踊り―モラエスの日本随想記』(1916年発行 訳者:岡本多希子 講談社学術文庫、1998 年発行 「林久治のホ-ムぺ-ジ」参照)の「20 章:洪水・犬」で、モラエスさんはこう書いています。

「徳島とその近郊では排水が悪く、夏期の大雨でしばしば洪水が起こる。日本でもすべてがバラ色というわけではない。徳島の犬は概して大柄である。彼らは首輪や鎖なしに自由にくらし、飼い主は犬の世話をほとんどしない。彼らは人間の仲間ではない。用心ぶかく不信感の強い寄食者である」

ここから推測しても、モラエスさんが愛犬家ではなかったようです。

では、なぜ犬像があったのかというと、製作者である徳島県出身の彫刻家・坂東文夫さんは、モラエス像だけでは寂しい(バランスが悪い)ということで、犬の像を置いたのではないか、という結論に至りました。2006年に坂東さんは亡くなっているので、それを確かめることはできませんが。

遠いところまでわざわざ行ったのに、愛犬ではないかもしれない事実は、ショックでしたが、でも少し時間が経ってみると、思いが変わってきました。

モラエスさんの犬ではなかったらしいことは残念でしたが、犬はモラエスさんを見上げています。暖かく見守っているというふうにも感じます。やはりここは、見守ってくれるのは、猫ではなく、犬がふさわしいのかもしれません。

モラエスさんの晩年は幸福とは言えず、孤独の中で亡くなったという話を聞くと、モラエスさん一人だけ立たせるのはますます孤独感が漂ってしまうので、犬に見守らせた坂東さんの心遣いなのではないかと勝手に想像してみました。むしろ坂東さんが犬好きだったのではないかと。

「望郷」というタイトルにもそれは感じます。
 
 
 
 
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【愛犬物語百景 其の六十三】 徳島県阿波市 犬墓の弘法大師の義犬塚

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四国第十番札所「切幡寺」から西へ数キロメートル行った静かな里は、「犬墓(いぬのはか)」という地名です。田んぼや畑が広がり、近くには低い山が続いている典型的な里の風景です。

ここに、弘法大師伝説の義犬塚があります。

阿波市観光協会HPによれば、

「犬を連れてこの地の山に分け入った弘法大師が猪と遭遇したところ、その犬が弘法大師を猪から守りました。しかし犬は、誤って滝壺に落ちてしまい、犬の死を憐れんだ弘法大師が犬の墓を立てこの地を犬墓と名づけたと言われています。墓は享保(1716~36)の頃、犬墓村庄屋松永傳太夫が造ったとされています。」

「犬墓大師堂」の前には、弘法大師と大師に従う義犬(忠犬)の像が置かれています。この像自体は、平成14年8月に建てられました。約14年前です。

像の反対側には、いくつか古碑や祠が並んでいますが、その中に丸い石が載ったお墓があります。これが義犬の墓です。

34cm×40cmの基礎石(五輪塔の地輪部分が残ったもの)の正面に「戌墓」と刻んであります。その上に径が36〜40cm、高さ23cmの楕円形の自然石を置いてあります。

基礎石の右側面を覗いてみると、犬のレリーフがありました。長さは20cmくらいでしょうか。一部は苔が生えていて、うっかりすると見逃してしまいそうな可愛らしいレリーフです。

大師堂は比較的新しい建物で、江戸時代の地図には「四足堂」とあるそうです。「四足堂」とは雨露をしのぐために四隅に4本の柱を立て、屋根を葺いただけの簡素な建物のことです。

愛媛県の城川町は「茶堂」が多く残っているところとして有名で、俺も何ヵ所か写真を撮っていますが、それも四隅に柱を立てて、壁がない簡素な造りの建物があり、昔は、お遍路さんなど旅人が休憩したところだそうです。「四足堂」はそんなイメージでしょうか。

近所のおじさんがいて、しばらく立ち話をしました。

「あれが、犬の墓なんですね?」

と、「戌墓」を指して確かめたら、

「そうです」

との答え。

「犬墓(いぬのはか)」という地名は珍しいでしょう?」

と、おじさんは言いました。

「そうですね、聞いたことはありませんね。「犬飼」とか「犬塚」とかはありますが」

あとで調べてみたら、小佐々学氏「日本愛犬史」によると、「犬墓」という地名は、ここ以外には和歌山県にあるだけらしい。やはり珍しい地名のようです。

「映画の『八つ墓村』が流行った時、犬墓がモデルではないのかと地元では話題になったんですよ」

そういわれれば、そんな雰囲気も感じられます。「やつはか」、「いぬのはか」。たしかに似ているかも。地元の人が言うんだから確かでしょう。あんな凄惨な事件は起こってないと思いますが。

お遍路さんも犬墓大師堂に時々立ち寄っていくそうです。昔はこのお堂にお遍路さんが住み着いて、掃除もして、お堂の管理をしてくれる人もいたという。

今は、いろんな問題があり、原則としてお堂の中にお遍路さんを泊めることはありませんが、外でテントを張って泊まるお遍路さんはいて、そんなときは、おにぎりなどの差し入れをしたこともあるそうです。

あるときは、大雨でずぶ濡れになったお遍路さんを、次の第十一番札所まで車で乗せて行ったこともあるそうです。このあたり、「お接待」という四国人独特のおもてなし文化が今でも息づいているということなのでしょう。

「昔は、毎年8月20日に”おはつか”という集会がありました。今も、村人が集まって酒盛りしたりしますが、昔は、縁日の露店なんかも出て、にぎわいました。おもちゃを売る露店はうれしかったですねぇ。この辺りの店にはおもちゃなんか置いてなかったし。それと昔は10月に獅子舞を踊る秋祭りもやってたんですが、それももうやっていません」

「楽しかったでしょうね」

「そうですね」

おじさんは懐かしそうに言いました。

「時々犬連れの人もここにやってきます。お堂の中も自由に見て行ってください」

お堂に上がると、奥の方には弘法大師の像の隣に、亡くなったのか、愛犬の写真が奉納されていました。ここも犬好きの人たちの聖地のひとつのようです。
 
 
 
 
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2016/11/08

「食と農の景勝地」、農水省が5地域を認定のニュース

161108_21(岩手県一関市 骨寺荘園遺跡)

161108_22(岩手県一関市 金山棚田)

161108_23(徳島県美馬市脇町南町 通称「うだつの町並み」)

161108_24(徳島県美馬市脇町南町 通称「うだつの町並み」)


「農林水産省は、地域に根ざした食文化を活用して外国人観光客を呼び込む取り組みを進める北海道の「十勝地域」など5地域を、「食と農の景勝地」として認定した。」(Nifty NEWS)

認定されたのは、北海道十勝地域、岩手県一関市・平泉町、山形県鶴岡市、岐阜県馬瀬地域、徳島県にし阿波地域の5地域です。

外国人観光客にもリピータが増え、いやゆる日本のゴールデンルートでは、物足りない外国人も増えてきて、日本のもっとコアな観光地を求めるようになるのは自然な流れでしょう。農村が注目されるのはいいことだと思います。

