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2019/05/31

【犬狼物語 其の三百三十三】埼玉県上尾市 向山・神明神社内の三峯社

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上尾の三峰信仰については、先日も書きましたが、具体的に現在残っている三峯神社を探したら、いくつか見つかりました。上尾市向山の神明神社内の三峯社もその1社です。

社殿の左奥に末社が並んでいて、その中に三峯社がありました。石祠には「三峯山」と刻まれています。残念ながら狼像はありません。

上尾には、大山講、榛名講、雷電講など多くの代参講があったことは先日も触れましたが、秩父の三峰神社も青梅の武蔵御嶽神社も、農家が多かった上尾では農業を見守ってくれる作神様として信仰されていました。講の構成員は、現在の大字(ムラ)単位で、地域の祭りや行事を行う単位と一致していて、ほぼ全戸が講に加入していたので、代参講がムラの付き合いの一つと考えられていました。

 代参講では代参者をくじ引きで決めていました。だから代参者は、講員の代表です。でも、信仰集団の代表という形ではありましたが、旅をすることがあまりなかった当時の人々にとって、世間を知る絶好の機会でもあったようです。それと娯楽的要素も。とくに若い人にとっては。

榛名講では伊香保温泉に入ったり、大山講では江の島・鎌倉観光、板倉の雷電講では、門前のなまず料理を楽しみにしていたそうです。(『上尾市史 第十巻 別編3 民俗』(平成14年))

先日も引用した『上尾市文化財調査報告 第三十七集 上尾の民俗Ⅱ』(平成4年)には、向山の代参講についても記されています。

向山には榛名、大山、三峰、御岳、成田の講がありました。この民俗調査が行われた平成元年ころは、成田講以外、まだ他の講は残っていたそうです。

代参者を決めるくじ引きは、向山の場合、初午でみんなが集まるときに行われ、くじは、紙のコヨリで、最初に講員分のコヨリを作り、この中に四本だけインクで印をつけて当たりくじとしました。当たりくじを引いた者がその年の代参者になります。(一度代参した人は次の年はくじを引かない)講の代参にかかる費用は、講金といって一定の金額を決めて各講で集金しましたが、足りない場合は、自己負担でした。 

向山の三峰講については、

「春四月の代参で、以前は秩父鉄道が影森までしか行っていなかったので、ここから歩いて神社まで行ったものである。このため、日帰りでは代参出来ないので、神社の坊に宿泊している。代参者は、講中の各家にお札を買ってくるが、このほか講で一体御眷属というお札を毎年取り替えて来る。これは大神宮様の三峰神社のこの中に納められている。」

とあります。

秩父鉄道は、明治34年に熊谷・寄居間で営業を開始して、大正3年には秩父駅まで、大正6年には影森駅まで伸びました。三峰口まで伸びたのは昭和5年のこと。

だから、影森から神社までは歩いたというのは、大正半ばから昭和初期ころの話になります。このときはまだ日帰りの代参は難しく、神社の宿坊に泊まり、一泊二日の行程が多かったとのことです。その後、鉄道やロープウェイの整備、自家用車の普及によって日帰りの代参が可能になりました。

 神明神社の境内には、他に馬頭観音、青面金剛も祀られています。向山地蔵堂近くの路傍から移された「力石」も置かれています。力試しに抱え上げられた石です。

 

 

 

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2019/05/30

話題の「かぶる傘」のルーツは?

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(中国貴州省興仁 2011年)

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(中国貴州省 2011年)

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(ベトナム・ハノイ郊外)

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先日、オリンピック中の雨や熱中症対策として「かぶる傘」として発表されました。これは笠型傘?それとも傘型笠?

俺はは8年前(2011年)、中国で購入しました。

貴州省を撮影旅行中、たまたま興仁とかいう町を通過したら、市の立つ日で、せっかくだからと市を見て回ったのです。そしたら、この傘売りがいました。

これはアイディア商品だと思い、10元~15元くらいで買った記憶があります。頭の部分にはゴムバンドが付いていて、頭に固定することができます。

この傘は、どこが発祥の地なんでしょうか? 少なくとも、中国ですでに売っていたから、日本じゃないことは確か。

中国・ベトナムなど東南アジアでも、こういう形の笠はよくかぶっていますね。農作業している人は特に。材質を変え、たためるようにすれば、こういう傘は生まれても不思議ではありません。農作業にも便利です。

最初はちょっとコミカルな感じで、恥ずかしくもありますが、中国では、意外と小雨が降る天気での撮影には重宝しました。もう少し大きくしてもらえると(構えたカメラが隠れるほどに)カメラマン必須アイテムとなるでしょう。

アマゾンでもたくさん売られています。日本ではアウトドア用品なんですね。大きめのやつもすでに売られています。

俺が中国で買ったやつは、これではないでしょうか。

https://www.amazon.co.jp/dp/B01FTM0ZNU/ref=psdc_2131688051_t1_B07F2DZ7MW

 これはセルフポートレートでも使えます。

 

 

 

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2019/05/29

【犬狼物語 其の三百三十二】埼玉県浦和市 常盤・三峰神社の事情

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『新編埼玉県史 別編2 民俗2』(昭和61年)では「三峰講」について、

「御眷属信仰の御利益については、一般に山地の農民は、猪鹿の害から田畑を守護してもらうことを期待し、町場や平野部の人々は盗賊除け・火防の神として考えている。その信仰圏は、(略)、関東全域から長野・山梨・静岡の各県にも及び、このほか宮城・福島・新潟などにも、わずかであるが講社が存在する。」

三峰講の分布の講数(昭和15年)を見ると、長野が一番多く1410、次に埼玉県914、千葉県636、茨城県550、群馬540、栃木県393、東京都182講となっています。

講数では埼玉県が2番目に多いところです。三峯神社の鎮座する県なので、1番かと思いきや、1番は長野県というのはちょっと意外ですが。

さいたま市浦和区に三峯神社が複数社あることがわかりました。

その1社を訪ねました。常盤1丁目に鎮座する三峯神社です。

旧中山道沿いには「浦和二七市場跡」がありました。

「二七市」というのは、毎月の二、七、十二、十七、二十二、二十七日の六回、市(六斎市)が開かれていたからです。ここに「御免毎月二七市場定杭」と大きく刻まれた石柱があります。高さ139センチで、左側面に「天正十八年七月日」、裏面に「足立郡之内、浦和宿」と刻まれています。浦和周辺には、大宮の五十市、蕨の四九市、川越の三六九市、与野の四九市、岩槻の一六市、鳩ヶ谷の三八市などがあって、いつもどこかで市が開かれていたような感じです。

そういえば、昔中国雲南省の大理に滞在中、郊外の少数民族村でも、月曜市、10日毎の市、6日毎の市などが開かれていて、毎日どこかの村で開かれている市へ写真を撮りにでかけていました。人や物や情報が集まり、賑やかで楽しかったですね。

このあたりも昔、市が立つ日にはにぎわっていたのではないでしょうか。ついでに三峯神社でお参りする人もいたかもしれません。

その三峯神社は、市場跡の向かいの路地に鎮座します。うっそうとした印象です。狭い境内には不釣り合いなほどの高さの杉の木が立っていました。

路地に面して石の鳥居があって、境内に入ると、杉の大木の隣に溶岩のような台座の上に社が祀ってあります。よく見ると、例の、狼が息ができるようにと三つ穴が開けられた御眷属守護の箱が祀られています。だれかまだちゃんと祀っているんだなと思いました。もしかしたら、三峯講もあるのではないかと期待が膨らみます。

でもあとで、この三峯神社がここに残っている理由が、きわめて現代的な事情によるものとわかってきたのです。

隣の店舗から奥さんが出てきたので尋ねると、すでに40年ほど前からこの三峯神社の土地を持っている人がだれだかわからなくなっていて、困っているというのです。

杉の葉が大量に落ちてくるので、枝を切りたいのですが、持ち主に許可を得てからではないと切ることができないそうで、かろうじて電線に引っかかる部分だけは、東電が切っているらしい。そのうちこの杉の木が倒れるのでは、という心配もあるそうです。

奥さんたち町内会では何とかしてほしいと、役所にも頼みましたが、とにかく持ち主がわからないのでどうしようもないらしい。個人情報保護のためでしょうか。名前だけはわかっていますが、連絡しようにも住んでいる場所もわからないという。だから、しかたないので、掃除は近所の人たちが自発的にやっているし、正月のしめ縄は町内会で変えているそうです。

「神社ですからねぇ」と奥さんがいいました。持ち主が分からなくて困っているという話は、空き家問題でも聞くことですが、そこに「神社」ということが付け加えられると、杉の木を撤去してほしいと言い出すにも気が引けるということらしい。とたんに無理は言えなくなるようです。そこが日本人の宗教心というか、心情らしいところでもあるでしょう。普通の空き家とは違います。

