カテゴリー「心理学の話題」の128件の記事

2017/04/22

『全国の犬像をめぐる : 忠犬物語45話』が書店に並び始める

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『全国の犬像をめぐる : 忠犬物語45話』が書店に並び始めているようです。

知り合いからは「棚田写真家」から「犬像写真家」に転身したのかと、ちょっと違和感を持たれているようにも感じています。

対象が「棚田」という風景から、「犬像」という物になったので、「ぜんぜん違う」と思う人の気持ちもわかります。

でも、俺にとって、このふたつは、それほどの違いがないのです。

こういう理由です。

ひとつは、被写体としての対象は違うのですが、「日本を知る」という意味では同じです。日本を知る「切り口」の違いでしかないんですね、自分としては。どちらも「日本を知る」ための被写体のひとつなのです。

もうひとつは、「巡礼」とか「旅行」という方法に着目すれば、このテーマが似ている、そのものだということはわかってもらえるかもしれません。

前も書きましたが、動物には「探求欲」というのがあって、「探すこと」それ自体に意味があるということなんです。犬も探求欲がありますが、探し出した途端、興味を失うこともあるそうです。「探すこと」そのこと自体に価値があるのですね。

たとえば、過去、俺が写真のテーマにしたものを上げると、

「中国雲南省の少数民族」
「メコン川の源流から河口まで」
「世界と日本の棚田」
「秩父の祭り」
「犬がいる日本の風景」
「東北被災地のお遍路」

そして今回は「全国の犬像」。

どれも、いろんなところに点在しているのを、1ヵ所、1ヵ所めぐり歩いて、探し出して、そして全体像を掴む、という方法はまったく同じです。これは俺にとってはすべて「巡礼」です。

こういう2つの理由から、犬像と棚田とは、自分のなかではそれほど大きな違いではなく、むしろ、同じようなもの、というふうに感じているのです。

それと、テーマを決めてから旅するわけではなく、旅していて、自然に生まれてきたテーマだということも関係しているのではないかなと思っています。自分では意識していませんが、その時、その時、心が欲しているものがテーマとなる、俺なりの心の必然があるのでしょう。


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2017/04/18

母親の死による「喪の仕事」

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怒涛のような10日間が過ぎました。少し落ち着き、公園にヴィーノを連れて行き、一息ついたところです。

『精神分析とユング心理学』(大場登・森さち子著/放送大学教育振興会)によれば、母親の死は、対象喪失の体験のひとつです。そして「対象を失うことの哀しみをどう哀しむか」というのが「喪の仕事」と言われる心理的な過程です。

フロイトは、父親の死をめぐる喪の仕事を行う自分の体験をしっかりと見つめました。

そしてわかったそうです。ただ単に死んだ人を懐かしんだり、再生を夢見ることだけではないと。

その人に抱いた憎しみや敵意、死を願う気持ちを自分の中に認め、そうした感情を抱いたことに対する悔みや償いの気持ちをたどることなのだといいます。そして失った対象との間に抱いていた、さまざまな感情を整理することが喪の心理過程において、とても重要だと学んだというのです。

親密であればあるほど、愛情と憎しみとの葛藤を抱きます。喪の仕事の大きな課題は、失った対象に対して、良い思い出だけではなく、傷つけたり、冷たくしたり、期待に添わなかったことを思い出し、償いや悔やみの気持ちをどう自分の中で整理していくか、ということが大切なのだそうです。

まだ、日が浅いので、フロイトのいうような深い部分に思いをはせる余裕はありませんが、なんとなくわかります。

この前の「母の葬儀」にも書きましたが、母親というのは「絶対的な愛情を注いでくれる存在」であると同時に「いつまでも放さない、囲い込む、干渉する存在」でもあります。矛盾したものを持っています。だからとくに思春期のころは、母親の干渉と囲い込みを強く感じて、「反発」しました。

でもこの年齢になってみると、あの時の「反発」は、むしろ「愛されたい」という感情の裏返しでもあった、あるいは、どんなことをしても見守ってもらえるという絶対的安心感があったからこそできた「反発」だったのかもしれません。

要するに、実家を出たという表面的な俺の行動の内側には、親に依存できるという安心感があったからではないかなと思います。一見、このとき親離れしたように見えますが、内面的にはまったく逆ではなかったのでしょうか。甘えていたのです。

だから前回、母親の死によって、本当の意味で親離れができると書いたのでした。
 
 
 
