カテゴリー「埼玉県内(秩父など)」の155件の記事

2020/05/27

埼玉県所沢市 多聞院の虎像

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所沢市の多聞院を参拝しました。

先日紹介した『東京周辺 神社仏閣どうぶつ案内』の中にあったからですが、たまたま撮影が所沢の近くだったので、寄ってみました。

毘沙門堂の前では一対の狛虎(虎像)が護っています。虎は毘沙門天の使いとされるためです。慶応3年に奉納されました。

偶然なのですが、この半年のうちに、虎像を見たのはこれで3度目になります。しかも所沢、生越、藤岡と、関東平野の西側山際に沿った3カ所です。どの虎像も造形的に似ていると言えば似ているものです。

それと毘沙門堂の周りには、たくさんの小さくてかわいい黄色い「身がわり寅」がずらりと並んでいるのは圧巻です。身に降りかかる災いを「身がわり寅」に託して奉納されたものだという。 

虎像の近くには、「鬼の悟り」と呼ぶ印象的な石像もあります。 

また、隣の神明社には「甘藷乃神」も祀られています。「川越いも」の名で知られるサツマイモの神様です。

 

 

 

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2020/04/23

埼玉県越生町 虚空蔵尊の牛・虎像

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埼玉県越生町の三満山 虚空蔵尊には牛像と虎像が奉納されています。

虚空蔵菩薩は、丑・寅年生まれの人の「守本尊」だからですが、とくに虎像はすばらしいですね。

 これが狼像だったならもっと良かったのですが。

 

 

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2020/03/30

コロナ禍でみえてきた差別と偏見

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新型コロナは中国から始まり、日本、韓国などアジアを中心に広がったことから、今、アジア人差別が起こっているらしい。

アメリカでは、襲われるのではないかと、アジア系の人たちが武装用に銃を購入しているというニュースも入ってきました。

「差別・偏見は悪い」と誰でもがいいます。(差別主義者は言わないでしょうが) でも、平時ではそうでも、こういった有事になると、わからなくなります。

俺も意識的には人種・民族差別主義者ではないつもりです。むしろ、外国や外国人には興味津々で、好きといってもいいでしょう。ところが、最近のコロナ禍で、俺は、どうも外人が気になっていることに気が付きました。その気づきは、今までのとちょっと違います。なんとなく身構えるというか、そんな感じです。

たぶん、これも、「コロナ=外国」という無意識が働いているようなのです。このパンデミックにあって、今さら「コロナ=外国」というのは的外れであるし、むしろ、俺自身が不顕性の感染者かもしれないのですが。「悪は自分の外にある」と思いたがることも理由でしょう。

そこで思い出す映画があります。 何度か紹介したことがある『クラッシュ』(原題: Crash)というアメリカ映画です。第78回アカデミー賞作品賞を受賞しています。

ロサンゼルスで発生したある交通事故から物語は始まって、アメリカ人の中の差別、偏見、憎悪がうごめく世界を描いていますが、後半では救いのある話が描かれて、ようやくホッとできる映画でもあります。

差別や偏見はいけない、と誰もがいいます。でも、けっこう難しい。いや正直、俺の中にもあるのです。

もしかしたら、やっかいなのは、自分が差別とか偏見をいっさい持っていないと思いこんでいる人、無自覚な人なのかもしれないのです。

映画でも、それを思わせるような登場人物がいます。若い白人警官のトムです。【ここからネタバレ注意】

最初は、ベテランの白人警官ライアンの、あまりにも黒人差別的な態度に我慢ならずに、同じパトカーに乗ることを拒否したくらいでした。そして、あやうくほかの白人警官が黒人を撃ってしまうところを自分の説得で回避させたことで、彼の「無差別主義者」が証明されたような事件が起こります。たぶん、彼はそれでますます自分が無差別主義者であり、正しいのだと自覚したのでしょう。

ところが、です。ある黒人青年を車に乗せてあげたとき、彼がポケットから取り出そうとした人間のフィギュアを、てっきり拳銃と早とちりして、撃ち殺してしまうんですね。皮肉としかいいようがありません。

自分の意識できるところでは、「無差別主義者」でしたが、無意識では、どこかに差別や偏見があったのでしょう。ポケットに手を突っ込んだら「拳銃だ」と反応してしまうようなものが。白人ならこうはならなかった可能性が高い。