だれか昔のことを知っている人はいないかと思い、寺や店を聞きまわり探したところ、三峯神社へ参拝していたグループの一員だった人がいることがわかりました。

三峯山に参拝していたのは、地縁で組まれる三峯講というのとはちょっと違い、ある組合のグループだったそうです。代表が参拝する「代参講」ではなく、全員で参拝する「総参講」だったようです。

先代の人たちも三峯山に行っていたので、神社に参拝するのは悪い話じゃないし、じゃぁ行ってみましょうかといった程度。特別何かお願いがあって行っていたわけではありませんでした。行楽気分での参拝といったところでしょうか。そしてその習慣も十数年前くらいで終わってしまいました。

だから今、グループで参拝することはないので、社に祀られていた御眷属守護の箱もその時のものでは?というのですが、十数年前のものには見えません。そう言うと、だれか、個人的に参拝をしていて、社に祀っている可能性はあるかもしれないとのことでした。神社も、いつできたかは、先代からも聞いていないそうです。

 

 

 

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2019/05/28

エリ・H・ラディンガー著、シドラ房子翻訳『狼の群れはなぜ真剣に遊ぶのか 』

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2019/2/19に出版された、エリ・H・ラディンガー著、シドラ房子翻訳の『狼の群れはなぜ真剣に遊ぶのか』を読みました。

エリ・H・ラディンガーは、女性弁護士から転身してオオカミの保護活動を行い、講演会・セミナーなどで「オオカミと自然や生態系についての知識」を広めている異色の作家だそうです。

彼女の「 転身」の理由そのものが、この本のテーマと言ってもいいのかもしれません。

 犬の家畜化についてはいろんな説がありますが、これは、さすがに女性の目からみた説だなぁと思います。

「オオカミを社会化するために、つまり、最初から人間に慣れさせるために、赤ちゃんを早期に母親から離す必要がある。私たち職員は赤ちゃんの乳母であり、哺乳瓶でミルクを与え、毛づくろいや添い寝をして、数週間後に家族のもとに戻す。これは家畜化ではなく(家畜化は数万年を要するプロセス)早期感化であり、こうして育ったオオカミの大人は人間を怖がることはない。(略)
 はるか昔に人間の男がこのようにしてオオカミの赤ちゃんを感化したということは考えられない。なぜなら、ミルクを与えることがそこに含まれるが、家畜のいない時代は女性の乳しかなかったからだ(牛・羊・山羊・豚の家畜化は、オオカミより遅い)。つまり大昔のある日、ある女性がオオカミの赤ちゃんを抱いて母乳を与えたということになる。母乳が余っていたのか、それとも見捨てられた無力なオオカミの赤ちゃんをかわいそうに思ったのか。何も予期せずに人類に革命をもたらしたことになる。というのも、オオカミに続いて有用動物が家畜化され、狩猟から牧畜へと移行することになったから。こうして歴史は新しい針路をとった。」

といいます。さらにこう続けるのですが、

「もしかすると、進化における特別な役割のことがいまも記憶に残っているため、私たち女性はオオカミに親近感を抱くのかもしれない。」

ちょっとここは「女性」であることを強調しすぎの感があります。女性だけがオオカミに親近感を持っているわけではないでしょうし。

まぁ違った見方は何事にも大切です。結局は「説」でしかないわけですが。犬がオオカミから家畜化されたストーリーは、証明のしようがありません。だから、我々素人が勝手に想像することも自由です。

ところで、この本で一番共感できたところは次の箇所です。

「オオカミは家族がいなくなると悲しむ。だれかが死んだり姿を消したりすると、困惑して捜索する。攻撃的になることもあり、嘆きをこめて遠吠えをくり返す。でも、やがては振り払い、立ち上がってそれまでの営みを続ける。生活のリズムに従って獲物を狩り、食べ、生殖し、家族の面倒をみる。自然界のあらゆる生物がするように、いま、ここに生きていることを祝う。この能力を失ったのは人間だけではないだろうか。将来のことを思い煩い、過去に埋もれて生活している。もっと現在を生きればいいのに。動物たちからそれを学べるので、一歩さがって観察すればいい。彼らをあるがままにさせ、彼らから学び、いっしょに成長する。」

そうだよなぁと、ここに共感しました。

犬恐怖症だった俺が、ヴィーノと出会い、ヴィーノと暮らすようになって思ったことは、どうしてヴィーノはこんなにふてぶてしいくらい自信に満ち溢れているのだろうか、という感覚でした。この自信はどこから来るんだろうと、ずっと考えてきました。

そして彼女が言っているようなことを俺も感じ始めているのです。

人間の不幸は、過去と未来に縛られることです。先日も少し触れましたが、犬は、いや、オオカミや他の動物も、現在をせいいっぱい生きているということなんでしょう。

昔はできたのに、今はできなくなって悲しいとか、今これを食べてしまったら、明日のごはんがなくなって困るから、残しておこうとか、過去や起こってもいない未来のことを煩い、心配し、悩む。まさにこれがマインドワンダリングで、そういう雑念を払うことで精神衛生をいい状態に保つというのは、認知行動療法でもやったことです。

養老孟司さんと池谷裕二さんの対談で、「時間」というのは人間の脳の中にしかない、といったことを話していましたが、多少の時間の観念は犬にもあるとは思います。いや、時間の観念はあるけど、それを人間のように「単位」にはしないということではないのかな。人それぞれに進んでいる時間を、同じ「単位」で測ってしまうところに人間の不幸は生まれる気がします。犬たちは、自分に流れる時間をそのまま受け入れるだけで、けっして他の人(犬)と比べたりはしていません。

こんな体験があるんじゃないでしょうか。夢中になって何かをやっていると、あっという間に時間が過ぎていること。夢中でやることで、過去も未来もなくなる、時間が無くなるという感覚ですか。たぶん、こんな感じが動物の「今をせいいっぱい生きる」ということと近いのではないかなと思うのですが。

 

 

 

 

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2019/05/26

【犬狼物語 其の三百三十一】埼玉県上尾市 三峰信仰と御岳信仰

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( 上尾宿の鎮守 氷川鍬神社)

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(橘神社「平方河岸出入商人衆奉納の石祠」前の犬か狼かの石像)

 

上尾市に引っ越してきたのだからと、地元に狼信仰や狼像はないだろうかと調べています。そこで犬か狼かの石像があったという話は、先日の「平方・橘神社」に書いた通りです。

上尾図書館には、平成元年ころ行われた上尾市内の民俗調査をまとめた報告書がありました。上尾市文化財調査報告『上尾の民俗』(上尾市教育委員会)です。

これによると、上尾にも三峰講と御岳講があったようです。

上尾市教育委員会によると、平成元年ころ民俗調査をやったときは、いろんな話が聞けたそうですが、ここ何十年かで、そういった民俗文化が急激に廃れ、もうほとんど講社もなくなったといいます。

今では上尾もこんなに建物ばかりが密集している都会ですが、昔は田畑が広がる農村でした。

現在の埼玉県に該当する武蔵国内の16郡については、正保年間(1644~48)から元禄年間(1688~1704)までの約50年間に、村の数が403カ村増加していて、17世紀後期になって新田開発が進んだことがわかるという。

三木一彦『関東平野における三峰信仰の展開 ―武蔵国東部を中心に―』には、「武蔵国における三峰末社の分布 」の地図が載っていますが、それを見ると、文化・文政年間(1804~30)では、 江戸市中と、中山道、日光街道などの街道筋に多く点在しています。

当時の宿場の軒数は、鴻巣490軒、桶川250軒、上尾宿170軒、大宮200軒、浦和208軒ありました。
享和二(1802)年に大坂銅座勤務を終えて江戸に帰ったときの大田南畝は、紀行文の中で、中山道の宿場町について、こんなふうに書いています。

「本庄は賑やかであり、深谷は五・十の六斎日にあたり、熊谷はとくに賑わい、江戸を彷彿とさせるものがあったが、鴻巣から桶川・上尾・大宮は、「わびしき所也」「ひなびたり」」(『埼玉歴史の道50話』埼玉県立博物館編著/埼玉新聞社)

日本では、オオカミはシカやイノシシを食べ、結果、人間にとっては農作物を守ってくれたので益獣でした。だから農村部の人々が三峰信仰に求めたのは、最初はシカやイノシシ除けでした。