 
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2017/04/15

母の葬儀

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母の葬儀と初七日が終わりました。去年の秋以降、ほとんど寝たきり状態になっていましたが、4月7日、亡くなりました。

喪主である俺が写真を撮りながら葬儀をすることは、ある人には不謹慎と映ったかもしれませんが、葬儀記録を残しておくことは、写真家になったことを最後は喜んでくれていた母も認めてくれると思います。

まだ実感がありません。そして9年前に父が亡くなった時と今回の母との死では、微妙に感覚が違います。

何でも受け入れてくれる、なんでも許してくれる、絶対的な愛情を注いでくれる母親という存在がこの世からいなくなったということは、たぶん、これからボディブローのように、徐々に精神的ダメージを与えてくるのかもしれません。

でもその一方で、母親というのは、いつまでも子供を縛る、子供に干渉する存在でもあります。矛盾したものを持っています。だから母親の死によって、本当の意味で、「親離れ」することができるんだろうなと思います。

母は昭和9年生まれなので、終戦を迎えたのは11歳の時です。それからの日本は、右肩上がりに経済成長を続け、戦争もない平和な時代でした。天皇の生前退位で年号も変わろうとしています。まさに、母は、昭和と平成という、良い2時代を生きてきた人間でした。

母は俺が20代のころ「過激派だけには入らないで」と言っていて、実際俺は過激派には入らなかったし、犯罪者にはならなかったし、一応、この点については親不幸はしませんでした。なので、まぁまぁ幸せな人生だったのではないでしょうか。

今俺は、悲しみや寂しさという表立った感情よりも、幸せだったと言える母の人生を丸ごと肯定して、「良かったね」と見送ってあげたい、むしろ静かに海底に沈んでいるような気持ちなのです。でも、これは、俺が実家を出て、母とは離れて暮らしてきたので、母の死をどちらかというと観念的なものとして捕えているからなのでしょう。

いつも母といっしょにいて、だんだん認知症がひどくなり、衰弱していく様子を見ていた妹にとっては、もっと母の死は現実的で、具体的なものだと想像します。妹の悲しみ、寂しさは、俺から見ていても辛いほどでした。
 
 
 
 
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2017/03/21

石原慎太郎氏、証人喚問での「科学信仰」

160322(東京都庁展望台から西側の街並を望む)


百条委員会で、石原慎太郎元都知事の証人喚問が行われました。

「侍」とか「闘う」とか言っている割には、弱弱しい発言の連発でした。

最後に、文明論を持ち出すところは、さすが「作家」ですね。

科学は「安全」を担保すると盛んに言っているのですが、科学が万能かと言えば、科学も一種の信仰ではないのかと思うんですよね。

いろんな例がありますが、たとえば、19世紀前半、「骨相学」というのが欧米で大いに流行しました。頭蓋骨(アタマの形)で、人間の気質や精神といったものが判断できるという説です。

いまでは、何を馬鹿なと思うでしょうが、たぶんみんなまじめに信じていたんだと思います。「骨相学」は当時は最先端の「科学」だったのだから。

今もてはやされているDNAも、今は最先端の科学ですが、これだって将来どうかはわかりません。

人間は何かを信じないと生きていけません。「神」が死んだ現代では、代わりに「科学」を信じるしかないのかもしれません。

でも、豊洲の問題が難しいのは、この科学信仰さえ越えてしまっていることです。「安心」は、心の問題です。いくら科学を信じて「安全」だと言われても。

最近、豊洲の地下水問題だけがクローズアップされると、まるで「豊洲だけ」地下水に問題あるように感じる、というのも、科学信仰の弊害(錯覚)ではないかなとも思います。

たとえば、地下水が汚れてるのが、豊洲だけではなく、築地も汚れているし、さらに、都内すべての土地が汚れているとわかったならば、じゃぁ豊洲でもいいかとなるでしょう。もしかしたら、本当にそうなのかもしれないし。(「科学的」というなら、都内すべての土地の地下水との比較が必要なのでは?)

