カテゴリー「心理学の話題」の123件の記事

2017/02/27

映画『オデッセイ』を観て。「絶対的孤独感」とは?

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『オデッセイ』は、アメリカのSF映画で、アンディ・ウィアーの小説『火星の人』が原作。監督はリドリー・スコット、主演はマット・デイモン。火星に一人置き去りにされた主人公の宇宙飛行士(マット・デイモン)の生存をかけた孤独な奮闘と、彼の救出作戦を描いた映画です。

なんだろう、この感じは? ちょっと変わった映画だと思いました。とくにSF、サバイバル映画としては。

妙に明るいのです。と、いうか軽いのです。

その理由のひとつは、悪者がまったく出てこないということでしょうか。人間もそうだし、エイリアンや細菌なども出てきません。

唯一、冒頭のアクシデント(そもそもこれがなければストーリーは成立しないわけですが)と、ジャガイモ畑が爆発によって失われたアクシデント、最初の補給ロケットの失敗のみ。そして人はひとりも死にません。

当然主人公は生還するだろうなと予想できてしまうので、あとは淡々とミッションが進んでいくことを、まったく心配もなく安心して見ていることができるのです。

しかも、この救出作戦に中国が自国の計画を断念してまで協力してくれるという、ちょっとここは中国に対する皮肉かなと思ったところですが、とにかく、中国が友好的なのです。さすが将来は、中国がアメリカと二分する超大国になっていて、だから、中国も成熟した大国になっているという希望的予想なのかもしれませんが。

悪人がいない、人が死なない映画なのです。

この映画の楽しみ方は、主人公が無事に地球に戻れるのかどうか、とかいったワクワク感などを期待してはダメで、むしろ、友情物語、仲間物語、という映画ではないでしょうか。

それにしても映画から受ける「明るさ」「軽さ」とは違って、物語の設定である「火星にひとり」という状況は、「絶対的孤独」を感じますね。

そういえば、以前当ブログでも書きましたが、実際今、「キュリオシティ」という火星探査機が火星で活動しているはずです。機械ではあるのですが、どうも擬人化してしまって、「彼」にも「絶対的孤独」を感じています。

だからなのか、この広い宇宙に地球外生物の存在を期待してしまうのは。

先日も、地球と似たような惑星が発見されたというニュースがありました。もし地球外生物の存在が見つかったら、地球人としての意識は確実に変わるでしょう。もしかしたら、戦争なんかもなくなるかもしれません。なくならなくても、少なくはなるでしょう。

俺たちは、この「絶対的孤独」に耐えられないのかもしれません。だから、気持ち悪いエイリアンでもいい、地球を侵略しようとする宇宙人でもいい、とにかく、どんな姿形でもいいので、地球外生物(宇宙人)が存在してほしいというのが、我々地球人の意識的、無意識的な願望ではないのかと思います。

「人の意識」は、胸や腹や頭や脳にだけあるわけではなく、「関係」にこそ宿っているという説と、どこか繋がっているような気がします。
 
 
 
 
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2017/02/05

映画 『ルーシー/LUCY』 脳の機能を100パーセント使うこと

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前から観よう観ようと思っていた『ルーシー』をようやく観ました。

ルーシーという女性が、ある事件に巻き込まれ「CPH4」という薬を摂取してしまい(その摂取のしかたも大変なのですが、ここでは省略して)、それが脳の活性化を促し、最後は100パーセント脳の機能を使う、というものです。

脳の機能を100パーセント使う映画として、『リミットレス』というものもあり、こっちはすでにブログに書いています。

どうしてこういう映画のテーマが生まれるかというと、もともと、人間の脳は10パーセント(あるいは20パーセント)しか使われていないという説があり、じゃぁ、100パーセント使ったら、スーパーマンが生まれるのでは?という、期待というか願望があるからなのでしょう。

でも、『リミットレス』の時にも書きましたが、10パーセント(あるいは20パーセント)しか使っていないということ自体俗説だという話もあります。仮にそれが本当だとしても、10パーセントしか使わないのは、使えないからではなくて、使わない方がいいからそうなっているのではないかと想像します。それを進化というのかどうかはわかりませんが。

