カテゴリー「心理学の話題」の190件の記事

2020/03/21

新型コロナウイルスとゾンビ映画『ウォーキングデッド』

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「新型」なんだから、これからコロナがどうなっていくかなんて、誰もわかってないし、わかるはずもないということですね。ある意味、みんな一人一人が自分で「解決」するしかないのだと思います。

「解決」と書きましたが、「コロナに罹らない」「コロナが終息する」とかいう意味ではありません。その「解決」策はひとそれぞれ違うでしょう。

だからここで書いたことがみんなに通用するとも思わないし、みんなに提言、提案するわけでもありません。俺なりの「解決」策です。

まず新型コロナ禍は、長期戦になりそうだということは素人でもわかります。このウイルスの性質上、「撲滅」は難しそうです。しいて言うなら、人類の60~80パーセントが罹って集団免疫を獲得するまでは終息はしないだろうということです。

ただ問題は、爆発的に感染者が増加し、医療体制が崩壊して多くの死者を出すことです。だから、当面は、この危機から脱しなければなりません。今、国境封鎖、外出禁止が行われていますが、割と受け入れているのは、みんなも動物としての勘が働いているのか、このままでは人類が滅亡してしまうという恐れを直感で感じているからかもしれません。

人類は、環境に慣れることによって生き延びてきたはずです。それを進化というかどうかは別として。

人類は本当に薄氷を歩いているようなところがあります。最近の温暖化を見てもそうですが、地球の平均気温が1度、2度上がっただけで、私たちは右往左往し、今までの生活を変えていかざるをえないというのは、実感としてわかります。

酸素がないところでは2分も生きていられません。数日のうちには食べ物も食べなければなりません。重力があるので飛べません。時速60kmでは走れません。110歳を越えて生きるのは難しい。こういう制約といったらいいか、環境があるわけですね。それは個人ではどうしようもないことです。でも、みんなそれを「普通」として生きています。

だから俯瞰してみると、地球上の人類というのは、いや、動物・植物全部の生物ですが、かなりこの環境次第なんだなということがわかります。

『ウォーキングデッド』というTVドラマがあります。これは突然、周りがゾンビだらけになって、そこで生き抜くというサバイバルドラマです。生きているゾンビ(ゾンビは死んでいるからゾンビなのであって、「生きている」というのは形容矛盾ですが)を倒す唯一の方法は、頭を壊す、首をはねることです。

『ウォーキングデッド』は今回の新型コロナウイルスの対処方法の参考になるのではないかと、ずっと思ってきました。

というのも、「周りにゾンビがいる」というのを新しい環境と捉えてみます。とつぜんその環境に置かれて、主人公たちは慌てふためき、絶望し、怖がります。パニックになるのは当然です。

ところが時間が経ってくると、このゾンビの特徴が分かってきます。速くは移動できない。頭は悪い。頭を切り落とすと復活しない、などなどです。

だから注意さえしていれば、なんとかゾンビに襲われずに済みます。この環境で生きていく術が分かってきます。そういう環境に慣れた人間だけが生き延びられます。(ただ、ゾンビの首を切り落とすという覚悟が必要ですが)

そしてそういう過酷な環境の中でも、幸せを感じたり、笑ったりできます。逆に過酷な環境だから、人と協力し、人への思いやりが増したりします。いつの間にかその環境は「日常」になっていきます。

まぁドラマは、ゾンビより、むしろ人間の方が怖いのだ、というテーマになっているわけですが。実際、今アメリカでは、銃がよく売れているのだそうです。それは物不足を予想して、略奪などが起こった場合の防衛策として、あるいはコロナを持ち込んだのはアジア系だということで襲われるのではないかという恐怖心から、銃を買っているらしい。こんなところはアメリカらしいと思います。

このゾンビを新型コロナウイルスに置き換えてみます。

周りに突然現れたウイルス。でも、姿が見えないところはゾンビとは違っています。ここがやっかいなところです。でも、3条件(密着する、唾を飛ばす、換気が悪い)が重なるところ以外では感染のリスクはかなり低くなる、ということがわかってきました。手洗いも有効です。

