カテゴリー「心理学の話題」の196件の記事

2020/06/26

【犬狼物語 其の四百九十二】今日で百日目、「コロナ収束祈願」の狼像

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今日でtwitterに「コロナ収束祈願」の狼(お犬さま)像をあげて、ちょうど百日目になります。

当初は、「終息祈願」としていましたが、新型コロナの性質を考えると、当分「終息」はなく、せいぜい「収束」ならあるかもしれないと思って、それからは「収束祈願」としてきたのですが、どうでしょうか。まだ「収束」とは言えない状況ですよね。

それにしても、毎日毎日ルーティンとして狼像をあげてきたわけですが、新型コロナが話題になったのは年末なので、もう半年は経っています。あっという間でした。この狼像の数の多さで、このコロナ禍の日々の長さを実感しています。

その間の半分は、撮影の仕事も無くなり、自分も感染しているのでは?と戦々恐々とした生活を送っていました。もし感染したら仕事はできなくなるし、ヴィーノはどうする、妻は母親はどうする、という問題もあります。だからまず罹らないことだけに神経を使ってきた感じです。

6月になると、仕事の依頼も少しづつ復活し、世の中全体が明るさを取り戻した雰囲気で、それがまた第2波を呼ぶのでは?という不安もありながら、でも、なんとか生活はしていかなけてはと思っているところです。

今のところ、抗体検査の結果からみると、俺が想像していた感染者の割合よりもずっと少なかったようだと、ひとまず安心です。どんなところで感染しやすいのかもわかってきたので、その点を避ければ、かなりリスクを減らせることもわかったし、以前のように神経質にはならなくてすんでいるのは幸いです。ストレスが溜まって、コロナ鬱の状態に近かったといってもいいかもしれません。

今、関東(東京)の新規感染者数は、横ばいと考えて良さそうで(一部、夜の街の積極的検査が数を増加させているという見かけはありますが)、このままこんな状態が続いてくれないかなぁと言うのが本音です。ゼロにはならなくても、医療体制が崩壊しない程度で推移して、ワクチンなり、治療薬ができるまで持ちこたえてほしいと。

ところで、今日で100日目ですが、これからも続けていくことになりそうです。

新型コロナの第1波を乗り越え、新規感染者をここまで抑えているのは、この「コロナ収束祈願」のおかげだと言ったら、「頭おかしいんじゃない?」と言われるかもしれません。もちろん、俺もそんなことを本気で思ってませんが、けっこう100日もやってくると、止め時が難しいんだなと思い始めています。「収束」するまで、というのが建前ですが。

そこで思い出すのが、ドラマ『ロスト』で、あるボタンを押し続けなければ、世界が破滅すると言われて、ボタンを押し続けるという設定があったと思うのですが、まさに、今の俺もそんな心理状態に近いのかもしれません。本当はどうなのかは本人たちも半信半疑なのです。でも、もし押さなくて、本当に世界が破滅してしまったらどうしようという不安。それがぬぐい切れないのです。だからボタンを押し続けます。押してさえいれば(かなり煩わしさはありますが)、たとえ嘘であっても、少なくとも現状維持できるからです。

こんな精神状態を何て呼んだでしょうか? 確か、心理学であったような気がするのですが、思い出せません。

なので、仮にこれは「ロスト、ボタン押し強迫観念」とでも表現しておきますか。

「終息宣言」が出されるまでやめられなくなってしまった、ということでしょうか。やばいです。

 

 

 

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2020/05/26

「ネット上の誹謗中傷、規制検討へ 与野党「ルール化必要」 木村花さん急死で」というニュース

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 「ネット上の誹謗中傷、規制検討へ 与野党「ルール化必要」 木村花さん急死で」
(毎日新聞 https://mainichi.jp/articles/20200525/k00/00m/010/214000c)

