カテゴリー「心理学の話題」の156件の記事

2018/07/25

映画『沈黙 -サイレンス-』2016年を観て

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『沈黙 -サイレンス-』(原題:Silence)は、遠藤周作の小説『沈黙』を映画化したアメリカ・2016年の作品です。

公式HPはこちら。

http://chinmoku.jp/

映画の冒頭のシーンは、雲仙の「地獄」から始まります。

ポルトガルから派遣されてきた神父たちは、雲仙地獄の熱湯をかけられ拷問を受けます。棄教を迫られるのです。でも、棄教しなかった神父たちは熱湯の拷問の末、死んでいきます。

それを見ているひとりの神父がいます。クリストヴァン・フェレイラ神父(リーアム・ニーソン)です。この神父は映画の後半で再登場します。

遠藤周作自身をモデルにしたといわれる登場人物、窪塚洋介扮するキチジローは、家族を裏切り、神父を裏切り、踏み絵も躊躇なく何度でも踏むのですが、でも、彼は生涯クリスチャンであったようです。

信仰とは何か?どういうことなのか?を一番わかっているのは、このキチジローではなかったのかと思うくらいです。いや、実際そうなんでしょう。

形はどうであれ、信仰とは心の問題で、誰からも犯されないということを、彼は意識なく実践している、そんな人物に見えました。

行方不明になったフェレイラ神父を探しに来たふたりの若い神父たち。セバスチャン・ロドリゴ神父(アンドリュー・ガーフィールド)と、フランシス・ガルペ神父 (アダム・ドライヴァー)。

【ここからネタバレ注意】

ロドリゴ神父は、隠れキリシタンたちにかくまわれ、村々で活動をしますが、とうとう捕まってしまいます。これもキチジローが裏切ったためでした。

役人たちは、ロドリゴ神父に棄教を迫ります。

そこに、フェレイラ神父が再登場します。実は彼はすでに「転んで(棄教して)」、日本人の妻も持ち、日本名を名乗る人物になっていました。

彼を探しにやってきたロドリゴ神父に対面します。ロドリゴ神父から見れば、裏切り者です。

フェレイラ神父は、ロドリゴ神父にも「転ぶ」ように説得します。ロドリゴ神父は、信者たちの拷問を見させられ、苦悩します。「なぜ神は我々にこんなにも苦しい試練を与えながら、沈黙したままなのか?」と。

ロドリゴ神父は耐えられなくなり、とうとう「転ぶ」のですが、その時、踏み絵のイエスは彼に語りかけるのでした。

「苦しいのは私が一番よく知っている、踏むがいい」と。

この映画は、神父側から言えば、日本のキリスト教弾圧は「悪」なのかもしれませんが、フェレイラ神父の言葉を借りるなら、この日本にキリスト教は根付かないという確信でした。隠れキリシタンの信仰もキリスト教の原理ではなく、来世への幸福を願っているだけというキリスト教の日本化というものに気が付き、布教をあきらめたのでした。

でも、フェレイラ神父は悟るのです。たとえキリスト教はダメでも、この国(日本)には、素晴らしい知恵があると。

弾圧する側の役人である、井上筑後守(イッセー尾形)と、通辞(浅野忠信)も、キリスト教だけが正しいという西洋の傲慢な考えを批判します。その点は、俺もその通りだと思います。

その癖は、今でも治っていないようで、最近のことで言えば、イスラム教徒たちが不満を持っている点でもあります。

多様なものを認める、その心の余裕こそが「愛」で、それこそキリストが説く一番大切なものなのではないのでしょうか。

人の心を一つの価値観で強制してはいけないのです。また、そんなのは無理なのです。そういう意味で、キリスト教の弾圧をしていた当時の幕府も同罪と言わざるを得ないでしょう。

キチジローのように生きるのが正しいのか間違っているのかはわかりませんが、俺は拷問されたら痛いのが耐えられないと思うので、すぐ「転ぶ」だろうし、信仰のために命を捧げる純粋さもありません。キチジローに共感します。
 
 
 
 
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2018/07/15

タイ13人が奇跡の生還で注目される瞑想(マインドフルネス)

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タイ北部チェンライ県、13人が洞窟から奇跡の生還で、発見されるまで彼らは瞑想して時間を過ごしていたそうです。