実際に1999年ニューヨークで起きたアマドゥ・ディアロ事件があります。ギニア人の移民であったディアロさんが、白人警官たちの発砲によって死亡しました。ディアロさんがポケットから銃を取り出すと誤解されたからでした。白人警官トムと同じような事件です。

社会心理学者のゴードン・オルポートの心理学実験があります。スーツを着た黒人と、手にナイフを持った作業着の白人が、地下鉄車内でもめているような絵を見せます。

それを「どんな絵だったか?」と伝言ゲームのように伝達してもらう実験をすると、黒人と白人が入れ替わってしまうというものです。ナイフを持っているのは黒人に違いないという思い込みというか偏見が、白人の心の底辺にしみこんでいます。

これほどやっかいなものです。「白人」とか「黒人」とか、見かけが偏見や差別の原因の大きなポイントであるらしい。見かけが大きいのです。「イケメン」とか「美人」とかも、見かけによる判断をしているという意味では同じ差別、偏見につながっているということなのでしょう。

トムと対照的に、差別主義者と自覚している、まるでトランプ氏のようなライアンなのに、ガソリンで爆発しそうになった事故車から、黒人女性を命がけで助けたりもします。

わからないんですよ、人間は。普段言っていることと違うことをやってしまう人間は、いくらでもいます。俺もそうかもしれません。

そして見かけで人を判断することが必ずしも悪いことではなく、むしろ、生き抜くうえでは必要なことでもあって、だからこそ俺は簡単に「差別・偏見は悪い」と言うような人間は信用できないと。でも、これも俺の偏見であるには違いないのです。

無意識の「差別・偏見」が誰にでもあるからこそ、「俺にもあるんだ、だからそれを無くそう」という「意識化」がだいじなんだろうなと思います。

 

 

 

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2020/01/22

楽風の瓦屋根葺き替え工事(02)北面の屋根

 

先日は、埼玉県さいたま市浦和区にある 日本茶喫茶・ギャラリー楽風の瓦屋根葺き替え工事(01)南面をアップしましたが、今日は(02)北面の屋根の作業様子です。

1/14(火)~24(金) 、工事に伴い休業中。(天候により変更の可能性あり)

 

 

 

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2020/01/17

日本茶喫茶・ギャラリー楽風の屋根瓦の葺き替え工事始まる

 

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埼玉県さいたま市浦和区にある 日本茶喫茶・ギャラリー楽風は、2020年1月14日(火)~24日(金)まで休業中です。(天候により変更の可能性あり) 

楽風の建物は旧中仙に面した青山茶舗のお茶の保管倉庫として使われていたもので、1階を喫茶、2階をギャラリーとして1991年にオープンしました。ここで俺は過去数回写真展を開かせてもらっています。

ギャラリー部分の壁が土壁で畳敷き、アジア・日本の風景の写真展が多かったので相性は良かったのです。俺の写真よりも、この土壁を誉めるお客さんも少なくありませんでした。いや、実際建物自体の価値は高いのです。

そして今回、2階の瓦屋根葺き替え工事を行うことになりました。

1月14日には足場が組まれ、16日からは、実際に瓦や瓦の下の土を下ろす作業が始まりました。楽風の建物は貴重な文化遺産なので、昔の瓦葺の屋根がどうなっているのか、そしてそれをどのように新しいものにしていくのか興味があったし、青山さんの希望もあって一連の工事を記録することにしました。

とりあえずは、16日の南面の屋根の作業の様子をアップします。

 

(2020年1月22日、(02)北面の屋根の作業をアップしました)

 

 

 

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2019/08/24

【犬狼物語 其の三百九十~三百九十二】 埼玉県川越市 川越八幡内の三峰社&六塚稲荷神社内の三峰社&広済寺内の三峰社

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(川越八幡の三峯社)

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(川越八幡の目の神様)

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(広済寺の三峯社)

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(広済寺のしわぶきさま)

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(六塚稲荷神社三峯社

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(六塚稲荷神社の狛狐

 