最近は、ますますネットでの誹謗中傷が問題になっています。木村花さんはそのことが原因で自ら死を選んでしまったらしい。痛ましい話です。

おそらく、誹謗中傷した人は、現実社会では、ごく普通の善良な市民だと思いますよ。もしかしたら、本人は「善意」や「正義感」でやっているのかもしれない。「自粛警察」と似た臭いを感じます。

俺も誹謗中傷は受けたことはないですが、絡まれそうになったことはあります。ネットで見ず知らずの匿名者からコメントがきたときは、少し身構えますね。なんといっても、誰だかわからない人からのコメントなので、慎重に回答しています。

例えていうなら、暗闇から突然声を掛けられて、いきなり「おまえ。何か返事しろ!」と言われているような、恐怖感までは行かなくても、圧迫感というか、そんなものを感じます。

どんな信条、どんな年齢で、どこに住んでいるのかもわかりません。たぶん、相手は俺のことを知っているんだろうな、と思うと、ますます不気味さが増します。

だからなるべくコメントが来た初回は、あたりさわりのない答えをします。そのうち人となりが分かってくれば、匿名者でも、普通に会話できるようになります。

そっけない俺のコメント返しが災いし、このブログにもコメントがほとんど来なくなりました。前は来てたのに。適当に答えているのが見透かされるんでしょうね。あるいは「コメント来るな」オーラが出ているのかもしれません。もちろん、まじめに質問してきた人には、ちゃんと答えているつもりですが。決してコメント来ない方がいいとは思ってませんので、ぜひ、匿名者でもコメントください。

アップルトンの「隠れ家理論」というのがあります。

大雑把に(俺が理解した範囲で)言うと、「眺望が良いところで、しかも近くに隠れるところがある場所というのは、生物学的に、人間が好ましいと思う空間である」ということらしい。(間違っていたらすみません)

つまり、これは動物である人間が、自分の身を隠しながら、敵を観察できるところでもあるらしいのです。なんとなくわかります。確かに落ち着けます。

これが、ネット上の「匿名」というものなのかなと思います。

ネット上に氾濫しているおびただしい数の情報。見たいと思えば簡単に見れる。意見を言おうと思えば簡単に言える。しかも、自分の身は隠してそれができるのです。これは、「隠れ家理論」で「好ましいと思う空間」そのものではないかと思うわけです。ネットがこれだけ発展したのは、この人間の「好ましいと思う空間」が、自宅にいても提供されるようになったからではないでしょうか。この「匿名性」が快感なのです。自分の身は安全なところにいて、誹謗中傷もやり放題です。

それと、やっぱり「数」ですかね。みんながやっていると、つい自分のやっていることが「良い」と強化されてしまうということがあります。

俺は匿名がすべて悪いとも思っていません。ただし、人に意見を言うとか、非難するとかの時は、実名を出してほしいですね。誹謗中傷も、実名でならいいのではないでしょうか? 捕まりますが。でも、捕まってもいいと思うくらいの信念が無ければ、誹謗中傷はしないことですね。

「ルール化必要」には全面的に賛成です。ルールは、押し付けられるものとは違います。お互いの利のためです。たとえば、ルールがないところで車の運転ができるでしょうか。できません。交通ルールは、反社会勢力の方々さえ、ちゃんと守っています。

 

 

 

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2020/05/16

note「写真家 青柳健二のセルフセラピーへの道」

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「セルフセラピーへの道」をnoteに初投稿しました。

今まで旅と写真で、かろうじて精神的な安定を得ていたのが、コロナ禍で、先行き不透明となって不安が増しています。旅ができないことは「ワンダーラスト」の病を持った俺にとっては、セラピストを失ったようなものです。

だからこのnoteに書くこと自体が、俺のセルフセラピーの役には立つだろうと期待して、新しい表現にチャレンジしてみることにしました。

詳しくは、noteでお読みください。

https://note.com/aoyagikenji/

 

 

 