瞑想していると、邪念は払われ、空腹感や体力の消耗も抑えられたということが、生還につながったとの報道もあります。

瞑想はマインドフルネスとは必ずしもイコールではありませんが、西洋風に言えば、マインドフルネスという最近はやりの言葉になるのでしょう。

「マインドフルネス」とは「一切の評価や判断を挟まない気づき」のこと。「今この瞬間」に意識を集中することで、過去の失敗や将来への不安がもたらすネガティブな感情に気づき、それらと距離を置き、やり過ごすことができるようにするストレス低減法で、自分でもやれる方法です。

心理学を学ぶ中で、認知行動療法の中に、このマインドフルネスが出てきます。「認知行動療法」の教科書には、

「不適切な思考の変化を強調せず、非判断的で、受容的な注意の配り方を習得できるように援助するもの。…(略)…習慣的となって凝り固まっていた不適切な認知から自由になることが目指される」

とあります。

認知行動療法の第3世代と言われるもので、「禅」や「仏教」にも通じるところがあります。瞑想法が取り入れられて、マインドフルネス認知行動療法に発展したものです。より東洋思想に近づいたそうです。

日本でも去年の12月から従業員50人以上の事業所ではストレスチェックが義務つけられました。

それもあって、この新しい認知行動療法の「マインドフルネス」も注目されているようです。グーグル、アップルなどアメリカのIT企業も研修プログラムに採用しているものです。

俺も最近は呼吸を意識するようになりました。短い時間で吸って、長い時間をかけて息を吐くことが基本です。

空気が鼻孔を通るときの感覚、吐き出したときの唇内側の感覚など、「今この瞬間」を意識することで、考えなくてもいいことを意識から排除します。

まだ俺のマインドフルネスは発展途上なので、まだまだ過去の後悔や将来の不安からは解放されません。前よりは、マシかなぁという程度ですが。
 
 
 
 
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2018/07/07

オウムの死刑囚たちの死刑が執行

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麻原彰晃らオウムの死刑囚たちの死刑が執行されました。

突然、という印象がありますが、当局も熟慮した結果、「7人同時にこの日に」というふうになったのだと想像します。

なにしろ、麻原は黙して語らず、こういった事件の再発防止の手がかりを残さなかったところが、歯がゆいところです。

彼らはもともと「極悪非道な人間」なのでしょうか? そうではないでしょう。むしろ「普通の人間」だったはずです。

だから逆に怖いのです。「普通の人間」がある条件で変わってしまうというのは。

俺も他人事だとは思いません。年代も近く、実際、ある教団(オウムだったか覚えていませんが)の誘いで、事務所のようなところでビデオを見せられたことが2回あります。幸い、その時、俺の頭の中は「外国旅行したい」という思いが強く、この教団との関係もそれっきりで助かったのでしたが。

こんなことがあったので、俺も少しでも変な方向に転んだら、彼らと同じようなことにならなかったとは言えません。

どうしてこういったカルト教団や、最近では、ISなどのテロ集団に入ってしまうのでしょうか。

当然その人の内面の問題があります。

内面の問題とは、「普通」から外れた人のこころを受け入れてくれる「もの」あるいは「場所」あるいは「団体」あるいは「つながり」という解決策がないことです。

「どうしてISへ行こうとするのかわからない」という言葉は、俺の耳にも違和感がありました。これが一般日本人の感覚なんでしょう。この言葉の中には「この幸せな日本に住んでいるのに何が不満なのだ?」という裏の意味を感じます。

オウムの幹部も高学歴で、どうしてオウムなんかに?と思われていました。

ここです。問題は。

今の社会について疑問をもたず、淡々と生活を楽しんでいられる圧倒的多数派の人々。

むしろこの多数派の人間が本当は病的で、社会になじめない少数派の人間がまともにさえ見える社会です。そして「平和で、自由で、安全で、平等な国」というのも、しょせんは「他人の理想郷」であるし、また、建前(もっと言うなら「嘘」)であることをみんな薄々感じながらも、それを意識してしまうと生き辛くなるので、無意識に押し込めているというのが現状ではないでしょうか? だから圧倒的多数派と言っても、いつでも少数派になりえるということでもあり、結局みんな同じです。