もし100パーセント使ってしまったら、もはや「人間」とは呼べないんだろうな、別な生き物になってしまうんだろうなと思うからです。

そして『ルーシー』では、実際そのように描かれていて、『リミットレス』よりはリアリティを感じる話になっています。

こんなふうなセリフが、脳の活性化が70パーセントほどに達していたルーシーの口から出ます。

人間は自らの「独自性」を存在論の根拠としてる。
単位の基準は、「1」だが、本当は違う。
人間は理解しやすいように存在や情報を単純化する。
それは楽な尺度で物事を考え、無限の深淵を忘れるため。
「時」が存在の証となる。
「時」だけが真実の尺度である。
「時」が物質の存在を明かす。
「時」なくして何物も存在しない。

ルーシーの説明を聞いて、科学者は最後に、「時が支配する」と自分に言い聞かせるように言うのです。

この映画では、物が存在するように見える(感じる)のは、「時」があるからだということになっています。科学的にはどうかわかりませんが、映画としては面白い話です。

そしてルーシーの脳の機能が100パーセントに達してしまったとき、もう物質で存在する必要もなくなったルーシーは消えてしまいます。

いや、消えてしまったわけではありませんでした。普通の人間の目には見えなくなっただけで、「私はどこにでも存在する」のでした。

これを単なるSFの話だけではないところが面白い。たとえば、普通の人間には見えないもの、聞こえないものが現実にたくさんあります。

「見える」「聞こえる」「匂いがする」などの感覚は人間の能力の範囲内だけの話です。犬が嗅いでいる匂いを人間は気が付けません。魚が見ている色もわかりません。イルカの聴こえる音も聴けません。人間は知らないことだらけです。

でも、知る必要がないから、そういう程度の能力で充分なのでしょう。ルーシーが言うように「人間は理解しやすいように存在や情報を単純化する」のです。それは悪いことではないかもしれません。でないと、生きられないからです。

動物の究極の目標が、生きて、子孫を残すことなら、脳を100パーセント使うなどという、膨大なエネルギーは使わない方がいいだろうし、物事を単純化したほうが生き延びるチャンスは増えます。たとえば、画像を扱う人ならわかると思いますが、JPGデータを可能な限り圧縮した方が扱いやすいということと同じように。

だから、これで人間なんだろうなと最後は思うわけです。能力と環境は程よいバランスを保っているのではないかなと。

逆に言えば、バランスを保っているから人間が存在できているということでもあるのでしょう。あえて脳の機能100パーセントを使わないことで。
 
 
 
 
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2017/01/30

伝説は過去の遺物ではなく、刻々と変化する心の処方箋

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イメージの活用を目的に心理学を始めたのでしたが、「精神分析とユング心理学」を勉強していて、偶然なのですが、今回『愛犬物語』の原稿を書くにあたって、全国の犬像にまつわる伝説、神話が、残るべくして残ったという視点を与えてもらったのは良かったと思います。

犬の首が宙を飛び大蛇に嚙みついて殺したとか、犬が少女の身代わりで怪物と闘ったとか、これを「史実」と考えたら、単なる荒唐無稽な「嘘」になってしまいます。

ところが視点を変えて、この「嘘」こそが、人間の心が生み出した、何物かの表現であると考えるわけですね。「夢と似ている」と言えば納得してもらえるのではないでしょうか。俺たちが観ている夢も、覚醒時の現実世界では、「嘘」になってしまいますが、「夢は嘘だ」なんて言っても、まったく意味がないのと同じです。

伝説、神話は、夢と似ているのです。人間が共通して持っている普遍的無意識の反映とも言えます。しかも、これはある時期から固定してしまった「化石」ではなく、今現在も刻々と変化している「生もの」だということがわかってきました。

伝説は過去の事実がそのまま伝わることもあるでしょうが、その話が地元の人にとって何か有益なことがあれば、尾ひれがついて、変わっていくということは考えられることです。反対に不利益があったら削られていくということも同様です。

心理学者・大場登著『精神分析とユング心理学』には、神話について、

「その国・その文化圏の人々の心が一致して「受け入れてきた」、その意味で個人を超えた、文化的、あるいは普遍的な「世界観」の表現とみることもできる。人々の心によって受容されないものが歴史を超えて残り続けることはほほとんどありえない」

