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2017/04/27

知識が本質を見えなくする

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「危機の心理学」では、おもしろいフォントの話が出てきました。以前ネットでも話題になったそうです。

日本人だからこそ読めないローマ字のフォントです。カタカナの知識が邪魔をするのです。日本語のカタカナを知らないほうがすんなり読めるというフォント。


(「寝ログ」参照)

たしかにそう。専門家と言われる人が深読みしすぎて的をはずす、本質を見誤るというのも、これと似ているのかも。

昔知り合った人が、

「なるべく長生きしたい。生きれば生きるほど知識が増えて賢くなるから」

と言ったことがありました。それを聞いて、本当だろうか?疑問がわきましたが、そのときはうやむやで聞き流すしかありませんでした。

それで、最近、「あぁ、やっぱり違うな」と思いました。知識が増えていくことがそんなに良いことでもないんじゃないかなと思ったのです。賢くはなるかもしれないですが、少なくとも知識が増えることと、幸せになることとは関係ないような、そんな気が。

『河合隼雄著作集5 昔話の世界』には、

「われわれは太陽について、雨について、あまりにも多くの知識を得たために、太陽そのもの、雨そのものを体験できなくなった。」

印象派の画家モネはこのことをこう表現しているそうです。

「もし私が盲目のまま生まれ、突然目がみえるようになったら! そうすれば目に映るものが何であるかを知ることなく絵が描き出せるだろうに。」

「モネの嘆きが端的に示すように、われわれ近代人はあまりにも多く知りすぎたために、何事かをそのまま体験することが困難になったのである。」

と、あります。

これを俺なりに次元を下げて考えてみると、例えば、美人やイケメンがいるとします。美人やイケメンをもっと知ろうとして、彼女や彼のレントゲン写真を見ているようなものかもしれません。

あるいは手足の長さの比は身長のいくらだとか、両目の距離が鼻の長さの黄金比になっているかどうかとか聞いても、それがどうした、というわけで、美人やイケメンを見てうっとりすることとはまったく別物です。(美人やイケメンは、欧米文化に影響を受けているということもあるでしょうが)

美人やイケメンにどうしてうっとりしてしまうのか、それを感じるのは、「知識」とは関係ないという話です。

知識が本質を見るとき邪魔をするという例は、他にもたくさんあります。専門家や頭が良い人の陥りやすい欠点はここにあるのかもしれません。
 
 
 
 
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2017/04/24

森津太子/星薫著『危機の心理学』

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ここ1ヶ月で、急に「戦争」が身近になった感じがします。

日本はてっきり戦争を放棄した国だと思ってました。学校でもそう習ってきたし、だから、一生もう戦争は起こらないんだろうと漠然と考えて生きてきました。

少なくとも、先制攻撃するなどということはありえない話だと思っていたら、安倍総理はそれをやろうとする同盟国アメリカを支持するという。もっとも、「先制攻撃しない」と言ってしまったら、抑止力がなくなってしまうわけですが。

誰も戦争は望んでないはずなのに、こうして戦争というのが始まる(かもしれない)んだなぁと、あらためて、どうしようもない、ふがいなさのようなものを感じます。

戦争をしたくないのは北朝鮮だって同じでしょう。キムジョンウンがまるで極悪非道な独裁者になっていますが、当人に会ったことはなく、どういう人間なのかは、本当は知らないのです。知らないから、極悪非道な独裁者のイメージが勝手に作られていくとも言えます。ジョンウンだって、彼自身の考えだけではなく、北朝鮮人民の何千万人の考え方の総意は多少でも、彼の行動に影響は与えているはずです。内外に向けて、極悪非道な独裁者を演じざるを得ない部分もあるのかもしれません。

相手の「わからなさ」と「脅威」と「不確かさ」が、戦争へ向かう原因になっています。北朝鮮、韓国、日本、アメリカ、中国、ロシアなど主な国々の何億人の人間の利害の調整は並大抵ではできません。人間の脳が大きくなったのは、この複雑な人間関係をさばくためという「「社会脳仮説」」があります。

3人でさえ喧嘩するのに、何億人となれば、もう個人の考えかどうかなんてどうでもいいのでは?と悲しくなってきます。その戦争へ向かううねりのようなものは、クジラが大量に海岸に突進して「自殺」するようなものなのかもしれません。

物理学者のアインシュタインと、精神分析学者のフロイトの『ヒトはなぜ戦争をするのか?』(花風社刊、浅見昇吾編訳)の中で、「人間は闘争本能を持っている」ということでふたりの意見は一致しています。