こういう建前社会に、ついていけない人は正直なのかもしれません。建前社会になじめない少数派の人間の方が、本当はまともな人間なのではないかとさえ見えてしまうのです。

とにかく、今の社会に生き辛さを感じる少数派の人は、なかなか行き場所がありません。この内面の問題を解決しない限り、若者(若者ばかりではないですが)が、ISやオウムなどカルト集団に向かってしまう怖れは続きます。

この「内面の問題解決」こそ、これからの「テロとの戦い」でもあるのでしょう。
 

 
 
 
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2018/06/26

映画『LION ライオン 25年目のただいま』を観て

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Google Earthが活躍する映画かなと思って観ましたが、そのことは大きなポイントにはなっていませんでした。

むしろ、20数年間引き裂かれた家族との再会が感動的な映画です。実話だそうですが、まぁ、Google Earthで過去を再発見することは、大きい小さいはあるにしても、みんなあるのかもしれません。

1986年、インドの話です。ちょうど俺が中国→ネパール→インドに入って旅した年です。

スラム街で暮らす5歳の少年サルーが、兄と仕事を探しにでかけた街で、停車中の電車で眠り込んでしまいます。その電車は回送電車で、サルーはひとり閉じ込められたまま、千数百キロ離れた土地に運ばれてしまいます。そこは大都市カルカッタ(コルカタ)でした。

サルーはストリートチルドレンになり、人買にさらわれそうになったりします。そして孤児の収容所で紹介されたオーストラリアの里親の夫婦に引き取られます。

そこで幸せに暮らすのですが、ふと、インド系の人たちのパーティ会場で目にしたインドの揚げ菓子で、突然、兄のこと、母のこと、故郷のことを思い出すのです。

サルーは、幼いころの記憶とGoogle Earthで、本当の母や兄が暮らす故郷を探しはじめるのでした。そして何日かして「鉄塔が立っていた駅」を探し当てます。

サルーは、20年ぶりに故郷の村に帰ります。そこで母と再会します。(兄は死んでいました) そして、ここでなぜ映画のタイトルが『LION ライオン』なのか明かされます。ここは子供のころの記憶違いと関係しているのですが、ここにリアリティを感じました。

なるほどなぁと思いました。たしかに子供のころの記憶は、後で作られた記憶もあるし、子供の知識や常識で覚える記憶なので、大人の記憶とはまた違ったものになるわけですね。

記憶の問題として、心理学的な興味を持って観るのもまた面白いかなと思う映画でした。
 
 
 
 
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2018/04/06

【愛犬物語 其の二百四十七】 和歌山県有田川町  明恵上人と子犬像

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有田川に架かる明恵大橋の欄干の両端には、像が据えられている。明恵上人の座像と、向かい合っているのは、明恵上人の愛犬がモデルとされる犬像だ。

この犬像は、京都の高山寺にある木彫の子犬の像を模したもの。明恵上人はこの像を座右に置いて時々撫でていたのかもしれない。垂れた耳で、少し体を傾けてちょこんと座っている姿がとても愛らしい。

志賀直哉も、そばにおいて可愛がりたいくらい優れた作品だと語ったそうだ。運慶の長男・湛慶の作ではないかと伝わっている。

しかし、外に飾ってある犬像全般に言えるが、鳥の止まり木に利用されることも多く、この明恵大橋の犬像にも鳥の糞が付いて涙のように見えたので、まず、雑巾で拭いてからの撮影になった。

明恵上人について、個人的には生涯夢日記をつけていたお坊さん、ということで興味をもっていた。

明恵上人は19歳から、死ぬ一年前の59歳まで夢を記録し続け『夢記(ゆめのき)』を書いた。

明恵上人には、動物を慈しんだというエピソードも数多い。『夢記』には、自然や動物などが多く登場する。その中でも犬は頻度が高いそうだ。また、伝記によると、子犬を不用意にまたいでしまった後、もしかしたら亡くなった父や母ではないかと思い、引き返して子犬を拝んだという逸話も残っている。
 
明恵は有田川町で承安3年(1173)に生まれた華厳宗に属する僧侶だ。8歳の時、両親と死別し、16歳で僧侶になり、世俗化した仏教を避けて、山に引きこもりひとりで暮らした。34歳の時、後鳥羽上皇から高山寺を賜ることになった。

