カテゴリー「映画・テレビ」の209件の記事

2017/06/15

昨日のNHK「ひるまえほっと」の「中江有里ブックレビュー」で、犬像をめぐる

170615_11(大分県 案内犬 平治像)

170615_12(千葉県 犬吠埼「犬岩」)


6月14日(水)、NHK「ひるまえほっと」の「中江有里ブックレビュー」というコーナーで、『全国の犬像をめぐる』が取り上げられました。

月一のコーナーだそうで、昨日は、『全国の犬像をめぐる』のほか、畑野智美著『家と庭』、磯田道史著『司馬遼太郎で学ぶ日本史』が紹介されました。

NHK公式HP「ひるまえほっと

どうして中江さんが犬像の本を選んでくれたのか、昨日の番組を見てわかりました。

もちろん、犬好きということがありますが、それだけではありませんでした。

大分県に「案内犬 平治(へいじ)」という忠犬の像があるのですが、本でも触れたように、この犬は遭難者を山小屋まで案内するなど、登山者には有名な犬で、映画にもなりました。『奇跡の山 さよなら、名犬平治』という映画です。

この映画を実際には見ていないのですが、調べてみたら、事実とは少し違った設定の映画だったようで、主人公の少女・敦子が飼っていた犬というふうに映画ではなっていたようです。(本当は野良犬でした) この敦子を演じたのが中江有里さんだったのです。

昨年25年ぶりに平治像を訪ねたらしく、この本の中に平治像があったことで、取り上げてくれたようなのです。

また、全国にはこんなにたくさんの犬の像があるんだと驚いたとおっしゃってましたが、まったく俺がこの本をまとめようとした動機でもあるので、それを聞いて嬉しくなりました。

そして、この本を見て、銚子市の犬吠埼「犬岩」を訪ねたというので、ますます嬉しく思いました。夕映えの犬岩の写真も紹介してくれました。

本に収められた犬像を訪ねて歩くという楽しみ方を提唱してくれていましたが、ここもまさに俺たちが言いたいことで、それを中江さんが代弁してくれていたようで、感謝しています。

こちらのブログでも紹介していただいてます。

犬派にオススメ! 忠犬60匹の感動ストーリーを紹介した『全国の犬像をめぐる』」(6/15 Book Bang)

どこを開いても忠犬愛犬だらけ……犬派に読んでほしい『全国の犬像をめぐる』」(6/15 空犬通信)

 
 
 
 
にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2017/06/04

NHK「いまほん」と「中江有里ブックレビュー」で『全国の犬像をめぐる』

170604


NHKの番組で、『全国の犬像をめぐる』を取り上げてもらえることになり、取材を受けました。

番組は、首都圏では11:05〜11:54の「ひるまえほっと」の中の、今話題になりそうな本を1冊取り上げる「いまほん」というコーナーです。6/23(金)の予定ですが、実際の放送時間は直前にならないとわからないそうです。

山形・福島・水戸・長野・甲府・金沢・福井・富山・松江・徳島・高松・熊本・沖縄局では、夕方6時代の「610ローカルニュース」の中で放送されます。6/19(月)~6/23(金)、午後 6:10~7:00の間だそうです。

インタビューは出版社の会議室で受けて、そのあと、『全国の犬像をめぐる』でも取り上げている麹町の「甲斐犬の像」へ場所を移動しました。

この像を建てた社長が開いた「Kaiji(甲斐路)」というレストランに声をかけました。ちょうど昼時間で、お客で忙しかったのですが、撮影のために犬像の後ろにあるごみ箱を移動してくれました。

ところで「Kaiji(甲斐路)」でも、『全国の犬像をめぐる』をみんな喜んで読んでいるという話を聞いてうれしくなりました。この甲斐犬像には、俺も思入れがあって、犬像がだんだん地元の人にとっての祈りの場のようになってくる姿に、「日本的」なものを感じたからです。

「ちょうど、像をきれいにしたところだったので良かった」といいました。みんな撫でるので、自然に「掃除」ができてしまうくらいなのですが。まぁ、そういうところが、「現代版お地蔵さん」と呼んでいる所以です。この前訪ねた石岡駅前の「忠犬タロー像」もそうでした。