今回認定された5地域のうち、岐阜県の「馬瀬地域」だけはまだ行っていませんが、確かに各地域は個性的なところで、風景ももちろんですが、食文化も注目されているようです。

岩手県「一関市・平泉町」は、今年6月と10月、2回訪ねていて、特に6月、平泉町の世界遺産を撮影した時には、周辺の田園風景も訪ねています。一関市の「骨寺荘園遺跡」や「金山棚田」です。

それと、ちょうど今【愛犬物語百景】で紹介しているところが四国ですが、旅の途中、徳島県「にし阿波地域」の「脇町うだつの町並み」があったので寄ってみました。

「うだつ」と呼ばれる火よけ壁をつけた建物が軒を連ね、古い町並みが残っています。国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

寄った時は平日の昼間だったからなのか、静かな街並を楽しむことができました。
 
 
 
 
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【愛犬物語百景 其の六十二】 香川県琴平町 こんぴら狗

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伊勢神宮や金毘羅大権現(今の金刀比羅宮)への参拝は、江戸時代の庶民あこがれの旅でした。ただ、今と違って当時これらに参拝するのは大変なことでした。だから旅慣れた人が代理で参拝に行くことがあって、これを「代参」といいます。

森石松は清水次郎長(山本長五郎)に代わって金毘羅大権現に参拝し、預かってきた刀を奉納したと伝えられています。代参で有名な話ですが、代参するのは人間だけではなかったようです。

江戸時代に「こんぴら狗」というワンコたちがいました。飼い主の代わりに「こんぴら参り」をしたのが「こんぴらいぬ」。

「こんぴら参り」の袋に、飼い主を記した木札、初穂料(お賽銭)、道中の食費を入れて、旅人に飼い犬を託したのです。旅人や街道筋の人たちに世話してもらいながら、犬はこんぴら山にたどり着きました。そして無事、お参りを済ませた犬は、再び旅人の世話になりながら、家族のもとへ帰っていきました。こんなほのぼのとした風習があったというのです。

ヴィーノを連れて日本一周したとき立ち寄った金刀比羅宮で「こんぴら狗」の話を初めて聞いたとき、最初はフィクションなんだろうと思いました。

この話は三重県伊勢市の「おかげ犬」のところでも触れましたが、もう一度書きます。

仁科邦男氏の 『犬の伊勢参り』(平凡社)を読むと、こんぴら参りをした犬も、伊勢参りをした犬も、話自体は本当なんだなとわかってきます。(もちろん犬の意志ではありませんが)

詳しくは、こちらでどうぞ。

犬がお伊勢参りをした話は本当か? 仁科邦男著 『犬の伊勢参り』

「犬の伊勢参りは人の心の生み出した産物でもあった」と著者は言います。例えが適切かどうかわかりませんが、「こっくりさん」と似ているのではないでしょうか。みんなの意識的・無意識的願望や希望が犬を導いたということらしいのです。

そして今回、もう一度金刀比羅宮にやってきました。前回も、犬連れOKだと聞いていたからです。がんばってヴィーノを連れて、本宮まで登るつもりでした。

でも運が悪いことに、その日、大雨になってしまい(あとで晴れましたが)、ヴィーノは車に残して、俺だけ登ることにしたのです。結局、前回と同じ、俺がヴィーノの代参をすることになりました。主従逆転です。

本宮の手前に、「こんぴら狗」の像があります。湯村輝彦氏がデザインしたひょうきんな顔をした「こんぴら狗」です。ちゃんと首から初穂料や飼い主の住所が入った袋を下げています。

今回金刀比羅宮をお参りして、ふたつ、違ったことがありました。

ひとつは、大門のところに、犬連れOKということを全面的に打ち出した看板が立っていたことです。

「…当宮では、古くより続いているこの”こんぴら狗”信仰にあやかり、特別にペットを連れての参拝を許可しております…」

隣にはポケモンGOはダメという看板も立っていました。英語の看板もあります。「Please refrain from playing POKEMON GO(ポケモンゲームは控えてください)」

犬はいいけど、ポケモンはダメなのです。

全国でも珍しい、正式に犬連れを許可している大きな神社は、やはりここだけかもしれません。(ちなみに伊勢神宮ではまだダメです。伊勢神宮界隈でも「伊勢参りの犬」の存在は小さいです)

もうひとつ、785段の階段を上りきると本宮ですが、そこには、「開運こんぴら狗みくじ」のテントが立っていて、中に、背中におみくじを詰めた白い犬の像が置いてあったことです。

けっこう狗みくじは外国人にも人気があるようで、人だかりがありましたが、100円をお賽銭箱に入れて、おみくじを背中から取り出します。

社務所では、前回「こんぴら狗の置物」を買ったので、今回は、「幸福の黄色いお守り」とおみくじのセットをいただきました。「こんぴら狗の誠実さと人情の温かさを今に伝える。人の願いを叶え、しあわせをもたらすお守り」だそうです。

ところで、金刀比羅宮が所蔵する掛軸『金毘羅狗図』(作者:平林春一氏 昭和13年)には、道中の宿場町でしょうか、こんぴら狗が描かれています。

茶色の犬が首に初穂料を入れたと思われる黄色い袋を提げているのが見てとれます。犬を任されたらしい旅人が犬の世話しているのを、周りの人たちも暖かく見守っている様子が描かれています。

しゃがんで手を出している男もいますが、「ポチ、えらいねぇ」とか言っているのが聞こえてきそうです。とても日本らしい光景に見えます。ほのぼのとして、ユーモアもあって、おもしろい風習です。

明治期以降、「こんぴら狗」も「お伊勢参りの犬」もいなくなったのは、それまでは普通にいた、自由に歩ける犬(つまり地域犬、野良犬)がいなくなってしまったことも関係しているという。

それはそうですね。今は、繋がれていない犬は、すぐに保護されてしまいます。

もし犬がしゃべれたとして、「おまえどこへいくんだ?」と聞かれて「ちょいと、主人の代わりに金毘羅さんまで」と答えたとしても、許されない時代になってしまいました。
 
 
 
 
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2016/11/07

【愛犬物語百景 其の六十~六十一】  香川県善通寺市 弘法大師の犬塚と、赤門七仏薬師の犬「ころころ」の像

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161108_4(犬塚)

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161108_6(赤門七佛薬師の犬像「ころころ」)

161108_7(赤門七佛薬師の犬像「ころころ」)

161108_8(赤門七佛薬師 おっぱい絵馬)


真言宗の開祖空海が唐から連れ帰ったとされる犬の墓である善通寺市の犬塚は、国立善通寺病院の近くの住宅街にあるはずでした。

塚を探して路地を歩いていた時、ひとりのおばさんが来たので、

「すみません、近くに犬塚があるはずなんですが、知りませんか?」

と尋ねました。すると、

「さぁ、わからないですねぇ」

という答えでした。がっかりして、そこから向かいの角を曲がったとたん、20m先にそれらしい屋根がかかった祠のようなものを見つけ、近づいてみたら、これが探していた犬塚でした。