だから、周りに新型コロナが存在しても、この3条件が重ならないようにして、手洗いをこまめにすることで、「普通」に生活することはできるのではないかなと思います。もちろん、活動すればリスクゼロではありません。でも、今までだって、いつ交通事故や飛行機事故で死ぬかもしれなかったわけだし、「リスクゼロ」という呪縛からは抜け出さなければと思います。

まぁこんなこと言えるのも、今の日本だからで、パンデミックの中心地ヨーロッパではそれどころではないでしょう。とにかく、当面の危機、急激な感染拡大は、世界中協力して何とか止めるしか方法はないかなと思います。

大阪がどうの、兵庫がどうのと言っている場合ではないのだけ確かです。

 

 

 

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2020/03/01

昨日から二十四節気「雨水」、オリジナル七十二候「箇労亡猛威(ころな もういをふるう)」

Photo_20200229141501(元画像:NHK https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200228/k10012306811000.html)

 

2020年2月29日から二十四節気「雨水」、七十二候「草木萌動そうもく めばえいずる)」です。

草木の芽が出てきて、春を感じる季節のはずです。でも、今はオリジナル七十二候「箇労亡猛威(ころな もういをふるう)」の気分です。

「コロナ」に、どんな当て字がいいかなと、いろいろ遊んでみました。

安政五年、江戸でもコレラが流行ったとき、コレラは「箇労痢(ころり)」「狐狼狸(ころり)」「項痢(こうり)」などと表記されました。なので、「ころ」を「箇労」として、「な」を「亡」にしました。「亡」にしたのは存亡の危機感の表れです。

「狐狼亡」は、狼を汚すようでちょっと抵抗があります。

他にもいろいろ考えたのですが、ある特定の国や地域を意味するのはまずいと思うので、このくらいにしておきます。

(「箇労難」の方がいいかな。2020/3/4)

1月までは、COVID-19 新型箇労亡ウイルスによる肺炎は、ほとんどが軽症で、罹ったことさえ気が付かずに済む、みたいな専門家の話に、そうか、そんなに深刻ではないんだなと思っていた俺はバカでした。

こうなってくると、ウイルスに感染しなくても、干上がってしまいます。仕事に大きな影響が出ています。軒並み撮影のキャンセルが相次いでいます。「中国」「イベント」「集会」というキーワードにした仕事は、とうぶんできなさそうです。

そしてちょっとでも熱っぽかったりすると、戦々恐々としている自分がいます。

先行きが見通せないというのが不安の種です。学校閉鎖、イベントなどの自粛で、2週間~1か月たてば、元通りになるわけではなく、さらにそれが続く可能性もあります。

とはいえ、不安がってばかりでも仕方ありません。テロと同じで、恐怖心や不安感をあおるだけなら、すでに新型箇労亡に負けてしまうことになります。

 安政五年にコレラが流行ったときも、庶民の間には、コレラをネタにして様々な刷り物が作らればらまかれたという。落ち込むどころか、笑いとしゃれで沸いたそうです。どんな状況でも、笑いは必要で、笑うことは免疫力を上げ、結果的に新型箇労亡ウイルスに勝つ、ということにもつながるんじゃないでしょうか。

 

 

 

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2020/02/01

【犬狼物語 其の四百四十一】安政5年コレラ流行時には金櫻神社のお犬さまも借りられた

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Kanezakura

 1858年(安政5年)から3年にわたって流行したコレラでの死者は3万人と言われています。このとき、コレラ除けとして、人々は三峯神社や御嶽神社のお犬さまに頼った話は前回書いた通りです。

そして、『社記・寺記』(慶応4年)には、伊豆の村々では三峯山とともに甲州三嶽山(金峰山)からもお犬さまを借りたとの記録もあります。

金櫻神社は、甲府市市街地から昇仙峡を目指して県道を北上すること約30分。昇仙峡ロープウェイを越してさらに3kmほど、昇仙峡を登りつめたところに鎮座します。金峰山を御神体とした金櫻神社です。