戦争は避けられないということでしょうか。「知性が高まり、攻撃本能が内に向けられれば、戦争をなくす方向に動いていくことはできる」と、表現は弱々しい。天才たちでさえ、戦争に対しては無力であるようです。戦争不可避の信念は、天才でさえ持っていたということなのでしょう。

とは言え、希望がないわけではありません。

最近では、個人の闘争本能と、戦争とは違うという研究結果もあるそうです。戦争を完全になくす方法は、今のところないかもしれませんが、遠い将来は、「しないで済む」ようになるかもしれません。

『危機の心理学』は、こんな時代だからこそ役に立つ学問かなと思います。今年4月新しく開講した科目です。

この中に「平和心理学」というものがでてきます。戦争不可避の信念に、なんとかくさびを打ち込もうとするのは、人類の多少の進歩とは言えるのかもしれません。

戦争にならない状況をいかに維持するか、ということに尽きるんでしょうが。

平和構築に貢献する2つの心理的要素があります。

ひとつは、外集団(相手)への共感と理解を増加させる。(一般論ではそうなのかもしれないですが、北朝鮮の今の閉鎖的環境では、これは難しい)

もうひとつは、「積極的傍観者」という存在があるそうです。

内集団(味方)を批判的に評価できる人のことで、たとえば、第2次大戦中リトアニアでビザを発給し続けて多くのユダヤ人を救った杉原千畝とか、ドイツのシンドラー、ベトナム戦争のソンミ村虐殺事件、イラク戦争でアブグレイブ収容所での虐待を告発した人たちのような存在です。それが「積極的傍観者」。

それをいかに増やしていくかが、戦争を回避するための課題だそうです。

自分の足をちゃんとふんばって、戦争へという流れに流されない、批判的な目で見ていないとダメなんでしょう。
 
 
 
 
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2017/04/22

『全国の犬像をめぐる : 忠犬物語45話』が書店に並び始める

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『全国の犬像をめぐる : 忠犬物語45話』が書店に並び始めているようです。

知り合いからは「棚田写真家」から「犬像写真家」に転身したのかと、ちょっと違和感を持たれているようにも感じています。

対象が「棚田」という風景から、「犬像」という物になったので、「ぜんぜん違う」と思う人の気持ちもわかります。

でも、俺にとって、このふたつは、それほどの違いがないのです。

こういう理由です。

ひとつは、被写体としての対象は違うのですが、「日本を知る」という意味では同じです。日本を知る「切り口」の違いでしかないんですね、自分としては。どちらも「日本を知る」ための被写体のひとつなのです。

もうひとつは、「巡礼」とか「旅行」という方法に着目すれば、このテーマが似ている、そのものだということはわかってもらえるかもしれません。

前も書きましたが、動物には「探求欲」というのがあって、「探すこと」それ自体に意味があるということなんです。犬も探求欲がありますが、探し出した途端、興味を失うこともあるそうです。「探すこと」そのこと自体に価値があるのですね。

たとえば、過去、俺が写真のテーマにしたものを上げると、

「中国雲南省の少数民族」
「メコン川の源流から河口まで」
「世界と日本の棚田」
「秩父の祭り」
「犬がいる日本の風景」
「東北被災地のお遍路」

そして今回は「全国の犬像」。

どれも、いろんなところに点在しているのを、1ヵ所、1ヵ所めぐり歩いて、探し出して、そして全体像を掴む、という方法はまったく同じです。これは俺にとってはすべて「巡礼」です。

こういう2つの理由から、犬像と棚田とは、自分のなかではそれほど大きな違いではなく、むしろ、同じようなもの、というふうに感じているのです。

それと、テーマを決めてから旅するわけではなく、旅していて、自然に生まれてきたテーマだということも関係しているのではないかなと思っています。自分では意識していませんが、その時、その時、心が欲しているものがテーマとなる、俺なりの心の必然があるのでしょう。


■ 青弓社

■ アマゾン

■ 紀伊國屋BookWeb

■ 楽天ブックス

■ TSUTAYA



 
 
 
 
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2017/04/21

細川護熙作『棚田の四季』展、2017年6月1日〜4日

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元総理大臣の細川護熙さんが描いた壁画『棚田の四季』のお披露目会が開催されます。