以前、川越市の氷川神社内の三峯社について書いたことがありましたが、川越市内には、たくさんの三峯信仰の祠や三峯講があることがわかりました。

『埼玉民俗 第35号』(平成22年)に西村敏也氏の「川越の三峰講」が掲載されています。それを参考に書いてみます。

川越も大火を経験してきて、その結果として、今では観光客で大賑わいの「蔵造りの町並み」ができたと言ってもいいようです。

寛永15年(1638)には、町の約半分や、川越城、喜多院も焼き尽くしました。明治26年(1893)の大火では、全戸の3割が消失しました。この大火で焼け残ったのが土蔵でした。防火の観点からも、川越では土蔵建造が推し進められました。土蔵を倉庫ではなく、店舗そのものに利用しているのが川越の特徴で、明治時代末期には、現在のような「蔵造りの町並み」になっていたとのことです。

三峯信仰は、農村部では、害獣除けとして、また作神として信仰されましたが、都市部では、火災・盗難除けとして信仰されたという経緯があります。このようなことから想像すると、川越の街も、大火があったことが三峯信仰を広げた要因の一つであったかもしれません。江戸と同じように。

川越八幡神社内にも、境内社として三峯の祠がありました。社殿の左側です。隣には「目の神様」というのがあって、シュールな碑が建っています。

また、「川越の三峰講」には、喜多町、元町、幸町などの三峯講の事例も紹介されていて、川越の人たちはどのように三峯を信仰してきたのか、おぼろげながらその概観が見えてきます。

「蔵造りの町並み」の北側、喜多町の広済寺を訪ねました。境内には三峯の祠があります。

喜多町には自治会による三峯講があるそうです。広済寺には借地金を支払い、三峰の祠を置かせてもらっています。ただ管理などは喜多町自治会が行っているそうです。

祠には三峯神社のお札が納められています。これは「講社御中」とあったので、講としてもらい受けたお札のようです。

ちなみに、この祠の隣には、百日咳や風邪を治してくれる、ちょっと変わった荒縄で縛った石仏、咳地蔵尊(しわぶきさま)などが祀ってあります。

次に元町にも三峯講があります。いや「あった」といった方がいいでしょうか。

というのも、三峯代参講は60年ほど前までは機能していましたが、今はないそうです。たまたま六塚稲荷神社にいた地元の人にも確かめたところ、三峯講はもうないとのことでした。ただ、個人的に仲間とお札をもらいに行ってくるというのは続けられているようです。

お札は、六塚稲荷神社内の三峯社の祠に納められます。このお札は、「元町2丁目」としてもらい受けてきます。集団としての講はなくなっていますが、一軒の家によって、三峯信仰がかろうじて守られているのが現状です。

なお、幸町の講については、氏神である雪塚稲荷神社の氏子会が元になった「雪塚会」の管轄で、三社講と呼ばれる三峯・古峰・妙義の講が江戸時代から続いています。毎年、いずれかの1社に代参し、残りは郵便でお札をもらっているそうです。

 

 

 

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2019/07/31

【犬狼物語 其の三百七十六】「東京狼」

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『オオカミは大神』第二弾の「東京狼」の企画については、前に書きました。

「東京」とは言っても、実際は関東圏の狼像と狼信仰についてです。「大都会」と「狼」というギャップが面白いかなと思っています。

原稿を少しづつ書き始めていますが、そのために現在の三峯・御嶽神社の位置と、江戸時代の三峯社の位置を地図で合わせてみました。

グーグルマップに赤や黄の狼マークをプロットしたのが現在の三峯・御嶽神社、プラス狼像のある寺社の位置で、黒丸が三木一彦氏「関東平野における三峰信仰の展開 ―武蔵国東部を中心に―」の「武蔵国における三峰末社の分布 -文化・文政年間(1804~30」から引用したものです。

おおざっぱな地図で、正確なものではないので、傾向を読み取るしかできないのですが、これを見て気がつくのは、文化・文政年間には、かなりの数の三峯社が江戸にあったこということです。しかも、今はあまりないところにです。たとえば、墨田区、江東区、江戸川区、葛飾区あたりでしょうか。

単純に想像すると、関東大震災や戦時中の空襲によって、また、戦後は都市の再開発で、無くなってしまったのか?ということです。

その代わり、今は、都内でも西側に多く残っているように見えます。ただし、これは三峯神社と御嶽神社です。しかも、東京都三鷹市の東牟礼御嶽神社のように、今、まさに消滅している神社もあります。たしか、東牟礼御嶽神社も、道路拡張に伴って壊されていたと思います。