武田家代々の祈願所でもありましたが、本殿など昭和30年の大火により焼失しました。社殿は昭和34年に再建されたものです。

ここは、三峯神社や武蔵御嶽神社と同じように、日本武尊の眷属・狼信仰の神社でもあり、お犬さま(狼)像はないそうですが、お犬さまのお札は授与所でいただくことができます。

 お犬さまのお札の配札がいつから始まったのかは資料がないのでわからないそうですが、文化年間以降幕末にかけてのようです。

 高橋敏『幕末民衆の恐怖と妄想 ━駿河国大宮町のコレラ騒動━』(国立歴史民俗博物館研究報告 第108集 2003年)には、安政5年のコレラの流行で、人々がパニックに陥っていき、コレラは悪い狐が憑いたからだというふうになって、狐ならお犬さまが防いでくれるということで、三峯神社、武蔵御嶽神社、金櫻神社にお犬さまを借りに大勢が参拝したという様子が見えてきます。

 これは危機的状況になったとき、人がどのように考え行動するのか、という心理学的な課題でもあるようです。

 今なら、お犬さまに頼るなんてばからしいと思うのでしょうが、当時の日本は、大地震や風水害などが起こっていて、人々の不安が背景にはありました。そこへ追い打ちをかけるように、長崎に寄港した米艦ミシシッピの乗組員からコレラが流行り出したので、異国=悪というイメージは増幅され、攘夷思想が高まりを見せました。

人々の妄想は「千年モグラ」「アメリカ狐」「イギリス疫兎」を生み出し、お犬さまに頼るようになりました。このお犬さま(狼)は、つまりは日本古来から信仰されてきたということもあって、「日本」そのものであったのかもしれません。「狐」対「狼」ではなくて、「異国」対「日本」という構図。悪い「異国」を「日本」がやっつけてくれるという、ある意味、これも攘夷思想と言えるのかもしれません。

三峯神社の公式記録「日艦」によれば、安政5年8月になると御眷属拝借の登山者が急増し、8月15日には「日増ニ代参多、殊ニ東海道辺・江戸芝口・変病除心願ニ参詣御座候」とあり、東海道の宿々や江戸から、コレラ除けの心願のため殺到したことが記されています。8月24日、三峯の御眷属拝借は1万を超え、11月10日に1万2千、12月15日には1万3千になったそうです。

この異常ぶりは驚くばかりですが、じゃぁ、今の俺たちにこんなことは絶対起こらないんでしょうか。人間が極限状態に陥ったとき、どうなってしまうかは、今も昔も変わらな気がします。

 

 

 

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2020/01/29

「田園風景に癒される」のはどうしてか?

160108(ミュラー・リヤー錯視)

 

160108_2(富岡製糸場 ミュラー・リヤー錯視のaに相当)

 

160108_3(富岡製糸場資料館 ミュラー・リヤー錯視のbに相当)

 

07__mg_5436(ミュラー・リヤー錯視が働かない棚田の風景)

04__20200118062401(ミュラー・リヤー錯視が働かない棚田の風景)

 「田園風景に癒される」とは、よく聞くことだし、俺自身もそう感じています。どうしてなんでしょうか?

そこで「田園風景」とは真逆の都会の風景と比較してみます。何が違うのか。その違いが癒されるかどうかの違いではないかと考えてみるのです。

 

「ミュラー・リヤー錯視」というのがあります。「錯視」というのは視覚の錯覚のことです。

矢印みたいな図、見たことあるのではないでしょうか。aとb、軸の長さは同じなのですが、俺には明らかに右の方、bが長く見えます。

心理学実験に参加して、俺も自分の錯視量(実際の長さと、自分が同じだと感じた長さとの差)を測ったことがあります。個人的には、錯視量は少ないだろうと予想していましたが、なんと実験参加者16人の平均値よりも大きくなったのです。

一応俺も映像の仕事をしていて「見る」ことには自信があったし、ミュラー・リヤー錯視についても、あらかじめ知っていたので、この結果に驚きました。

と、言っても、錯視量が大きいからダメだという単純な話ではなく、錯視とはある意味、物を見るとき頭を働かせすぎている、脳が「忖度」しているともとれるわけで、そうしたほうが生き残る可能性が高くなる、環境に適応するための仕組みでもあるのだそうです。