「なんだよ。こんなに近くじゃないか」

と内心、さっきのおばさんにムッとしたのでしたが、でも、考えてみると、興味のない人には、物はあっても存在しないのと同じだということなんですね。おばさんを責められません。

この塚は、民家と民家の間にあって、狭い通路を10mほど進んでいかないと近づけないところでした。

教育委員会の看板が立っていて、

「この犬塚は、角礫凝灰岩製の笠塔婆で高さ2.5メートル、四方仏の梵字は大日如来を表す”バン”であり風化が著しい。作者は不明で鎌倉時代の作と推定される。空海が唐から持ち帰った薬草(麦の種子)にまつわる義犬伝説があり、昭和六十二年七月二十一日、市の史跡として指定され、古くからの信仰を今に伝えている。」

とありました。かなり石碑は風化していますが、上の方の梵字は何とか判別できます。これが”バン”なんでしょうか。

碑の周りの柵は新しく、市内の人の名前が刻まれていていますが(たぶんこの柵を寄贈した人?)、この碑が地元の人たちに大切にされているのを感じます。

その義犬伝説とは、善通寺市のHPによると、こういったものです。

「唐に留学していた弘法大師が天竺の国に行った時のこと。天竺の国王は大切にしていた薬草を持ち出されないように、番犬を使って畑を管理していました。他では手に入らない薬草を何とか手に入れたいと考えた弘法大師は、3粒の種を足の股の肉を裂いてその中に隠して持ち帰ろうとしました。ところが1匹の番犬がひどく吠え、問いつめられた弘法大師は盗んでないといい通し、犬は番人に叩かれて死んでしまいます。かわいそうに思った弘法大師は犬の死骸を持ち帰り、長安で真言の秘法を施して生き返らせます。薬草とともに犬も一緒に帰国し、その後、死んだ犬を祀ったという話です」

この伝説では、薬草(麦の種子)となっていて、空海自身が持ってきたことになっていますが、中国南部、少数民族には、稲の種子(モミ)を持ってきたのは犬だったという伝説もあります。犬の尾にモミを付けて持ってきたのではなかったでしょうか。犬の尾が稲穂を連想させることと関係があったような…(記憶違いならすみません)。

穀物起源の話と犬は意外と関係が深いようです。
 
 
もうひとつは、善通寺の赤門筋商店街の一角にある「赤門七佛薬師」の犬像です。

「赤門七佛薬師」の本尊である「七佛薬師」は、かつて弘法大師・空海が、7体の石仏を刻んで祀ったとされるもので、お参りすると乳の出が良くなるという言い伝えから「乳薬師」とも呼ばれ、昭和50年ころまで県外からもお参りする人が来るなどにぎわっていましたが、粉ミルクが普及して、かつての賑わいはなくなりました。

「赤門七佛薬師」は、総本山善通寺創建1200年を機に、本尊の吉原町七佛薬師寺より勧請され建立されました。

かわいらしい乳房をかたどった絵馬が数多く奉納されています。毎月八日を法要日とし、各商店が商品を特売する「八日市」も開催されています。目標は、「東京・巣鴨のとげぬき地蔵」をモデルにしているそうです。

2016年5月8日、女性の病気予防や治癒、子授けなどに御利益があるとされる本尊の薬師像や“安産犬”として親しまれている石像を前に、建立10周年を記念した法要が営まれました。

それに合わせて“安産犬”の名前を公募したところ、273通の応募があり、その中から「ころころ」に決まりました。

「ころころ」は香川県の庵治石製の犬像です。(庵治石といえば、思い出すのは、松山市道後温泉の湯船が同じ庵治石製だったと思います)

“安産犬”らしく、少しぽっちゃりしたワンコ(もちろん雌でしょう)の像です。名前「ころころ」そのままですね。

雨が降ってきたので、まるで背中がダルメシアンのようになってしまいました。
 
 
 
 
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【愛犬物語百景 其の五十八~五十九】 岡山県岡山市 岡山駅前と吉備津彦神社の桃太郎像

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♪ももたろさん、ももたろさん、おこしにつけたきびだんご、ひとつわたしにくださいな~♪

桃太郎の話をまったく知らない人はいないと思いますが、桃太郎の像が、岡山県にあることはつい最近まで知りませんでした。

もちろん桃太郎の像を撮影するのは、桃太郎に従っているワンコがいるからです。

ただ、犬は、脇役なわけですね、桃太郎に関しては。

物語は、桃太郎が、お婆さんから黍団子をもらって、犬、猿、雉を従えて、鬼ヶ島の鬼を退治しに行くというもの。

なぜ、桃太郎像が岡山県にあるのでしょうか? 調べてみました。Wikiによると、

「岡山県は桃太郎作中の「黍団子」と同音の江戸時代の地元土産品「吉備団子」をつなげさせるなど、全県を挙げての宣伝活動からゆかりの地として全国的に有名になった」

とのことです。「黍団子」と「吉備団子」ですか。なるほどと思いますが、「「吉備団子」と「黍団子」との関係は証明されていない」ともあって、要するにわからないってことですね。

まぁ、おとぎ話なんだから、その程度でいいのではないかなと思います。大切なのは、物語の内容です。

おとぎ話や昔話には、何かきっかけになる史実があって、それが象徴的な話へと変わっていったということは多いのかなと思います。また心理学では、人間が共通に持っている普遍的無意識が元になっている話と解釈することもあります。

Wikiによれば、桃太郎の場合、

「古代の大和政権と吉備国の対立構図を、桃太郎と鬼の争いになぞらえた」

という説もあるようです。

「桃太郎の姿が、日の丸の鉢巻に陣羽織、幟を立てた姿になり、犬や鳥、猿が「家来」になったのも明治時代からである。それまでは戦装束などしておらず、動物達も道連れであって、上下関係などはない。明治の国家体制に伴い、周辺国を従えた勇ましい日本国の象徴にされたのである。」

これを読むと、昔は、犬たちは単なる道連れであって、家来ではなかったようです。明治期になって、犬(家畜)は人間が管理する存在として、人間の「下」に見る西洋的な思想の影響や、明治国家に忠誠を誓わせるような意図が感じられます。「犬」「猿」「雉」は日本の周辺国を表しているのでしょうか。

物語はいろんなパターンがあって、必ずしも犬が登場しないパターンもあります。また、「猿」は、インドの叙事詩「ラーマーヤナ」の中のハヌマーンがモデルとする説もあるそうです。

どうして犬猿の仲といわれる「犬」と「猿」がお供になったのでしょうか。なんでわざわざ「犬」と「猿」なのか。それについては、「鬼門」の鬼に対抗して、「裏鬼門」に位置する十二支の動物、申(サル)、酉(トリ=キジ)、戌(イヌ)を率いた、という解釈があるそうです。

また、心理学者の河合隼雄氏は、桃太郎に登場する「桃太郎」「犬」「猿」「キジ」を、人間の基本的な4つの機能、桃太郎=感覚機能、犬=感情機能、猿=思考機能、雉=直感機能とし、鬼で象徴される人間の否定的な面を抑制するプロセスの話と解釈しています。.