と言っています。伝説は神話より、もっと具体的な物語ですが、残り方としては同じでしょう。

今も、刻々と伝説が変わっている現場を目撃しました。筑後市の「羽犬」の伝説のところでも書きましたが、伝説をしらべてみると、羽犬が死んだ原因が、「病死」と「弓で射られた」とふたつあったのです。

微妙な違いかもしれませんが、「病死」の方が加害者を作らず穏便に済むからかなぁと思うんですよね。物事にはかならず両面性があり、それをどっち側から見るかで、物語も変わってきます。

それと、こういうこともあります。最近は、桃太郎の「鬼退治」も「不公平で、可哀そうだ」との意見が出てきて物語が変わってきているという話も聞きます。

伝説が、別の話に突然変わったというようなこともあったようです。どうしてなんだろう?と思ったら、ちょうど今、高崎市のだるま市のことが話題になっていて、だるま市を開いていた少林山達磨寺と、業者の方でトラブルがあり、それと連動するように、市のHPから、今まで達磨寺に伝わっていた伝説が消え、「新説」に置き換わってしまったというのです。あぁ、こういうことで伝説がひっくり返されるんだなと妙に納得です。

だから「オリジナルの伝説」なんてないんでしょうね。伝説とは流動的なものなのではないでしょうか。

伝説は、化石のような過去の遺物ではけっしてないということ。伝説は刻々と変化して、必要な人にとっての、心の処方箋になっているのかもしれません。人間には物語が必要なようです。
 
 
 
 
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2017/01/03

チョコレートの銀紙を食べる初夢

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初夢は、

チョコレートを包んであった銀紙をいっしょに食べてしまった。銀紙が食道から胃に動いていくのをイメージした。胃に悪そうだなと思った。

というものでした。

食べ過ぎで、胃に満腹感があったことと関係があるのだと思います。それとヴィーノが道端で似たようなものを食べたりすることがいつも心配事であることも。

(このブログをアップした後、ドッグランへ行ったとき、そこへ来ていたラブラドールが、義母の手袋を飲み込んでしまうという事件(?)が起こりました。これは「共時性」でしょうか)

あまり楽しい初夢ではなかったことが残念です。「悪夢」というほどではないですが。

そういえば、去年「米医学会が認めた悪夢治療薬」という記事がありました。

http://allabout.co.jp/gm/gc/462380/

悪夢で睡眠不足になるというほどの深刻な症状の人には、こういった薬も必要なのかもしれません。

俺もけっこう悪夢を見ているらしく、奥さんは「また、うなされていたよ」と教えてくれるのですが、俺は、「起こさないで」と頼んであります。

というのも、夢は見るべくして見るというか、必要があって見ているのでは?と思っているからです。それがどんなに悪夢であっても。

「夢の補償作用」とも言われるのでなおさらです。覚醒時の心の状態に問題があるから、夢ではあえて逆な夢を見ていると考えるのが心理学の説のひとつです。かと、言って俺は覚醒時が幸福だから夢で悪夢を見ている、などということにはならないのですが。

少なくとも、悪夢で死ぬようなことはありません。夢の中で、銃で撃たれても、崖から転落しても、実際には死ぬことはありません。だから、放っておいて大丈夫なのです。

俺の心が必要とあって悪夢を見ているのだろうし、途中で起こされたら、その「悪夢を見ていた」ことを意識してしまいます。そして途中で夢が中断されることは問題があるのではないかと思うからです。

この件に関しては、心理学の本に載っていたわけでもないので、正しいかどうかはわかりません。俺の体験から思ったことですが。
 
 
 
 
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2017/01/02

2017年の「鳥」と2018年の「犬」が合体したような「羽犬」像

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2017年は酉(鳥)年ですが、2018年は戌(犬)年です。

福岡県筑後市には、「羽犬」像があることはすでに【愛犬物語】でも紹介しました。

羽犬とは、2017年の「鳥」と、2018年の「犬」が合体したような翼を持った犬ですが、これには伝説がふたつあって、ひとつは「悪犬伝説」ひとつは「愛犬伝説」です。

秀吉も信長同様、鷹狩りを好んだそうで、鷹狩用の犬である「鷹犬」は「御犬」と呼んで大事にされましたが、反対に、野犬は殺されて鷹の餌にされたという話があります。犬の運命は天国と地獄の、両極端の開きがあったんですね。そういった犬の祟りを恐れて供養したのかもしれません。

