カテゴリー「心理学の話題」の226件の記事

2023/05/22

エリ・H・ラディンガー著、シドラ房子翻訳『狼の群れはなぜ真剣に遊ぶのか 』

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動物の家畜化に成功したのはオオカミから犬が最初です。そのことは人間にとって大きな転換点になったのではと思います。

『狼の群れはなぜ真剣に遊ぶのか』の著者、エリ・H・ラディンガーは、女性弁護士から転身してオオカミの保護活動を行い、講演会・セミナーなどで「オオカミと自然や生態系についての知識」を広めている異色の作家だそうです。

 犬の家畜化についてはいろんな説がありますが、この本には、さすがに女性の目からみた説だなぁと思う部分がありました。

「オオカミを社会化するために、つまり、最初から人間に慣れさせるために、赤ちゃんを早期に母親から離す必要がある。私たち職員は赤ちゃんの乳母であり、哺乳瓶でミルクを与え、毛づくろいや添い寝をして、数週間後に家族のもとに戻す。これは家畜化ではなく(家畜化は数万年を要するプロセス)早期感化であり、こうして育ったオオカミの大人は人間を怖がることはない。(略)
 はるか昔に人間の男がこのようにしてオオカミの赤ちゃんを感化したということは考えられない。なぜなら、ミルクを与えることがそこに含まれるが、家畜のいない時代は女性の乳しかなかったからだ(牛・羊・山羊・豚の家畜化は、オオカミより遅い)。つまり大昔のある日、ある女性がオオカミの赤ちゃんを抱いて母乳を与えたということになる。母乳が余っていたのか、それとも見捨てられた無力なオオカミの赤ちゃんをかわいそうに思ったのか。何も予期せずに人類に革命をもたらしたことになる。というのも、オオカミに続いて有用動物が家畜化され、狩猟から牧畜へと移行することになったから。こうして歴史は新しい針路をとった。」

といいます。さらにこう続けるのですが、

「もしかすると、進化における特別な役割のことがいまも記憶に残っているため、私たち女性はオオカミに親近感を抱くのかもしれない。」

ちょっとここは「女性」であることを強調しすぎの感があります。女性だけがオオカミに親近感を持っているわけではないでしょうし。

まぁ違った見方は何事にも大切です。結局は「説」でしかないわけですが。もしかしたら、オオカミの赤ちゃんではなく、性格穏やかな大人のオオカミだったかもしれないし、ケガをしたオオカミを馴らしたのかもしれません。いろんな状況が考えられます。

オオカミから犬に家畜化されたストーリーは、証明のしようがありません。だから、我々素人が勝手に想像することも自由ということでしょう。

でも、どうやってオオカミを犬にしていったか、ということはわからなくても、オオカミから犬を創り出したのは事実だし、そのことが後の人間にとってどれだけの転換点になったかということは重要なところかなと思います。

前回のブログ記事でも書きましたが、単に家畜化に成功したということ以上に、それまで神(あるいは神に近い存在)であったオオカミを、手元に置くことに成功したわけですから。人間に「これはいける」と思わせたのではないでしょうか。その後、牛・羊・山羊・豚の家畜化も成功しています。

近代になって、急激に神なるものを信じなくなってきたことも、元をさかのぼれば、この犬の家畜化に始まったのではないか、という気がするのですが、いかがでしょうか。

 

 

 

 

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2023/05/06

WHO 新型コロナウイルス「緊急事態宣言」解除を発表

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「WHO 新型コロナウイルス「緊急事態宣言」解除を発表」のニュースがありました。

https://news.nifty.com/article/world/worldall/12198-2320352/

2020年3月19日から半年間あげ続けた「コロナ終息祈願」「コロナ収束祈願」の狼像です。

狼の強靭イメージを借りて乗り切るぞとの俺なりの狼信仰でした。(一応、コロナにはまだ罹ってません)「信仰」とはいっても、この場合は、宗教的というより心理学的な、イメージトレーニングに近かったかもしれません。