桃太郎については、他にも民俗学者の柳田國男氏を初めとして、文化人類学とか、神話学とか、さまざまた立場から解釈しています。

物語の中には、桃太郎は怠け者で寝てばかりいる「三年寝太郎」的なダメ人間として描かれているものもあります。それが鬼を退治して勇ましい人間になって帰ってくるというストーリーは、明らかに人間の自我の成長物語でもあるように思います。民俗学者の関敬吾氏のいう青年の通過儀礼を反映しているという説に、個人的には魅かれます。
 
 
さて前置きが長くなってしまいましたが、まずJR岡山駅の桃太郎像です。天気は雨になってしまいました。

駅の改札階に上がろうとしたとき、エレベーターでいっしょになった親子に、地元の方ですか?と聞いたら、そうですというので、

「駅に桃太郎の像があるそうですが、どこですか?」

と聞いたら、

「東口のロータリーになったところにあります」

と即答。当たり前といえば当たり前なんでしょうが、地元民ならだれでも知っている桃太郎像のようです。

傘をさしての撮影になってしまいましたが、駅ビルを背にして桃太郎と、犬と猿と雉の像は立っていました。

次に訪ねたのは、吉備津彦神社です。神社としてはかなり立派です。雨霧にけぶる拝殿や本殿が、杜を背景に幻想的な雰囲気を醸し出しています。

何か桃太郎の犬に関してのものはないだろうかと社務所を覗いてみました。犬関係はなかったのですが、「桃みくじ」とかはありました。

境内のはじっこに、桃太郎像がありました。ヴィーノも車から降ろし、記念撮影です。

像は、わざとなのかどうなのか、どことなくとぼけた桃太郎で、思わず笑ってしまいました。駅前のりりしい姿とは違っています。

でもよく見ると、味わい深いです。色も塗られているので、棚田の案山子コンテストで出品されたような親しみがわきますね。

ただ、犬の像はいただけません。狸か、アライグマのようにも見えますが、なんといっても顔が怖い。可愛くありませんでした。脇役だからしかたないですが。
 
 
 
 
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今日は、二十四節気の「立冬(りっとう)」、七十二候「山茶始開(つばきはじめてひらく)」

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いよいよ「立冬」です。

この前も書きましたが、今年は夏が長かったせいで秋が短く、最近は師走の寒さもあって、冬が早いように感じます。今年は雪が多いという予報もあります。関東では年を越した1月、2月に大雪になる場合が多いということです。注意しなければなりません。

また、七十二候は「山茶始開(つばきはじめてひらく)」です。

山茶花(サザンカ)の花が咲き始めるころという意味です。

ただ、山茶花と椿(ツバキ)は混同されがちだそうで、素人に見分けは難しい。なので、上に掲載の紅白の花が、どっちなのか、正確にはわかりません。

「漢字表記の山茶花は中国語でツバキ類一般を指す山茶に由来し、サザンカの名は山茶花の本来の読みである「サンサカ」が訛ったものといわれる。もとは「さんざか」と言ったが、音位転換した現在の読みが定着した。」(Wiki参照
 
 
 
 
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2016/11/06

【愛犬物語百景 其の五十七】 兵庫県宝塚市 介助犬シンシアの像

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JR宝塚駅構内に「シンシア像」が置かれたのは、2015年3月14日のこと。

このニュースを覚えています。また新しい犬像ができたんだなぁと、その時思いました。それで【愛犬物語百景】のリストに入ったのでした。

シンシアの像は、JR宝塚駅の2階コンコースにありました。メスのラブラドールレトリバーです。実物大の像でしょうか。行きかう人々を見守っているような姿です。顔を見るとほんとうに賢そうですね。

シンシアは、「身体障害者補助犬法」の成立に尽力した介助犬なのです。その存在は大きかったと言えるでしょう。

以下、「子犬のへや」と「Wiki」から引用させてもらいます。

コンピュータプログラマーの木村佳友さんは1987年、オートバイ事故に遭い、首の骨を折って、手足を動かせなくなっていまいます。しかしその後の懸命なリハビリで、在宅勤務ができるまで回復し、宝塚市内で奥さんと暮らしていました。

木村家に「シンシア」がやってきたのは1994年のことでした。「シンシア」という名は、木村さんがアイドル歌手・南沙織のファンであることから、彼女の愛称にちなんでつけられたものだそうです。

シンシアは、最初はお転婆でしたが、東京都八王子の介助犬訓練所へ預けられてから、介助犬としての才能が開花します。

木村さんの行動範囲は広がりましたが、シンシアはどこでもペット扱いで、同伴を断られたといいます。それでも「世間における介助犬の認知度を高めよう」という使命感で、講演会など地道な活動を続けました。結果、マスコミにも取り上げられ、介助犬の認知度が上がっていきました。

1998年、毎日新聞社が介助犬の法的認知を訴えるキャンペーンを行ないました。新聞の地域面に掲載された連載「介助犬シンシア」は523回を数えます。

2000年には、住友生命が扱う介護保険のコマーシャルにシンシアが抜擢されます。さらに宝塚市が『シンシアのまち宝塚』を宣言したことで、介助犬の知名度がさらにアップしました。

そしてとうとう2002年には、介助犬の重要性を国が理解し、同年5月に「身体障害者補助犬法」が成し、民間や公的施設における介助犬の同伴が法的に認められることになりました。

シンシア像の後ろに立つ碑文「シンシアのまち宝塚」には、

「介助犬シンシアは、車いす生活を送る木村さんに寄り添い、ドアを開閉したり、落とした物を拾ったり、買い物へ同伴するなど、約70種類の言葉を理解して、暮らしを助けました。何より喜んでもらえることがとても嬉しそうでした。その姿は多くの人々の感動を呼び、法整備するためのシンボル的存在になり、2002年に「身体障害者補助犬法」が成立しました。視覚障がい者の盲導犬、聴覚障がい者の聴導犬、そして肢体不自由者の介助犬を身体障がい者補助犬と呼び、その存在が障がい者の権利として確立しました、世界中の人々が相手を思いやり、やさしく支え合うことが当たり前となる日が来ることを信じて、ここに「シンシア像」を置きます。平成27年(2015年)3月14日 宝塚市」

2006年3月14日、シンシアは静かに息を引きとったそうです。宝塚駅にシンシア像が置かれた日は、シンシアの命日だったのですね。
 
 
 
 
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平成29年(2017年)版 「旧暦棚田ごよみ」の予約を開始しました