ところで、石原さんがさかんに言っていた「記憶にない」という表現は、作家としてはどうかなと思います。不正確ではないのでしょうか? 科学がそんなに大事ならば。

記憶に「ある」のか「ない」のかは石原さんにはわからないはず。(本人が「わからない」と言っていることを信じるならば) 正確に言うなら「思い出せない」でしょう。
 
 
 
 
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2017/03/15

マレビト来たる

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先日、19歳になるドイツ人の女の子と会いました。

彼女は俺の知人の娘さんです。たまたま1か月間、日本に仕事の出張で来ていて、お母さんから娘と会えますか?と連絡があったのですが、ん~、でも彼女とはまったく関係がないし、しかも19歳だし…と、ちょっと渋ってしまいました。

彼女のお母さん自体、36年前に1度会ったきりの人で、当時はまだ14歳でしたが去年、俺のポストカードを見つけた彼女の娘さんが、ネットで俺を検索して探し出したのでした。

その話は、去年「36年前、スイスで出会ったドイツ人家族」に書いています。

そういう事情があって、娘さんとは何の接点もなく、どんな人なのかという情報もなく、会うのが正直億劫でした。

そしたら妻が「あなたも外国でさんざん人の世話になってきたんだから…」と言われて、それもそうだなと思いなおしました。結局妻といっしょに会うことにしたのです。俺ひとりでは、ちょっと荷が重いかなと思ったので。

会ってみたら、まじめな性格で、芸術家タイプでした。だんだん人となりがわかってくると、話もできるようになっていきました。19歳と言っても、政治の話もできるし、大人だなぁと感じました。懐石料理をごちそうしましたが、気に入ってくれたかどうか。

「外人なら秋葉原が好きだろう」というので、夕方、秋葉原のメイドカフェなんかも連れて行ったのですが、ここは、あまり興味を示されず…(女の子だしねぇ)。しかも、場末風メイドカフェの「天空の城」の、ありえへん設定に無理やり付き合わされて、正直、俺自身疲労困憊しました。

彼女は、日本でアートの勉強をしたがっているので、そのうち日本に住むかもしれません。

そうか、彼女は「マレビト」なんだなぁと思いました。

外部からの来訪者(異人・マレビト)に寝床や食事を提供して歓待する風習は、日本だけではなくて世界各地でみられるものです。その根底には、マレビト(稀人・客人)信仰があるとも言われます。

奈良時代の『風土記』にも、突然やってきた見知らぬ客を親切にもてなした者が幸運に恵まれ、逆に冷たくあしらった者が不幸になるという話が載っています。

マレビトは、時には旅人、時には鬼、時には乞食、時には芸能者などの姿をしたカミでもあります。

その信仰には、外部の人間との交流は、とくに昔の山間部の孤立した集団には、物理的、精神的なメリットもあったろうし、もっと深く、集団内の人間と結婚することで、優生学的なメリットもあったのでしょう。

ただ、マレビトは、異界から来た異質な人間なので、最初は警戒されます。たとえば、俺は昔北タイのカレン族から、病気を持ち込むのではないかとか、カレン族の文化を踏みにじるのではないか、とかいう理由で、村では外国人を警戒するんだという話を聞いたことがあります。

そのリスクも当然ありますが、それ以上に、トータルすると、やっぱりメリットが大きいから、こういう信仰が生きているんでしょう。なにしろ人には好奇心というものがあります。

「怖いもの見たさ」という言葉に集約されますが、異質なものに対する警戒心はあっても、それ以上に知りたいのです。そしてその好奇心が人間を作ってきたと言ってもいいのかもしれないのです。

チンパンジーは賢いですが、あまり他の個体に興味はないそうです。他人のことを気にしたり、世話したり、教えたりするのは、霊長類の中では、人間が一番。

その事実と「マレビト信仰」は重なっているように思えます。
 
 
 
 
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2017/02/27

映画『オデッセイ』を観て。「絶対的孤独感」とは?

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『オデッセイ』は、アメリカのSF映画で、アンディ・ウィアーの小説『火星の人』が原作。監督はリドリー・スコット、主演はマット・デイモン。火星に一人置き去りにされた主人公の宇宙飛行士(マット・デイモン)の生存をかけた孤独な奮闘と、彼の救出作戦を描いた映画です。

なんだろう、この感じは? ちょっと変わった映画だと思いました。とくにSF、サバイバル映画としては。

妙に明るいのです。と、いうか軽いのです。

その理由のひとつは、悪者がまったく出てこないということでしょうか。人間もそうだし、エイリアンや細菌なども出てきません。

唯一、冒頭のアクシデント(そもそもこれがなければストーリーは成立しないわけですが)と、ジャガイモ畑が爆発によって失われたアクシデント、最初の補給ロケットの失敗のみ。そして人はひとりも死にません。