明恵は,一途なあまり狼に食われて死のうとしたり、耳を切ってしまったり,テレパシー(透視)が使えるようになったりと,一言で言えばかなり変わったお坊さんだったようだ。確かに「宗教家というより芸術家」という印象も受ける。

明恵が説く「あるべきようわ」は、『明恵上人』の著者・白洲正子氏は「それぞれの天性を知り、その天性に忠実であるべきだ、それが生きることである」と解釈している。現代風に言えば、自己発見だったのでは、という。

夢を重要視した心理学者ユングも、フロイトとの決別の後、6年間、方向喪失の時期があり、この間自分の夢を記録しイメージを絵に残している。偶然にも自分が描いた幾何学模様が、チベット密教の曼荼羅と似ていたということも知る。

ただ、ユングの方向喪失時代は、心理的な危機でもあったが、同時に、「創造の病」と呼ばれるような、次の段階に成長する時期でもあったのだ。まさに夢を使って自己発見した明恵と共通するものがあるのではないだろうか。

昔、夢は「神様のお告げ」だと思われていた。『日本書紀』にも、天皇が後継者を決めるために、息子である兄弟の見た夢によって判断したことが記されている。長谷寺や清水寺などでは、人は篭って夢のお告げを待って病を治療していた。

「なんて非科学的な」と思われるかもしれないが、夢(無意識)と現実を切り離すことなく、自然に生きていたことが感じられる。

白洲氏は、明恵の夢は「信仰を深めるための原動力であって、夢と日常の生活が、不思議な形で交じり合い、絡まり合っていく様は、複雑な唐草文様でも見るようです」と書いている。

明恵は黒い犬の夢を見ている。一匹の黒い犬が足にまとわりついてきたときに、明恵は「この犬を年来飼っていたのだ」と思う夢だ。

子犬の像がこの夢と関係あるのかわからないが、子犬には固有の名前がないようだ。これは明恵が夢や現実で愛した犬(動物)全般のイメージであるのかもしれない。
 
 
 
 
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2017/12/31

ビクトル・エリセ監督の『ミツバチのささやき』は神隠しの映画

171229(異界への入り口、水に映る満月)


ビクトル・エリセ監督の『ミツバチのささやき』は、昔2度ほど、映画館で観ました。

主人公アナが、フランケンシュタインと遭遇したときの表情には、ぞくぞくっとしますね。これ、芝居でしょうか。

見るのは20年ぶりですが、なぜもう一度観ようと思ったかというと、「物語」を調べている中で、赤坂憲雄編『物語という回路』の中の「龍潭譚考 神隠しをめぐる精神史的考察」に、こう書いてあったからでした。

「神隠しは天狗・鬼・山男など隠し神にバリエーションはあれ、ある超自然」的なモノによってどこか異世界へと子どもや女が連れ去られる、不思議な現象として体験されてきた。」「鏡花の「「龍潭譚」という短編小説は、神隠しを主題とした傑作として知られる。小さな、しかし、まさに傑作である。すくなくとも、これほどに生きられた神隠し体験をみごとに描き切った小説を、私は知らない。映像の世界における、ビクトル・エリセ監督の『ミツバチのささやき』に匹敵するとでもいえようか。ジャンルこそ異なれ、この『ミツバチのささやき』と「龍潭譚」は神隠しを描いた傑作として、双璧をなすはず」

そうか、『ミツバチのささやき』は、「神隠しの話」という観方もあったのかと。

映画では子どもたちの遊びの様子が描かれています。

焚火の火の上を飛び越したり、線路に耳を当てて列車が来るのを待ったり、危険なことをやるのが子供たち。

俺も小学生のころ、放課後、小川に笹舟を浮かべて流し、それを追って、遠くまで行ってしまい、気が付いたら真っ暗になって怖かったことを思い出します。

もちろん、この時、遅くなってから家に帰りついているのですが、こういう状態を「プチ神隠し」と言ってもいいかもしれません。子どもの頃こんな体験は、みんなあるのではないでしょうか。

同じような感覚はTVドラマ『北の国から』にもあります。覚えているのはこのシーンです。

夜の森で純、蛍、正吉の3人がUFOと遭遇し、分校の先生が「365歩のマーチ」を歌いながら現れ、先生は宇宙人かもと疑い、暗い森を逃げ帰るシーンがあります。子どもの目線で語られるそのエピソードが好きです。不思議な話のままで終わるのがまたいいですね。怖いけど魅かれる感じが良く出ているシーンだと思います。