ミャラー・リヤー錯視がなぜ起こるのか、今のところ定説がないとのことですが、ある研究者がやった実験で、都市に暮らしている人間ほど錯視量が多くなるというデータがあります。

人間が物を見るとき、同じものが奥にあってもそれほど小さく感じないということがあります。奥にあるなら小さく見えているはずだと無意識に判断して、だから実際よりも大きく感じさせてしまう。このように奥行の手がかりが多いほど、つまり遠近感が掴みやすい四角い建物に囲まれた人間ほどこの錯視を起こしやすいということは言えそうです。

建物外壁の写真が、「a」に当たり、建物内部の写真が「b」に当たります。

そう考えると、地方に行ってなく、町の中で撮影することが多かったので錯視量が多くなったのかもしれません。むしろ写真を撮るというのはファインダー越しにビルや建物を「良く見る」ことでもあるので、普通の人より錯視量が増えたと考えれば、納得できます。

もしそうなら、町に住んでいる人間を広々とした田園風景に連れていったとき、錯視量が変化するのかどうか、変化するとしたら、どれくらいの時間で、どのくらい変化するのか、興味がありますね。

「田園風景に癒される」と言われますが、どうして癒されるのか、という問題ともからんできそうな気がします。

錯視は人間が環境に適応するために脳で行っている活動であるなら、その活動が少なくて済むというのは脳の負担が減ることでしょう。脳があきらかに休めるのです。そういうことが「癒される」ことなのかもしれません。

 

 

 

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2019/10/02

映画『TOKYO24』完成披露舞台挨拶イベント

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こちらが、映画『TOKYO24』公式サイトです。
https://tbc-movie.com

2019年10月26日ユーロスペース渋谷他 ロードショー!
「TOKYO24」第16回モナコ国際映画祭日本映画最多5冠受賞!
監督: 寺西一浩、軽部進一、岡田主
出演: 寺西優真、キム・グァンス、葉加瀬マイ、長谷直美など
 

「人間とAIが当たり前に共存する時代が必ず来る近未来をリアルに描く。そこでAIが人間と生活や仕事を共にすることによって、次第に人間に影響されていく過程で「ココロ」が作られていく様子をAIの刑事を通して映し出す。」

「2030年-東京はオリンピック開催後、沢山の問題を抱えていた。国政は選挙制度改革の問題、政治家達の汚職や犯罪が多発、それにより地方分権推進が叫ばれる。そこに情報化社会でたくさんの物、情報がリアルタイムで輸入され、 国民の考え方、ライフスタイル、価値観の変化と共に、激動の時代に突入していた。その東京で、人気抜群の女性都知事・東條真知子が手腕を振るっていた。」(公式サイトから抜粋)

 

2019年9月23日、池袋HUMAXシネマズにて、 映画「TOKYO24」完成披露舞台挨拶イベントが開催され、寺西優真さん、キム・グァンスさん、 葉加瀬マイさん、長谷直美さんなど、共演者が多数登壇しました。俺はオフィシャルカメラマンとして記録写真を撮らせていただきました。(なので、写真の掲載は、寺西一浩監督から許可をいただいています)

日本映画で、AI刑事を演じたのは、今回の主役、AI刑事・青島役の寺西優真さんになるとのことです。初めてのことなんですねぇ。優真さんは、端正な顔立ちがAI刑事役にぴったりだと思いましたが、舞台あいさつの中で、海外のAI刑事の映画をたくさん観て、動きや表情を研究したそうです。本人はいたって明るい青年でしたが、役の上では「笑えない」と、笑っていました。優真さんは、2018年「ムスカリ」で日本武道館でデビューした歌手でもあります。

