カテゴリー「心理学の話題」の132件の記事

2017/05/26

犬の巣穴 「夢日記」から

120228_3(スリランカ ゴールの犬)

18057015_1445994015451958_394244922(スリランカ ゴールの犬)


最初見たのは半年前ですが、最近、また同じような夢を見たので、これは今の心の状態と何か関係があるからまた見たということなのでしょう。なので、夢からのイメージを意識化してみます。

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俺は浅田舞に、犬が地面に「巣穴」を掘って眠ることを説明している。
 
「犬が左回りで寝るだろ? でも、北半球と南半球では周る方向が逆向きになる」

と俺は言いながら、いいところに気が付いたなと内心思った。

彼女はあまり信じていないようだった。

実際目の前の茶色い犬が、くるくる回って地面の穴に寝るのを二人で見ていた。

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犬が巣穴を作って寝ることを知ったのは、東南アジアの地域犬たちを見たときでした。

やっぱり犬も動物なんだなと思ったのです。日本のように家で飼われることが多くなったところでは、犬も、巣穴を掘る必要もなくなり、巣穴を見る機会はなくなりましたが、ただ、座布団に横になるときなどは、くるくる回転してから落ち着きますよね。

あれが毎日同じところで繰り返されると、地面が「穴」のように窪んできて、ちょうど良い具合に体にフィットするらしく、だから安心できるのでしょう。動物にとって、安心して眠ることができるというのはかなり大切な環境です。

さて、この回転ですが、排水溝に流れ込む水の渦巻きが、北半球と南半球では逆向きになる、という話を聞いているので、犬の回転にもそういうことがあるのでは?と、俺は夢の中で想像しているわけです。そしてそこに気が付いた俺を浅田舞に自慢しているのです。

(掲載写真の犬も右側を下にして寝ています。左回りで寝ています。偶然でしょうが、うちのヴィーノも右を下にして寝ることが多い気がします)

浅田舞の登場は、しいて言うなら、先日引退宣言が印象的だった浅田真央のお姉さんなので、むしろ本質は浅田真央の中にある、「舞的なもの」の表現かなと思います。

では、「舞的なもの」とは何なのか? トリプルアクセルにこだわってきました。真央の方は、ストイックで真面目です。もちろん、そこが彼女のすばらしさであり、魅力なのですが、そのこだわりが、自身を縛ってもいるんじゃないかなと俺は感じているらしい。

だからたまには「逆でも良いのでは?」と。真央の今までのイメージの「逆」が「舞的なもの」なのではないのかなと思います。

そこに気がついて自慢しているところは、俺自身がそうでありたいという願望なのかもしれません。

いつも「左回り」で生きることが、固定化してしまい、それが自由を奪っているところがあるのではないかな。

たまには「右回り」を生きてみる、ということ。
 
 
 
 
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2017/05/24

中国で日本人が多数拘束されているというニュース

170824(雲南省西部 リス族)


中国で拘束されている日本人のニュースです。

俺も軟禁されたことがあるので、他人事ではありません。怖さがジワーッと蘇ります。

天安門事件の翌年1990年、雲南省でのことでした。今とは事情が違っているでしょうが(インターネット、コンピュータも導入されている)、ただ、同じ部分もあるのではないかと想像します。

中国では、「身分外活動」でも捕まってしまいます。たとえば、観光ビザで入った観光客が、市場で物の値段を聞いたりしたとき、「取材活動」とみなされるようなときです。観光ビザで入って取材や仕事をしてはいけないのは日本も同じことなので、この点では、中国独特とはいえないかもしれません。

何が中国独特なのかというと、問題は、その「取材活動」の範囲があいまいなことです。あいまいで、堺がないから、逆に誰でも拘束されてしまうという恐ろしさがあります。要するに、捕まえようと思ったら、どんな理由でもできてしまうということなのです。

しかも最近は反スパイ法もできて、密告制度もあるということなので、じゅうぶん注意しないとだめでしょう。反スパイ法の中には、「その他のスパイ活動」という項目があります。つまり「何でも」ということなのです。

軍事施設などを撮影するのは論外ですが、独龍江に行ったとき、ガイドを付けていたのですが、貧しい村や村人の写真は問題なかったのに、地層などが含まれる風景はダメだと、注意されたことがありました。