コロナに罹らなかったから成功したとか自慢したいわけではありませんので念のため。罹らなかったのは日々の手洗いマスク、それとワクチン注射のおかげ、それと一番大きいのは「偶然」のたまものです。

途中で「終息」はないなと思ったので「収束」に変更。予想通り今も「終息」はなく「収束」という性格のウイルスでした。でも「収束」までも3年も経ってしまいました。まさかこんなに長くコロナ禍が続くとは2020年には思ってもみませんでした。

しかもこれでコロナがなくなったわけではなく、さらなる「収束」を願うだけです。

 

 

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2023/05/05

『この世とあの世のイメージ 描画のフォーク心理学』

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やまだようこ 、 戸田有一、 伊藤哲司 、加藤義信 著『この世とあの世のイメージ 描画のフォーク心理学』です。

「この世とあの世のイメージ」を、日本、イギリス、フランス、ベトナム4か国の大学生2040人が描いた描画を比較したものです。

あの世のイメージが「上(天)」にあるというのはだいたい共通しているようですが、ベトナムだけは、「下(地)」にイメージしている人が多いらしい。そのかわり、死後の世界がないというイメージを持つのもベトナム人には多いようです。

それはベトナムでは、社会主義的な教育が唯物論的な観点で行われているから、という解釈と、もうひとつ、近代化途上の国では科学を信じているのに、日本、イギリス、フランスでは、むしろ近代科学の限界を感じているとも解釈できるのでは、という。

意外だったのは、万物に霊魂が宿るアニミズム的世界観が、イギリス、フランス人にもあることです。それはキリスト教が入ってくる以前の信仰で、基層部分に今でも流れているということ。

先進国では、農村社会の古い共同体は解体し、宗教意識も低くなっているにも関わらず、他界の存在や魂の存在は否定されていません。「宗教以前」と考えられるような、アニミズム的世界観は、人類共通なのかなと思います。

本の「はじめに」にはこのようにあります。

「人々が描くイメージは個々に個性的であり、どれひとつとしてまったく同じものはないが、しかしまた驚くほど共通性も高かった。それは想像世界といえどもまったく自由にどのようにもイメージできるわけではないことを示している。」

イメージは、各自が勝手に作り上げているのではなく、人類共通の法則みたいなものがあるということなのでしょう。自分では「独創的」と思っているようなアイディアやイメージも、その人個人のものかどうかは微妙です。

こういったことはたぶんユング心理学でいうところの「集合的無意識」「元型」に通じるかもしれません。共通の部分がなければ臨床の場でイメージを使ったセラピーも行えないだろうし。

 

 

 

 

 

 

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2023/05/03

小松和彦著『神隠しと日本人』

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神隠しについての民俗学的考察はたいへん面白く読みました。

とくに神隠しに遭ったのが大人の場合は、また村に帰ったときあれこれ詮索されずに戻ることができる方法というのは庶民の知恵だなぁとも思います。

神隠しが無くなってしまったのは、そもそも「隠し神」なる神の存在を信じなくなったことにあるのは当然としても、そしてこの曖昧さが許されなくなったのが現代なのかもと思います。

そして筆者も書いていますが、「神隠し」という語には甘く柔らかい響きがただようと。俺もそう思います。隠されたい誘惑といったらいいか、向こう側へ行ってしまいたくなる衝動です。いっさいの社会的関係を断ち切ってしまう。社会的な死を求めるのです。いい方を変えれば「社会的自殺」です。

今だと、「神隠し」ではなく「行方不明」とか「失踪」という言葉で言われてしまうんだろうなと思います。

「行方不明」「失踪」だと、「その理由は?」「どうして失踪なんか?」とあれこれ理由を求められてしまいます。 

 でも、どうなんでしょうか。もちろん理由あっての「行方不明」「失踪」はあるでしょうが、そうではないものもあるのです。自分でも理由がわからないもの。それこそ「神隠し」としか言いようのないもの。