「例えば、安永9年(1780)頃 の『武蔵演路』には、「曽て狼ありて田畑を守護し諸獣を入れず,其神妙数知らず」と」あります。 

当時は上尾あたりにも狼がいたのでしょうね。 

村々には、必ずといっていいほど「大山講(石尊講)」と「榛名講」がありました。これらの講は、雨乞い・嵐除け・雹除けなど、農業に関わる願意が中心となっていました。農業の作神として信仰されていたようです。「三峰講」も「御岳講」も作神としての信仰でした。

ちなみに上尾には、他に「戸隠講」「宝登山講」「富士講」「成田講」などあったようです。なんと「伊勢講」までありました。伊勢神宮へは毎年参拝というわけではありませんが。 

『上尾の民俗』には、「三峰講」や「御岳講」の具体的な 話が出てきて興味深いです。聞き取りが行われたのは平成元年ころなので、大正から昭和にかけての話です。

 御岳講は、青梅市の武蔵御嶽神社へ代参するのですが、大正時代から昭和初期には、上尾から自転車で行っていたというんですね。しかも日帰りの代参もあったというからすごいです。

『上尾の民俗 Ⅱ』(上尾市教育委員会/平成4年)の、戸崎の御岳講の例を引用すると、

「御岳神社を信仰する講で、作神様であるという。二人一組で四月の節供のころの代参であった。御岳には自転車で行ったもので、戸崎から平方に出て川越に渡り、入間川を経由して青梅に入り、ここからは神社までもう少しであった。神社では毎年決まった御師の世話になる。御師はOといい、現在のケーブルカーの下の駅の近くである。御岳に着くとまず御師「代参できました」といって荷物を置いて神社を参拝する。参拝から帰ると御師の家の中に祀ってある神社で御師が中心になって祭典を行ない、いただいて帰るお札やツツガユの紙を揃えてもらう。このときに、御師にはお札料と宿泊費を払うが、金額は提示されず、適当な金額を払うと、これに応じた賄いをしてくれる」

ツツガユ(筒粥)とは、その年一年の作物の出来の予測が書いてある占で、これを見て、「今年はコク(収穫量)がありそうだ」とか「今年はオカブ(陸稲)がだめだから、照りそうだ」などと話していたそうです。

上尾から御岳まで何キロあるのでしょうか。調べたら片道64kmありました。時速12kmとしても5時間半。行きは緩やかな登りできつかったが、帰りは楽だったとありますが、自転車往復が11時間とは、想像しただけでも「遠い」ですね。

俺も中国雲南省の麗江で、ナシ族の村へは片道10キロを自転車で行っていましたが、80年代の中国の自転車は、それこそ車体もペダルも意地悪いくらいに重くて、玉龍雪山へ向かう緩やかな上り坂と向かい風には死ぬような思いをしたので、それを思い出してしまいます。日本だって昔の自転車は重かったろうし、道だって舗装していないところも多かったのではないでしょうか。たぶん、日帰りの場合は、夜明け前4時ころには出発しなければならなかったのではないかなと思います。

そんな苦労をしてまでも、行きたい、いや、行かなければならないという当時の農民の心情を想像してしまいます。御岳までの日帰りの「旅」も、講員の思いを引き受け、くじで選ばれたという責任感や義務感に支えられた、単に物見遊山ではない苦労が偲ばれます。

とはいえ一方では、農作業が始まる前の春先、一日だけではあっても御岳までの「旅」はそれなりに楽しかったのかもしれません。村を出たことがない若者にとって、外の世界を知る絶好の機会でもあります。事実リクエーション的要素もあったらしいのです。

御岳では、いつも同じ御師にお世話になっていたようです。地域の担当が決まっていて、秋、冬には同じ御師が集落を周ってお札を配ることもありました。調査の中で、多の人が御師の名前を出していますが、すべてOさんです。

三峰講についても『上尾の民俗 Ⅱ』から、地頭方の例として引用します。

 「三峰神社の神様は、オイヌサマであるといわれる。代参は4月ごろで、上尾まで出て、高崎線の列車に乗り、熊谷で秩父鉄道に乗り換え、三峰口で降り、ここからはバスで行った。代参は日帰りであった。この講では、各講員に配るお札のほかに、辻札と御眷属札をいただいてくる。辻札は、ムラ境に立てたもので、堤崎境、領家境、壱丁目境、中新井境の4カ所に立てる。御眷属札は、神明様のところに三峰神社を祀ってあり、ここに納めるものである。これは、毎年古い御眷属札を代参者が持って行って取り替えて、毎年納めるものである。」

 いつの時代なのか、この例では「日帰り」とありますが、三峰講の場合は上尾から遠いので、坊に宿泊するのが一般的であったようです。

 辻札というのは御岳講の人ももらってきていて、やはり4カ所に立てたという。辻札は、五尺くらいの篠竹の上部を二つに裂いて挟み、挟んだお札の上に杉の葉を逆さに付けて縛って挿しました。

『上尾の民俗』で語られる講員の話を読んでみて受ける印象は、人々が三峰や御岳を信仰していたのは、あくまでも農家が求める作神様というところであって、それが「狼信仰」というところには意識がいっていないんだなぁということです。

お札にはオイヌサマが刷られていても、それが狼であることにはあまり関心が無いようです。まぁそれはそうでしょうね。農家にとっては今年の作柄がどうなるかというところが重要であって、狼はすでにいなくなっていたし、狼がシカやイノシシを食べるという具体的なイメージはすでになく、狼かどうかははっきり言ってどうでもよかったといえるかもしれません。中には、「このオイヌサマは養蚕の神さまのようで、蚕のねずみ除けであるといわれた」と話した人もいます。

一方江戸では、三峰信仰はシカやイノシシ除けではなく、火災・盗難除けとして信仰されました。大火が何度も発生していた江戸で、火災除けは必然だったということでしょう。ちなみに1601年から1867年の267年間に、江戸では49回もの大火が発生しています。

浅草寺内にも三峯神社が鎮座しますが、他のお堂はみな南側を向いているのに、三峯神社だけ東側の本堂を向いているのは、火防の守り神だからだそうです。

それと盗難除けも、どちらかというと都会的です。

街道が発達してくると、上尾などの宿場でもその影響をうけるようになります。宿場からさらに田舎の農村にその影響は伝播していったということらしい。このように農村でも都会の影響を受けて、三峰も、だんだんと火災・盗難除けとして信仰されるようになっていった経緯があるようです。

 

 

 

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2019/05/24

【犬狼物語 其の三百三十】埼玉県長瀞町 野上下郷の犬塚

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情報では、「石上神社の犬塚」とあったので、長瀞町の石上神社へ行ってみましたが、それらしい塚が見当たりません。光玉稲荷神社の狛狐像はありましたが。

近所のお宅から人が出てきたので尋ねてみると、犬塚はここではなく、ちょっと離れたところにあるという。

犬塚は観光パンフにも載っているそうで、それなりに、大切にはされているようなのですが、「解説看板なども立っていないしね」とのこと。わかりにくい場所にあるようです。

県道に突き当たるちょっと手前というので行ってみると、碑が立っていて、これのことだろうか?と思って近づいてみると、「馬頭観音」の文字が。

道を行ったり来たりしていたら、奥の家から女の人が歩いてきました。ちょうどいい、道を聞こうと思ったら、たまたま通りかかったわけではなく、さっき犬塚を聞いた人から電話があって、そっちに犬塚を探しに行く人がいるからと連絡があったという。なんと! 俺を案内するために、わざわざ家から出てきたというのです。

犬塚は、馬頭観音とは関係なく、民家の庭を30mほど上がったところ、畑の横にありました。そもそも、ここの地名が「犬塚」という小字だそうです。

たまたまその家には草刈りに来ていた男の人がいましたが、その家の息子さんだったらしい。もうここには誰も住んでいません。ときどき息子さんがこうして草刈りなど、手入れをするために帰っているのだそうです。今日はたまたまその日でした。

犬塚の板碑には、このあたりで多く採れる青っぽい石を使っていて、屋根掛けされています。この石材は、三波川結晶片岩帯に分布する「緑泥石片岩」といいます。「青石塔婆」とも呼ばれるそうです。板状に剥離する性質があり、加工がしやすいので、板碑に多く使われてきました。