これからも、増えることはもうなく、減るだけかもしれませんが、何とか、都会の狼が残ることを期待しています。狼が鎮座するところには杜も残っています。そういう意味で、狼が杜を守っているともいえるかもしれません。

あとはこの地図を見て気づくのは、俺が住んでいる中山道沿いについて言えば、さいたま市周辺にも黒丸の比較的集中しているところがありましたが、今は、それほど残っていません。

 

 

 

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2019/05/29

【犬狼物語 其の三百三十二】埼玉県浦和市 常盤・三峰神社の事情

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『新編埼玉県史 別編2 民俗2』(昭和61年)では「三峰講」について、

「御眷属信仰の御利益については、一般に山地の農民は、猪鹿の害から田畑を守護してもらうことを期待し、町場や平野部の人々は盗賊除け・火防の神として考えている。その信仰圏は、(略)、関東全域から長野・山梨・静岡の各県にも及び、このほか宮城・福島・新潟などにも、わずかであるが講社が存在する。」

三峰講の分布の講数(昭和15年)を見ると、長野が一番多く1410、次に埼玉県914、千葉県636、茨城県550、群馬540、栃木県393、東京都182講となっています。

講数では埼玉県が2番目に多いところです。三峯神社の鎮座する県なので、1番かと思いきや、1番は長野県というのはちょっと意外ですが。

さいたま市浦和区に三峯神社が複数社あることがわかりました。

その1社を訪ねました。常盤1丁目に鎮座する三峯神社です。

旧中山道沿いには「浦和二七市場跡」がありました。

「二七市」というのは、毎月の二、七、十二、十七、二十二、二十七日の六回、市(六斎市)が開かれていたからです。ここに「御免毎月二七市場定杭」と大きく刻まれた石柱があります。高さ139センチで、左側面に「天正十八年七月日」、裏面に「足立郡之内、浦和宿」と刻まれています。浦和周辺には、大宮の五十市、蕨の四九市、川越の三六九市、与野の四九市、岩槻の一六市、鳩ヶ谷の三八市などがあって、いつもどこかで市が開かれていたような感じです。

そういえば、昔中国雲南省の大理に滞在中、郊外の少数民族村でも、月曜市、10日毎の市、6日毎の市などが開かれていて、毎日どこかの村で開かれている市へ写真を撮りにでかけていました。人や物や情報が集まり、賑やかで楽しかったですね。

このあたりも昔、市が立つ日にはにぎわっていたのではないでしょうか。ついでに三峯神社でお参りする人もいたかもしれません。

その三峯神社は、市場跡の向かいの路地に鎮座します。うっそうとした印象です。狭い境内には不釣り合いなほどの高さの杉の木が立っていました。

路地に面して石の鳥居があって、境内に入ると、杉の大木の隣に溶岩のような台座の上に社が祀ってあります。よく見ると、例の、狼が息ができるようにと三つ穴が開けられた御眷属守護の箱が祀られています。だれかまだちゃんと祀っているんだなと思いました。もしかしたら、三峯講もあるのではないかと期待が膨らみます。

でもあとで、この三峯神社がここに残っている理由が、きわめて現代的な事情によるものとわかってきたのです。

隣の店舗から奥さんが出てきたので尋ねると、すでに40年ほど前からこの三峯神社の土地を持っている人がだれだかわからなくなっていて、困っているというのです。

杉の葉が大量に落ちてくるので、枝を切りたいのですが、持ち主に許可を得てからではないと切ることができないそうで、かろうじて電線に引っかかる部分だけは、東電が切っているらしい。そのうちこの杉の木が倒れるのでは、という心配もあるそうです。

奥さんたち町内会では何とかしてほしいと、役所にも頼みましたが、とにかく持ち主がわからないのでどうしようもないらしい。個人情報保護のためでしょうか。名前だけはわかっていますが、連絡しようにも住んでいる場所もわからないという。だから、しかたないので、掃除は近所の人たちが自発的にやっているし、正月のしめ縄は町内会で変えているそうです。

「神社ですからねぇ」と奥さんがいいました。持ち主が分からなくて困っているという話は、空き家問題でも聞くことですが、そこに「神社」ということが付け加えられると、杉の木を撤去してほしいと言い出すにも気が引けるということらしい。とたんに無理は言えなくなるようです。そこが日本人の宗教心というか、心情らしいところでもあるでしょう。普通の空き家とは違います。