「危険」と思うのは、やっぱり経験や知恵がついて大人になってしまったからで、子供にとって、危なさや、危なさに通じる向こう側の世界は、こっち側とはつながっている世界であるのでしょう。

大人になるとそのふたつの世界が断絶してしまうのかもしれません。

子どもはフランケンシュタインが現れても、それなりに受け入れてしまう。異界のものに無防備です。だから『ミツバチのささやき』でも、主人公アナは逃亡者に対しても、恐れることもなく近づき、親切にします。それはお母さんの教えでもありました。

精霊は、良い人には良いもので、悪い人には悪いものと、お母さんはアナに教えるのです。逃亡者はアナにとっては異界から訪れた精霊なのでしょう。そして精霊は、自分自身の心のありようでもあるのですね。「良いもの」であろうとするところに、子どもの純真さを感じます。
 
 
 
 
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2017/12/17

インスタグラム(SNS)の「写真療法」としてのメリット

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以前、こういう記事がネットにあがっていました。

「インスタグラムに投稿する写真で「うつ病」がわかる!」
https://news.nifty.com/article/domestic/society/12104-93759/

と、いうものです。記事から引用すると、

  1.色では青色と灰色が強く、全体に暗く、ぼんやりしている。

  2.モノトーン加工を好んで使う。

  3.顔のアップが少なく、引きの写真が多い。正面の写真が少なく、斜めや横からの写真が多い。

  4.他人と一緒の写真が少なく、自撮り写真が多い。

  5.投稿頻度は高め。コメントは多いが「いいね!」は少ない。

こういう写真を投稿する人は、「うつ病」かもしれない、という記事です。

でも、そもそもインスタグラムに投稿できるなら、たとえうつ病だとしても、まだ程度は軽いのかもしれません。深刻ならインスタグラムどころではないでしょうし。だから「うつ傾向」と言ったほうが当たっているかもしれません。

ただ、「暗い写真」だから「うつ病」と決めつけられるのも、なんだなぁと思います。俺なんか、モノクロ写真で、暗い狼像ばかり投稿しているので、一発で「うつ病」に判断されてしまうでしょう。

写真というのは、そんな単純な精神状態の産物ではないのです。だからこれはあまりあてにならない判断基準だと思います。

ただ、インスタグラム自体は、精神衛生上プラスであることは確実です。これを「写真療法」として見れば。

箱庭療法などを含む芸術療法(アートセラピー)の中には、写真療法というのも入っています。芸術療法は、日本では1960年代から研究実践されていて、イギリスでは保険サービスとして認められている公式な療法です。

心理学を勉強するようになって、俺にとっての写真を撮る行為は、写真療法そのものになっていたんだなぁということに気が付きました。「療法」というと病気を治すイメージですが、「表現」にはそもそもそういう治療的側面が伴っているので、ここでは、あまり病気か病気でないかを区別する必要はないでしょう。

日本芸術療法学会理事の山中康裕先生は「写真療法」を初めて提唱した方です。

精神的に悩むある患者さんがいて、写真が好きだとわかったので、写真を撮るように勧めたら、撮ること自体で、症状が改善したという例から思いついたらしいのです。

病気の人にだけではなくて、イメージの表現は一般の人にも、精神的にいい状態を保つひとつの方法であるといいます。

ちょっと前なら、「写真療法」がいいと言っても、それはカメラを持っている人や、写真が趣味な人、といった限られたものだったでしょうが、これだけSNSが流行り、誰でも、どこでも、写真が撮れるようになった今こそ、「写真療法」は生かされるのではないかと思います。

しかも、「撮る」だけではなく、「見せる」ことも簡単にできます。そして、それに対しての反応もすぐわかります。「いいね!」がいくつ付けられるかで、ある程度の判断ができます。

そんなメリットを生かさない手はありません。

ただ、あまり「いいね!」ばかりを期待しないことも大切です。撮ること自体がいいのであって、「いいね!」を期待しすぎることは、かえってストレスを感じてしまい、逆効果です。

投稿しっぱなし、それが「写真療法」としてみたインスタグラムのいい使い方ではないでしょうか。

「いいね!」がなくても、誰かが見てくれている(かもしれない)という状態が「表現療法」としいてはいいのです。
 
 
 