近未来映画は好きな分野のひとつですが、今回の映画の時代背景となっているのが、女性都知事が活躍する未来です。なんとなく、というか、かなり小池東京都知事を彷彿とさせる人物像でしたが、やはり、この役を演じたベテラン女優、長谷直美さんは舞台あいさつの中で、小池さんを意識していたと言っていました。映画の土台をしっかりと支えている存在感がありました。

そして脇を固めるのがキム・グァンスさんと、葉加瀬マイさん。刑事・金城蓮役のグァンスさんは、 人気韓流グループSUPERNOVA(旧・超新星) メンバーということで、ファンも多数来場していたようです。また女性刑事役の葉加瀬マイさんは、「ルパン三世」の峰富士子を連想させます。

ストーリーは、どんでん返しもあり、ここでは詳しく話せませんが、AI刑事青島と、金城蓮とのやり取りは、たぶん、人間とAIなら、こんな感じなんだろうなというリアリティを持っていました。クスッと笑えるシーンがあります。青島の無表情があってこその笑いですね。ここが人間とAIとの違いか、というところです。

AIが進化して、人間の存在が脅かされるという人もいます。ほんとにそうでしょうか。

もしかしたらAIによって、人間は犬を飼い始めたときのような大変革の時期に差し掛かっているのかもしれません。

AIによって、人間の能力を補完してくれるならば、人間は、そこはAIにお任せして、別なとこに能力を使えるようになる、とも言えるわけです。人間とAIは、犬と暮らすことで脳が専門化したように、お互いの能力を住み分けるのです。

例えば「計算」はAIには絶対かないません。「計算」でAIに勝とうとしても無理です。ここはAIに任せたほうがいいでしょう。AI刑事・青島に、人間である金城蓮は勝てない部分があるのです。

いや、勝ち負けではないですね。あくまでも「補完」なのです。お互いが必要不可欠な「仲間」と言ってもいいでしょうか。

映画では、金城蓮が青島を諭すシーンがあります。青島はディープラーニングによって「人間の心」を学んでいくのでしょう。つまり、AIは、人間からも影響を受けるのです。
映画の中でクスッと笑ったと書きましたが、やっぱり、ここがAIと人間を分ける部分であり、もしかしたら、笑いが起こらなくなったとき、AIがもっと人間と近くなっているのか、はたまた、人間がAIの「心」に近づいていることになるのか、どっちでしょうか。

この笑いのシーンは、きわめて時代を意識した現代的なシーンだと思います。過渡期だからこその笑いなのです。 

 

 

 

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2019/09/06

「恋人たちの等間隔の法則」

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夕方、騒がしいなぁと思ったら、電線に多数の鳥。ムクドリでしょうか?

ここに越してきて初めてのことです。20分ほどして、鳥たちはどこかへ去りました。

鳥も、電線に止まるときは等間隔になるんですね。

日本や中国やベトナムやイランの公園へいったとき、恋人たちが等間隔で並んでいたのを思い出します。混雑したときだけなんですが、面白いくらい等間隔に並ぶんです。

これを俺は「恋人たちの等間隔の法則」と名付けています。この法則は、国籍や民族に関係なく同じだし、鳥も同じだったんですね。

と、いうことは、もしかしたら、植物も含めたすべての生物は同じ法則で並ぶのかもしれません。

これは心理学的なテーマでもあるかもしれません。なぜこうなるのか、研究したら面白いのではないでしょうか。(すでに研究済でしょうか) 

一応、俺の推理を言っておきます。あとでそこに来た人(鳥)が、すでにいる人(鳥)の、ほぼ中間に入るからこうなるんでしょう。じゃぁどうして中間に入ってしまうのか?