近くに採掘跡があります。県指定旧跡「板石塔婆石材採掘遺跡」です。

息子さんによると、昔は文字も見えたそうですが、年々板碑は細ってきて、今はわからなくなっています。梵字が書いてあったらしいのです。

今でも12月のある日曜日に、念仏をやっているそうです。この念仏については、栃原嗣雄著『秩父の民俗: 山里の祭りと暮らし』に載っていました。

「犬塚耕地では毎年旧十月戌の日に、犬神様の念仏が行われている。
 この犬神様は、鉢形城の軍用犬で、天正十八年鉢形落城と共に、主を失った犬は秩父方面の出城である天神山城、竜ヶ谷城、根古屋城、日尾城、高松城等を巡り歩いていたが、ついに力尽きて杉郷地内のシケンブチ(四犬淵)で水死したという。その犬を祀ったものが犬神さまと伝えている。
 その犬の供養のため念仏講がつくられている。宿は回り番で小字のイノズカ、カラサワの十六軒もち回りである。米五合と小豆一合を出しあい宿番の家でボタモチをつくって出す(昭和四十五年からパック入りのスシ)
 午後六時ごろから集まり、お日待ちをして念仏になるが、前の方に八匹の犬(オス五匹、メス三匹)が描かれた掛軸をつるし、お燈明を上げ、線香を立て、鉦たたきがその前に座って先導する。まず「犬の念仏」と称して、八匹の犬の名を唱えながら、八回くり返す。

オーゴー オーレイ ナムアミダ
ユウズマ フクズマ ナムアミダ
ツーツキ ツマブキ ナムアミダ
チユーヤ マンプク ナムアミダ

 (略)

犬たちは、大切な文書を首にさげて走り回る伝令の仕事をし、「天正十八年鉢形落城」とは、豊臣秀吉軍の攻撃によるものだったらしい。当時北武蔵一帯を支配していたのは鉢形城の城主だった北条氏邦。氏邦は、約3500の兵で城を固めました。中山道を南下した前田利家、上杉景勝らの軍勢5万人と激しい攻防を1か月続けたましたが、ついに城は落ちました。秩父の出城も運命を共にすることになりました。
 こうして主を失った犬たちはさ迷い歩き、この地で死んでしまいます。それを憐れんだ大沢藤左が自分の所有地に犬神様として葬ったのが「犬塚」だという。それから念仏講が作られました。

また8匹のうち、死んだのはツーツキ、ツマブキ、ユウズマ、フクズマの4匹だったとのことです。

息子さんは、犬が描かれた掛軸があったはずだといい、家の中へ探しに入ってくれましたが、「ありませんね」という。「犬の名前も、変わった名前だったし、狼犬だったのかなぁ」とのこと。念仏の時に掛けた8匹の犬が描かれた掛軸だったのかもしれません。

12月の念仏は、毎年日が変わるそうですが、その時に掛け軸は見ることができるのではないでしょうか。

 

 

 

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2019/05/23

【犬狼物語 其の三百二十九】埼玉県上尾市 平方・橘神社

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上尾市の神社にもお犬さまらしき像がありました。「らしき」というのは、お犬さま(狼)像とは断定できない部分があるからです。「犬」にも見えるし、由来がわかりません。

場所は、橘神社の「平方河岸出入商人衆奉納の石祠」の前です。左側の像は顔の部分が割れて、下に置かれてありました。

『上尾の指定文化財』(上尾市教育委員会 平成25年)には、有形文化財に指定されているこの石祠について、次のように書かれています。

「平方河岸は、旧平方村(大字平方)にある荒川の河岸場で、近世には岩槻や原市方面から川越を経て多摩方面へ通じる脇往還筋にある渡船場としても機能する、交通の要衝であった。河岸の歴史は古く、寛永15(1638)年には既に河岸場として機能していたと観られる(『寺尾川岸場由来書』)。そして江戸時代を通じて荒川の舟運によって発展し、大正時代末まで栄えた。
 指定の石祠は、明治40年代に河岸場から橘神社に移されたもので、神明社を祀っている。高さ166cmで、形状は笠付角型石祠であるが、笠の部分は後補の可能性がある。正面左側面に「享保二丁酉天九月吉日 武州足立郡平方村 願主 当村中 河岸出入之商人衆中 右之願主等明記内宮納置者也」とあり、平方村中及び平方河岸に出入りする商人衆によって、享保2(1709)年造立・奉納されたものであることがわかる。また右側面には、宝永6(1709)年に祈願して以来、平方河岸が太神宮の神徳により繁栄したことのお礼と、今後の輸送の安全と一層の発展を願う奉納の趣旨が記されている。
 この石祠は、江戸中期から江戸地廻り経済(商品流通)によって発展した、平方河岸の隆盛を伝える数少ない貴重な歴史資料といえる。」

石祠は3基並んでいて、中央が指定の石祠ですが、お犬さまらしき石像が1対守っています。現在はこうですが、市の教育委員会にあった昔の写真を見せてもらうと、このお犬さまはいませんでした。平成15年に発行された『上尾の指定文化財』には載っていません。

最近になってこれが置かれたということが分かりました。でも、「最近」とは言っても、どのくらい前なのかははっきりしません。平成15年に発行された本には載っていなかったといっても、使われた写真がいつ撮られたものなのかわからないし。

いろんな状況から考えると、この石祠とお犬さま像は関係がなく、どこからか移されたものかもしれません。橘神社自体、明治40(1907)年、平方村の氷川神社に近隣の5つの村の鎮守を合祀してできたもので、このときに「橘神社」という名前に変えられています。氷川神社も、現在の場所ではなく、平方小学校の東にある氷川山にあったともいわれています。

上尾市教育委員会では、もしかしたら、別なところに石像があって、合祀されたときに、石像を神社に移し、さらに何年か前にこの石祠前に置かれるようになった可能性もあるのでは、ということでした。

 

 

 

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2019/05/22

【犬狼物語 其の三百二十八】東京都新宿区 動物とのゆかりが深い市谷亀岡八幡宮

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(市谷亀岡八幡宮)

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(市谷亀岡八幡宮のロボット狛犬)

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(几号水準点)

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(犬次神社に奉納されている麻奈志漏の絵)

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(善峯寺の桂昌院と子犬の像)

 

市ヶ谷駅に近い市谷亀岡八幡宮は、動物とのゆかりが深い神社です。

祭神である応神天皇は、シカ狩りのとき、猟犬がイノシシと戦って死んだのを哀れみ、丁重に葬りました。猟犬の名前は「麻奈志漏(まなしろ)」です。(『播磨風土記』)

その場所が、兵庫県西脇市の犬次神社ではないかといわれています。「犬次」の名前の神社は、全国にここだけで、犬を葬った「犬塚」が転訛したものと考えられているそうです。

「麻奈志漏」については、NHK総合で2017年8月24日放送された「人名探究バラエティー 日本人のおなまえっ!」で、最も古いペットの名前のひとつとして紹介されました。

市谷亀岡八幡宮はまた、第5代将軍徳川綱吉の母・桂昌院ゆかりの神社でもあります。綱吉はもちろん「生類憐みの令」で有名だし、桂昌院も愛犬家だったようです。京都の善峯寺には、桂昌院と子犬の像があります。

そんなことで、この市谷亀岡八幡宮では、現在、ペットの健康長寿・病気平癒の祈祷やペット同伴の初詣、ペットの七五三なども行われています。

 階段を上ったところに一風変わった狛犬が鎮座しています。まるでAIBOを思わせるようなロボット狛犬。これは、何か、犬や狼と関係があるのでは?と想像をたくましくしましたが、違ったようです。神社によれば、直接の関係はないそうです。火災の多かった江戸時代に火消しの人たちが身に付けていた刺し子を付けた狛犬だという説もあるそうです。

  

なお、ここには新宿区指定有形民俗文化財の「力石 」や珍しい「几号水準点」があります。

几号水準点とは、高低測量を行うために明治時代に設けた基準となる測量点です。几号水準点は、水屋の台座になっていて、 水準点の位置が設置当初から移動していないことや、保存状況が良く、近代土木史上、貴重なものとして新宿区文化財に認定されているそうです。

 台座の下で、見づらいところにありますが、案内表示があるので、すぐわかります。

 

 

 

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2019/05/21

SHIDAXのManabi JAPAN「狼信仰」の第6回は「オオカミとお犬さま」

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SHIDAXのManabi JAPAN、連載「狼信仰」の第6回は、「オオカミとお犬さま」です。


「お犬さま」は、生物学的な「オオカミ」とは別物であるという話です。詳しくは、Manabi JAPANでお読みください。


https://manabi-japan.jp/life-event/20190520_12097/


 


なお『オオカミは大神』の紹介をしていただきました。ありがとうございます。


 


 


 


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2019/05/20

犬は時間を気にしないのか

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「ほぼ日」から発行する絵本『生きているのはなぜだろう。』を前に行われた、養老孟司さんと池谷裕二さんの対談。

https://www.1101.com/yoro_ikegaya/2019-05-13.html

対談で、犬が時間の観念がないんじゃないかという話が出てきます。

「昨日とか一昨日という概念は、犬には絶対にないです。明日と明後日の区別つくのって、おそらく人間だけじゃないでしょうか。」

「時間が人間のようにしっかり流れてるのは人間だけ、ということは、「時間というものは、人間の脳にしか存在しない」ということです。つまり、時間は人間だけがもつ幻想である、ということになります。」