『棚田の四季』展は、「ほっともっと」や「やよい軒」などの事業を展開している株式会社プレナスが、「プレナス米文化継承事業」として開催するイベントです。

先日、東京オフィスに飾られた『棚田の四季』を見せていただきました。春夏秋冬の棚田の風景や祭りの様子が、2m×1mの大きさの和紙60枚を使って描かれています。

大きな絵なので、下から見上げると首が痛くなるほどで、むしろ、2階から見下ろした方がゆっくり鑑賞できるほどの迫力ある絵でした。

このイベントでは、NPO棚田ネットワークと青柳も協力します。棚田とは?という基本的な情報等も紹介されます。そして青柳撮影の、棚田の写真8点も展示される予定です。(上の写真はその中の1点、長野市塩本の秋の棚田です)


会期: 2017年6月1日~4日  11:00〜20:00  入場無料
会場: スパイラルガーデン(スパイラル1F)
     東京都港区南青山5-6-23 TEL.03-3498-1171

『棚田の四季』公式HP
 
スパイラルの『棚田の四季』展の告知ページ

 
 
 
 
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2017/04/20

今日は、二十四節気「穀雨」、七十二候「葭始生(あしはじめてしょうず)」

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今日から、二十四節気「穀雨(こくう)」、七十二候「葭始生(あしはじめてしょうず)」です。

「アシ」は「悪し」にも通じることから「ヨシ(善し)」の別名もあります。

写真は渡良瀬遊水地のアシ原です。

なお、「穀雨」期間の七十二候は以下の通りです。

初候: 葭始生(あしはじめてしょうず 葦が芽を吹き始める)

次候: 霜止出苗(しもやんでなえいず 霜が終わり稲の苗が生長する)

末候: 牡丹華(ぼたんはなさく 牡丹の花が咲く)
 
 
 
 
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2017/04/18

母親の死による「喪の仕事」

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怒涛のような10日間が過ぎました。少し落ち着き、公園にヴィーノを連れて行き、一息ついたところです。

『精神分析とユング心理学』(大場登・森さち子著/放送大学教育振興会)によれば、母親の死は、対象喪失の体験のひとつです。そして「対象を失うことの哀しみをどう哀しむか」というのが「喪の仕事」と言われる心理的な過程です。

フロイトは、父親の死をめぐる喪の仕事を行う自分の体験をしっかりと見つめました。

そしてわかったそうです。ただ単に死んだ人を懐かしんだり、再生を夢見ることだけではないと。

その人に抱いた憎しみや敵意、死を願う気持ちを自分の中に認め、そうした感情を抱いたことに対する悔みや償いの気持ちをたどることなのだといいます。そして失った対象との間に抱いていた、さまざまな感情を整理することが喪の心理過程において、とても重要だと学んだというのです。

親密であればあるほど、愛情と憎しみとの葛藤を抱きます。喪の仕事の大きな課題は、失った対象に対して、良い思い出だけではなく、傷つけたり、冷たくしたり、期待に添わなかったことを思い出し、償いや悔やみの気持ちをどう自分の中で整理していくか、ということが大切なのだそうです。

まだ、日が浅いので、フロイトのいうような深い部分に思いをはせる余裕はありませんが、なんとなくわかります。

この前の「母の葬儀」にも書きましたが、母親というのは「絶対的な愛情を注いでくれる存在」であると同時に「いつまでも放さない、囲い込む、干渉する存在」でもあります。矛盾したものを持っています。だからとくに思春期のころは、母親の干渉と囲い込みを強く感じて、「反発」しました。

でもこの年齢になってみると、あの時の「反発」は、むしろ「愛されたい」という感情の裏返しでもあった、あるいは、どんなことをしても見守ってもらえるという絶対的安心感があったからこそできた「反発」だったのかもしれません。

要するに、実家を出たという表面的な俺の行動の内側には、親に依存できるという安心感があったからではないかなと思います。一見、このとき親離れしたように見えますが、内面的にはまったく逆ではなかったのでしょうか。甘えていたのです。

だから前回、母親の死によって、本当の意味で親離れができると書いたのでした。
 
 
 
 
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2017/04/15

母の葬儀

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母の葬儀と初七日が終わりました。去年の秋以降、ほとんど寝たきり状態になっていましたが、4月7日、亡くなりました。

喪主である俺が写真を撮りながら葬儀をすることは、ある人には不謹慎と映ったかもしれませんが、葬儀記録を残しておくことは、写真家になったことを最後は喜んでくれていた母も認めてくれると思います。