自分では単なる独龍江の風景写真のつもりで向けたカメラを制止されたのは、河岸に地層が見えていたからでした。あと特別な植物もダメだったように記憶しています。

そういう体験から想像すると、今回拘束されている日本人の中で、温泉探査に関わる仕事をしていた日本人がいるので、そこはかなり神経質になる部分かなと思います。これをスパイ活動とみなされると危ない。拘束された日本人は、どんなビザで中国へ行っていたのでしょうか。

そして俺が軟禁されたのは、こんな状況でした。

たしかにミャンマーの国境にも近かったので、祭りの写真を撮りに行ったことがスパイ活動ではないかと疑われたようでした。パスポートを取り上げられて、2日間、公安局の隣の旅社に軟禁されました。

実は、神経質になっていたのは、前年の天安門事件に関係した学生が雲南からミャンマーに逃げるルートでもあったらしいのです。

だから俺の日記を見て、あるページに「学生」とあり、どこか別なページに「民主化」という漢字を見つけて、公安はむりやり2単語をくっつけて「お前は、民主化の学生と関係しているんだろう?」というのです。

取り調べでは、「正直に言わないと、日本に帰れないぞ」と脅されたことが、一番の恐怖でした。あとで冷静に考えれば、そんなことはないと分かるのですが、取調では厳しい公安Aと、優しい公安Bが、交互に質問してくるのです。厳しい方のAが席を外した時、すかさずBが優しく自白を強要するのです。

まるで刑事ドラマと同じだなと思いましたが、優しいBから、「あの人(A)だって、悪い人じゃない。正直に言えばすぐ日本に帰れるんだから」と言われると、思わず、「関係ある」と認めてしまいそうにもなりました。

よく日本でも自白して冤罪を生むことがありますが、よくわかります。情報を遮断され、厳しいAから「帰れなくなるぞ」と脅され、優しいBに「早く帰りたいでしょう?」と(偽りであっても)同情される、これが永遠に続くのではないか、本当に帰れなくなるのではないか、と思い込むようになっていくのです。そして、ついBの優しさにホロッとしてしまう。これは心理学的にも、今なら俺も理解できます。

助かりそうだと思ったのは、こんなことを言われたからでした。

「お前の日記を読めるコンピュータが中国にはあるんだ。嘘をついてもわかるんだ」と脅された時、「あぁこれははったりだな」と確信しました。汚く崩した俺の日記の文字を読めるコンピュータなんて、どこににもないからです。たぶん、いまだにないでしょう。

公安は攻める部分がなくなってきたので(学生と関係あるという証拠が出てこないので)、こんな苦し紛れのことを言い始めたんだろうと、俺は内心、安心したのでした。

実際、スパイ容疑は晴れたのか、3日目には開放されました。ただ中国を出国するようにビザの期間を短縮されました。雲南の奥地だったので2週間の猶予期間をくれたのは、当時の中国だからでしょう。今なら、2日で出国できます。

こんなふうに、「スパイ活動」かどうかは、現地の公安の判断次第ということなのです。どんなことでも「スパイ活動」にされてしまうという怖さが中国にはあります。

観光客だからと言って安心できません。とくに「観光ビザ」だけの場合は。「スパイ活動」ではなくても「身分外活動」で捕まる可能性もあるからです。
 
 
 
 
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2017/04/27

知識が本質を見えなくする

170427


「危機の心理学」では、おもしろいフォントの話が出てきました。以前ネットでも話題になったそうです。

日本人だからこそ読めないローマ字のフォントです。カタカナの知識が邪魔をするのです。日本語のカタカナを知らないほうがすんなり読めるというフォント。


(「寝ログ」参照)

たしかにそう。専門家と言われる人が深読みしすぎて的をはずす、本質を見誤るというのも、これと似ているのかも。

昔知り合った人が、

「なるべく長生きしたい。生きれば生きるほど知識が増えて賢くなるから」

と言ったことがありました。それを聞いて、本当だろうか?疑問がわきましたが、そのときはうやむやで聞き流すしかありませんでした。

それで、最近、「あぁ、やっぱり違うな」と思いました。知識が増えていくことがそんなに良いことでもないんじゃないかなと思ったのです。賢くはなるかもしれないですが、少なくとも知識が増えることと、幸せになることとは関係ないような、そんな気が。