確かに科学的にはそうかもしれません。俺もそう思います。でも、一方で「日」「月」「年」単位の時間ではなく、もっと短い時間の観念はあるんじゃないかなとも思っています。

ヴィーノは、意外と「待て」が得意です。今までで一番長い「待て」は、犬のイベントで参加した「待て大会」。ボーダーコリーなど、賢い犬たちに交じって、ヴィーノも奮闘しました。惜しくも優勝とはなりませんでしたが、でも、「待て」は得意なんだなと知ったのでした。

人間は同じように「待て」を命令されたら、昔のことを思い出して、しばらく待てば、あとでこのおいしいおやつを食べられるんだ、だから我慢して待っていようと考えるでしょう。でも、「待て」がいつまでも解除されずに、5分くらい続いたらどうでしょうか? こんなに長い時間待っているのに、まだかよ!とイライラしてくるに違いありません。

このように、俺たちは時間を気にしています。ヴィーノを見ていると、同じように長い時間が経つほどイライラしているのを感じます。もし時間の観念がまったくないのなら、何分「待て」させられようが関係ないはずです。「待て」を命じられたら、「よし」をいわれるまで、ずっと待っていられるのではないでしょうか。

こうしてヴィーノを見ていると、ほんの短い時間ですが、少しは時間の観念があるようにも感じます。感じているのは飼い主だけなのかな。

どんな実験をすれば時間の観念があると証明できるのでしょうか。こいういう課題も心理学(比較行動学)で習ったはずです。考えてみます。

 

 

 

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2019/05/17

【犬狼物語 其の三百二十七】 神奈川県厚木市 狸と猪を育てたモスカ像

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モスカの話を知った時、『南総里見八犬伝』の八房という犬が、狸に育てられたという話を思い出し、逆パターンですが、こんな犬がいたのか、100年ほど経ったらいずれこれは伝説になるのでは?と思いました。

東丹沢温泉郷の七沢温泉「七沢荘」で、自分の子どもだけではなく、狸の子2匹と、猪の子1匹も同時に育てたモスカという名の犬の話です。

モスカの子どもがトモカズ、猪はモモエ、狸2匹はシャープとフラットという名前だと聞けば、あぁ、あのころねと懐かしく思う年代の人も多いでしょう。

先代の中村重男さんは奥さんの典子さんとこの七沢荘を作りました。重男さんは息子の道隆さんから見ても「宇宙人」と呼びたくなるほど、自由奔放な人だったらしい。

突然ライオンを買ってきたり、ペット専用の露店風呂とサウナまで作り、獣医にサウナはダメだと注意されてやめたこともありました。とにかく重男さんは動物好きで犬にもリードを付けず、何かあったら自分が責任は取ると言っていたそうです。

ある日、重男さんがゴルフ場のカップの中に落ちていた狸の子2匹を見つけ、可哀そうになり連れ帰りました。

看板犬モスカは子犬を産んだ直後で、近所の人にもらった猪の子も牙を抜いてモスカの乳を吸わせることに成功していました。それで狸2匹も、最初モスカに目隠しをして乳を吸わせたら大丈夫だったので、目隠しを取りましたが、モスカは狸たちも受け入れました。

こうしてモスカの子犬、猪の子、狸の子2匹を同時に育てることになったのです。湯治客たちは、猪や狸を犬の子だと思っていたらしい。それくらい自然にいっしょに仲良く暮らしていました。

種を越えたモスカの育児が、イギリスのBBCや中国のテレビでも取材され、後追いするように日本のメディアも紹介するようになりました。雑誌やテレビなど、当時はたくさん取材されたそうです。

南アフリカのネルソン・マンデラが1964年に国家反逆罪で終身刑の判決を受け、獄中で闘っていた時代でもありました。このアパルトヘイトなど人種差別の問題がクローズアップされていたこともあり、動物は種が違ってもいろんな動物を育てるのに、肌の色の違いだけで差別する人間て何だろう? むしろ動物の方が自由なのではないか。道隆さんは、モスカが取り上げられたのは、そんな疑問が生まれていた時代背景もあったのではといいます。

モスカが死んで、2、3年後のこと、モスカを石像にしたいと思ったとき、あおむけで寝て猪と狸に乳を与えている姿こそが、モスカを象徴すると思って、その姿にしました。

重男さんとは安曇野の中学の同級生で彫刻家の高島文彦氏がモスカの像を製作しました。敷地内には高島氏の作品が数多く展示されていて、野外美術館のようです。

七沢荘にはモスカの後も代々看板犬がいて、2代目はラブラドールの夢宇(むう)、そして今は、3代目のトイプードルのカガリが湯治客を出迎えています。

 

(『犬像をたずね歩く』より)

 

 

 

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2019/05/16

【犬狼物語 其の三百二十六】千葉県我孫子市 竹内神社のイヌ科動物の石像

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印西市木下(きおろし)の「唐犬濱之墓」から約3.5km離れたところに、我孫子市の竹内神社があります。

ここにも像があるとのことだったので、寄ってみました。

入り組んだ住宅街の、布佐中に隣接した高台にありました。玉砂利の表参道の先に鳥居も見えました。ただ、駐車スペースがありません。

たまたま近くの民家から出てきた奥さんに、竹内神社の駐車場を聞いたら、「神社の駐車場はないんですよね」という。

ただ、奥さんに神社の裏側へは車で行けますよと教えられたので、彼女の言う通り布佐中のグランド脇を通って行ってみたのですが、道は狭いうえに行き止まりなどもあって、結局神社への道はわかりませんでした。

それで表参道前に戻り、妻とヴィーノにまた車の留守番をしてもらい、一人で境内へ上がりました。

境内にはイヌ科動物の石像が2対ありました。これは狼?犬?狐? どんな由来がある像なんでしょうか。

1体は顔が欠け、1体は上半身が無くなった状態です。

境内には、「三峯山」の祠、「三峯神社 布佐開運講 二十五回登山記念」の碑もありました。太い尾を見ると狐かなとも思ったのですが、やっぱり「三峯山」の祠を見てしまうと、「お犬さま」に見えてきてしまいます。

先日、NHK「ダーウィンが来た」 は「最高の相棒 イヌと人」でしたが、いつもは科学的な内容なのに、ファンタジーの描写が多かった気がします。群れで落ちこぼれの狼が人に近づいて「犬」になっていくところなどは。まるで、犬になった狼は仲間や野性の魂を捨てて、ごはんをもらえる境遇に安住の地を得たみたいな姿にも見えて、これってどうなの?と思いました。 俺の「狼から犬へ」の物語とはちょっと違います。

まぁ、ファンタジーが多くて、犬と人の関係を美化したいというのは、わからないでもないです。科学番組のスタッフと言えども、それだけ、犬は特別なんだな、冷静ではいられなくなってしまうんだな、感情に訴えてくるものがあるんだな、犬には、と思いました。

ところで、NHKの別番組でも見たのですが、狐を、より穏やかな個体を掛け合わせていくと、「犬」のようになるという事実。犬、狼、狐の区別は、意外とあいまいだなと思いましたね。生物学的にもそうなら、信仰の対象になった三峯の狼、稲荷の狐といった神使ならなおさらそうだろうと。 以前読んだ本に、神使である狼が、狐へと変わった例が書かれた本があったような気がします。

竹内神社に置かれている石像を作った石工が、どこまで犬や狼や狐を区別しようとしていたか疑問です。いや、そんな区別は信仰にはあまり意味がないかも。もっと緩やかでもいいと思うのは俺だけでしょうか。

 

 

 

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2019/05/15

【犬狼物語 其の三百二十五】千葉県印西市 山根不動尊の「唐犬濱之墓」

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印西市には、以前から気になっていた犬像がありました。墓石に刻まれたレリーフの犬像です。

『犬像をたずね歩く』にも入れようかなと思ったくらいの犬像だったのですが、どうも由来がわからないらしいということで、見送ってしまいました。

成田線・木下(きおろし)駅から、住所を頼りに山根不動尊を探しましたが、車道からは見逃して行き過ぎてしまいました。

50mほど先に三本足の珍しい「貝化石灯篭」というものがあって、資料館のような建物もあり、そこにいた人に不動尊のことを聞いたら、親切にも案内してくれるという。

住宅の裏側がちょっとした公園になっていました。車道からは見えづらいですね。不動尊の境内は公園に隣接していました。案内してくれた人によると、確かにここに不動尊のお堂がありましたが、何年か前、火事でなくなってしまったそうです。礎石だけ残されていました。