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2020/05/14

【夢日記】芝居小屋での「密」

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久しぶりで夢を見ました。いや、久しぶりで夢を覚えていました。たくさん見ているのはわかるんですが、起きてしまうと忘れることが多いです。それだけ印象的な夢が少なかったということでもあるでしょう。パンデミックというあまりにも現実がドラマチックなので、夢がかすんでしまうのかもしれません。

だからこれは貴重な夢です。

------------------------【夢】--------------------------

芝居小屋で写真を撮ることになっていた。楽屋のようなところで待っていると、出演する役者たちが10人ほど入ってきて、雑魚寝で休憩を始めた。時代劇ふうな格好をしている。

これは完全に「密」ではないかと思った。しかも全員マスクをしていなかったので、コロナが心配になった。

でも、そこで俺も横になって待つしかないらしい。

----------------------------------------------------------

夢の分析は、現実の出来事として考える、客体水準の解釈と、夢見た人の心の中の内的出来事として考える主体水準の解釈があります。

でも、これは明らかに、現実を反映しています。最後に抱いた「不安」がこの夢のテーマであることは間違いなさそうです。

「密」への不安というよりも、このコロナ禍全体に対しての不安なのだと思います。それは「俺も横になって待つしかないらしい」というところに現れています。単なる「密」であるなら、それを避ければいいだけの話。なのに、そこからは逃れられないことに対しての不安が感じられます。

そして不安と同時に、逃れられない諦めもあるかもしれません。「待つしかないらしい」 どっちにしろコロナ禍からは逃れられないなら、そこで生き抜くしかありません。

時代劇ふうな格好をしていたのは、直前に観た映画『引っ越し大名!』の影響だと思われます。

 

 

 

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2020/05/11

韓国映画『海にかかる霧』を観て

03_20200511160501(写真は映画とは関係ありません。富山県氷見港のけあらし)

 

映画『海にかかる霧』をDVDで観ました。

wikiによると、

 「『海にかかる霧』(うみにかかるきり、原題:해무)は、2014年公開の韓国映画。2001年に起きたテチャン号事件を戯曲化したものを、映画監督のポン・ジュノのプロデュースにより映画化。(略) 元東方神起・元JYJのパク・ユチョンが映画デビューし、青龍映画賞新人男優賞など多数の映画賞新人賞を受賞した。2015年のアカデミー賞外国語映画賞韓国代表作品。」

実話を基にした映画だそうですが、けっこう衝撃が大きい内容です。サスペンス映画としてはよくできていると思うし、面白かったとは言えます。

漁船チョンジン号の船長は経済的に追い詰められて、密航に加担することになります。中国の朝鮮族を乗せた密航船と沖合で合流し、密航者たちを乗り換えさせて陸まで運ぶという簡単な仕事のはずでした。

途中で乗り込んできた韓国の海洋警察(?)も、なんとかワイロを渡してやりすごしたのでしたが・・・

あるアクシデントが起きてしまい、この密航者たちのうち、一人の若い女性ホンメを除いて全員亡くなってしまうのです。その後、こうなってしまうのか?と、船長のあまりにも大胆で恐ろしい決断で、船上は地獄絵図と化します。

でも、ここの飛躍がちょっと唐突に感じました。人間はそこまでするのだろうか。この部分はフィクションなのか、実際の事件ではどうだったか興味があります。

全然状況は違うのですが、2014年4月に起きたセウォル号沈没事故の船長を思い出してしまいました。乗客の避難誘導をせずに、真っ先に脱出をはかりました。

セウォル号沈没の「 事故の遠因には、韓国社会の体質にも原因があるとされた。朝鮮日報では、韓国社会は「生き残りたければ他人を押しのけてでも前に出るべきだと暗に教えてきた」として、家庭・学校・職場を問わず、犠牲と分かち合いよりも競争と勝利が強調され、清き失敗よりも汚い成功をモデルにしてきた結果としている。」(wiki)とあります。