だれか昔のことを知っている人はいないかと思い、寺や店を聞きまわり探したところ、三峯神社へ参拝していたグループの一員だった人がいることがわかりました。

三峯山に参拝していたのは、地縁で組まれる三峯講というのとはちょっと違い、ある組合のグループだったそうです。代表が参拝する「代参講」ではなく、全員で参拝する「総参講」だったようです。

先代の人たちも三峯山に行っていたので、神社に参拝するのは悪い話じゃないし、じゃぁ行ってみましょうかといった程度。特別何かお願いがあって行っていたわけではありませんでした。行楽気分での参拝といったところでしょうか。そしてその習慣も十数年前くらいで終わってしまいました。

だから今、グループで参拝することはないので、社に祀られていた御眷属守護の箱もその時のものでは?というのですが、十数年前のものには見えません。そう言うと、だれか、個人的に参拝をしていて、社に祀っている可能性はあるかもしれないとのことでした。神社も、いつできたかは、先代からも聞いていないそうです。

 

 

 

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2019/05/26

【犬狼物語 其の三百三十一】埼玉県上尾市 三峰信仰と御岳信仰

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( 上尾宿の鎮守 氷川鍬神社)

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(橘神社「平方河岸出入商人衆奉納の石祠」前の犬か狼かの石像)

 

上尾市に引っ越してきたのだからと、地元に狼信仰や狼像はないだろうかと調べています。そこで犬か狼かの石像があったという話は、先日の「平方・橘神社」に書いた通りです。

上尾図書館には、平成元年ころ行われた上尾市内の民俗調査をまとめた報告書がありました。上尾市文化財調査報告『上尾の民俗』(上尾市教育委員会)です。

これによると、上尾にも三峰講と御岳講があったようです。

上尾市教育委員会によると、平成元年ころ民俗調査をやったときは、いろんな話が聞けたそうですが、ここ何十年かで、そういった民俗文化が急激に廃れ、もうほとんど講社もなくなったといいます。

今では上尾もこんなに建物ばかりが密集している都会ですが、昔は田畑が広がる農村でした。

現在の埼玉県に該当する武蔵国内の16郡については、正保年間(1644~48)から元禄年間(1688~1704)までの約50年間に、村の数が403カ村増加していて、17世紀後期になって新田開発が進んだことがわかるという。

三木一彦『関東平野における三峰信仰の展開 ―武蔵国東部を中心に―』には、「武蔵国における三峰末社の分布 」の地図が載っていますが、それを見ると、文化・文政年間(1804~30)では、 江戸市中と、中山道、日光街道などの街道筋に多く点在しています。

当時の宿場の軒数は、鴻巣490軒、桶川250軒、上尾宿170軒、大宮200軒、浦和208軒ありました。
享和二(1802)年に大坂銅座勤務を終えて江戸に帰ったときの大田南畝は、紀行文の中で、中山道の宿場町について、こんなふうに書いています。

「本庄は賑やかであり、深谷は五・十の六斎日にあたり、熊谷はとくに賑わい、江戸を彷彿とさせるものがあったが、鴻巣から桶川・上尾・大宮は、「わびしき所也」「ひなびたり」」(『埼玉歴史の道50話』埼玉県立博物館編著/埼玉新聞社)

日本では、オオカミはシカやイノシシを食べ、結果、人間にとっては農作物を守ってくれたので益獣でした。だから農村部の人々が三峰信仰に求めたのは、最初はシカやイノシシ除けでした。

「例えば、安永9年(1780)頃 の『武蔵演路』には、「曽て狼ありて田畑を守護し諸獣を入れず,其神妙数知らず」と」あります。 

当時は上尾あたりにも狼がいたのでしょうね。 

村々には、必ずといっていいほど「大山講(石尊講)」と「榛名講」がありました。これらの講は、雨乞い・嵐除け・雹除けなど、農業に関わる願意が中心となっていました。農業の作神として信仰されていたようです。「三峰講」も「御岳講」も作神としての信仰でした。

ちなみに上尾には、他に「戸隠講」「宝登山講」「富士講」「成田講」などあったようです。なんと「伊勢講」までありました。伊勢神宮へは毎年参拝というわけではありませんが。 