「ここに、犬の墓があるはずなんですが」と言うと、その人は「知りませんでしたねぇ」といいました。

墓石は、左奥の古碑が並んでいるところにありました。本堂がなくなっているので、かえって墓石は探しやすかったといえるかもしれません。

高さが60cmくらいの墓石に「濱」の姿が浮き彫りにされています。顔は正面、体は左を向いてお座りし、左前足を上げた姿勢で、お地蔵さまのようによだれかけを着けています。かなり彫は深いので、曇っていても見やすい浮彫です。

そして「濱」の姿の右上には、「唐犬濱之墓」(最後の文字、「土」へんに「莫」という文字になっています)、墓石の右側面には、「明治十三歳二月七日没」とありました。

どんな飼い主であったかはわかりませんが、こんな立派な墓を建ててもらえるというのは、「濱」は大切に飼われていたんだろうなと想像します。

「唐犬」の墓と言えば、『全国の犬像をめぐる』で取り上げた東京都墨田区・回向院にあった「唐犬八之塚」ですね。こちらは1866(慶応二)年の墓碑で、飼主が火消し「は」組の新吉であったことがわかっています。

以前、印西市の市役所で、「濱」の墓について聞いたことがありました。でも、調べてもらったら、墓碑は市の文化財にもなっていないし、「濱」という犬のことはもちろん、由来や言い伝えなどはいっさいわからないということでした。存在自体把握されていなったので、当然といえば当然なんですが。

「もしかしたら、地区の古老が知っているかもしれません」と言われました。そうですね、探せばいるかもしれません。「そのうち」などと言っていると、関係者がいなくなってしまって、せっかく名前もはっきりわかっている犬「濱」も完全に歴史に埋もれて忘れ去られてしまうでしょうが、時間が足りないのでしかたありません。だれか、興味を持った人がいれば、ぜひ調べてみてください。

そして境内にも、石灯篭がありました。それは資料館にもあった、このあたりに特有の「木下貝層」で造った石灯篭「貝化石灯篭」と呼ばれるものです。「木下貝層」は、東京湾で堆積した貝の化石で、このあたりでは、石材として使用していたそうです。

 

 

 

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2019/05/14

「大嘗祭の米産地、「亀卜」で栃木県と京都府に決定」というニュース

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(石畑の棚田)

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(石畑の棚田)

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(毛原の棚田)

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(新井の棚田) 

 

「11月に行われる天皇陛下の即位に伴う重要儀式「大嘗祭」に供える米を収穫する地方が占われる「斎田点定の儀」が行われ、宮内庁は、米の産地が栃木県と京都府に決まったと発表しました。」
(TBSニュース https://news.nifty.com/article/domestic/society/12198-273242/)

「亀卜(きぼく)」で「大嘗祭」に供える米の産地を決めるなんて「古臭い」と言っているジャーナリストがいますが、わかってないですね。ある意味「合理的」だと思いますよ。

はっきり言って、田んぼはどこだっていいのです。(あくまでもいい意味ですよ)

どこだっていいけれど、決まったら、影響力は大きいです。名誉でもあるだろうし、経済的メリットも生まれます。

だから選定には、不公平感があってはならないのです。できれば「自然に」、あるいは「神の御意志で」決まったら理想的でしょう。だったら、それをどうやって決めるか。サイコロを振ったり、エンピツを転がすことではみんな納得しないでしょうね。

ここで「亀卜」が出てくる。昔から、これで決めていたんだから、ある意味、どこに決まってもしかたない(納得せざるを得ない)ということです。もちろん「亀卜」の亀の甲羅を読む方法は人の意志や無意識が影響するでしょうが、秘儀であるなら公にしなくてもいいわけだし。

さて、決まった栃木県と京都府では、これから田んぼを推薦することになるそうですが、じゃぁ俺は棚田を推薦しておきます。

栃木県内には、「日本の棚田百選」になった棚田は、茂木町「石畑の棚田」と、那須烏山市「国見の棚田」です。国見は数年行ってないので正確にはわかりませんが、放棄された田んぼもあったかと思うので、ここはやはり推薦は「石畑の棚田」ですね。

ここは立派です。いい棚田です。ボランティアも入っているので、美しい棚田を維持しています。

京都府の百選の棚田は、京丹後市「袖志の棚田」、福知山市「毛原の棚田」ですが、他に百選には入ってないですが伊根町「新井の棚田」などあります。

 

 

 

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2019/05/13

【犬狼物語 其の三百二十四】千葉県印西市 愛宕山泉王寺の犬像

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前から気になっていた犬像があって、それを確かめるために印西市に寄ったのですが、ネット情報で、印西市の愛宕山泉王寺にも犬か狼かの石像があると知ったので、訪ねてみました。

国道464号線の北側、数百メートルのところに位置します。

石像は門柱にぴったり寄り添う格好で像が建っていました。なので、境内側からしか見ることができません。石像はカビなどで迷彩模様のようになっているので、門柱に犬の姿が溶け込んでいるようにも見えます。

耳目もなくなり、頭が丸くなっています。ほとんど球体です。後ろから見ると、尻尾が「マルイ」の〇字に巻いています。

泉王寺は、真言宗醍醐派の寺だそうなので、宗祖と仰ぐ空海(弘法大師)の故事にちなんだ犬像なのかもしれません。

弘法大師は唐の長安で密教を学んで帰国する時、唐から日本の方を見ながら、「密教を広めるための良い土地があればその場所に落ちよ」と唱えて、三鈷を日本に向けて投げました。三鈷は両端が三つ又になった修行で用いる金属製の仏具のことです。

帰国後、三鈷杵が落ちた場所を探しに紀州の山の中に入りました。すると山中で猟師に出会いました。その猟師は白犬と黒犬を連れていました。実はこの猟師は狩場明神が姿を変えたものでした。この白黒2匹の犬たちの導きで、弘法大師は高野山にたどり着き、高野山に金剛峯寺を開山することにしたという。

犬像は、この白黒2匹なのかもしれません。

ところで、この尾の形、どこかで見たなぁと思ったら、千葉県久留里城址・城山神明社の犬像の尾の表現のしかたと雰囲気が似ていることを思い出しました。もっと「の」の字に近いですが、これもまた弘法大師由来の犬像でした。

 

 

 

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芥川賞『ニムロッド』のテーマ、AIと人間について

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第160回芥川賞に『ニムロッド』が受賞しました。まだ作品は読んでいませんが、著者の上田岳弘さんがインタビューを受けているのを見て、いろいろと考えさせられました。内容はどうかわかりませんが、テーマとしては興味があることです。

AIで効率化が進むと、人間はどうなるのか? それでも人間でい続けることができるのか。

「やがて僕たちは、個であることをやめ、全能になって世界に溶ける。「すべては取り換え可能であった」という答えを残して」 

どうなるかは誰もわかりませんが、個が無くなるという感覚はなんとなくわかる気がします。

以前、脳を100パーセント使う『ルーシー/LUCY』や『リミットレス』という映画について書きましたが、その映画では、脳が100パーセント使われるということは、肉体が必要なくなる、つまりは個がなくなり、「全体」に溶け合うということらしいのです。

ところで、オーストラリア先住民アボリジニーには「犬のおかげで人間になれる」ということわざがあります。気に入っていることわざで、時々引用させてもらっています。

このことわざは、テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン著『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』に載っているものです。

どういうことなのでしょうか? 本から要約します。

考古学によって、人間が飼い犬を埋葬するようになった1万年前から、人間の脳が小さくなったことがわかったというのです。(犬の脳も小さくなりました)

人間の脳のどこが小さくなったかというと、

「人間では、情動と知覚情報をつかさどる中脳と、嗅覚をつかさどる嗅球が小さくなり、一方、脳梁と前脳の大きさはほとんど変わっていない。」

だそうです。つまり、犬と暮らすようになって、こういうことが起こったようです。

「犬と人間の脳は専門化されたのだ。人間は仕事の計画と組織化を引き受け、犬は知覚の仕事を引き受けた。犬と人間はともに進化して、よき伴侶、よき仲間、よき友達になったのだ。」

犬は番犬、猟犬としての能力が重宝がられたはずなので、そういった番犬として、猟犬として、暗闇から敵を見つけたり、匂いで他の動物の接近を知ったり、獲物を探したり、という知覚能力を犬に頼ることができるようになったので、人間はその部分の能力を退化させたということのようです。

これが「犬のおかげで人間になれる」という意味のひとつです。お互いが補完しあう関係ですね。(ネアンデルタール人が滅んだのは、犬を飼わなかったからだ、という説まであります)