例えば、電車で座っているときも、詰めて座っているときは身動きできないですが、お客が下りて、席に少し余裕が出てきたとき、俺も、左右の人の中間に移動したりします。

もっとも最近の電車の横座りの席は、お尻の形に窪んでいて、位置がひとりひとり強制的に決められているものもありますが、それでも俺は、お尻に突起が当たっても、中間に座るときがありますね。

どうしてでしょうか? 両側の人に遠慮しているから? あるいは、「一番遠い位置」に移動して 「俺はあなたの敵ではないですよ」というアピールかもしれません。ただ「一番遠い位置」とは言っても、左右に人がいるから、結果、左右の人の中間の位置になってしまうということです。

 人にはテリトリー意識があって、それ以上近づくと攻撃するほど不快に感じる限界点があるので、なるべく「一番遠い位置」にいると快適になる。でも、離れすぎると、それはそれで寂しい。なので、そのバランスを取る位置かもしれません。

 

 

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2019/08/31

ゲルハチ公、9月3~9日開催の「超福祉展2019」で展示のニュース

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「軟らか「ハチ公」感情豊かに AI駆使し鳴き声変化 山形大グループが開発」のニュース。

(河北新報 https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201908/20190827_53037.html)

 

軟らかなゲル素材を活用したハチ公型ロボットを開発したそうです。開発したところが母校の山大工学部。こんな研究なら俺ももっと勉強していたでしょうが。

首から頭部にかけてと前足部分がゲル素材で作ってあります。本物の犬のように軟らかいらしい。首と頭部のセンサーが音と画像、触覚を感知して、LEDの点灯で喜怒哀楽を表現し、感情に応じて鳴き声も変化させるという。

山形県鶴岡市には、現在渋谷に立っているハチ公像の前に作られた試作品(石膏像)が残されています。周り周ってこの試作品が鶴岡市にやってきた話は、『犬像をたずね歩く』にも入れているし、当ブログでも紹介済みです。

 【犬狼物語 其の二百三】 山形県鶴岡市 忠犬ハチ公像の石膏試作品が鶴岡市に来た奇跡話

この試作品を元にレプリカを作ったのが、初代「鶴岡ハチ公像保存会」の会長・高宮さんです。(掲載の写真がレプリカと高宮さん)今回のゲルハチ公は、このレプリカからさらに3Dプリンターで作られたようです。

 ゲルハチ公は9月3~9日開催の「超福祉展2019」で、JR渋谷駅に近いメイン会場「渋谷ヒカリエ」に展示されるとのことです。

 どういう展示の仕方をされるのかはわかりませんが、触るのOKなら、実物の犬のように柔らかいのかどうか、確かめたいと思います。今までの犬像は硬いイメージなので、もし柔らかい犬像ができたなら画期的です。

犬に癒されるのは、視覚的だけではなく、触覚的なところも大きいように思うからです。

ちなみに、「愛着」に関するこんな心理学の実験があります。アカゲザルの子ザルに、哺乳瓶をつけた針金製の母ザルと、哺乳瓶をつけてないが柔らかい布製の母ザルを与えた場合、子ザルは、空腹を満たせる針金製の母ザルよりも、空腹は満たせませんが、柔らかい肌触りの母ザルと過ごす時間が圧倒的に多いそうです。不安や恐怖を感じたときは特に、柔らかい感触の母ザルにしがみつくという。このことで、空腹を満たすことよりも、心地よいスキンシップ(感触)が重視されているらしいのです。

人間と犬もそうかもしれません。

 

 

 

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2019/08/26

最近のあおり運転報道で考えた、危ない正義感 

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最近、ドライブレコーダーで撮られた映像がニュースで流れますが、あおり運転して、最後に車から降りてくるシーンとセリフが全部似ていて、同じドライバーかと勘違いするくらいです。「オラーッ!」「降りてこい!」などなど。

それと、これって、わざと相手を怒らしているんじゃないか、といった動画もありますね。前後の経緯を見せずに、相手が車から降りてきて怒っているところだけを切り取って見せられたら、まるで「ひどい奴」に見えてしまうので。そこだけは事実ですが、全体の流れからは真実ではない、ということも十分にあり得ます。もちろん、常磐道であおり運転した宮崎文夫容疑者の動画のことを言っているのではなくて、その後、類似の動画を目にした時、違和感を覚えるものがあったので。たぶん、良く解釈すれば、これだけあおり運転が社会問題になっているんだから、あおり運転を無くす貢献をしようという正義感から動画を撮影するのかもしれません。