まだ実感がありません。そして9年前に父が亡くなった時と今回の母との死では、微妙に感覚が違います。

何でも受け入れてくれる、なんでも許してくれる、絶対的な愛情を注いでくれる母親という存在がこの世からいなくなったということは、たぶん、これからボディブローのように、徐々に精神的ダメージを与えてくるのかもしれません。

でもその一方で、母親というのは、いつまでも子供を縛る、子供に干渉する存在でもあります。矛盾したものを持っています。だから母親の死によって、本当の意味で、「親離れ」することができるんだろうなと思います。

母は昭和9年生まれなので、終戦を迎えたのは11歳の時です。それからの日本は、右肩上がりに経済成長を続け、戦争もない平和な時代でした。天皇の生前退位で年号も変わろうとしています。まさに、母は、昭和と平成という、良い2時代を生きてきた人間でした。

母は俺が20代のころ「過激派だけには入らないで」と言っていて、実際俺は過激派には入らなかったし、犯罪者にはならなかったし、一応、この点については親不幸はしませんでした。なので、まぁまぁ幸せな人生だったのではないでしょうか。

今俺は、悲しみや寂しさという表立った感情よりも、幸せだったと言える母の人生を丸ごと肯定して、「良かったね」と見送ってあげたい、むしろ静かに海底に沈んでいるような気持ちなのです。でも、これは、俺が実家を出て、母とは離れて暮らしてきたので、母の死をどちらかというと観念的なものとして捕えているからなのでしょう。

いつも母といっしょにいて、だんだん認知症がひどくなり、衰弱していく様子を見ていた妹にとっては、もっと母の死は現実的で、具体的なものだと想像します。妹の悲しみ、寂しさは、俺から見ていても辛いほどでした。
 
 
 
 
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2017/04/07

散り桜

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これを私の母に捧げます。2017年4月7日17:10永眠。

合掌。

 
 
 
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2017/04/04

今日は、二十四節気「清明」、七十二候「玄鳥至(つばめきたる)」

150405_1(島根県出雲日御碕灯台)

150405_3(ヤツガシラ)


今日は、二十四節気「清明」、初候「玄鳥至」です。

広辞苑で、「清明」とは「清く明らかなこと」だそうです。

そして今日は七十二候「玄鳥至(つばめいたる)」でもあります。つばめの写真がないので、以前日本一周車中泊の旅で立ち寄った島根県の出雲日御碕灯台で見たヤツガシラの写真を掲載しておきます。

出雲日御碕燈台は、島根半島最西端に位置する日本一の高さを誇る石造洋式灯台で1903年に完成しました。

灯台の写真を撮っていると、バードウォッチャーのおじさんから「めずらしいのがいますよ」といって教えられたのが、ヤツガシラ(八頭、学名Upupa epops)という渡り鳥。頭の毛が逆立って、モヒカン刈りのようになっています。

この日は「4月2日」だったのですが、「清明」の時期にここを通過しているのかもしれません。「ご当地七十二候」で「八頭至(やつがしらきたる)」ですね。


清明の期間の七十二候:

初候: 玄鳥至(つばめいたる) 燕が南からやって来る

次候: 鴻雁北(こうがんかえる) 雁が北へ渡って行く

末候: 虹始見(にじはじめてあらわる) 雨の後に虹が出始める
 
 
  
 
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2017/04/02

【愛犬物語 其の百二十二】 神奈川県横浜市 杉田八幡の不思議な和様狛犬

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横浜市地域有形文化財に指定されている杉田八幡神社の狛犬です。これは「犬像」といえるのかどうか、微妙ですが。

杉田神社は、京急本線 杉田駅から商店街を抜け、国道16号線を南に数分歩いたところにあります。

鳥居をくぐって階段を上ると、この狛犬が鎮座しています。

横浜市教育委員会の解説看板によると、

「『新編武蔵風土記稿』によれば、八幡社(八幡神社)のとなりに妙観寺があり、社の別当でした。明治初年、神仏分離によって寺は別当職を解かれました。
 神社拝殿前に左右一対に置かれている和様狛犬には、元禄五年の銘が背に刻まれています。この狛犬は、背に銘があること、獅子の形をとっていないことなどたいへん珍しいものです。」

と、あります。いわゆる一般的な狛犬の姿ではなく、かといって犬ともいいづらいような、不思議な姿をした狛犬です。阿形の顔が欠けているので、たらこ唇のように見えてしまいます。でも造形的にすばらしい。こういうのはちゃんと評価しないと。

これは「犬像」としては微妙なラインですが、面白い形なので、次の犬像の本(いつになるかな?)には掲載することになると思います。
 
 
 
 
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