と、いうことは、もしかしたらAIによって、人間は犬を飼い始めたときのような大変革の時期に差し掛かっているのかもしれません。

今のAIによって、人間の能力を補完してくれるならば、人間は、そこはAIにお任せして、別なとこに能力を使えるようになる、とも言えるわけです。人間とAIは、犬と暮らすことで脳が専門化したように、お互いの能力を住み分けるのです。

例えば「計算」はAIには絶対かないません。「計算」でAIに勝とうとしても無理です。ここはAIに任せたほうがいいでしょう。

だから、たんに「AIで仕事を奪われる」などと悲観している人は、すでにAIに負けています。いや、勝ち負けではないですね。あくまでも「補完」なのです。お互いが必要不可欠な「仲間」と言ってもいいでしょうか。

どんな能力の発展が人間に可能なのかはわかりませんが、たぶん、AIには一番不得意な分野であるのは確かでしょう。じゃぁ、何が不得意かというと、「あいまいさ」ではないでしょうか。この「あいまいさ」はAIと比べて人間の得意分野だからです。「芸術」「宗教」などはその典型かもしれません。

まぁ俺は預言者でも占い師でもないので、この「あいまいさ」が、未来、どういった人間の姿を造り上げるかはわかりません。

ただし、「補完」関係ならまだ人間であることは可能でしょうが、それも進んで、もはや「補完」ではなく、すべてがAIが優先するなら、もう人間は必要ありません。まったく本末転倒な話ですが、ある意味、幸せなのかもしれないですね。今の人間の不幸は「悩む」ことにあるとも言えるだろうし、その悩みがなくなるのです。AIが答えを用意してくれるわけだから。

そういう新しい価値で生きる新しい動物が、その時代の「人間」なのでしょう。AIもまた犬と同じように「人間」を作るのではないでしょうか。

そして、その新しい価値を拒み続ける「人間」は、「旧人」として絶滅していくのかもしれません。俺も絶滅する「旧人」側になるんでしょうね。

 

 

 

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2019/05/12

【犬狼物語 其の三百二十三】千葉県佐倉市 高産霊神社の犬(?)狼(?)像

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高産霊(たかむすび)神社は、京成臼井駅の南約2kmに位置します。神社の門前に「ぽっくり弁天」、さらに左手に専栄寺があります。

神社は観応元年(1350)3月2日に大己貴命(オオナムチノミコト)を祭って創立されたそうです。

「八坂神社」「金比羅神社」「子安神社」「疱瘡神社」「天満天神」の5社があり、階段を上ったところに左右、1対の像が鎮座します。これは何でしょうか?

左側の像は、子連れの像らしい。右側に控える像の右前足がなくなっています。痛々しい感じですが、顔を見ると笑っているようにも見えてきます。時間の流れを感じます。

俺には犬狼像にしか見えません。犬狼ではなくて、狐という話もあります。子安神社が祀られているので、子安信仰由来の犬像かもしれません。(だから子連れの像なのかも)

明治のはじめ、まだこのあたりは荒野だったんですね。

「幕末からの混乱で職を失った武士や路頭に迷う庶民があふれ、政府にとってその対策が緊急の課題となっていました。(略)新たな農地を開拓することで彼らの救済と食糧増産を図ることに決定します。開拓の対象となったのが北総台地の牧(まき)でした。(略) 開拓は、実際に事業を進める開墾会社が設立され、明治2年、北総台地の西側、小金牧の初富地区(鎌ヶ谷市)から始まりました。東側の佐倉牧もすぐに続き(略) 明治3年には、7月と9月に台風が襲い、植えたばかりのそばや麦が全滅しました。宿舎が火災に見舞われた地区もありました。 」

(関東農政局 4. 明治の混乱と牧の開拓【「農」と歴史】 http://www.maff.go.jp/kanto/nouson/sekkei/kokuei/hokuso/rekishi/04.html

この高産霊神社の像が狼(お犬さま)かどうかはわかりませんが、佐倉市にも三峰信仰の「三峰講」があったようです。きっかけは明治3年の火災だったといいます。明治3年は災害が多い年だったということのようです。このことと、三峰講が生まれたのは関係するのかもしれません。

「明治3 年(1870)に佐倉新町(現,佐倉市)で結成された三峰講も,町の火災をきっかけに火防の神をまつることを願意としていた。」(佐倉市教育委員会編・発行(1978):『佐倉文庫4 三峯山道中記図絵』,冒頭)(関東平野における三峰信仰の展開 ―武蔵国東部を中心に― 三木一彦  https://www.bunkyo.ac.jp/faculty/lib/klib/kiyo/edu/e39/e3907.pdf)

ところで、神社前の「ぽっくり弁天」は、もともと違う場所にあったものが遷座されたもの。「無病息災長生きのうえ、最期は美しく老い長患いせずに「ポックリ」大往生するという霊験あらたか」だそうです。俺もあやかりたい。

 

 

 

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2019/05/11

【犬狼物語 其の三百二十二】千葉県銚子市 柴崎三峯神社

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銚子市の柴崎三峯神社は一風変わった神社でした。

境内は2m半くらいの幅で、細長くカーブしています。数台停められる駐車場を回り込むような形です。

お犬さまの像は、その境内の真ん中ほど、石祠の両側に控えています。2対ありますが、1対は新しく、1対は古いものです。とくに古い右側の像の顔は、ほとんんど無くなっています。

石祠には明治24年の銘があります。古い方のお犬さまは、このときいっしょに奉納されたのでしょうか。古さはそのくらいの感じです。

境内の一番奥まったところに「海上宮発祥之地」の碑があります。現在、海上八幡宮が200mほど離れたところに鎮座しますが、この八幡宮のことなのかもしれません。「海上八幡宮を氏神とする町内では、玄関の軒下に「お的」を掲げ、家を守る風習がある」そうです。(第6章 銚子市の歴史文化の特性 http://www.city.choshi.chiba.jp/edu/sg-guide/rekibun/pdf/6.7.pdf)

巨木もあって、もともとここに何かを祀り始めた場所だったのではないかと思います。

 

 

 

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2019/05/10

【犬狼物語 其の三百二十一】千葉県銚子市 松岸・三峯神社の3代のお犬さま像

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銚子市の松岸・三峯神社は、国道356号線から60mほど住宅街に入った角に鎮座します。

境内は10数メートル四方ほどのこじんまりした神社ですが、神域にふさわしい静けさが漂っています。時々風が吹き抜けていき、木の葉を揺らします。

石祠が祀られている台座の碑文によると、安政6年に火災予防・盗難除け・諸災除けとして勧請され、明治14年再建されているようです。そしてまた社の損傷が進んだので、昭和55年に再々建されました。

お犬さまは3対あります。外側になるにしたがって、像は新しいものになっています。

一番外側は昭和53年、真ん中が昭和39年、そして一番内側の像の台座は壊れていて、文字は見えなくなっています。これはいつ奉納されたものでしょうか。

3代のお犬さまが並んでいるのは珍しい。時代によって姿の変遷がわかる資料としても貴重なものではないでしょうか。時代とともに、よりリアルなオオカミの姿に変化しているように思います。

また、一番古い像には「女人講」の銘が見えます。子安信仰もあったのでしょうか。よくわかりません。

 

 

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2019/05/09

【犬狼物語 其の三百二十】千葉県旭市 飯岡三峯神社

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グーグルの地図を頼りに千葉県旭市の飯岡・三峯神社を探しましたが、なかなか見つかりません。鳥居はいくつも見つかるのですが、どれも目的の三峯神社ではありませんでした。

車で行ったので、狭い路地に停車して探すわけにもいかず、いったん広い通りに出て、妻とヴィーノに車で留守番してもらい、俺だけ一人で歩いて探すことにしました。

昔はどのあたりまで海岸が迫っていたのかなと思いをめぐらしながら、狭い路地を内陸方向へ歩くと、ある民家の外で仕事をしていた人たちがいたので、三峯神社の場所を聞きました。それでようやく見つけることができました。

飯岡助五郎の住居跡から300mほど内陸に入った住宅地の中にあります。「飯岡助五郎」って誰だ?という話ですが(興味のある方は調べてみてください)。

鳥居をくぐると両側にお犬さまの像が控えていて、境内の奥まった高いところに石祠が祀られています。

ふくよかな体つきをした犬のような狼像です。尾は太く狐のようです。損傷がはげしく、顔も削られてしまっています。いつくらいに奉納されたものでしょうか。

車に戻るとき、まだその人たちがいたので、神社について少し話を聞いてみました。

三峯神社では、もう祭りは行っていないそうです。若い人が参加することもなく、講もなくなってしまったからです。

ただ、毎年4月になると、今でもお犬さまのお札を秩父市の三峯神社から送ってもらい、昔の講員だった人にも配っているそうです。

そのお札は各家の神棚に祀っています。かろうじて狼信仰の痕跡はありました。

どうして三峯神社を勧請したのかなど、その由来はもうわかりません。

 