当然主人公は生還するだろうなと予想できてしまうので、あとは淡々とミッションが進んでいくことを、まったく心配もなく安心して見ていることができるのです。

しかも、この救出作戦に中国が自国の計画を断念してまで協力してくれるという、ちょっとここは中国に対する皮肉かなと思ったところですが、とにかく、中国が友好的なのです。さすが将来は、中国がアメリカと二分する超大国になっていて、だから、中国も成熟した大国になっているという希望的予想なのかもしれませんが。

悪人がいない、人が死なない映画なのです。

この映画の楽しみ方は、主人公が無事に地球に戻れるのかどうか、とかいったワクワク感などを期待してはダメで、むしろ、友情物語、仲間物語、という映画ではないでしょうか。

それにしても映画から受ける「明るさ」「軽さ」とは違って、物語の設定である「火星にひとり」という状況はとても深刻なもので、「絶対的孤独」を感じますね。

そういえば、以前当ブログでも書きましたが、実際今、「キュリオシティ」という火星探査機が火星で活動しているはずです。機械ではあるのですが、どうも擬人化してしまって、「彼」にも「絶対的孤独」を感じています。

だからなのか、この広い宇宙に地球外生物の存在を期待してしまうのは。

先日も、地球と似たような惑星が発見されたというニュースがありました。もし地球外生物の存在が見つかったら、地球人としての意識は確実に変わるでしょう。もしかしたら、戦争なんかもなくなるかもしれません。なくならなくても、少なくはなるでしょう。

俺たちは、この「絶対的孤独」に耐えられないのかもしれません。だから、気持ち悪いエイリアンでもいい、地球を侵略しようとする宇宙人でもいい、とにかく、どんな姿形でもいいので、地球外生物(宇宙人)が存在してほしいというのが、我々地球人の意識的、無意識的な願望ではないのかと思います。

この広大な宇宙空間の中に、地球人の俺たちだけしかいないと想像すると、とてつもない孤独感で気が狂いそうになります。

「人の意識」は、頭や脳にだけあるわけではなく、「関係」にこそ宿っているという説と、どこか繋がっているような気がします。主人公が食料確保と同時にいっしょうけんめいになったのは、地球(人)とのコミュニケーションだったのも、象徴的だと思いました。
 
 
 
 
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2017/02/05

映画 『ルーシー/LUCY』 脳の機能を100パーセント使うこと

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前から観よう観ようと思っていた『ルーシー』をようやく観ました。

ルーシーという女性が、ある事件に巻き込まれ「CPH4」という薬を摂取してしまい(その摂取のしかたも大変なのですが、ここでは省略して)、それが脳の活性化を促し、最後は100パーセント脳の機能を使う、というものです。

脳の機能を100パーセント使う映画として、『リミットレス』というものもあり、こっちはすでにブログに書いています。

どうしてこういう映画のテーマが生まれるかというと、もともと、人間の脳は10パーセント(あるいは20パーセント)しか使われていないという説があり、じゃぁ、100パーセント使ったら、スーパーマンが生まれるのでは?という、期待というか願望があるからなのでしょう。

でも、『リミットレス』の時にも書きましたが、10パーセント(あるいは20パーセント)しか使っていないということ自体俗説だという話もあります。仮にそれが本当だとしても、10パーセントしか使わないのは、使えないからではなくて、使わない方がいいからそうなっているのではないかと想像します。それを進化というのかどうかはわかりませんが。

もし100パーセント使ってしまったら、もはや「人間」とは呼べないんだろうな、別な生き物になってしまうんだろうなと思うからです。

そして『ルーシー』では、実際そのように描かれていて、『リミットレス』よりはリアリティを感じる話になっています。

こんなふうなセリフが、脳の活性化が70パーセントほどに達していたルーシーの口から出ます。

人間は自らの「独自性」を存在論の根拠としてる。
単位の基準は、「1」だが、本当は違う。
人間は理解しやすいように存在や情報を単純化する。
それは楽な尺度で物事を考え、無限の深淵を忘れるため。
「時」が存在の証となる。
「時」だけが真実の尺度である。
「時」が物質の存在を明かす。
「時」なくして何物も存在しない。