『河合隼雄著作集5 昔話の世界』には、

「われわれは太陽について、雨について、あまりにも多くの知識を得たために、太陽そのもの、雨そのものを体験できなくなった。」

印象派の画家モネはこのことをこう表現しているそうです。

「もし私が盲目のまま生まれ、突然目がみえるようになったら! そうすれば目に映るものが何であるかを知ることなく絵が描き出せるだろうに。」

「モネの嘆きが端的に示すように、われわれ近代人はあまりにも多く知りすぎたために、何事かをそのまま体験することが困難になったのである。」

と、あります。

これを俺なりに次元を下げて考えてみると、例えば、美人やイケメンがいるとします。美人やイケメンをもっと知ろうとして、彼女や彼のレントゲン写真を見ているようなものかもしれません。

あるいは手足の長さの比は身長のいくらだとか、両目の距離が鼻の長さの黄金比になっているかどうかとか聞いても、それがどうした、というわけで、美人やイケメンを見てうっとりすることとはまったく別物です。(美人やイケメンは、欧米文化に影響を受けているということもあるでしょうが)

美人やイケメンにどうしてうっとりしてしまうのか、それを感じるのは、「知識」とは関係ないという話です。

知識が本質を見るとき邪魔をするという例は、他にもたくさんあります。専門家や頭が良い人の陥りやすい欠点はここにあるのかもしれません。
 
 
 
 
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2017/04/24

森津太子/星薫著『危機の心理学』

170424


ここ1ヶ月で、急に「戦争」が身近になった感じがします。

日本はてっきり戦争を放棄した国だと思ってました。学校でもそう習ってきたし、だから、一生もう戦争は起こらないんだろうと漠然と考えて生きてきました。

少なくとも、先制攻撃するなどということはありえない話だと思っていたら、安倍総理はそれをやろうとする同盟国アメリカを支持するという。もっとも、「先制攻撃しない」と言ってしまったら、抑止力がなくなってしまうわけですが。

誰も戦争は望んでないはずなのに、こうして戦争というのが始まる(かもしれない)んだなぁと、あらためて、どうしようもない、ふがいなさのようなものを感じます。

戦争をしたくないのは北朝鮮だって同じでしょう。キムジョンウンがまるで極悪非道な独裁者になっていますが、当人に会ったことはなく、どういう人間なのかは、本当は知らないのです。知らないから、極悪非道な独裁者のイメージが勝手に作られていくとも言えます。ジョンウンだって、彼自身の考えだけではなく、北朝鮮人民の何千万人の考え方の総意は多少でも、彼の行動に影響は与えているはずです。内外に向けて、極悪非道な独裁者を演じざるを得ない部分もあるのかもしれません。

相手の「わからなさ」と「脅威」と「不確かさ」が、戦争へ向かう原因になっています。北朝鮮、韓国、日本、アメリカ、中国、ロシアなど主な国々の何億人の人間の利害の調整は並大抵ではできません。人間の脳が大きくなったのは、この複雑な人間関係をさばくためという「「社会脳仮説」」があります。

3人でさえ喧嘩するのに、何億人となれば、もう個人の考えかどうかなんてどうでもいいのでは?と悲しくなってきます。その戦争へ向かううねりのようなものは、クジラが大量に海岸に突進して「自殺」するようなものなのかもしれません。

物理学者のアインシュタインと、精神分析学者のフロイトの『ヒトはなぜ戦争をするのか?』(花風社刊、浅見昇吾編訳)の中で、「人間は闘争本能を持っている」ということでふたりの意見は一致しています。

戦争は避けられないということでしょうか。「知性が高まり、攻撃本能が内に向けられれば、戦争をなくす方向に動いていくことはできる」と、表現は弱々しい。天才たちでさえ、戦争に対しては無力であるようです。戦争不可避の信念は、天才でさえ持っていたということなのでしょう。

とは言え、希望がないわけではありません。

最近では、個人の闘争本能と、戦争とは違うという研究結果もあるそうです。戦争を完全になくす方法は、今のところないかもしれませんが、遠い将来は、「しないで済む」ようになるかもしれません。