Tanadagoyomi2017


平成29年(2017年)版 「旧暦棚田ごよみ」の予約を開始しました。

発売は11月14日です。旧暦十月十五日で、満月の日です。

予約はNPO法人棚田ネットワークのHPでどうぞ。

表紙は、長野県飯山市の福島新田、秋の夕方の風景です。

そのほか、

長崎県松浦市 土谷棚田
茨城県常陸太田市 浅畑の棚田
宮城県丸森町 沢尻の棚田
埼玉県皆野町 三沢の棚田
岩手県一関市 金山棚田
滋賀県高島市 畑の棚田
熊本県球磨村 松谷の棚田
岡山県美咲町 大垪和の棚田
山形県山形市 蔵王駒鳴の棚田
長野県長野市 赤塩の棚田
静岡県伊豆市 荒原の棚田
愛媛県内子町 石畳の棚田
新潟県十日町市 星峠の棚田

以上の棚田の写真を使っています。
  
 
 
 
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【愛犬物語百景 其の五十五~五十六】  兵庫県尼崎市 兵庫県動物愛護センター 「警察犬アルフと盲導犬チャンピーの像」

161106_6_2(兵庫県動物愛護センター)

161106_7(兵庫県動物愛護センター 愛護館の壁面)

161106_8(愛護館内の展示室)

161106_9(盲導犬チャンピィの像)

161106_99(警察犬アルフ号の像)


兵庫県尼崎市の兵庫県動物愛護センターは武庫川沿いにありました。

「愛護館」は、犬について学べるような展示室になっています。そして数体の名犬のブロンズ像が並んでいます。

「忠犬ハチ公」、「南極犬ジロ」、「盲導犬チャンピィ」、「警察犬アルフ号」、名犬ラッシーのモデル「ボビー」、「リーダー犬バルト」の像です。

ハチ公やジロはすでに取り上げているので、ここでは割愛します。また、ボビーとバルトもアメリカの話なので、「アメリカ編」で紹介することにして、ここでは割愛します。

「チャンピィ」はジャーマン・シェパードで、日本で育成された盲導犬の第1号です。1957年から滋賀県立盲学校教諭・河相洌さんの盲導犬として活躍しました。

「盲導犬チャンピィ」の話がNHKの「プロジェクトX」で放送されたこともあります。

河相さんがチャンピィと学校に通っていた姿を見ていた彦根市民は、

「とにかく大きい犬でした。シェパードは耳が立っているものですが、チャンピィは垂れていたので恐い感じは無かったですね」

と思い出を語っています。(彦根商店街参照)

 
 
もう1体が「警察犬アルフ号」です。オスのジャーマン・シェパードで、凛々しい姿でお座りしています。警視総監賞でしょうか、首にはメダルをかけています。

警視庁のHPには、「名警察犬アルフ号」として掲載されています。

正式な名前は「アルフ・フォン・ムト・ハイム号」だそうです。長い名前ですね。

HPから引用させてもらうと、

「昭和41年に生まれ、51年9月までの間、爆弾闘争や浅間山荘事件等で揺れる激動の昭和を警察官とともに支えた名警察犬でした。その優秀さを裏付けるように、警視総監賞2回、警察庁刑事局長賞2回、警視庁刑事部長賞9回など合計109回も表彰されています」

アルフはこのように優秀な警察犬でした。でも意外にも、初めはダメ犬だったそうです。

アルフを警察犬として訓練して育てたのは、天野重夫巡査でした。

警視庁の鑑識課に警察犬係と訓練所ができたのは昭和31年のこと。ここに転勤してきた天野さんは犬係となり、アルフの訓練も担当することになります。

ある日、民間の犬の訓練所から警察犬に向いた犬がいると連絡が入り、やってきたのがアルフでした。天野さんとアルフの出会いです。

初めてアルフ号を見た天野さんは、体が小柄なところを心配しましたが、投げたボールを取って戻って来る意欲「持来欲」を十分に持つ点と、当時優秀な成績を挙げていた担当犬アリス号と顔つきが似ている点に期待したそうです。

でもアルフは訓練を嫌がったり、すぐに下痢をしたりして、ダメ犬のレッテルを貼られてしまいます。民間訓練所への返す声も出たそうです。

それでも天野さんはアルフの才能を信じて根気よく、粘り強く訓練を続けました。体力以外に何か長所があると考えた天野さんは、アルフが匂いを追うことに関しては集中力の強さを見せる、警察犬としての適性を見出しました。こうしてようやくアルフは警察犬に採用されることになりました。

アルフの才能は開花します。普段はダメなやつでも、ある状況では急に才能を発揮しだすのは、犬ばかりではなく、人間もそうですね。どんな犬、人間にも、何かの才能があって、それを見出して伸ばしてくれる人に巡り合うのは幸運なことです。たいていは、自分の才能にも気が付かないまま一生を終わる犬や人間がほとんどでしょう。

アルフは当時社会に不安を与えていた過激派の検挙に大活躍することになりました。そして、ついに警察犬としては初めて警視総監賞を受賞するのです。

有名な事件としては、1972年に起こった「あさま山荘事件」があります。

テロリスト集団の連合赤軍が人質をとって軽井沢のあさま山荘にたてこもった事件です。当時テレビでは生中継されましたが、大きな鉄球で壁を壊すシ-ンは、今でもよく覚えています。

その中にアルフもいました。

雪の舞う零下15度の山中を約8kmにわたって追跡し、犯人らが隠していたダイナマイトや鉄パイプ爆弾、出納記録を記したノートなどの遺留品約300点を発見、さらに野宿した痕跡を2つ発見してメンバーらの足取りを明らかにし、事件解決の突破口を開き、大活躍しました。

アルフは、昭和51年9月18日、最期は、天野さんに抱かれたまま、眠るように息を引き取りました。老衰でした。享年10歳6か月、人間でいえば約70歳でした。

9月20日には訓練所で葬儀が行われました。墓地は東京家畜博愛院(東京都板橋区)にあるそうです。
 
 
 
 
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2016/11/05

【愛犬物語百景 其の五十四】 大阪府堺市 樺太犬の慰霊碑

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大阪府堺市の海に近い大浜公園を訪ねました。めちゃくちゃ暑い日でした。

堺旧港南波止場には日本最古の木造洋式灯台である「旧堺燈台」があります。明治10年に築造された高さ11.3mの六角錘形の白亜の灯台です。国指定史跡になっています。

またこの公園には、「樺太犬の慰霊碑」があります。

「南極物語」について簡単に説明すると、

昭和33年2月、初代南極観測船「宗谷」が流氷に阻まれて、動きが取れなくなりそうになり、ヘリで、昭和基地の隊員を救出することになりました。この時点では、すぐに第二次観測隊が来ることになっていたので、昭和基地にいた犬係の北村泰一さんは、犬ぞり用の樺太犬15頭の首輪をきつく締め、鎖につなぎ直しました。

でも悪天候によって、交替の第二次観測隊は来ないことが決定。残された犬について、隊員は、連れてこれないなら、いっそ殺しに行かせてほしいと頼みましたが、事態は深刻で、それもかないませんでした。北村さんたちは泣く泣く犬を置き去りにせざるをえなかったのです。