ルーシーの説明を聞いて、科学者は最後に、「時が支配する」と自分に言い聞かせるように言うのです。

この映画では、物が存在するように見える(感じる)のは、「時」があるからだということになっています。科学的にはどうかわかりませんが、映画としては面白い話です。

そしてルーシーの脳の機能が100パーセントに達してしまったとき、もう物質で存在する必要もなくなったルーシーは消えてしまいます。

いや、消えてしまったわけではありませんでした。普通の人間の目には見えなくなっただけで、「私はどこにでも存在する」のでした。

これを単なるSFの話だけではないところが面白い。たとえば、普通の人間には見えないもの、聞こえないものが現実にたくさんあります。

「見える」「聞こえる」「匂いがする」などの感覚は人間の能力の範囲内だけの話です。犬が嗅いでいる匂いを人間は気が付けません。魚が見ている色もわかりません。イルカの聴こえる音も聴けません。人間は知らないことだらけです。

でも、知る必要がないから、そういう程度の能力で充分なのでしょう。ルーシーが言うように「人間は理解しやすいように存在や情報を単純化する」のです。それは悪いことではないかもしれません。でないと、生きられないからです。

動物の究極の目標が、生きて、子孫を残すことなら、脳を100パーセント使うなどという、膨大なエネルギーは使わない方がいいだろうし、物事を単純化したほうが生き延びるチャンスは増えます。たとえば、画像を扱う人ならわかると思いますが、JPGデータを可能な限り圧縮した方が扱いやすいということと同じように。

だから、これで人間なんだろうなと最後は思うわけです。能力と環境は程よいバランスを保っているのではないかなと。

逆に言えば、バランスを保っているから人間が存在できているということでもあるのでしょう。あえて脳の機能100パーセントを使わないことで。
 
 
 
 
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2017/01/30

伝説は過去の遺物ではなく、刻々と変化する心の処方箋

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イメージの活用を目的に心理学を始めたのでしたが、「精神分析とユング心理学」を勉強していて、偶然なのですが、今回『愛犬物語』の原稿を書くにあたって、全国の犬像にまつわる伝説、神話が、残るべくして残ったという視点を与えてもらったのは良かったと思います。

犬の首が宙を飛び大蛇に嚙みついて殺したとか、犬が少女の身代わりで怪物と闘ったとか、これを「史実」と考えたら、単なる荒唐無稽な「嘘」になってしまいます。

ところが視点を変えて、この「嘘」こそが、人間の心が生み出した、何物かの表現であると考えるわけですね。「夢と似ている」と言えば納得してもらえるのではないでしょうか。俺たちが観ている夢も、覚醒時の現実世界では、「嘘」になってしまいますが、「夢は嘘だ」なんて言っても、まったく意味がないのと同じです。

伝説、神話は、夢と似ているのです。人間が共通して持っている普遍的無意識の反映とも言えます。しかも、これはある時期から固定してしまった「化石」ではなく、今現在も刻々と変化している「生もの」だということがわかってきました。

伝説は過去の事実がそのまま伝わることもあるでしょうが、その話が地元の人にとって何か有益なことがあれば、尾ひれがついて、変わっていくということは考えられることです。反対に不利益があったら削られていくということも同様です。

心理学者・大場登著『精神分析とユング心理学』には、神話について、

「その国・その文化圏の人々の心が一致して「受け入れてきた」、その意味で個人を超えた、文化的、あるいは普遍的な「世界観」の表現とみることもできる。人々の心によって受容されないものが歴史を超えて残り続けることはほほとんどありえない」

と言っています。伝説は神話より、もっと具体的な物語ですが、残り方としては同じでしょう。

今も、刻々と伝説が変わっている現場を目撃しました。筑後市の「羽犬」の伝説のところでも書きましたが、伝説をしらべてみると、羽犬が死んだ原因が、「病死」と「弓で射られた」とふたつあったのです。

微妙な違いかもしれませんが、「病死」の方が加害者を作らず穏便に済むからかなぁと思うんですよね。物事にはかならず両面性があり、それをどっち側から見るかで、物語も変わってきます。

それと、こういうこともあります。最近は、桃太郎の「鬼退治」も「不公平で、可哀そうだ」との意見が出てきて物語が変わってきているという話も聞きます。

伝説が、別の話に突然変わったというようなこともあったようです。どうしてなんだろう?と思ったら、ちょうど今、高崎市のだるま市のことが話題になっていて、だるま市を開いていた少林山達磨寺と、業者の方でトラブルがあり、それと連動するように、市のHPから、今まで達磨寺に伝わっていた伝説が消え、「新説」に置き換わってしまったというのです。あぁ、こういうことで伝説がひっくり返されるんだなと妙に納得です。