『上尾の民俗』には、「三峰講」や「御岳講」の具体的な 話が出てきて興味深いです。聞き取りが行われたのは平成元年ころなので、大正から昭和にかけての話です。

 御岳講は、青梅市の武蔵御嶽神社へ代参するのですが、大正時代から昭和初期には、上尾から自転車で行っていたというんですね。しかも日帰りの代参もあったというからすごいです。

『上尾の民俗 Ⅱ』(上尾市教育委員会/平成4年)の、戸崎の御岳講の例を引用すると、

「御岳神社を信仰する講で、作神様であるという。二人一組で四月の節供のころの代参であった。御岳には自転車で行ったもので、戸崎から平方に出て川越に渡り、入間川を経由して青梅に入り、ここからは神社までもう少しであった。神社では毎年決まった御師の世話になる。御師はOといい、現在のケーブルカーの下の駅の近くである。御岳に着くとまず御師「代参できました」といって荷物を置いて神社を参拝する。参拝から帰ると御師の家の中に祀ってある神社で御師が中心になって祭典を行ない、いただいて帰るお札やツツガユの紙を揃えてもらう。このときに、御師にはお札料と宿泊費を払うが、金額は提示されず、適当な金額を払うと、これに応じた賄いをしてくれる」

ツツガユ(筒粥)とは、その年一年の作物の出来の予測が書いてある占で、これを見て、「今年はコク(収穫量)がありそうだ」とか「今年はオカブ(陸稲)がだめだから、照りそうだ」などと話していたそうです。

上尾から御岳まで何キロあるのでしょうか。調べたら片道64kmありました。時速12kmとしても5時間半。行きは緩やかな登りできつかったが、帰りは楽だったとありますが、自転車往復が11時間とは、想像しただけでも「遠い」ですね。

俺も中国雲南省の麗江で、ナシ族の村へは片道10キロを自転車で行っていましたが、80年代の中国の自転車は、それこそ車体もペダルも意地悪いくらいに重くて、玉龍雪山へ向かう緩やかな上り坂と向かい風には死ぬような思いをしたので、それを思い出してしまいます。日本だって昔の自転車は重かったろうし、道だって舗装していないところも多かったのではないでしょうか。たぶん、日帰りの場合は、夜明け前4時ころには出発しなければならなかったのではないかなと思います。

そんな苦労をしてまでも、行きたい、いや、行かなければならないという当時の農民の心情を想像してしまいます。御岳までの日帰りの「旅」も、講員の思いを引き受け、くじで選ばれたという責任感や義務感に支えられた、単に物見遊山ではない苦労が偲ばれます。

とはいえ一方では、農作業が始まる前の春先、一日だけではあっても御岳までの「旅」はそれなりに楽しかったのかもしれません。村を出たことがない若者にとって、外の世界を知る絶好の機会でもあります。事実リクエーション的要素もあったらしいのです。

御岳では、いつも同じ御師にお世話になっていたようです。地域の担当が決まっていて、秋、冬には同じ御師が集落を周ってお札を配ることもありました。調査の中で、多の人が御師の名前を出していますが、すべてOさんです。

三峰講についても『上尾の民俗 Ⅱ』から、地頭方の例として引用します。

 「三峰神社の神様は、オイヌサマであるといわれる。代参は4月ごろで、上尾まで出て、高崎線の列車に乗り、熊谷で秩父鉄道に乗り換え、三峰口で降り、ここからはバスで行った。代参は日帰りであった。この講では、各講員に配るお札のほかに、辻札と御眷属札をいただいてくる。辻札は、ムラ境に立てたもので、堤崎境、領家境、壱丁目境、中新井境の4カ所に立てる。御眷属札は、神明様のところに三峰神社を祀ってあり、ここに納めるものである。これは、毎年古い御眷属札を代参者が持って行って取り替えて、毎年納めるものである。」

 いつの時代なのか、この例では「日帰り」とありますが、三峰講の場合は上尾から遠いので、坊に宿泊するのが一般的であったようです。

 辻札というのは御岳講の人ももらってきていて、やはり4カ所に立てたという。辻札は、五尺くらいの篠竹の上部を二つに裂いて挟み、挟んだお札の上に杉の葉を逆さに付けて縛って挿しました。

『上尾の民俗』で語られる講員の話を読んでみて受ける印象は、人々が三峰や御岳を信仰していたのは、あくまでも農家が求める作神様というところであって、それが「狼信仰」というところには意識がいっていないんだなぁということです。