だから本当の意味での「神隠し」、 理由のない「神隠し」は今でもあると思っています。

 

 

 

 

 

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2023/04/18

お犬(狼)さま信仰の新しい意味

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全国の犬像の写真を撮り始めて以来、犬と狼を行ったり来たりしていますが、オオカミとイヌを新しい物語で語れないものか、「お犬さま信仰」の新しい意味はなんなのか、考え中です。昨日ブログで語った「プチ神隠し」との関係はあくまでも俺の個人的な狼信仰ですが、今日は、もっと一般的な狼信仰の話です。

先日の、NHK「ダーウィンが来た!」を見て、日本においてはニホンオオカミとイヌとの境目が想像以上に無いというか、あいまいというか、これまで漠然と感じていたことの理由がわかったような気がします。

タイプ標本さえイヌとの交雑種だったんだから、昔の日本人が遭遇していたオオカミも交雑種が多かったのかもしれません。それは『オオカミは大神』でも書いていたことです。番組を見て確信しました。

でも、俺は生物学的な狼とな別に、信仰上の狼の曖昧さは嫌いではありません。むしろ日本の特徴でもあるわけで、決してマイナスイメージではないです。

このオオカミとイヌの曖昧さを含んだ、曖昧さを許してくれるいい言葉があるではないですか。「お犬さま」です。

実際狼信仰について知っている人は、お犬さまがオオカミであることを知っていますが、一般的な人は、犬のことだと思うだろうし、どっちにでも取れるというのはすばらしい言葉だと思います。

「お犬さま信仰」は、現実にオオカミは絶滅したといわれて久しいし、害獣を防いでくれる益獣としての役割は終わっています。

だからこのままいくと、「お犬さま信仰」は過去の「文化遺産」になりかねないのです。ただ、生きた信仰であれば、これからも続いていくでしょう。この文化を廃れさせてしまうのは、もったいないと思うからです。

だから、次はなにか?というのが大切です。俺の関心もここにあります。

現代的な意味が付け足されれば、お犬さま信仰は続くはずです。過去は大切ですが、未来も大切です。

もともとお犬さまの、害獣を防いでくれるとか、泥棒、火災を防いでくれるとか、狐憑きを治すのに効果があるとか、コレラに効くとか、そういったご利益は、その時代時代に、人々の意識的・無意識的な願望が作り上げたお犬さまに対する物語であったわけです。だから時代とともに、その願望が変わってくるのは当然だし、お犬さまの意義・意味も変わってくるのは当然なことなのではないでしょうか。

 そこですでに何度か紹介しているふたつの事例が、狼信仰の未来を感じさせるものとして注目されます。

ひとつは、武蔵御嶽神社の犬のご祈祷です。さっきも書きましたが、「お犬さま」と聞いて、狼信仰のことを知っている人であればそれは「狼」を意味し、知らない人であれば「犬」を意味します。「狼」「犬」どっちにもとれる「お犬さま」という言葉自体に、俺はすごさを感じるのですが、そこを逆手にとって、狼だけではなく、犬までも受け入れて行こうとする武蔵御嶽神社の取り組みには、時代の先見性を感じます。

神社関係者によると、犬のご祈祷を始めた当初は不安だったと言います。批判も覚悟したようです。

もともと犬は不浄なものとして、神社とはあまり相性がよくなく、今でも、犬が境内に入ることが禁止されている神社は多いです。お犬さま信仰の総本山ともいえる秩父の三峯神社も、前は犬連れOKでしたが、何年か前から犬連れ禁止になってしまいました。いろんな事情はあるのでしょうが、残念なことです。 

これは時代の流れでもあるのですが、ここまで犬が家族同然となっているのに、わざわざ犬を禁止する意味がどこにあるのでしょうか。たとえば「子供禁止」とか言い出したら大バッシングを受けるでしょう。でも今は「犬」なら平気だというのは、ちょっと遅れているのかもしれません。もちろん、俺も初めは犬嫌い(犬恐怖症)だった立場から、犬嫌いの人の気持ちもわからないでもありませんが、時代は確実に変わっています。