だから「オリジナルの伝説」なんてないんでしょうね。伝説とは流動的なものなのではないでしょうか。

伝説は、化石のような過去の遺物ではけっしてないということ。伝説は刻々と変化して、必要な人にとっての、心の処方箋になっているのかもしれません。人間には物語が必要なようです。
 
 
 
 
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2017/01/03

チョコレートの銀紙を食べる初夢

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初夢は、

チョコレートを包んであった銀紙をいっしょに食べてしまった。銀紙が食道から胃に動いていくのをイメージした。胃に悪そうだなと思った。

というものでした。

食べ過ぎで、胃に満腹感があったことと関係があるのだと思います。それとヴィーノが道端で似たようなものを食べたりすることがいつも心配事であることも。

(このブログをアップした後、ドッグランへ行ったとき、そこへ来ていたラブラドールが、義母の手袋を飲み込んでしまうという事件(?)が起こりました。これは「共時性」でしょうか)

あまり楽しい初夢ではなかったことが残念です。「悪夢」というほどではないですが。

そういえば、去年「米医学会が認めた悪夢治療薬」という記事がありました。

http://allabout.co.jp/gm/gc/462380/

悪夢で睡眠不足になるというほどの深刻な症状の人には、こういった薬も必要なのかもしれません。

俺もけっこう悪夢を見ているらしく、奥さんは「また、うなされていたよ」と教えてくれるのですが、俺は、「起こさないで」と頼んであります。

というのも、夢は見るべくして見るというか、必要があって見ているのでは?と思っているからです。それがどんなに悪夢であっても。

「夢の補償作用」とも言われるのでなおさらです。覚醒時の心の状態に問題があるから、夢ではあえて逆な夢を見ていると考えるのが心理学の説のひとつです。かと、言って俺は覚醒時が幸福だから夢で悪夢を見ている、などということにはならないのですが。

少なくとも、悪夢で死ぬようなことはありません。夢の中で、銃で撃たれても、崖から転落しても、実際には死ぬことはありません。だから、放っておいて大丈夫なのです。

俺の心が必要とあって悪夢を見ているのだろうし、途中で起こされたら、その「悪夢を見ていた」ことを意識してしまいます。そして途中で夢が中断されることは問題があるのではないかと思うからです。

この件に関しては、心理学の本に載っていたわけでもないので、正しいかどうかはわかりません。俺の体験から思ったことですが。
 
 
 
 
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2017/01/02

2017年の「鳥」と2018年の「犬」が合体したような「羽犬」像

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2017年は酉(鳥)年ですが、2018年は戌(犬)年です。

福岡県筑後市には、「羽犬」像があることはすでに【愛犬物語】でも紹介しました。

羽犬とは、2017年の「鳥」と、2018年の「犬」が合体したような翼を持った犬ですが、これには伝説がふたつあって、ひとつは「悪犬伝説」ひとつは「愛犬伝説」です。

秀吉も信長同様、鷹狩りを好んだそうで、鷹狩用の犬である「鷹犬」は「御犬」と呼んで大事にされましたが、反対に、野犬は殺されて鷹の餌にされたという話があります。犬の運命は天国と地獄の、両極端の開きがあったんですね。そういった犬の祟りを恐れて供養したのかもしれません。

心理学者・大場登著『精神分析とユング心理学』には、神話について、

「その国・その文化圏の人々の心が一致して「受け入れてきた」、その意味で個人を超えた、文化的、あるいは普遍的な「世界観」の表現とみることもできる。人々の心によって受容されないものが歴史を超えて残り続けることはほほとんどありえない」

と言っています。伝説は神話より、もっと具体的な物語ですが、残り方としては同じでしょう。

伝説に、「悪犬」と「愛犬」という一見矛盾するような2つの伝説が同時に伝わっていることも、人間の心の葛藤をそのまま表しているような気がします。「野犬」と「鷹犬」の、あまりにも両極端な2つの犬の立場そのものが伝わった結果なのかもしれません。

とにかく史実はどうであれ、羽の生えた犬というユニークな動物を生み出した人々の発想に驚くし、面白いなぁと思います。

古くは鷹狩自体を「鷹犬」と呼んでいるケースも多くあるそうで、鷹狩では「鷹」と「犬」は切り離せないものだったようです。

空に飛び上がるような犬の像はまさに羽の生えた鳥と犬が合体したような姿で、「羽犬」はまさに「鷹犬」そのままではないかと思うのですが。

これが偶然にも、2017年と2018年の干支が合体したような姿になっています。
 
 
 
 
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