それにしても、宮崎文夫容疑者と犯人蔵匿・隠避容疑で逮捕された喜本奈津子容疑者の続報が続くのはどうしてでしょう? まぁ、殴ってる映像が衝撃的だというのがあるかも。でも、こんな傷害事件、日本にたくさんあるでしょうが、やっぱり「あおり運転」がセットだからみんなの関心が高いということなんでしょう。良く解釈すれば、あおり運転はやめようとの啓蒙の意味もあるんでしょうか。これもマスコミの正義感ですかね。

でも、少なくとも喜本容疑者はどうですか? 殺人犯をかばったわけでもありません。俺だって家族や友人なら、かくまうと思いますよ。

犯した罪に比べてこの社会的制裁の大きさは何だろうと思います。まるで極悪非道の罪人扱い。しかも舞い上がった人たちは、まったく関係ない女性を喜本容疑者と勘違いして、糾弾するという異常ぶりです。

血を求めた野獣のようです。こっちの方が怖い。むしろ、宮崎容疑者さえ(喜本容疑者はもちろん)可愛く見えてしまうくらいです。デマを流した人間には法的措置を取ると、喜本容疑者に間違われた女性は言っています。

「祭」、いや「血祭」を求めているんだろうなと思います。「イベント」はあっても、「祭」がなくなってきた社会では、当然のなりゆきかと。表で発散できない負のエネルギーは、裏で爆発する、ということなんでしょう。

でも、やっかいなのは、その血を求めている人たちは、自分が血を求めていることは自覚せず、むしろ社会のためと思っていて、正義感いっぱいなのです。そこですね、一番やっかいなところは。

デマを拡散させた人の中には、子煩悩なお父さんや、SNSでは可愛い赤ちゃんを自慢するお母さんもいるそうです。表では善良な市民なんですよ。「裏」は「無意識」でもあり、よほどのことがないかぎり、自分で気が付くのは難しいということもあります。

正直、俺も負のエネルギーはあります。それを「正義感」を御旗にして発散させることはないように注意はしていますが、たまに、「正義感」を振りかざして発散させてしまいますね。「正義感」を振りかざすのは、気持ちがいいからです。「正しい」ことに反対するのは「正しくない」と単純に思い込むことができるからです。

普段から俺は自分を「良い人間」や「善良な市民」とも思ってないのに。どうして時々「正義感」が襲ってくるのでしょうか。自分が正しいと思う瞬間です。でも、その正しさは、自分中心主義なのです。自分の中での正しさを、他人もそうだと思い込む、ということ。社会は、そう単純に「善悪」に分けられることがないと、頭ではわかっているんですが、面倒くさいので、物事を単純化して見てしまうのです。

「正義感」はけっこう危なくて、快感が伴っているので、なおさら扱いはやっかいなものだと思いますよ。

 

 

 

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2019/08/12

マイケル・W・フォックス著『オオカミの魂』

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マイケル・W・フォックス著『オオカミの魂』を読みました。

「イヌのことなら狐(フォックス)に訊け」(デズモンドモリス)という言葉があるそうで、フォックスはイヌ科動物の権威。心理学、行動学の博士号を取得して『イヌの心理学』、『イヌのこころがわかる本』などの著書もある生態学者・獣医師です。

この本は、単なるオオカミの生態・行動を紹介した本ではなく、行動学、心理学、哲学、社会科学など幅広い領域の成果をもとに、現代の人間が抱える精神的な問題に踏み込んだ本です。オオカミだけではなく、あらゆる生き物への畏敬の念の大切さを訴えています。

「オオカミは野生状態の象徴的な存在、つまり野生に対する意識の元型になっています。」

「自然は、わたしたち人間が健全さと文明を取りもどす最後の望みなのかもしれません。そしてオオカミはわたしたち人間にとって、高貴な野蛮人といういくぶん空想的な存在よりもずっと現実的で、実際により適切でもある水先案内人、元型となりうるのです。」