この映画に出てくる 漁船チョンジン号の船長も、まったく同じように感じますが、どうなんでしょうか。

でも、韓国社会だけなんでしょうか。「生き残りたければ他人を押しのけてでも前に出るべきだ」は、世界中に蔓延しているのではないかと感じます。

もしかしたら俺の中にもあるかもしれません。普段は意識していなくても、いよいよ自分が危なくなった時、どう行動するかははっきり言ってわかりません。

人間の業、生き物としての性とでも言えるのかもしれません。

 

 

 

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2020/04/14

疫病除けのアマビエ(アマビコ)やお犬さま

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痼魯難(コロナ)終息祈願でお犬さまをアップしてもう27日経ちましたが、よくなるどころかますます悪くなっています。

何をもって「終息」というか、このウイルスの場合、難しいかもしれないなぁと感じています。全人類の6~7割が罹って集団免疫を獲得するか、ワクチンや治療薬ができるか、それまでは、人の動きを緩めたり、厳しくしたりをくり返して、新型コロナウイルスと「共存」しながら生活するしかないということなんでしょう。

「共存」というとウイルスに「負けた」印象があるかもしれませんが、そんなことはありません。そもそも人類は、いろんな菌やウイルスと共存しています。ある程度落ち着くまで、1年、2年は覚悟しないといけないかもしれません。

 ところで、疫病除けのアマビエですが、どうももともとはアマビコで「コ」を「エ」に誤記した結果のようです。こちらに詳しい話がアップされました。

Manabi JAPAN 「新型コロナウイルスと「アマビエ」」

https://manabi-japan.jp/culture/20200414_20405/

アマビエやお犬さまが本当に疫病(新型コロナウイルス)除けなるなどとは思っていませんが、お犬さまに祈願するのは、自分の中にあるお犬さまのイメージ(例えば強さ)を借りて、このウイルス禍を乗り越えるぞという、自分の覚悟の確認なのです。

これはオリンピック選手が、自分が優勝することをイメージする、イメージトレーニングと同じようなものです。

また、アマビエなどの流行り物は、このイメージトレーニングを集団でやることでもあるでしょう。ウイルスに負けないぞという覚悟と、みんなで頑張ろうという連帯感の表明なのです。

 

 

 

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2020/03/21

新型コロナウイルスとゾンビ映画『ウォーキングデッド』

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「新型」なんだから、これからコロナがどうなっていくかなんて、誰もわかってないし、わかるはずもないということですね。ある意味、みんな一人一人が自分で「解決」するしかないのだと思います。

「解決」と書きましたが、「コロナに罹らない」「コロナが終息する」とかいう意味ではありません。その「解決」策はひとそれぞれ違うでしょう。

だからここで書いたことがみんなに通用するとも思わないし、みんなに提言、提案するわけでもありません。俺なりの「解決」策です。

まず新型コロナ禍は、長期戦になりそうだということは素人でもわかります。このウイルスの性質上、「撲滅」は難しそうです。しいて言うなら、人類の60~80パーセントが罹って集団免疫を獲得するまでは終息はしないだろうということです。

ただ問題は、爆発的に感染者が増加し、医療体制が崩壊して多くの死者を出すことです。だから、当面は、この危機から脱しなければなりません。今、国境封鎖、外出禁止が行われていますが、割と受け入れているのは、みんなも動物としての勘が働いているのか、このままでは人類が滅亡してしまうという恐れを直感で感じているからかもしれません。

人類は、環境に慣れることによって生き延びてきたはずです。それを進化というかどうかは別として。

人類は本当に薄氷を歩いているようなところがあります。最近の温暖化を見てもそうですが、地球の平均気温が1度、2度上がっただけで、私たちは右往左往し、今までの生活を変えていかざるをえないというのは、実感としてわかります。

酸素がないところでは2分も生きていられません。数日のうちには食べ物も食べなければなりません。重力があるので飛べません。時速60kmでは走れません。110歳を越えて生きるのは難しい。こういう制約といったらいいか、環境があるわけですね。それは個人ではどうしようもないことです。でも、みんなそれを「普通」として生きています。