『危機の心理学』は、こんな時代だからこそ役に立つ学問かなと思います。今年4月新しく開講した科目です。

この中に「平和心理学」というものがでてきます。戦争不可避の信念に、なんとかくさびを打ち込もうとするのは、人類の多少の進歩とは言えるのかもしれません。

戦争にならない状況をいかに維持するか、ということに尽きるんでしょうが。

平和構築に貢献する2つの心理的要素があります。

ひとつは、外集団(相手)への共感と理解を増加させる。(一般論ではそうなのかもしれないですが、北朝鮮の今の閉鎖的環境では、これは難しい)

もうひとつは、「積極的傍観者」という存在があるそうです。

内集団(味方)を批判的に評価できる人のことで、たとえば、第2次大戦中リトアニアでビザを発給し続けて多くのユダヤ人を救った杉原千畝とか、ドイツのシンドラー、ベトナム戦争のソンミ村虐殺事件、イラク戦争でアブグレイブ収容所での虐待を告発した人たちのような存在です。それが「積極的傍観者」。

それをいかに増やしていくかが、戦争を回避するための課題だそうです。

自分の足をちゃんとふんばって、戦争へという流れに流されない、批判的な目で見ていないとダメなんでしょう。
 
 
 
 
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2017/04/22

『全国の犬像をめぐる : 忠犬物語45話』が書店に並び始める

170422


『全国の犬像をめぐる : 忠犬物語45話』が書店に並び始めているようです。

知り合いからは「棚田写真家」から「犬像写真家」に転身したのかと、ちょっと違和感を持たれているようにも感じています。

対象が「棚田」という風景から、「犬像」という物になったので、「ぜんぜん違う」と思う人の気持ちもわかります。

でも、俺にとって、このふたつは、それほどの違いがないのです。

こういう理由です。

ひとつは、被写体としての対象は違うのですが、「日本を知る」という意味では同じです。日本を知る「切り口」の違いでしかないんですね、自分としては。どちらも「日本を知る」ための被写体のひとつなのです。

もうひとつは、「巡礼」とか「旅行」という方法に着目すれば、このテーマが似ている、そのものだということはわかってもらえるかもしれません。

前も書きましたが、動物には「探求欲」というのがあって、「探すこと」それ自体に意味があるということなんです。犬も探求欲がありますが、探し出した途端、興味を失うこともあるそうです。「探すこと」そのこと自体に価値があるのですね。

たとえば、過去、俺が写真のテーマにしたものを上げると、

「中国雲南省の少数民族」
「メコン川の源流から河口まで」
「世界と日本の棚田」
「秩父の祭り」
「犬がいる日本の風景」
「東北被災地のお遍路」

そして今回は「全国の犬像」。

どれも、いろんなところに点在しているのを、1ヵ所、1ヵ所めぐり歩いて、探し出して、そして全体像を掴む、という方法はまったく同じです。これは俺にとってはすべて「巡礼」です。

こういう2つの理由から、犬像と棚田とは、自分のなかではそれほど大きな違いではなく、むしろ、同じようなもの、というふうに感じているのです。

それと、テーマを決めてから旅するわけではなく、旅していて、自然に生まれてきたテーマだということも関係しているのではないかなと思っています。自分では意識していませんが、その時、その時、心が欲しているものがテーマとなる、俺なりの心の必然があるのでしょう。


■ 青弓社

■ アマゾン

■ 紀伊國屋BookWeb

■ 楽天ブックス

■ TSUTAYA



 
 
 
 
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2017/04/18

母親の死による「喪の仕事」

170418


怒涛のような10日間が過ぎました。少し落ち着き、公園にヴィーノを連れて行き、一息ついたところです。

『精神分析とユング心理学』(大場登・森さち子著/放送大学教育振興会)によれば、母親の死は、対象喪失の体験のひとつです。そして「対象を失うことの哀しみをどう哀しむか」というのが「喪の仕事」と言われる心理的な過程です。

フロイトは、父親の死をめぐる喪の仕事を行う自分の体験をしっかりと見つめました。

そしてわかったそうです。ただ単に死んだ人を懐かしんだり、再生を夢見ることだけではないと。

その人に抱いた憎しみや敵意、死を願う気持ちを自分の中に認め、そうした感情を抱いたことに対する悔みや償いの気持ちをたどることなのだといいます。そして失った対象との間に抱いていた、さまざまな感情を整理することが喪の心理過程において、とても重要だと学んだというのです。