そしてもうひとつ。これも何度も紹介している、山梨県丹波山村の取り組みです。七ツ石神社の再建プロジェクトというのがあって、数年前から経緯を見させてもらってきましたが、無事にお宮とお犬さま像が再建補修され、文化財にも登録され、狼信仰が村おこしに一役も二役もかっています。このあたり、お犬さま信仰が村おこしと結びつくということに新しさを感じます。

他にもありますが、要するに、狼信仰が現在進行形であるこが大事なんだと思います。もったいないではないですか。今まで続けられてきた狼信仰という、狼を象徴とした、動物(人も含む)、自然環境との関係を考えるきっかけを与えてくれるものは、これからも続いていくことを願っています。

 

 

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2023/04/17

狼信仰とプチ神隠し

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狼像や狼信仰に興味が出てからほぼ10数年。何がそんなに俺を引き付けるのだろうと考えてきました。でも、なかなかその本質にたどり着くのは容易ではありません。理屈をつけて理解しようとすればするほど、本質から遠ざかってしまうようなもどかしさを感じます。

ただ、あることを思い出しました。そしてその体験の感覚が、狼像の前に立ったときの感覚と似ているというか、通じるものがあることに気がついたのです。

その体験というのは、子供のころの体験です。放課後、笹船を作って、小川に流して友人と競漕しました。

ほんとに子供というのは、何かに夢中になってしまうと時間が経つのも忘れてしまうようです。笹船に声援を送りながら小川に沿って下流へ下流へと歩き続けたのです。

笹船の競漕などは決着はつかないものです。どこかでやめなければ、どこまでも下流へ歩いてしまいます。そのうち、子供としての行動範囲を抜け出してしまったようです。そして気がつくと、あたりは真っ暗になっています。

あたりの暗さに気がついて、急に怖くなりました。空にはもうすでに星が瞬いています。

あたりを見回しても、今まで来たことのない景色です。どうして「こんなに遠くまで来てしまったのだろう」と少し後悔します。

俺たちは笹船が闇に消えていくのを惜しみながらも、上流へと帰りました。川沿いに戻れば迷子になることはないと、子供ながらに思ったのかもしれません。

その後どうしたか記憶にはありませんが、家で叱られた記憶もないので、それほど大げさにはならなかったのだろうと思います。そういう時代でもあったのでしょう。

今ならどうでしょうか。暗くなっても子供が帰らないと大騒ぎになるかもしれません。

ちょっとした神隠しに遭ったようなもの。こういう状態を「プチ神隠し」と言ってもいいかもしれません。半分「異界」に行っていたと言えるかもしれません。

「物語」を調べている中で、赤坂憲雄編『物語という回路』の中の「龍潭譚考 神隠しをめぐる精神史的考察」に、こうありました。

「神隠しは天狗・鬼・山男など隠し神にバリエーションはあれ、ある超自然」的なモノによってどこか異世界へと子どもや女が連れ去られる、不思議な現象として体験されてきた。」「鏡花の「「龍潭譚」という短編小説は、神隠しを主題とした傑作として知られる。小さな、しかし、まさに傑作である。すくなくとも、これほどに生きられた神隠し体験をみごとに描き切った小説を、私は知らない。映像の世界における、ビクトル・エリセ監督の『ミツバチのささやき』に匹敵するとでもいえようか。ジャンルこそ異なれ、この『ミツバチのささやき』と「龍潭譚」は神隠しを描いた傑作として、双璧をなすはず」

ビクトル・エリセ監督の『ミツバチのささやき』は3度ほど観ました。

主人公アナが、フランケンシュタインと遭遇したときの表情には、ぞくぞくっとしますね。これ、芝居でしょうか。

そうか、『ミツバチのささやき』は、「神隠しの話」という観方もあったのかと。

映画では子どもたちの遊びの様子が描かれています。

焚火の火の上を飛び越したり、線路に耳を当てて列車が来るのを待ったり、危険なことをやるのが子供たち。いや「危険」と判ずるのは大人たちの基準であって、子供たちにはそもそもそんな基準はないんじゃないでしょうか。おもしろそうだからやる、それだけです。