お札にはオイヌサマが刷られていても、それが狼であることにはあまり関心が無いようです。まぁそれはそうでしょうね。農家にとっては今年の作柄がどうなるかというところが重要であって、狼はすでにいなくなっていたし、狼がシカやイノシシを食べるという具体的なイメージはすでになく、狼かどうかははっきり言ってどうでもよかったといえるかもしれません。中には、「このオイヌサマは養蚕の神さまのようで、蚕のねずみ除けであるといわれた」と話した人もいます。

一方江戸では、三峰信仰はシカやイノシシ除けではなく、火災・盗難除けとして信仰されました。大火が何度も発生していた江戸で、火災除けは必然だったということでしょう。ちなみに1601年から1867年の267年間に、江戸では49回もの大火が発生しています。

浅草寺内にも三峯神社が鎮座しますが、他のお堂はみな南側を向いているのに、三峯神社だけ東側の本堂を向いているのは、火防の守り神だからだそうです。

それと盗難除けも、どちらかというと都会的です。

街道が発達してくると、上尾などの宿場でもその影響をうけるようになります。宿場からさらに田舎の農村にその影響は伝播していったということらしい。このように農村でも都会の影響を受けて、三峰も、だんだんと火災・盗難除けとして信仰されるようになっていった経緯があるようです。

 

 

 

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2019/05/23

【犬狼物語 其の三百二十九】埼玉県上尾市 平方・橘神社

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上尾市の神社にもお犬さまらしき像がありました。「らしき」というのは、お犬さま(狼)像とは断定できない部分があるからです。「犬」にも見えるし、由来がわかりません。

場所は、橘神社の「平方河岸出入商人衆奉納の石祠」の前です。左側の像は顔の部分が割れて、下に置かれてありました。

『上尾の指定文化財』(上尾市教育委員会 平成25年)には、有形文化財に指定されているこの石祠について、次のように書かれています。

「平方河岸は、旧平方村(大字平方)にある荒川の河岸場で、近世には岩槻や原市方面から川越を経て多摩方面へ通じる脇往還筋にある渡船場としても機能する、交通の要衝であった。河岸の歴史は古く、寛永15(1638)年には既に河岸場として機能していたと観られる(『寺尾川岸場由来書』)。そして江戸時代を通じて荒川の舟運によって発展し、大正時代末まで栄えた。
 指定の石祠は、明治40年代に河岸場から橘神社に移されたもので、神明社を祀っている。高さ166cmで、形状は笠付角型石祠であるが、笠の部分は後補の可能性がある。正面左側面に「享保二丁酉天九月吉日 武州足立郡平方村 願主 当村中 河岸出入之商人衆中 右之願主等明記内宮納置者也」とあり、平方村中及び平方河岸に出入りする商人衆によって、享保2(1709)年造立・奉納されたものであることがわかる。また右側面には、宝永6(1709)年に祈願して以来、平方河岸が太神宮の神徳により繁栄したことのお礼と、今後の輸送の安全と一層の発展を願う奉納の趣旨が記されている。
 この石祠は、江戸中期から江戸地廻り経済(商品流通)によって発展した、平方河岸の隆盛を伝える数少ない貴重な歴史資料といえる。」

石祠は3基並んでいて、中央が指定の石祠ですが、お犬さまらしき石像が1対守っています。現在はこうですが、市の教育委員会にあった昔の写真を見せてもらうと、このお犬さまはいませんでした。平成15年に発行された『上尾の指定文化財』には載っていません。

最近になってこれが置かれたということが分かりました。でも、「最近」とは言っても、どのくらい前なのかははっきりしません。平成15年に発行された本には載っていなかったといっても、使われた写真がいつ撮られたものなのかわからないし。

いろんな状況から考えると、この石祠とお犬さま像は関係がなく、どこからか移されたものかもしれません。橘神社自体、明治40(1907)年、平方村の氷川神社に近隣の5つの村の鎮守を合祀してできたもので、このときに「橘神社」という名前に変えられています。氷川神社も、現在の場所ではなく、平方小学校の東にある氷川山にあったともいわれています。

上尾市教育委員会では、もしかしたら、別なところに石像があって、合祀されたときに、石像を神社に移し、さらに何年か前にこの石祠前に置かれるようになった可能性もあるのでは、ということでした。

 

 

 

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