親密であればあるほど、愛情と憎しみとの葛藤を抱きます。喪の仕事の大きな課題は、失った対象に対して、良い思い出だけではなく、傷つけたり、冷たくしたり、期待に添わなかったことを思い出し、償いや悔やみの気持ちをどう自分の中で整理していくか、ということが大切なのだそうです。

まだ、日が浅いので、フロイトのいうような深い部分に思いをはせる余裕はありませんが、なんとなくわかります。

この前の「母の葬儀」にも書きましたが、母親というのは「絶対的な愛情を注いでくれる存在」であると同時に「いつまでも放さない、囲い込む、干渉する存在」でもあります。矛盾したものを持っています。だからとくに思春期のころは、母親の干渉と囲い込みを強く感じて、「反発」しました。

でもこの年齢になってみると、あの時の「反発」は、むしろ「愛されたい」という感情の裏返しでもあった、あるいは、どんなことをしても見守ってもらえるという絶対的安心感があったからこそできた「反発」だったのかもしれません。

要するに、実家を出たという表面的な俺の行動の内側には、親に依存できるという安心感があったからではないかなと思います。一見、このとき親離れしたように見えますが、内面的にはまったく逆ではなかったのでしょうか。甘えていたのです。

だから前回、母親の死によって、本当の意味で親離れができると書いたのでした。
 
 
 
 
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2017/04/15

母の葬儀

170415


母の葬儀と初七日が終わりました。去年の秋以降、ほとんど寝たきり状態になっていましたが、4月7日、亡くなりました。

喪主である俺が写真を撮りながら葬儀をすることは、ある人には不謹慎と映ったかもしれませんが、葬儀記録を残しておくことは、写真家になったことを最後は喜んでくれていた母も認めてくれると思います。

まだ実感がありません。そして9年前に父が亡くなった時と今回の母との死では、微妙に感覚が違います。

何でも受け入れてくれる、なんでも許してくれる、絶対的な愛情を注いでくれる母親という存在がこの世からいなくなったということは、たぶん、これからボディブローのように、徐々に精神的ダメージを与えてくるのかもしれません。

でもその一方で、母親というのは、いつまでも子供を縛る、子供に干渉する存在でもあります。矛盾したものを持っています。だから母親の死によって、本当の意味で、「親離れ」することができるんだろうなと思います。

母は昭和9年生まれなので、終戦を迎えたのは11歳の時です。それからの日本は、右肩上がりに経済成長を続け、戦争もない平和な時代でした。天皇の生前退位で年号も変わろうとしています。まさに、母は、昭和と平成という、良い2時代を生きてきた人間でした。

母は俺が20代のころ「過激派だけには入らないで」と言っていて、実際俺は過激派には入らなかったし、犯罪者にはならなかったし、一応、この点については親不幸はしませんでした。なので、まぁまぁ幸せな人生だったのではないでしょうか。

今俺は、悲しみや寂しさという表立った感情よりも、幸せだったと言える母の人生を丸ごと肯定して、「良かったね」と見送ってあげたい、むしろ静かに海底に沈んでいるような気持ちなのです。でも、これは、俺が実家を出て、母とは離れて暮らしてきたので、母の死をどちらかというと観念的なものとして捕えているからなのでしょう。

いつも母といっしょにいて、だんだん認知症がひどくなり、衰弱していく様子を見ていた妹にとっては、もっと母の死は現実的で、具体的なものだと想像します。妹の悲しみ、寂しさは、俺から見ていても辛いほどでした。
 
 
 
 
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2017/03/21

石原慎太郎氏、証人喚問での「科学信仰」

160322(東京都庁展望台から西側の街並を望む)


百条委員会で、石原慎太郎元都知事の証人喚問が行われました。

「侍」とか「闘う」とか言っている割には、弱弱しい発言の連発でした。

最後に、文明論を持ち出すところは、さすが「作家」ですね。

科学は「安全」を担保すると盛んに言っているのですが、科学が万能かと言えば、科学も一種の信仰ではないのかと思うんですよね。

いろんな例がありますが、たとえば、19世紀前半、「骨相学」というのが欧米で大いに流行しました。頭蓋骨(アタマの形)で、人間の気質や精神といったものが判断できるという説です。