日本に帰った彼らは、「なぜ犬を見殺しにしたのか!」と大バッシングを受けます。北村さんも自責の念にかられて精神的にも肉体的にもかなり参ったといいます。

「樺太犬の慰霊碑」は、このとき南極に置き去りにされた犬たちを慰霊するために建てられたものです。

15頭の群像ですが、第一印象は、悲しい群像だなと思いました。とくに後姿には悲しさがあふれています。説明書きを読んでなるほどと思いましたが。

昭和33年に設置されたときに埋め込まれたプレートには、

「昭和三十二年二月十五日より昭和三十三年二月十一日まで南極観測隊 第一次越冬隊に協力した樺太犬の霊の為に 昭和三十三年七月六日 第一次越冬隊 隊長 西堀榮三郎」

そして、コンクリート像から、現在のこのブロンズ像に作り代えられたのが昭和62年のことです。

「このカラフト犬慰霊像は昭和33年7月に南極地域観測隊の第一次越冬隊(S 32.2.15~S 33.2.11)に協力した15頭のカラフト犬の霊を慰めるため堺市在住の獣医で彫刻家岩田千虎氏が別れを惜しみながら立去って行く越冬隊員に向かって遠吠えを続けている姿をコンクリートの像に仕上げ 市に寄贈され 当時水族館の南側遊園地に設置されたものですが 像の風化が著しくなったので このたび原型像に忠実にブロンズの像に復元制作したものです 昭和62年3月31日 堺市公園部」

犬たちの姿は「別れを惜しみながら立去って行く越冬隊員に向かって遠吠えを続けている姿」なのですね。だから悲しいのです。

昭和33年7月ということは、第3次南極観測隊がタロ、ジロと再会するのは昭和34年なので、まだタロ、ジロが生きていることはわからなかった時です。だから、全頭亡くなったと思って、この慰霊碑は作られたのです。「どうして犬たちを置き去りにしたんだ?!」と、日本中から大バッシングを受けていた、その抗議の嵐の真っただ中で建てられた慰霊碑であったようです。

そういえば、慰霊碑の除幕式の時、犬係のひとりであった菊池徹さんが、犬たちの名前を1頭づつ読み上げていったとき、最後の2頭だけは、どうしても名前が思い出せなかった、その2頭がタロとジロだったというエピソードがありますが、もしかしたら、この慰霊碑のことだったのではないでしょうか。

と、思って調べてみました。するとやはりこの慰霊碑の除幕式での出来事だったようです。

この除幕式に参列した第1次越冬隊員は、西堀栄三郎氏、菊池徹氏、藤井恒男氏の3名だったとのことです。

菊池さんは13頭の犬の名前を読み上げましたが、突然絶句してしまいました。どうしてもあと2頭の名前がでなかったのです。それで「やすらかに眠れ」と結んだそうです。

このエピソードは、心理学の教材にもなっているという話は以前書きました。

フロイト的に解釈すると、菊池さんは犬係として15頭の犬たちの微妙な違いを意識的にも、無意識的にも把握していて、「特別生命力が強かったタロ、ジロが死ぬはずがない」という気持ちが、名前を忘れさせた(名前を言いたくなかった)ということのようです。

また同じ犬係であった北村さんが見たのは南極大陸を走っている2頭の樺太犬の夢で、それは翌年正夢になったわけです。

両方とも不思議な話です。それだけ菊池さんや北村さんの犬たちに対する愛情の深さを表すエピソードでもあるし、追い詰められた人間心理のエピソードでもあると思います。

ところで、現在では生態系保護のため、南極には、外来の生物(犬など)を持ち込むことはできないそうです。
 
 
 
 
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【愛犬物語百景 其の五十三】 和歌山県九度山町 「高野山の案内犬ゴンの碑」

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和歌山県九度山町慈尊院には「高野山案内犬ゴンの碑」があります。

たびたびマスコミにも取り上げられて有名になったゴンでしたが、老衰のため、2002年(平成14年)6月5日息を引き取りました。

同年7月には慈尊院住職によって境内の弘法大師像の隣に、ゴンの石像が建てられました。

このゴンについて、Wikiから引用させてもらいます。

「昭和60年代(1985年 - 1988年)に、九度山駅と慈尊院を結ぶ途中にある丹生橋の近くに住みついていた紀州犬と柴犬の雑種である白い雄の野良犬が、やがて慈尊院や高野山の参詣者・ハイキング客を案内するようになった。慈尊院から聞こえる鐘の音を好んでいたため、いつしかこの野良犬は「ゴン」と呼ばれるようになった。」

というワンコだそうです。

住職にお話をうかがうことができました。

「寺に来る前は、営林署の署員たちに可愛がられていましたね」

もともとゴンは野良犬だったようですが、柳田國男も指摘している明治以前には日本では当たり前だった特定の飼い主がいない、かといって完全な野犬でもない犬、いわゆる「地域犬(里犬)」だったということですね。

地域犬だから、だれからも管理されず、自由に動き回れたということなのです。だから九度山駅と慈尊院を行き来したり、慈尊院から高野山へ人を案内したり、ということが可能だったと考えられます。

この「地域犬」という条件は大切で、三重県伊勢神宮の「おかげ犬」や、これから四国で紹介するつもりの金毘羅参りをした「こんぴら狗」なども、基本、自由に歩ける犬だからできたことでもあります。(だから現代では「おかげ犬」も「こんぴら狗」も存在できない)

「ゴンが、本当に高野山まで人を案内しているのか、疑う人もいました」

と住職は言いました。

そうなんでしょうね。片道24kmというから往復48km。それをほぼ毎日通うのだろうか?という疑問が生まれるのも当然かと思います。

でも、俺のフィリピンを初めとして、まだ地域犬がうろうろしているアジアの国々の体験から、ゴンが高野山と慈尊院を行き来していたというのは本当ではないかと直観的に思いました。

それはルソン島の世界文化遺産、イフガオ族の棚田が広がるバダッド村へ行った時のことです。

バダッド村に滞在していた俺はバナウエの町に戻るために、峠越えをして車道まで出ることになりました。その間直線距離では5kmくらいだと思います。ただ、荷物を背負っているし、途中峠を登らなければならない山道なので、3時間はかかりました。

バダッド村を出発した時、俺の後になったり先になったりしながら付いてくる1匹の子犬に気がつきました。たしか泊まっていたサイモンズ・ゲストハウスにいた子犬かなと思いましたが、そのうち、ゲストハウスに戻っていくだろうと思っていました。

ところがその子犬は、峠までいっしょに付いてきてしまったのです。だいじょうぶか?帰れるか?と心配になってしまいました。

その後も峠どころか、結局車道まで付いてきてしまいました。特別その子犬を可愛がったりもしていなかったので、どうして俺がこの子犬に好かれるのか理解できませんでした。まるで俺を車道まで案内してくれたように感じました。

ちなみに、ルソン島北部には、長者が犬を連れて狩りに出た帰り、犬が突然悲しげに鳴いて走り出したので、あとを追って行くと死者たちの村に案内されたという昔話があるそうです。(大木卓著『犬のフォークロア』)