だから俯瞰してみると、地球上の人類というのは、いや、動物・植物全部の生物ですが、かなりこの環境次第なんだなということがわかります。

『ウォーキングデッド』というTVドラマがあります。これは突然、周りがゾンビだらけになって、そこで生き抜くというサバイバルドラマです。生きているゾンビ(ゾンビは死んでいるからゾンビなのであって、「生きている」というのは形容矛盾ですが)を倒す唯一の方法は、頭を壊す、首をはねることです。

『ウォーキングデッド』は今回の新型コロナウイルスの対処方法の参考になるのではないかと、ずっと思ってきました。

というのも、「周りにゾンビがいる」というのを新しい環境と捉えてみます。とつぜんその環境に置かれて、主人公たちは慌てふためき、絶望し、怖がります。パニックになるのは当然です。

ところが時間が経ってくると、このゾンビの特徴が分かってきます。速くは移動できない。頭は悪い。頭を切り落とすと復活しない、などなどです。

だから注意さえしていれば、なんとかゾンビに襲われずに済みます。この環境で生きていく術が分かってきます。そういう環境に慣れた人間だけが生き延びられます。(ただ、ゾンビの首を切り落とすという覚悟が必要ですが)

そしてそういう過酷な環境の中でも、幸せを感じたり、笑ったりできます。逆に過酷な環境だから、人と協力し、人への思いやりが増したりします。いつの間にかその環境は「日常」になっていきます。

まぁドラマは、ゾンビより、むしろ人間の方が怖いのだ、というテーマになっているわけですが。実際、今アメリカでは、銃がよく売れているのだそうです。それは物不足を予想して、略奪などが起こった場合の防衛策として、あるいはコロナを持ち込んだのはアジア系だということで襲われるのではないかという恐怖心から、銃を買っているらしい。こんなところはアメリカらしいと思います。

このゾンビを新型コロナウイルスに置き換えてみます。

周りに突然現れたウイルス。でも、姿が見えないところはゾンビとは違っています。ここがやっかいなところです。でも、3条件(密着する、唾を飛ばす、換気が悪い)が重なるところ以外では感染のリスクはかなり低くなる、ということがわかってきました。手洗いも有効です。

だから、周りに新型コロナが存在しても、この3条件が重ならないようにして、手洗いをこまめにすることで、「普通」に生活することはできるのではないかなと思います。もちろん、活動すればリスクゼロではありません。でも、今までだって、いつ交通事故や飛行機事故で死ぬかもしれなかったわけだし、「リスクゼロ」という呪縛からは抜け出さなければと思います。

まぁこんなこと言えるのも、今の日本だからで、パンデミックの中心地ヨーロッパではそれどころではないでしょう。とにかく、当面の危機、急激な感染拡大は、世界中協力して何とか止めるしか方法はないかなと思います。

大阪がどうの、兵庫がどうのと言っている場合ではないのだけ確かです。

 

 

 

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2020/03/01

昨日から二十四節気「雨水」、オリジナル七十二候「箇労亡猛威(ころな もういをふるう)」

Photo_20200229141501(元画像:NHK https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200228/k10012306811000.html)

 

2020年2月29日から二十四節気「雨水」、七十二候「草木萌動そうもく めばえいずる)」です。

草木の芽が出てきて、春を感じる季節のはずです。でも、今はオリジナル七十二候「箇労亡猛威(ころな もういをふるう)」の気分です。

「コロナ」に、どんな当て字がいいかなと、いろいろ遊んでみました。

安政五年、江戸でもコレラが流行ったとき、コレラは「箇労痢(ころり)」「狐狼狸(ころり)」「項痢(こうり)」などと表記されました。なので、「ころ」を「箇労」として、「な」を「亡」にしました。「亡」にしたのは存亡の危機感の表れです。

「狐狼亡」は、狼を汚すようでちょっと抵抗があります。

他にもいろいろ考えたのですが、ある特定の国や地域を意味するのはまずいと思うので、このくらいにしておきます。

(「箇労難」の方がいいかな。2020/3/4)