同じような感覚はTVドラマ『北の国から』にもあります。覚えているのはこのシーンです。このことは以前書籍でも触れています。

夜の森で純、蛍、正吉の3人がUFOと遭遇し、分校の先生が「365歩のマーチ」を歌いながら現れ、先生は宇宙人かもと疑い、暗い森を逃げ帰るシーンがあります。子どもの目線で語られるそのエピソードが好きです。不思議な話のままで終わるのがまたいいですね。怖いけど魅かれる感じが良く出ているシーンだと思います。

「危険」と思うのは、やっぱり経験や知恵がついて大人になってしまったからで、子供にとって、危なさや、危なさに通じる向こう側の世界は、こっち側とはつながっている世界であるのでしょう。

大人になるとそのふたつの世界が断絶してしまうのかもしれません。だから子供は動物に近いといえるかもしれません。

『ミツバチのささやき』でフランケンシュタインが現れても、それなりに受け入れてしまう。異界のものに無防備です。だから、主人公アナは「逃亡者(脱走兵だっか犯罪者だったか)」に対しても、恐れることもなく近づき、親切にします。それはお母さんの教えでもありました。

精霊は、良い人には良いもので、悪い人には悪いものと、お母さんはアナに教えるのです。「逃亡者」はアナにとっては異界から訪れた精霊なのでしょう。そして精霊は、自分自身の心のありようでもあるのですね。「良いもの」であろうとするところに、子どもの純真さを感じます。

泉鏡花の『龍潭譚』でも主人公千里が異界で不思議な体験をして帰ってくると、大人たちが「気のへんになった者としてみな私に応対」したのです。異界での体験を信じようとせず、気が狂った、狐が憑いたで済ませてしまう。千里は、その無理解さに腹をたて、また異界へ戻りたいと思ってしまう。

異界と現実の断絶が、子供にとっては理解できません。大人たちが守ろうとしているのは、目に見える現実世界の秩序でしょうか。じゃないと、この世界はめちゃくちゃになると怖れてでもいるように。

動物(狼)も、子供も、わかっているんでしょうね。世界は、こっちとあっち、両方あってひとつの世界だと。こっちとあっちを行き来できるのが、動物(狼)であり、子供なんだと思います。

俺が狼信仰に感じるのは、そこらへんです。どこらへん?と言われてしまいそうですが。

 

 

 

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2023/04/12

今話題のチャットGPTと脳

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今話題のChatGPT。

自分のことや「オオカミ信仰」「お犬さま」などを尋ねました。

「青柳健二」は、俳優・声優で『HERO』、『相棒』にも出演しているそうです。誕生日も違うので、その日を調べても、該当する俳優どころか、日本での有名人はいません。

本当の自分にまったくかすりもしないのが少し悲しい。それだけ有名じゃない、ということの証でもあるんでしょう。ただ、俺は個人情報はあまりネットに載せないようにずっと前から注意してきました。そういうことが少し幸いしているのかもしれません。

「おいぬさま」ついて聞いてみたら、

「「おいぬさま」という言葉は、一般的には「おいしい犬」という意味ではなく、可愛らしい表現として用いられることがあります。」

だそうです。以下略します。というか、問題外な答えです。

「お犬さま」とか「オイヌサマ」と字面を変えて聞いてみても、まったく、オオカミに関係する答えは、いまのところ出ませんでした。「今のところ」と書いたのは、AIは学習していくらしいので、そのうち完璧な答えになるかもしれません。

ところで、恐竜は体を大きく(食われないように)することで生き残りをかけました。でも、大きさは限界がないかというと、そんなことはなく、物理的にも、ある程度大きくなったらそれ以上大きくなることはできません。