心理学者・大場登著『精神分析とユング心理学』には、神話について、

「その国・その文化圏の人々の心が一致して「受け入れてきた」、その意味で個人を超えた、文化的、あるいは普遍的な「世界観」の表現とみることもできる。人々の心によって受容されないものが歴史を超えて残り続けることはほほとんどありえない」

と言っています。伝説は神話より、もっと具体的な物語ですが、残り方としては同じでしょう。

伝説に、「悪犬」と「愛犬」という一見矛盾するような2つの伝説が同時に伝わっていることも、人間の心の葛藤をそのまま表しているような気がします。「野犬」と「鷹犬」の、あまりにも両極端な2つの犬の立場そのものが伝わった結果なのかもしれません。

とにかく史実はどうであれ、羽の生えた犬というユニークな動物を生み出した人々の発想に驚くし、面白いなぁと思います。

古くは鷹狩自体を「鷹犬」と呼んでいるケースも多くあるそうで、鷹狩では「鷹」と「犬」は切り離せないものだったようです。

空に飛び上がるような犬の像はまさに羽の生えた鳥と犬が合体したような姿で、「羽犬」はまさに「鷹犬」そのままではないかと思うのですが。

これが偶然にも、2017年と2018年の干支が合体したような姿になっています。
 
 
 
 
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2016/12/29

ボクは夢の中では天才かもしれない

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ヴィーノは良く眠りますね。周りの気配に起きてるので、熟睡している時間は少ないのかもしれませんが。

熟睡しないのは、周りに敏感であることが、敵の発見を速めて、生き残る確率を上げるということなんでしょうが。眠りが浅いのでヴィーノは夢もよく見ているようです。

とにかく犬を見ていると、眠るために生まれてきたのでは?とさえ思うくらいです。

ライオンも寝て過ごす時間が長いですが。それは狩りに使うエネルギーを蓄えるために、日ごろは無駄なエネルギーを使わないようにしているのだそうです。

おそらく犬(ヴィーノ)も、そんな狩りの習性が残っているものと思われます。

人間も含めて犬も「動物」と呼ばれるくらいなので、覚醒し、意識を持って活動しているのが本来の「動物」の姿であって、無意識状態で眠っているときの姿は、たんなる「休憩しているにすぎない」と考えるのが普通ではないかと思います。

でも、もしかしたらそうではないのかもしれないのです。

「脳」の立場(そんなもんあるか?)になってみたらどうでしょうか。そうすると、エネルギー消費が大きい脳は、別に、起きていなくても活動はできているわけですね。

脳の持ち主の知らないところで、ずっと活動しているのが脳です。俺たちは、自分の脳の活動のすべてを意識しているわけではありません。自分でありながら、知らないことだらけです。眠っていたらなおさらです。

前から気になったことですが、「ひらめき」というのが、たまに生まれますよね。

それは突然生まれたかのように感じていますが、そう感じているのは、俺の意識だけで、無意識では、ずっと考えていたことなのかもしれないのです。

夢の中ですでに考えていたことを、起きているときに改めて、突然、何かの拍子で思い出すことではないか、と想像するわけです。それが「ひらめき」ではないかと。

だから「天才」と言われる人は、無意識で考えていたことを意識化できる人で、「凡人」と呼ばれる人は、意識化できない人なのかもしれません。

夢の中ではみんな「天才」であっても、意識レベルで優劣が現れるのではないかなと。
 
 
 
 
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2016/12/19

「東北お遍路写真展」のご案内 ----- 2017年1月6日から、埼玉県さいたま市「楽風(らふ)」で

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このたびは釜石市、仙台市、野田村に続く東北お遍路写真展のご案内です。

いずれの写真展も好評を得ましたが、東北だけではなく、広く関東地方の方々にも東北お遍路プロジェクトについて知っていただきたいと思い、平成29年1月に、埼玉県での写真展を開催することとなりました。

お近くにお越しの際は是非お立ち寄りくださいますようお願い申し上げます。

主催: 一般社団法人 東北お遍路プロジェクト

会期: 平成29年1月6日(金)~1月9日(月・ 祝)
    10:00~19:00(最終日は17:00まで)
会場: 日本茶喫茶・ギャラリー 楽風(らふ)
    埼玉県さいたま市浦和区岸町4-25-12 (青山茶舗敷地内)
    電話 048-825-3910
 