1月までは、COVID-19 新型箇労亡ウイルスによる肺炎は、ほとんどが軽症で、罹ったことさえ気が付かずに済む、みたいな専門家の話に、そうか、そんなに深刻ではないんだなと思っていた俺はバカでした。

こうなってくると、ウイルスに感染しなくても、干上がってしまいます。仕事に大きな影響が出ています。軒並み撮影のキャンセルが相次いでいます。「中国」「イベント」「集会」というキーワードにした仕事は、とうぶんできなさそうです。

そしてちょっとでも熱っぽかったりすると、戦々恐々としている自分がいます。

先行きが見通せないというのが不安の種です。学校閉鎖、イベントなどの自粛で、2週間~1か月たてば、元通りになるわけではなく、さらにそれが続く可能性もあります。

とはいえ、不安がってばかりでも仕方ありません。テロと同じで、恐怖心や不安感をあおるだけなら、すでに新型箇労亡に負けてしまうことになります。

 安政五年にコレラが流行ったときも、庶民の間には、コレラをネタにして様々な刷り物が作らればらまかれたという。落ち込むどころか、笑いとしゃれで沸いたそうです。どんな状況でも、笑いは必要で、笑うことは免疫力を上げ、結果的に新型箇労亡ウイルスに勝つ、ということにもつながるんじゃないでしょうか。

 

 

 

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2020/02/01

【犬狼物語 其の四百四十一】安政5年コレラ流行時には金櫻神社のお犬さまも借りられた

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 1858年(安政5年)から3年にわたって流行したコレラでの死者は3万人と言われています。このとき、コレラ除けとして、人々は三峯神社や御嶽神社のお犬さまに頼った話は前回書いた通りです。

そして、『社記・寺記』(慶応4年)には、伊豆の村々では三峯山とともに甲州三嶽山(金峰山)からもお犬さまを借りたとの記録もあります。

金櫻神社は、甲府市市街地から昇仙峡を目指して県道を北上すること約30分。昇仙峡ロープウェイを越してさらに3kmほど、昇仙峡を登りつめたところに鎮座します。金峰山を御神体とした金櫻神社です。

武田家代々の祈願所でもありましたが、本殿など昭和30年の大火により焼失しました。社殿は昭和34年に再建されたものです。

ここは、三峯神社や武蔵御嶽神社と同じように、日本武尊の眷属・狼信仰の神社でもあり、お犬さま(狼)像はないそうですが、お犬さまのお札は授与所でいただくことができます。

 お犬さまのお札の配札がいつから始まったのかは資料がないのでわからないそうですが、文化年間以降幕末にかけてのようです。

 高橋敏『幕末民衆の恐怖と妄想 ━駿河国大宮町のコレラ騒動━』(国立歴史民俗博物館研究報告 第108集 2003年)には、安政5年のコレラの流行で、人々がパニックに陥っていき、コレラは悪い狐が憑いたからだというふうになって、狐ならお犬さまが防いでくれるということで、三峯神社、武蔵御嶽神社、金櫻神社にお犬さまを借りに大勢が参拝したという様子が見えてきます。

 これは危機的状況になったとき、人がどのように考え行動するのか、という心理学的な課題でもあるようです。

 今なら、お犬さまに頼るなんてばからしいと思うのでしょうが、当時の日本は、大地震や風水害などが起こっていて、人々の不安が背景にはありました。そこへ追い打ちをかけるように、長崎に寄港した米艦ミシシッピの乗組員からコレラが流行り出したので、異国=悪というイメージは増幅され、攘夷思想が高まりを見せました。

人々の妄想は「千年モグラ」「アメリカ狐」「イギリス疫兎」を生み出し、お犬さまに頼るようになりました。このお犬さま(狼)は、つまりは日本古来から信仰されてきたということもあって、「日本」そのものであったのかもしれません。「狐」対「狼」ではなくて、「異国」対「日本」という構図。悪い「異国」を「日本」がやっつけてくれるという、ある意味、これも攘夷思想と言えるのかもしれません。