 
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2017/12/15

映画 『ダンス・ウィズ・ウルブズ』を観て

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昔観たかもしれないのですが、もう一度映画 『ダンス・ウィズ・ウルブズ』を観ました。

『ダンス・ウィズ・ウルブズ』(Dances with Wolves)は監督・主演・製作はケビン・コスナー。アカデミー賞作品賞とゴールデングローブ賞 作品賞を受賞している1990年のアメリカ映画です。

どうしてまたこの映画を観ようと思ったかというと、狼が出てくる映画だからでした。人間と狼のファーストコンタクトを描いているものです。

ところが狼だけではありませんでした。もっと興味深かったのは、人間、先住民のスー族とのファーストコンタクトでした。

まったく、言葉も感覚も違う人たちが、どうやって交流を始めていくのか、雲南省で少数民族の村を訪ねたときの体験があるので、すごくリアリティを感じるものでした。

ケビン・コスナー扮する主人公、北軍の中尉だったジョン・ダンバーが「失われる前にフロンティアを見ておきたい」と田舎の砦への赴任を希望します。

そこで先住民のスー族たちに出会い、しだいに心を通わせ、やがて本当のスー族になってしまうというストーリ-です。

砦に現れた1匹の狼。この狼とも仲良くなっていきます。犬が初めて家畜化されたのは、中央アジアあたりらしいという研究発表があります。

狼は、やがてジョンの手から食べ物を食べるようになり、草原で楽しそうに戯れます。狼が犬に変わった瞬間はこのような場面だったのではないでしょうか。

ある日、ジョンはスー族の名前をつけてもらいました。名前を付けられたことで、スー族になったということを実感します。それが「狼と踊る男」です。スー語では「シュグマニツトンカーオブワチ」。ジョンが狼と戯れていたところをスー族は見ていたんですね。

バッファローの狩りで、印象的で大切なシーンがありました。

ジョンは彼らといっしょに狩りに出かけますが、獲物の肝臓を取り出して食べるシーンがあります。一番栄養がある部位で、それを共に食べることで一体感というか仲間の絆を再確認する儀式にもなっています。

スー族の男は、自分が食べたあと、ジョンに差し出します。ジョンもそれを食べると、周りの人たちから歓声があがります。

20数年前になりますが、俺も雲南省で同じような体験をしています。アイニ族の結婚式では、豚の生肉・レバー料理が出ました。俺が食べるところを村人がじっと見ているのです。そして食べると歓声が上がりました。

彼らも生食をすることは気にしているらしく、「西洋人の記者から、俺たちは生肉を食べる野蛮な人たちと書かれたが、なかなかこういう習慣はなくならないよ」と言いました。

ところで、男たちが他民族との闘いに出た時、ジョンは村に残り、村の守りを任せられるのですが、外敵が襲ってきたとき、砦に隠してあった銃を、村人に配るのです、今までは弓で闘っていたのに、銃を使うことで、格段に殺傷能力が高まり、結局、女たちでさえ銃で外敵をやっつけることができました。

明らかに、ここで闘い方の変化が起きました。もしかしたら、銃を使った戦いで勝ったという成功体験は、このあと、外敵が来たら交渉ではなく、すぐ戦ってしまおうと考えるようになったのかもしれません。武器を持つと使いたくなるというのは、古今東西、例外なくみられる現象です。

自衛のための銃は必要だという感覚はアメリカ西武開拓時代を考えるとわからないでもないですが、唯一、ジョンの行動で違和感を覚えた部分です。
  
 
 
 
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2017/12/05

「警察犬イルミナ号が、銃器を発見」というニュース

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警察犬イルミナ号が、銃器を発見したとニュースになりました。

イルミナ号は雌のラブラドルレトリバーで9歳。違法薬物と銃器の両方を識別できる「ハイブリッド犬」です。柱の中に隠してあった暴力団の拳銃を嗅覚で見つけたとのことです。(毎日新聞参照)

以前、イルミナ号はミュージシャンの覚せい剤も発見したという優秀な警察犬です。ミュージシャンとは誰でしょうか? あの方かな?