 
 
 
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2016/12/10

国立新美術館で開催中の『ダリ DALI展』 

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サルバドール・ダリは、スペイン出身のもっとも有名な20世紀の芸術家のひとりです。シュルレアリスムの代表的な作家として知られます。「天才」と自称していましたが、数々の奇行やエピソードが残っています。

その『ダリ展』が国立新美術館で12日まで開催中です。

ダリ展

出口近くに「写真撮影可」の部屋があり、そこには絵画が2つ、鼻の暖炉と、真っ赤な唇のようなソファーが置いてあります。(↑の写真)

ソファはダリがデザインした『メイ・ウエストの唇ソファ』です。メイ・ウエストは戦前アメリカのセックス・シンボル的な女優でした。

正面から見るとスペインのダリ劇場美術館の一室を再現した『メイ・ウエストの部屋』の写真を撮ることができるというもので、希望者が長い行列で順番待ちしていました。なので、並ばなくてもOKの、ちょっと横からの位置で写真を撮りました。

シュルレアリスムの作品は、教科書にも載っていたくらいなので、何点かは見たことがあるものでした。現実と夢のはざまのような不思議な感覚を呼び起こします。

ダリは、『反物質宣言』の中で、心理学のジグムント・フロイトに影響を受けて、無意識の視覚化を追求してきたことに触れています。かなり心理学に影響を受けた画家でした。

でも、その後量子力学に影響されたりしたようですが、その時々の最先端科学を取り入れようとしていたようです。今、ダリが生きていたら、DNAなどの絵を描いていたのでしょう。

心理学的な関心から言えば、ダリの生涯にわたって時々描かれている四角い窓があります。初期の作品にも、この窓が描かれているのに気が付きました。

窓から外の景色が見えるのですが、壁には厚さがあり、角度によってはその厚さがちゃんと描かれていて、景色が奥に広がっているのか、あるいは、手前に出っ張った四角い絵なのか、わからなくなるような描き方です。

「隠れ家理論」のように、自分は外敵の姿を見ることができ、かつ、敵からは見えないところに位置しているという状況にもなっています。

小さな四角な窓から、外界を覗いている自分がそこにいます。部屋の中は自分の内面の表現なのでしょうか。外からは厚い壁で囲まれて守られている、まるで胎内回帰のような安心感を感じます。
 
 
 
 
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2016/11/20

認定心理士の資格をとって 「旅」は「総合的アート」

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ようやく認定心理士の資格認定証が手元に届きました。

認定心理士とは、心理学に関する標準的な基礎知識と基礎技術を修得していることを、日本心理学会が認定する資格です。

でも、この資格を取ったからといって、すぐに臨床心理士になれたり、心理学者になれたりするわけではなく、今やっている自分の仕事を心理学的な側面からサポートするものです。

だから俺の場合、写真と結びついた「芸術療法」、「表現療法」、「写真療法」といった精神衛生向上のアートセラピーとしての面、今【愛犬物語百景】で連載しているような伝説や昔話を、心理学的な面から解釈できる、といったことです。

こういう資格は、直接的メリットはないとしても、このように、自分がやろうとしていることの裏付けにはなるので、自信が持てるということはありそうです。期待してます。
 
 
さて、これは昔から感じていたことで、「表現療法(アート・セラピー)」に含まれると思うのですが、認定心理士になったので、「旅療法(トラベル・セラピー)」についてあらためて書いてみたいと思います。

9月から10月と、鹿児島県から青森県までヴィーノといっしょに旅したので、感覚としては、まるで日本一周したような充実感と疲労感を覚えたのですが、旅が、俺の精神衛生上、大切なものなのだということをあらためて感じながらの旅になったのでした。

「旅」が「アート」だなどというと反発を受けるかもしれません。

でも、旅は白いキャンバスの上に、旅の軌跡を描く絵画のような感覚なのです。そして実際、自分の旅をその絵画のイメージでとらえています。

そう考えると、旅は、心理学を基としたアート・セラピー(表現療法)という側面があると思います。机上の理屈を言っているのではありません。すでに書いているように、理屈ではなく、俺自身の実践から思いついたことです。