三峯神社の公式記録「日艦」によれば、安政5年8月になると御眷属拝借の登山者が急増し、8月15日には「日増ニ代参多、殊ニ東海道辺・江戸芝口・変病除心願ニ参詣御座候」とあり、東海道の宿々や江戸から、コレラ除けの心願のため殺到したことが記されています。8月24日、三峯の御眷属拝借は1万を超え、11月10日に1万2千、12月15日には1万3千になったそうです。

この異常ぶりは驚くばかりですが、じゃぁ、今の俺たちにこんなことは絶対起こらないんでしょうか。人間が極限状態に陥ったとき、どうなってしまうかは、今も昔も変わらな気がします。

 

 

 

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2020/01/29

「田園風景に癒される」のはどうしてか?

160108(ミュラー・リヤー錯視)

 

160108_2(富岡製糸場 ミュラー・リヤー錯視のaに相当)

 

160108_3(富岡製糸場資料館 ミュラー・リヤー錯視のbに相当)

 

07__mg_5436(ミュラー・リヤー錯視が働かない棚田の風景)

04__20200118062401(ミュラー・リヤー錯視が働かない棚田の風景)

 「田園風景に癒される」とは、よく聞くことだし、俺自身もそう感じています。どうしてなんでしょうか?

そこで「田園風景」とは真逆の都会の風景と比較してみます。何が違うのか。その違いが癒されるかどうかの違いではないかと考えてみるのです。

 

「ミュラー・リヤー錯視」というのがあります。「錯視」というのは視覚の錯覚のことです。

矢印みたいな図、見たことあるのではないでしょうか。aとb、軸の長さは同じなのですが、俺には明らかに右の方、bが長く見えます。

心理学実験に参加して、俺も自分の錯視量(実際の長さと、自分が同じだと感じた長さとの差)を測ったことがあります。個人的には、錯視量は少ないだろうと予想していましたが、なんと実験参加者16人の平均値よりも大きくなったのです。

一応俺も映像の仕事をしていて「見る」ことには自信があったし、ミュラー・リヤー錯視についても、あらかじめ知っていたので、この結果に驚きました。

と、言っても、錯視量が大きいからダメだという単純な話ではなく、錯視とはある意味、物を見るとき頭を働かせすぎている、脳が「忖度」しているともとれるわけで、そうしたほうが生き残る可能性が高くなる、環境に適応するための仕組みでもあるのだそうです。

ミャラー・リヤー錯視がなぜ起こるのか、今のところ定説がないとのことですが、ある研究者がやった実験で、都市に暮らしている人間ほど錯視量が多くなるというデータがあります。

人間が物を見るとき、同じものが奥にあってもそれほど小さく感じないということがあります。奥にあるなら小さく見えているはずだと無意識に判断して、だから実際よりも大きく感じさせてしまう。このように奥行の手がかりが多いほど、つまり遠近感が掴みやすい四角い建物に囲まれた人間ほどこの錯視を起こしやすいということは言えそうです。

建物外壁の写真が、「a」に当たり、建物内部の写真が「b」に当たります。

そう考えると、地方に行ってなく、町の中で撮影することが多かったので錯視量が多くなったのかもしれません。むしろ写真を撮るというのはファインダー越しにビルや建物を「良く見る」ことでもあるので、普通の人より錯視量が増えたと考えれば、納得できます。

もしそうなら、町に住んでいる人間を広々とした田園風景に連れていったとき、錯視量が変化するのかどうか、変化するとしたら、どれくらいの時間で、どのくらい変化するのか、興味がありますね。

「田園風景に癒される」と言われますが、どうして癒されるのか、という問題ともからんできそうな気がします。

錯視は人間が環境に適応するために脳で行っている活動であるなら、その活動が少なくて済むというのは脳の負担が減ることでしょう。脳があきらかに休めるのです。そういうことが「癒される」ことなのかもしれません。

 

 

 

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