人間の脳がほかの動物と比べて体重の割には巨大なのは、複雑な社会生活での問題を解決するためだとする説があります。これを「社会的知性仮説」と呼びます。

哺乳類は、脳を大きくすることで生き残ってきました。究極はこのように人間の脳ですが、脳についても、恐竜の体と同じように、大きさに限界があるようです。

本など、アナログなものも昔からありましたが、コンピュータが出て来て依頼、脳の機能は急速に自分の外部ににも置かれ始めました。そしてChatGPTなどが出てくると、今が、脳の大きさの限界点かなとも思います。

これからは人間の脳は少しづつ小さく「進化」していかざるをえないのかもしれません。つくづく、ヴィーノを見て、「ヴィーノは幸せだなぁ」とか言ってきましたが、われわれ人間も、ヴィーノくらいの脳に戻っていくのかもしれません。 

ChatGPTは、今のところ日本語では、抽象的なものなどは得意らしいですが、「青柳健二」「お犬さま」など、具体的情報にはまだまだ弱い部分があって使えないですね。 

 でもこれもだんだん学習していって、完璧なものになっていくんでしょう。そのとき、人間の存在意義はどこにあるのか。

人間が得意なのは、失敗、思い込み、嫉妬、妬み、不公平さ、差別、先入観、騙しなどでしょうか。今まで「負」とされていた人間の性質が、一番人間らしさに変わる日も近いのかもしれません。 

 

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2023/02/03

節分の夜は、外出を控える理由

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「福は内、鬼は外」

今日は節分で、俺も東京都のある寺院の節分祭の撮影をすることになっています。

節分の豆まきについて、小松和彦著『日本の呪い』には、

「この「ケガレ」(カオス)を浄化する儀礼には、ふたつのタイプがある。これは「ケガレ」の発現を未然に防ごうとする儀礼である。予防注射のようなものだ。これは、まだ「ケガレ」の状態になっていない、つまり「ケ」の状態にある者が、身体や家や集団のなかにたまりつつある「ケガレ」のもとを、「ケガレ」になるまえに祓い落とし、外部へ追放しようとするものだ。」

節分の豆まきは「ケガレ」の元になるものを、前もって追い出してしまおうという儀礼でもあるようです。「ケガレ」の元は「鬼」として表現されています。

鬼は外へ出してしまえば、内は安泰だ、という発想ですね。内、外、は心理的な区別と、実際の物理的区別にもなっています。

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以前、秩父の夏の祭、皆野町上日野沢立沢地区の「虫おくり」に参加したことがありました。虫おくりは、3本のオンベイ(御幣)を持って村を練り歩き、害虫の悪霊を呼び寄せ、村の外へ出してしまい、村の安泰を祈願する行事です。オンベイというのは、神霊の依代で、竹竿の先に幣を取り付け、その下に七夕飾りに使った色とりどりの短冊をつなぎ合わせて作ったもので、高さは5mほどあります。

このオンベイを、村外れの谷川に流し、村の安泰を願っていました。虫を外へ追い出してしまえば、内は安泰だというわけで、豆まきの発想と同じです。

ところが、この虫を付けたオンベイを川に流せなくなったというんですね。ゴミを川に勝手に捨てられないというわけです。

内さえ良ければ、外はどうでもいいという発想は、もう通用しないということでもあるんでしょう。

今日、多くのところで、鬼が外に追い出されます。日本中、異常な数の鬼が跋扈することでしょう。

ならば、今夜、外を歩くのは危険極まりない、ということになります。鬼=ケガレを自分が吸い取ってしまうかもしれないからです。

だから節分の夜の外出は控えたいと思います。

行き場のなくなった鬼たちはどうなってしまうんでしょうか。

 

 

 

 

 

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2023/01/29

普通救命講習

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これも危機管理のひとつとして、市の普通救命講習を受けました。心肺蘇生(胸骨圧迫)とAEDの使い方です。