表現には、絵やコラージュや粘土や詩やダンスやいろんな表現が含まれます。いや、表現できる手段なら、すべて使えるということでもあります。

すべての表現は遊びに通じ、どんな手段を使うかは、その時々で変わってくるのも自然なことです。

それは子供の遊びを見ていてもわかります。手段はまったく気にせず、楽しいことをやろうとしているだけです。それが本来の「遊び」というものでしょう。

アートセラピーでは、作品の上手、下手は関係ありません。(旅に、「良い」も「悪い」もないことは幸いです) アートはその行為自体に癒しや心の活性化をはかる効果があります。

しかも、旅の途中で写真を撮れば、写真療法にもなるし、帰宅後、友人や家族に旅の話をすることも効果があります。

社会心理学者ジェームズ・ペネベーカー著の『オープニングアップ:秘密の告白と心身の健康』には、他人に個人的な情報を打ち明ける「自己開示」やもっと内面を語る「告白」というものが、心身の健康や社会適応にいい影響を及ぼすという研究結果があります。

このように、言ってみれば、旅はセラピーの面からみると、総合的なアートなのではないかと思っているところです。
 
 
 
 
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2016/11/13

トランプ次期大統領の差別発言

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トランプ氏が次期大統領に決まりました。

みんな衝撃を受けています。専門家は予想を外し、面目を失っています。

だいたいにして、専門家と言われる人たちは、過去のデータの蓄積があるので、それに縛られてしまうからでしょう。新しいことに対応できないのです。

ここ数年、専門家の「想定外」に、何度煮え湯を飲まされてきたか。俺たちは「専門家」と言われる人々に対して警戒しなければなりません。

さて、トランプ氏と言えば、暴言の数々。大統領と決まった途端、借りて着た猫状態になった感じがして、早くも投票した人には失望感が漂っているのかもしれませんが、とくに彼の差別発言は、これからもあとを引くようです。

トランプ氏にお墨付きをもらったかのごとく、移民やマイノリティーに対する差別はエスカレートしています。

でも「トランプ氏が差別発言をしている」と批判している人の心の中はどうなのでしょうか。本当に差別をしない人たちなんでしょうか。

社会心理学者のゴードン・オルポートの心理学実験があります。スーツを着た黒人と、手にナイフを持った作業着の白人が、地下鉄車内でもめているような絵を見せます。

それを「どんな絵だったか?」と伝言ゲームのように伝達してもらう実験をすると、黒人と白人が入れ替わってしまうというものです。ナイフを持っているのは黒人に違いないという思い込みというか偏見が、白人の心の底辺にしみこんでいます。

「白人」とか「黒人」とか、「見かけ」が偏見や差別の原因の大きなポイントであるらしい。

「見かけ」というのが大きいのです。でもこれは、人間が生物として生き残るために獲得してきた、瞬間的に敵か味方を判断する方法でもあって、かならずしも「見かけ」で判断することが悪いわけではないところが、やっかいなところでもあるわけです。

見かけが「違う」と判断するだけなら「区別」ですが、「差別」は根拠のない理由で不当な扱いをすることです。

「いや、私は人を差別しません」と断言する人ほど、無自覚な、無意識的な差別には鈍感だったりするんですよね。「差別したくありません」ならわかるのですが。

以前書いた映画『クラッシュ』の登場人物はそんな無自覚な、だからこそ悲劇的な結末を迎える青年でした。

「イケメン」とか「美人」とかも、見かけによる判断をしているという意味では同じ差別、偏見につながっているということでしょうし。「私はいっさい差別したことがありません」などという人を、俺は信用しません。(と、いう俺もそういう人たちを差別しているんですが)

ありとあらゆるところで、人間は見かけだけで判断し、そして過去の情報を基にして、その判断をそのときも使っています。差別は、だからその人の「判断するときの偏った癖」と言ってもいいかもしれません。幼児は、差別しないというのはここからもわかります。

「差別はある」ということを前提に、それでも「なるべくなくしていこう」と行動するしかないのでは。自分の心の中にある差別をちゃんと意識して、それをコントロールするしかありません。無意識では、コントロールはできないのです。

トランプ氏の差別発言は、どこまで社会を混乱させるかわかりませんが、あらためて差別を意識化させたという意味はあるのかと思います。
 
 
 
 
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