俺に付いてきた子犬が村に帰ったのかどうかは確かめていないのでわかりませんが、どうも、これは犬の一種の習性ではないかなと、今は思います。

人間が歩いていると、何かのタイミングでいっしょに付いていくようなところがあるのではないかと。特別俺が子犬に好かれたわけではないのでは、と思うのです。(たしか仁科邦男著 『犬の伊勢参り』にもそんなことが書いてあったような)

フィリピン以外でも、たとえば、インドネシア・バリ島、スリランカ、ネパールなどでも、犬が人に付いてくることがままあったからです。

だから犬の習性としても、人間といっしょに歩くのが、ゴンにとっては嬉しいこと、気持ちの良いこと、幸せに感じることであったから続けていたのではないかと思うのです。人間に強制されたわけではないのは確かだし、ゴンの自発的な意思として。

住職はこうも言っています。

「ゴンは、繋がれるのが嫌いな犬でした。私の姿を見ると、繋がれるのでは?と、こそこそして逃げることもありましたねぇ」

ゴンの地域犬(里犬)としての感覚として、人間に管理されてしまう窮屈は理解していたのではないかな。ゴンは特別に自由に歩きたい犬。歩くことが好きだった犬のような気がします。

48kmを往復するのは大変だと考えるのは、まったく人間の感覚であって、犬がどう感じているかはわかりません。ましてや、ゴンのような歩くことが好きな犬ならば。毎日歩きすぎると早死にするかも、とか、疲れすぎると明日に差し障る、などと心配することはないからです。犬は「今」を全力で生きているだけでしょう。

本当に高野山まで案内しているのか?と疑う人もあったので、そしてここが現代的だと思うのですが、それならばと、信者の方は、ゴンについて行って証拠写真を撮ったそうです。

その数多くの証拠写真を貼ったアルバムを見せてもらいました。

それを見ると、確かにゴンは、慈尊院から高野山までの24kmを信者の方といっしょに歩き、あるときは奥の院まで行っていたようです。

あとはそれをどう解釈するかは人間側の問題です。「案内していた」と解釈するのは、約1200年前、弘法大師が高野山を開くとき、2匹の犬が道案内したという伝説があるからかもしれません。実際ゴンは「弘法大師の案内犬の再来・生まれ変わり」、「お大師さんの犬」と呼ばれていたそうです。

本堂のわきを抜けて奥へ入ると、中庭の一角に弘法大師の像と並んで「高野山案内犬ゴンの碑」はありました。

この墓には、ゴン、カイ、ピレネー犬の3頭の犬の亡骸が眠っています。カイというのは、ゴンの友達犬で、亡くなるまでいっしょに暮らしていた犬だそうです。ただ案内はしなかったそうで、やはり、犬の性格も様々なのでしょう。カイも亡くなってゴンといっしょに葬られました。

ちなみに、ゴンについては本も出版されています。関朝之著『高野山の案内犬ゴン』。それとゴンを歌ったCDも作られています。

それにしても、ゴンが亡くなってずいぶん経ちますが、ゴンのことを懐かしそうに話す住職の表情から、ほんとに地元に愛されていた犬だったんだなぁと感じます。

地域犬(里犬)冥利につきるのではないでしょうか。
 
 
 
 
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2016/11/04

【愛犬物語百景 其の五十二】 奈良県王子町 達磨寺「聖徳太子の雪丸像」

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秋の撮影旅では、途中から、【愛犬物語】シリーズをアップするのをあきらめました。

旅中に写真をアップして、記事を書くのは、時間的に余裕がなくなったからです。ヴィーノの世話もあったし、いろいろ調べてからでないと、正確に書けないので、まずいと判断したからでした。

それで今日から、中断していた【愛犬物語】の残りの犬像たちの紹介を再開しようと思います。(毎日ではありません。不定期になります)

まずは、三重県伊勢市の伊勢参りをしたという代参犬の「おかげ犬」の続きです。

三重県から奈良県王子町の達磨寺を目指しました。達磨寺は町役場を南へ500mくらいいったところにありました。

ここには、聖徳太子の愛犬だったといわれる「雪丸塚」があります。

門をくぐって中に入ると、本堂を正面に見て、右側に鐘つき堂があり、左側に小さい池があります。この池の奥に、雪丸塚はありました。並びには何かの碑と「片岡八郎公(17代)の墓」もあります。

石造の雪丸像は、丸っこくてかわいい姿で、愛嬌があります。前掛けをしています。お座りをしている姿で、デフォルメされた像ですが、けっこう現代的なデザインです。古さを感じさせないので、初め、最近作ったのでは?と疑ったくらいです。

「聖徳太子の愛犬雪丸像も町文化財に」という朝日新聞によると、

「雪丸は、江戸時代末から明治時代初めごろの作成と考えられる古文書「達磨寺略記」に、聖徳太子の愛犬で、人の言葉が理解できてお経を読んだ、という記録がある。像は1791(寛政3)年出版の「大和名所図会」にも登場。花崗岩(かこうがん)製で、江戸時代に作られたとされる。台座と合わせた高さは65センチ。」

とあります。

また産経新聞によると、

「江戸時代には「雪丸像が元日に鳴くとその年は豊作になる」との言い伝えがあった」

そうです。

雪丸像が江戸時代に作られたというのはちょっと驚きです。この像がそんなに古いものだとは。そして人間のことばをしゃべる犬とは。なんだかソフトバンクの「お父さん犬」を連想してしまいますが。

塚の立て看板には、

「雪丸は人のことばが理解できたといい、達磨廟(達磨寺3号墳・本堂下に所在)を守るために遺骸を本堂東北隅に葬るように遺言して世を去ったという。このため雪丸像は達磨寺1号墳の石室近く(本堂の東北)に祀られていた。」

像は太子自ら石工に命じて作らせたそうですが、当時の像はどこにあったかというと、本堂東北隅。それで本堂の東北側に周ってみると、墳墓の跡のようなものがあります。ここだったのでしょうか。

今の雪丸像は江戸時代のもので、平成15年に本堂の西南(今の位置)に移されたようです。

寺は保育園にもなっていて、遊び時間になった時、見守りのスタッフの人が着ていたポロシャツの背中には、雪丸がデザインされていました。それで背中を撮影させてもらいました。町のマスコットキャラクター「雪丸」はもちろん、この雪丸がモデルです。

寺の売店でも雪丸をモチーフにしたグッズが何種類か販売されていましたが、スタッフによると、役場でも購入できるということでした。(駅ビルに『雪丸ミニプラザ』がオープンしているそうです)

「いつから雪丸が町のキャラクターになったんですか?」と聞くと、「2、3年前くらいかなかなぁ」という答え。それほど前からではなく、つい最近のようです。

ネットで調べてみると(王子町公式サイト)、平成23年2月、王寺町商工会がキャラクターデザインを一般公募して、現在の「雪丸」イラストが生まれたそうです。

平成25年6月には「雪丸」が「王寺町公式マスコット」に認定され、同年8月、ゆるキャラ「雪丸」がデビューしました。そして「雪丸」は「王寺町観光広報大使」に任命されました。