フォックスはイヌの研究もやっていて、飼いイヌが野生の動物から家畜化したとき、どういうことが起こったか、という興味深い観察を述べています。家畜化は、オオカミの行動の儀式的な側面を薄め、単純化するというのです。そのため人間に懐くようになりました。イヌは、儀式を捨てて、フレンドリーになった。逆に言えば、だれにでも懐くフレンドリーさを獲得したから、人間の伴侶動物として生き延びることができたということなのでしょう。

これは人間の文化にも言えるようです。

「行動の点でいうと、現代人の行動・文化の伝統の多くからしだいに儀式の要素が失われつつあり、この現象にはファッションから社会的な役割にまで及んでいます。」 

「文化化も似たような影響を及ぼし、さまざまな儀式の効果を弱めることで、人間の行動の幼形成熟をさらに強化させるのかもしれません。疎外と社会の不安定さといった問題はありますが、利点としては、人間の態度が柔軟性を増し、もはや規定された儀式やタブーに束縛されずにすみ、将来、異なる文化間での争いの可能性が少なくなる、ということがあげられるでしょう。」

いいとか、悪いとか言っているわけではありません。生き延びる術を獲得したことを「進化」というなら、飼いイヌも、人間も進化していると言えるのでしょうね。

だからこそ、オオカミに魅力を感じるわけです。人間が失ってしまった儀式を重んじる野生動物としてのオオカミ。自然の一部として存在するオオカミです。

 「先住民を「高貴な野蛮人」とみなしたルソーの視点は、野生動物、とくに、人間と同様ハンターであるオオカミなどに対するわたしたちの文化的な認識や理解といくぶん関連があります。「高貴な野蛮人」という言葉には、ある種神聖な神秘的な雰囲気、存在感、気品があり、「文明化した」人間に、再び自然と一体になりたいとか、文明化しすぎた科学技術の世界が生み出した付属物を捨てて自由な精神状態で暮らせたら、といったあこがれを生み出します。」

「高貴な野蛮人」と「オオカミ」は、社会的な儀式の点で高度に洗練されていて、自然と一体になって生きているという意味で、同じような存在です。そこにあこがれている現代人という構図でしょうか。 

 それと関係があるのか、今までの反動なのか、最近の若い世代は、けっこう儀式好きなのではないかと、最近ある写真を撮るようになって思っています。

 

 

 

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2019/08/11

10個の太陽と12個の月

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来年2020年(令和2年)版「旧暦棚田ごよみ」のあいさつ文を考えているところです。 今回は中国の神話を引用しようかなと。

昔の人は、毎日変化する月の満ち欠けに規則性を見出しました。しかし月の満ち欠けだけでは、季節がずれていきます。そこで太陽の動きも考慮したのが太陰太陽暦です。

中国の創世神話では、五代目皇帝・帝俊の義和夫人は太陽を10個、嫦娥夫人は月を12個を産みました。ところが堯帝の時代に、10個の太陽がいっせいに輝き、大地は灼熱地獄になりました。堯帝は弓の名手・羿(げい)に、9個の太陽を射落とさせました。太陽はひとつとなり、元の世界に戻りました。日本にもこれと似た射日神話が伝わっています。

中国古代の地理書である『山海経』にも、10個の太陽や12個の月が水浴するという話が出てきます。これは1年間が12カ月からなる考えを反映したものだそうです。

また、月はもともと複数ある太陽のひとつでしたが、弓の名人に射られ、怖ろしさのあまり血の気を失って光が薄れ、月になったという話もあります。(伊藤清司著『中国の神話・伝説』)

太陽が多すぎる混沌とした世界も月の存在で秩序を保てると解釈できるかもしれません。この「太陽」とは「支配者」という意味でもあるようです。

また、10個の太陽と12個の月は、十干十二支や太陰太陽暦を連想させます。

 日本に伝わった射日神話ですが、関東を中心に「おびしゃ(お日射)」という祭りも行われています。

そこで、思い出したのは、秩父の小鹿野町に「出原の天気占い」という行事があります。的を射て、その年の天候や作物の出来などを占うものですが、詳しくは調べてないのでわかりませんが、これも「お日射」と同じ祭りかもしれません。

掲載の写真は、10年前に撮影したこの「出原の天気占い」です。

 

 

 

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