いまでは、何を馬鹿なと思うでしょうが、たぶんみんなまじめに信じていたんだと思います。「骨相学」は当時は最先端の「科学」だったのだから。

今もてはやされているDNAも、今は最先端の科学ですが、これだって将来どうかはわかりません。

人間は何かを信じないと生きていけません。「神」が死んだ現代では、代わりに「科学」を信じるしかないのかもしれません。

でも、豊洲の問題が難しいのは、この科学信仰さえ越えてしまっていることです。「安心」は、心の問題です。いくら科学を信じて「安全」だと言われても。

最近、豊洲の地下水問題だけがクローズアップされると、まるで「豊洲だけ」地下水に問題あるように感じる、というのも、科学信仰の弊害(錯覚)ではないかなとも思います。

たとえば、地下水が汚れてるのが、豊洲だけではなく、築地も汚れているし、さらに、都内すべての土地が汚れているとわかったならば、じゃぁ豊洲でもいいかとなるでしょう。もしかしたら、本当にそうなのかもしれないし。(「科学的」というなら、都内すべての土地の地下水との比較が必要なのでは?)

ところで、石原さんがさかんに言っていた「記憶にない」という表現は、作家としてはどうかなと思います。不正確ではないのでしょうか? 科学がそんなに大事ならば。

記憶に「ある」のか「ない」のかは石原さんにはわからないはず。(本人が「わからない」と言っていることを信じるならば) 正確に言うなら「思い出せない」でしょう。
 
 
 
 
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2017/03/15

マレビト来たる

160408


先日、19歳になるドイツ人の女の子と会いました。

彼女は俺の知人の娘さんです。たまたま1か月間、日本に仕事の出張で来ていて、お母さんから娘と会えますか?と連絡があったのですが、ん~、でも彼女とはまったく関係がないし、しかも19歳だし…と、ちょっと渋ってしまいました。

彼女のお母さん自体、36年前に1度会ったきりの人で、当時はまだ14歳でしたが去年、俺のポストカードを見つけた彼女の娘さんが、ネットで俺を検索して探し出したのでした。

その話は、去年「36年前、スイスで出会ったドイツ人家族」に書いています。

そういう事情があって、娘さんとは何の接点もなく、どんな人なのかという情報もなく、会うのが正直億劫でした。

そしたら妻が「あなたも外国でさんざん人の世話になってきたんだから…」と言われて、それもそうだなと思いなおしました。結局妻といっしょに会うことにしたのです。俺ひとりでは、ちょっと荷が重いかなと思ったので。

会ってみたら、まじめな性格で、芸術家タイプでした。だんだん人となりがわかってくると、話もできるようになっていきました。19歳と言っても、政治の話もできるし、大人だなぁと感じました。懐石料理をごちそうしましたが、気に入ってくれたかどうか。

「外人なら秋葉原が好きだろう」というので、夕方、秋葉原のメイドカフェなんかも連れて行ったのですが、ここは、あまり興味を示されず…(女の子だしねぇ)。しかも、場末風メイドカフェの「天空の城」の、ありえへん設定に無理やり付き合わされて、正直、俺自身疲労困憊しました。

彼女は、日本でアートの勉強をしたがっているので、そのうち日本に住むかもしれません。

そうか、彼女は「マレビト」なんだなぁと思いました。

外部からの来訪者(異人・マレビト)に寝床や食事を提供して歓待する風習は、日本だけではなくて世界各地でみられるものです。その根底には、マレビト(稀人・客人)信仰があるとも言われます。

奈良時代の『風土記』にも、突然やってきた見知らぬ客を親切にもてなした者が幸運に恵まれ、逆に冷たくあしらった者が不幸になるという話が載っています。

マレビトは、時には旅人、時には鬼、時には乞食、時には芸能者などの姿をしたカミでもあります。

その信仰には、外部の人間との交流は、とくに昔の山間部の孤立した集団には、物理的、精神的なメリットもあったろうし、もっと深く、集団内の人間と結婚することで、優生学的なメリットもあったのでしょう。