 

 

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2019/05/08

【犬狼物語 其の三百十九】神奈川県三浦市 三峯神社の遠吠えの狼像

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三浦海岸駅から徒歩7分のところに、ホテル・マホロバマインズ三浦があります。

三峯神社はこのホテルの敷地内にありました。

神社へは、ホテルの本館正面玄関から周るルートと、本館裏口から行くルートがあります。駐車場から行くと、この裏口ルートを通ることになるのですが、巨大なホテルの敷地、しかも搬入する車なども止まっているし、コックさんらしき人たちが歩いていたりして、こんなところに三峯神社があるのだろうか、と少し心配になりました。

搬入口の方へ向かって坂道を上っていくと、ありました。建物の奥に赤い「三峯神社」の幟が見えます。

鳥居手前には、三峯神社の由来書きが立っていて、「当神社は、埼玉県秩父市の三峰神社の分院です」とあります。

ホテルのホームページにも、「三浦のパワースポット「三峯神社」のご案内」のページがあります。

「毎年年始には、地域の方々や当館にご宿泊の多くのお客様がこの「三峯神社」へ初詣に訪れます。また近頃では季節に関わらず参拝される方が増えています。この三峯神社では、年に一度秩父の本家三峯神社へ参拝し、この一年お護りいただいたお礼とともに新しい御神札を授かり、三浦の地でも同じくお護りくださるよう神事を行っています。」

神社の管理もホテルで行っているらしく、「フロント、予約、調理、ウェルネスクラブなど各部門からスタッフが集まり、清掃を行いました。」とあります。 

拝殿前の狼像は遠吠えをしている姿で、他で見たことがありません。像自体は昭和55年奉納で、数ある狼像の中では新しい方ですが、ユニークなお犬さま像です。

 

 

 

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2019/05/07

【犬狼物語 其の三百十八】 千葉県佐倉市 国立歴史民俗博物館のオオカミ頭蓋骨化石

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佐倉市の武家屋敷街に隣接した ひよどり坂から、日本の歴史、民俗学、考古学について総合的に研究・展示する国立歴史民俗博物館へ行きました。博物館は佐倉城趾の一角に位置し、「歴博」の愛称で親しまれています。連休ということで、昼には駐車場がいっぱいになりました。

展示は広範囲にわたって、質量ともに見ごたえ十分、いや十二分です。

とくに興味を引かれのは、やっぱり古代です。栃木県の藤岡神社遺跡(縄文時代)から出土した犬形土製品のレプリカも展示されていました。懐かしい。オリジナルは実際手に持たせてもらい写真に撮った資料です。これは『犬像をたずね歩く』に収録しています。

オオカミの頭蓋骨もありました。「直良信夫コレクション」の後期更新世のオオカミ化石です。(放射性炭素年代測定を実施した結果、オオカミの頭蓋骨は約3万6千~3万3千年前頃の化石であることがわかった)

直良信夫は、オオカミの生態や人間との関係、信仰などをまとめた『日本産狼の研究』を著した、考古学・古生物学・古植物学・動物生態学などの分野で数多くの業績を残した人物です。

展示の解説ボードにはこのようにあります。

「頭蓋骨は26cmあり、超巨大なオオカミである。ニホンオオカミの約1.3倍の大きさで、シベリアのオオカミよりも大きい。ヒトがわたってきたころの日本列島にはこのような動物が普通に棲息していた」

このオオカミの頭蓋骨は、栃木県葛生で発見されたものですが、ニホンオオカミが、大陸のオオカミよりも小さかったことは、このような大きなオオカミが日本列島に閉じ込められ、だんだん小さくなっていったという説を支持するのでしょうか。

「歴史系総合誌「歴博」第195号」(https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/rekihaku/195/witness.html)にはこのようにあります。

「ニホンオオカミの系統については、近年の分子系統学的研究によればタイリクオオカミの中の一亜種を形成すると考えられている。一方、形態学的にはタイリクオオカミとは異なった特徴をもつことから、日本列島における遺存固有種とする考えとタイリクオオカミが小型化した島嶼(とうしょ)型亜種とする考えとが対立している。」

まだ定説はないようです。

 

 

 

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ゴールデンウィークの犬連れ車旅04 千葉県佐倉市 武家屋敷通り「ひよどり坂」

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千葉県佐倉市を訪ねました。

武家屋敷通りに隣接した「サムライの古径(こみち)」の「ひよどり坂」で、ヴィーノの記念写真を撮りました。江戸時代からほとんど変わらないという、凛とした美しさと静かさをもった竹林に囲まれています。

このヴィーノの写真は雑誌の連載で使えるかな。いいロケーションです。朝の光もちょうど美しく差し込む時間でした。

 

 

 

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2019/05/06

ゴールデンウィークの犬連れ車旅03 千葉県君津市 亀岩の洞窟(濃溝の滝)と笹川湖

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千葉県君津市の濃溝の滝と笹川湖へ行きました。道の駅があって、我々犬連れ旅行者にとっては便利なところです。

さて、この清水渓流広場(濃溝の滝・亀岩の洞窟)なんですが、「濃溝の滝」と言っているのは実はあまりよく見えず、ハートの形を作り出す幻想的なスポットとして、SNSや多数のメディアで注目されたのは、「亀岩の洞窟」というらしいんですね。

でも、この「濃溝の滝」が独り歩きしているようです。地名(名前)にはそれなりの歴史・物語・理由があります。

この洞窟は自然物ではありませんでした。農業のために人が造り上げた文化的景観で、この洞窟(水路)は当事者が付けた名前だということです。だからちゃんと「亀岩の洞窟」と呼んだ方がいいのかもしれません。

ちなみに、ハート型の光が現れるのは、3月と9月のお彼岸時期の早朝だそうです。 

清水渓流広場というくらいで、この有名な「亀岩の洞窟」以外にも、昔田んぼだったところが湿地帯になっていて、木道を歩くことができます。

道の駅に泊まり、翌朝4時ころヴィーノに起こされて散歩をしたら、まだ明るくなっていないのに、やけに車が入っていって、何やらエンジン音で騒々しいと思って、笹川の橋の上から覗くと、レンタルボート屋さんでした。

釣り人が準備中のようでした。

 

 

 

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ゴールデンウィークの犬連れ車旅02 神奈川県葉山の海岸&棚田

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葉山の御用邸の海側が一色海水浴場になっています。そのまま南へ歩いて行くと、小磯の鼻、大浜海岸に続いています。

海岸自体はいいところです。波も穏やかなので、サーフィンではなく、SUP(スタンドアップパドル)を楽しんでいる人たちがたくさんいます。海岸に椅子を持ちだし、ビールを飲みながら海を眺めている人もいます。俺たちのように犬連れで歩いている観光客もいます。

でも、さすが御用邸のある海岸ですね。警備の警察官がところどころに立っています。偶然にも、前天皇が退位し、新天皇が即位したばかりです。「何か」あるといけないので、警戒も厳重なのでしょう。

葉山の町も、大きな車通りから一歩路地に入り込むと、いい雰囲気です。海岸だけではなく、意外と街歩きも楽しいところだと分かりました。

郊外には、神奈川県では珍しい棚田があります。葉山の棚田です。水は張ってありましたが、まだ田植えは終わっていませんでした。

 

 

 

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2019/05/05

ゴールデンウィークの犬連れ車旅01 神奈川県七沢温泉郷の七沢荘

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(七沢温泉郷の七沢荘)

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(モスカの像)

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(七沢荘休憩スペースの壁画)

 

ゴールデンウィークの犬連れ車旅の初日。

自宅を出て、神奈川県座間市の七沢温泉郷にある七沢荘へ向かいました。ペット宿泊可のコテージとペット用露天風呂もある和風旅館です。

七沢荘の玄関先には犬像があって、『犬像をたずね歩く』に収録しました。自分の子犬、2匹のタヌキの子、イノシシの子を同時に育てたモスカという母犬の像です。七沢壮の看板犬でした。詳しい話は、後日、「犬狼物語」としてアップします。

取材した時は時間がなくて温泉に入れなかったので、今回、あらためて温泉に入りに行きました。 

源泉は、平成元年から3年かけて掘削した東丹沢唯一の本格的天然温泉だそうです。広い露天風呂や休憩スペースもあって、落ち着けます。人気の温泉だということが分かりました。

 

 

 

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