犬の嗅覚には俺も一目置いています。実際ヴィーノと暮らしていると、ヴィーノの嗅覚のすばらしさを実感します。

とくにヴィーノが得意なのは、野生動物の発見です。山を走っていて、そわそわしだし、そして薮や林に向かって吠える。俺には何なのかわかりません。そのうち猿や鹿や狐や狸などが目の前に現れます。北海道のヒグマにだけは知らんぷりを貫いていましたが。

北海道で、前方にキタキツネを見つけたりして、俺も視覚では勝てることがありますが、嗅覚では無理です。ヴィーノはそれほど視覚がいいというふうには見えません。

ヴィーノは匂いで世界を認識しているような気がします。ただ、遠くのものは発見できるのですが、逆に近いところのものを発見できない、ということもあります。たとえば、目の前にある小さなおやつを探せずにうろうろすることがあるのです。

これはどうしてでしょうか。

想像ですが、視覚に「近視・遠視」があるように、嗅覚にも「遠嗅・近嗅」というものがあるのではないかな。

たとえば人間も、急に目の前10cmに何か出されても、すぐには見えない(ボケて見える)といったような感じです。だからヴィーノはこのとき「遠嗅」モードになっていて「近嗅」モードにはなっていないからではないかと。


ところで、オリヴァー・サックス著の『妻を帽子とまちがえた男』に、ある医学生が夜、犬になった夢を見て、目覚めたら、犬のような鋭い嗅覚になっていた、という話については、前も触れました。。

カフカの『変身』みたいなこともあるんだなぁとびっくりです。もしかしたらカフカもそういう感覚の体験があったのかもしれませんが。

それでも最近はヴィーノの影響もあって、俺も匂いに敏感にはなっています。通路の角を曲がった時、何秒か前にそこを通ったであろう、人間の匂いに気が付くことがあります。

それと、匂いで過去の出来事を思い出したり。「あっ、この匂い、雲南省だ」とか。嗅覚は、より本能に近い感覚ともいわれています。

ただ、俺はまだ電柱のオシッコの匂いで、近くにかわいい雌犬がいることもわからないし、ヴィーノの肛門の匂いを嗅いでも、ウンチ臭いだけですが。

世界を匂いで感じたら、どう見えるんだろう。ヴィーノが見ている世界を俺も見て(嗅いで)みたい。
 
 
 
 
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2017/11/27

【愛犬物語 其の二百十三】 埼玉県皆野町 蓑神社(蓑山神社)

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蓑神社(蓑山神社)は、秩父盆地の東側、蓑山(美ノ山)に鎮座する古社です。

蓑山公園からは市街地や荒川の流れなどを望むことができます。

駐車場から歩いて約10分、榛名神社があり、蓑神社への案内板は急坂を下りるように指示していました。

あとでわかったのですが、このまま遊歩道を行ってもよく、急坂は、神社の裏から入るショートカットでした。(表参道は皆野駅から上っていきます)

かなり険しい急坂で、小石や落ち葉に足を取られながら下ると、10分ほどで蓑神社の境内にたどり着きました。

ここは皆野町の椋神社(野巻椋神社ではりません)の奥社でもあるらしい。蓑神社の狼のお札を授与しているのも椋神社です。

午後の陽が木々の間から射し込み、あたりは静かで、いい雰囲気です。

しかもお犬さまの像がすばらしい。

山の神を護るにふさわしい迫力あるお犬さま像です。野性味あふれ、痩せていて肋骨や肩甲骨まで浮き出ています。

西洋の牧畜民の狼に対する「恐怖」「敵対」とは違って、怖いんだけど、魅かれるといった一見矛盾するような複雑な感覚を表しているイメージだと思いますが、どうでしょうか。

小林茂著『秩父 山の民族考古』には皆野町蓑神社について、早川由宇子さんの聞き書きとして次のようにあります。

「以前、蓑山には沢山の狼がいたそうで、そのうち、一匹を殺し毛皮にしたところ、毎夜狼の遠吠えでねむれず、ついに毛皮を返すことになり、その日からは遠吠えはやみ、山中に狼達が死んだ狼の葬式をしたあとがあったそうである。そこをオイヌのクボと呼び、一年に一回オタキアゲをするようになったということである。」

とのことです。

オタキアゲとは、狼にご飯を備える神事で、三峯神社、宝登山神社などでも行われています。実際にオイヌのクボと呼ばれる穴があったそうです。(今もあるか不明)
 
 
 
 
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