ただ、マレビトは、異界から来た異質な人間なので、最初は警戒されます。たとえば、俺は昔北タイのカレン族から、病気を持ち込むのではないかとか、カレン族の文化を踏みにじるのではないか、とかいう理由で、村では外国人を警戒するんだという話を聞いたことがあります。

そのリスクも当然ありますが、それ以上に、トータルすると、やっぱりメリットが大きいから、こういう信仰が生きているんでしょう。なにしろ人には好奇心というものがあります。

「怖いもの見たさ」という言葉に集約されますが、異質なものに対する警戒心はあっても、それ以上に知りたいのです。そしてその好奇心が人間を作ってきたと言ってもいいのかもしれないのです。

チンパンジーは賢いですが、あまり他の個体に興味はないそうです。他人のことを気にしたり、世話したり、教えたりするのは、霊長類の中では、人間が一番。

その事実と「マレビト信仰」は重なっているように思えます。
 
 
 
 
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2017/02/27

映画『オデッセイ』を観て。「絶対的孤独感」とは?

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『オデッセイ』は、アメリカのSF映画で、アンディ・ウィアーの小説『火星の人』が原作。監督はリドリー・スコット、主演はマット・デイモン。火星に一人置き去りにされた主人公の宇宙飛行士(マット・デイモン)の生存をかけた孤独な奮闘と、彼の救出作戦を描いた映画です。

なんだろう、この感じは? ちょっと変わった映画だと思いました。とくにSF、サバイバル映画としては。

妙に明るいのです。と、いうか軽いのです。

その理由のひとつは、悪者がまったく出てこないということでしょうか。人間もそうだし、エイリアンや細菌なども出てきません。

唯一、冒頭のアクシデント(そもそもこれがなければストーリーは成立しないわけですが)と、ジャガイモ畑が爆発によって失われたアクシデント、最初の補給ロケットの失敗のみ。そして人はひとりも死にません。

当然主人公は生還するだろうなと予想できてしまうので、あとは淡々とミッションが進んでいくことを、まったく心配もなく安心して見ていることができるのです。

しかも、この救出作戦に中国が自国の計画を断念してまで協力してくれるという、ちょっとここは中国に対する皮肉かなと思ったところですが、とにかく、中国が友好的なのです。さすが将来は、中国がアメリカと二分する超大国になっていて、だから、中国も成熟した大国になっているという希望的予想なのかもしれませんが。

悪人がいない、人が死なない映画なのです。

この映画の楽しみ方は、主人公が無事に地球に戻れるのかどうか、とかいったワクワク感などを期待してはダメで、むしろ、友情物語、仲間物語、という映画ではないでしょうか。

それにしても映画から受ける「明るさ」「軽さ」とは違って、物語の設定である「火星にひとり」という状況はとても深刻なもので、「絶対的孤独」を感じますね。

そういえば、以前当ブログでも書きましたが、実際今、「キュリオシティ」という火星探査機が火星で活動しているはずです。機械ではあるのですが、どうも擬人化してしまって、「彼」にも「絶対的孤独」を感じています。

だからなのか、この広い宇宙に地球外生物の存在を期待してしまうのは。

先日も、地球と似たような惑星が発見されたというニュースがありました。もし地球外生物の存在が見つかったら、地球人としての意識は確実に変わるでしょう。もしかしたら、戦争なんかもなくなるかもしれません。なくならなくても、少なくはなるでしょう。

俺たちは、この「絶対的孤独」に耐えられないのかもしれません。だから、気持ち悪いエイリアンでもいい、地球を侵略しようとする宇宙人でもいい、とにかく、どんな姿形でもいいので、地球外生物(宇宙人)が存在してほしいというのが、我々地球人の意識的、無意識的な願望ではないのかと思います。

この広大な宇宙空間の中に、地球人の俺たちだけしかいないと想像すると、とてつもない孤独感で気が狂いそうになります。

「人の意識」は、頭や脳にだけあるわけではなく、「関係」にこそ宿っているという説と、どこか繋がっているような気がします。主人公が食料確保と同時にいっしょうけんめいになったのは、地球(人)とのコミュニケーションだったのも、象徴的だと思いました。
 
 
 
 
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