今コロナ禍なので、心肺蘇生の中の人工呼吸はやらないことになっているそうです。胸骨圧迫(心臓マッサージ)だけですが、やってみると、かなり体力を使うことがわかり、もし周囲に人がいたら、その人たちにも助けてもらうことが大切なんだなぁと知りました。

それからAEDの使い方も、実際にやってみて、これなら使えるかなと少し自信は付いたかなぁと思います。

講習を受けたあと、修了証カードももらいました。

知識では知っていても、具体的な体験がないと、たぶんその場になったらできないだろうなとずっと思っていました。実際、そういう体験があったからです。

だから講習会で実際にやってみることは大切です。ただ、教科書通りにいかないだろうなという不安もあります。

とにかく、一番大切だなと思ったのは、周囲の人に声をかけて助けてもらうことです。ひとりでは大変だということがわかりました。

 ただし、その場合、「だれか救急車呼んでください」とか「だれかAED探してください」はダメで、目の前の人に直接向かって「119番に電話して救急車呼んでください」とか「あなたは、AED探してください」と具体的な指示をした方がいいそうです。

これを聞いて、「傍観者効果」を思い出しました。ビブ・ラタネ、ジョン・ダーリー 著『冷淡な傍観者―思いやりの社会心理学 』があります。

1964年にニューヨークで起こった婦女殺人事件「キティ・ジェノヴィーズ事件」というのがありました。たくさんの目撃者がいたにもかかわらず、誰も警察に通報もせず、助けなかったというこの事件をきっかけに、心理学者がある仮説を実験して確かめたという話です。

結論は、緊急事態の現場に居合わせた人の数が多いほど、助ける人が少なくなるというもの。これを「傍観者効果」と呼びます。

その後、癲癇発作や、煙が出るなどの実験でも確かめられました。

どうしてそうなってしまうんでしょうか? 大きく2つの理由があるそうです。

【責任の分散】 人数が多いほど、自分よりも援助に適した人がいるはずだ、自分がやらなくてもいい、ほかの人にも責任はあると考えてしまう。

【集合的無知】 みんな同じことを考えていることを知らず、自分の考えはほかの人とは違うのではないか。自分では緊急事態なのかもと思っても、周りの反応を見ると、他の人たちは何もしようとしていないのをみて、緊急事態ではないんだと思い込んでしまう。みんながそう考えてしまうので、誰も助けなくなってしまう。 

俺も2回の「緊急事態」に遭遇しました。火事と、発作を起こした男です。

近所の火事での意外な行動(2013/08/17)

素人に応急処置は難しい(2014/09/15)

発作を起こした男を見たとき、俺も救命措置の知識がないので、自分よりも適した人がいるはずだとは思って、ちょっとだけ助けに向かう時間は遅れたということは事実です。

その場には、俺のほか6人ほどいましたが、男の異変に気がついても、みんな何もしようとしませんでした。でも、たぶん、内心は俺と同じだったのかもしれません。

そこでもし講習を受けていた人間がいたなら、その人が中心となって、みんなも救命措置を手伝うことになるのではないかと思います。

 

 

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2023/01/03

初詣は狐さん

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今年の初夢は、

インド行きの飛行機にのる予定の俺。あっ!時間は大丈夫だろうかと思ったら、すでに午後。チケットは何時だったか確認したら、10:45とある。完全に乗り過ごしてしまった、という夢でした。

内容的には、この数年見ている飛行機に乗れないシリーズで、特別目新しいものではありませんでした。

と、いうことは、今年も去年のような年になるんだろうなと思います。

 

初詣に、川越を目指したんですが、駐車場はどこもいっぱいで待っている状態だったので、川越は諦め、北上しました。

そして思い出したのが、東松山市の箭弓稲荷神社。ここは数回撮影でおじゃましているところなので、土地勘はありました。

でも、さすが1月3日。どうにか、他の私設駐車場に入れることができましたが、まだ参拝者はたくさんいて、お参りまで約40分ほどかかりました。

ここの本殿の裏側に、お狐様の塚があります。おびただしい数のお狐様像や石祠が集められているところです。

 

 

 

 

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