平成26年11月、「ゆるキャラグランプリ2014」では、401,189票を獲得し、全国1,699体中11位の好成績を収めたそうです。

たしかに、保育園スタッフが言うようにキャラクターが正式にデビューしたのは3年前だったようです。そして俺もユルキャラに「雪丸」という名前を聞いた気がします。姿と名前は一致しません。なんとなくの、うる覚えですが。

駅から寺までの通りは、「雪丸ロード」と名前が付いていて、烏帽子(えぼし)をかぶったキャラクター雪丸のイラストとともに「あいさつ プラスわん 運動」という幟が立っています。

雪丸が王子町の町おこしで大活躍しているようです。

王子町公式HPでは、「これからも「雪丸」を活用し、ハード、ソフトの施策を展開し、地方創生につなげてまいりますので皆様のご理解とご協力をお願いします。」と結ばれています。
 
 
 
 
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2016/11/03

【愛犬物語百景 其の五十一】 東京都 高尾霊園内の犬猫(ペット)霊園

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東京都八王子市の高尾霊園へ行きました。

妻のおじいさん、おばあさんの墓参りですが、ここに犬猫(ペット)霊園があります。

霊園の入り口に立ったとき「犬猫の墓は、人間の墓よりも自由なんだな」と感じました。

昔、藤原信也氏はインドを旅していたときに撮った1枚の写真につけたコピー「人間は犬に食われるほど自由だ」を思い出しました。

手作りらしい犬の像が置いてあったり、墓石に「ありがとう」とか「家族」とか「安らかに」とか刻んであったり、フード皿をデザインした墓など、人間の墓よりもバリエーションが豊富なのです。自由なのです。

お墓を建てるくらいだから飼い主さんにとっては、本当の愛犬であり、愛猫であったということで、その愛情が、ストレートに表現されているからなのでしょう。生前どんなふうに飼い主さんたちと幸せに暮らしていたかを想像できるような墓が多いのです。

今年は【愛犬物語】の犬像を探して日本中を周っていますが、それは有名な犬の場合が多いのですが、ここにある個人的な墓からも、飼い主さんたちの犬猫に対する愛情と感謝の気持ちを感じます。

高尾霊園の犬猫墓地が開園したのは昭和45年(1970年)。ペット霊園のさきがけと言ってもいいのでしょう。

日本では愛媛県美川村(現・久万高原町)の上黒岩岩陰遺跡で発見された1万年近く前の土器の層から出土した犬の骨が、埋葬例としては国内最古のものだそうです。

また、宮城県大崎市の北小松遺跡から、縄文時代(約2500年前)の犬の墓、動物の骨で作った髪飾りなどが発掘されています。

人間と犬がいっしょに暮らすようになったのはかなり前からでしょうが、縄文時代には、すでに犬の墓を作っていたというのは驚きですね。

日本では、犬猫の墓を作って、葬儀して終わりというのではなく、その後も人間と同じように年忌供養も行われているところが、欧米と比べても独特であるらしいのです。

日本の動物に対する感覚は、人間が動物を管理するという発想の欧米的(キリスト教的)感覚とは違っている(違っていた)という話は前も書きましたが、その感覚と、日本独特の供養文化も関係しているのかもしれません。
 
 
 
 
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「京都・祇園祭の山鉾行事など、ユネスコ「無形文化遺産」登録へ」というニュース

161103_1(埼玉県 川越祭)

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161103_4(埼玉県 秩父夜祭)

161103_5(埼玉県 秩父夜祭)

161103_7(埼玉県 小鹿野春祭)


「京都・祇園祭の山鉾行事など、ユネスコ「無形文化遺産」登録へ」というニュースに敏感に反応したのは、もちろん秩父や川越の祭など、近場の祭りが頭にあったからです。

そして実際、「秩父夜祭(秩父神社の例大祭)」、「川越氷川祭(川越まつり)」もこの中のリストに入っていました。俺が好きな小鹿野春祭は入っていませんでしたが。(これは小さすぎるかな)

ユネスコの補助機関は「山・鉾・屋台」の祭りについて「日本の地域文化の多様性を示している」と評価して、登録基準を満たしていると認めたそうです。

山車や鉾を曳いて街中をまわるお祭りって、そういえば、あまり外国では見たような気がしません。独特な祭りなのだと、あらためてわかりました。

俺の出身地、山形県河北町の「谷地祭り」でも、囃子屋台が街を周ります。ただ、人が引くのではなく、トラックの荷台に乗っています。それと屋台の飾りは毎年話題になったものを張り子で飾ったりして、京都や川越のような固定したものではありません。
 
 
 
 
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2016/11/02

今日は、二十四節気「霜降」、七十二候「楓蔦黄(もみじつたきばむ)」

161102_1(栃木県日光市 湯ノ湖 Canon EOS 5D Mark IV EF24-70mm f/2.8L II USM Av 7.1 Tv 1/125 ISO 100)

161102_2(栃木県日光市 明智平から Canon EOS 5D Mark IV EF100-400 4.5-5.6L IS USM Av 7.1 Tv 1/160 ISO 100)

161102_3(秋田県北秋田市阿仁 Canon EOS 5D Mark IV EF24-70mm f/2.8L II USM Av 9 Tv 1/160 ISO 200)

今日(2016年11月2日)は、旧暦では十月三日。

二十四節気「霜降」の末候である「楓蔦黄(もみじつたきばむ)」です。

東北からの帰り、各地で紅葉を見た話はすでに書いた通りです。関東地方では山の紅葉は盛りでしたが、里の紅葉はこれからです。

夏が長かったせいで秋が短くなり、冬がもうやってきたような最近の気候です。今年は寒いという予報もあり、寒がりの俺にはつらい冬の到来です。

あらためて、紅葉の写真をアップしておきます。
  
 
 

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2016/11/01

月島の異空間

161101_1(Canon EOS 5D Mark IV EF24-70mm f/2.8L II USM Av 6.3 Tv 1/250 ISO 200)

161101_2(Canon EOS 5D Mark IV EF16-35mm f/2.8L II USM Av 8.0 Tv 1/400 ISO 200)

161101_3(Canon EOS 5D Mark IV EF24-70mm f/2.8L II USM Av 6.3 Tv 1/320 ISO 200)

161101_4(Canon EOS 5D Mark IV EF24-70mm f/2.8L II USM Av 5.6 Tv 1/125 ISO 500)


月島で、日本最古の交番を撮影した後、街をぶらついていたとき、狭い路地を抜けると、まるで異国に突然放り出されたような場所に出てしまいました。古い建物の周りは近代的な高層マンションです。

なんだか20数年前の香港を思い出してしまいました。ちょっと廃墟感があって九龍城と似ている雰囲気も漂わせています。

当時を思い出して、ピクチャースタイルを「モノクロ」にしてみました。この写真に「Hong Kong,1990」とキャプションを付けても、違和感ないかもしれません。

交番を撮影するために来た月島でしたが、街自体が面白いので、また行ってみたいですね。
 
 
 
 
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