それからもうひとつ、女優で作家の中江有里さんが案内人を務める月に一度の「中江有里ブックレビュー」というコーナーでも取り上げられるそうです。これは首都圏のみで放送日は、6月14日(水)です。機会があれば、見てみてください。
 
 
 
 
にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村

| | コメント (2)

2017/06/03

NHK「歴史秘話ヒストリア」で、綱吉の「生類憐みの令」の再評価

170116_1

170116_3

170116_4


昨日、NHKの番組「歴史秘話ヒストリア」で、徳川5代将軍、綱吉の「生類憐みの令」をやっていました。

時代は違いますが、伊勢神宮を代参したおかげ犬も出てきました。おかげ犬の最初の記録は1771年、徳川家治の時代です。

現在中野区役所のそばに置かれている犬の群像も登場しました。この群像はとくに、夜になると色が目立たなくなるので、本物の犬たちがたむろしているように見えます。臨場感のある犬の群像です。

ここは「お囲い御用屋敷」、犬の住居(保護施設)があったところです。当ブログでも、すでに紹介しています。

【愛犬物語百景 其の百十二】 綱吉時代の「お囲い御用屋敷」跡の犬像

綱吉の「生類憐みの令」は有名で、綱吉は「犬公方」と呼ばれるほどの犬への偏愛があったことで有名ですが、それが強調されて、とんでもない将軍だと誤解もされてきました。

「生類憐みの令」は「天下の悪法」と言われてきましたが、最近は、再評価されているらしいのです。

日本獣医史学会理事長の小佐々学氏も、「生類憐みの令」の再評価について、

「旧弊である武断政治を文治政治に変えるために、命の大切さを理解させる手段であったとも考えられる。人と動物の命を同等視して、人も動物の一員であると考えていた可能性があるのは注目されていいだろう。動物のみならず人の保護まで含んだ世界最初の動物保護法として極めて重要であり、今後は動物愛護やヒューマン・アニマル・ボンド(略してHAB)の視点から再評価されるべきだろう」

と述べています。

ヒューマン・アニマル・ボンドとは「人と動物の絆」のことで、最近の研究によって「人と動物とのふれあいが、人と動物双方に精神的・身体的にいい効果をもたらす」ということが示されています。

「生類憐みの令」は、すべての生き物の命を大切にするという綱吉の先進的な考えでもあったようです。犬だけではないのです。捨て子が多かったことで、捨て子を取り締まったり、罪人の牢屋内の待遇改善までやりました。

それは綱吉のお母さんが庶民の出で、幼いころから庶民についても聞いていて、人が生きる上で、何が大切かをわかっていたということも、理由だったようです。

でも、綱吉は完璧主義者でもあったので、厳しすぎることで、世間から段々受け入れられなくなっていきました。崇高な考えをストレートに推し進めようとしても、周りが付いてこないというのは、この件に限ったことではなく、いろんなところで目にします。

ただ、「生類憐みの令」は破たんしましたが、でも、その元の思想は十分現代にも通じるし、何しろ、西洋の動物保護の考えが生まれるずっと前にこの思想が生まれていたというのは、誇ってもいいのではないでしょうか。

綱吉によって「令」という形になりましたが、もともと日本の中で、生き物との関係性に育まれてきた「生き物はみな平等」という感覚が、庶民の間にもあったので、、「生類憐みの令」も最初は庶民にも受け入れられたのではないかなと思います。

マハトマ・ガンディーは次のように言っているそうです。

「国家の偉大さや道徳的な進化の度合いはその国が動物をどのように扱っているかで判断できる」

と。
 
 
 
 
にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2017/03/20

フランス映画 『ベル&セバスチャン』 を観て

170319


映画『ベル&セバスチャン』は、セシル・オーブリーの世界的ベストセラ―『アルプスの村の犬と少年』を、戦時中のアルプスを舞台に実写化したもの。日本では1981年に「名犬ジョリィ」というタイトルでアニメ放映されていたそうです。

公式HPはこちらです。

  第二次世界大戦中、ナチス占領下のフランス。
  ユダヤ人家族を救うため、冬の"アルプス越え"に挑む
  孤児セバスチャンと野犬ベルの絆に心洗われる感動物語。(公式HPより)

野犬役に選ばれた犬は、グレート・ピレニーズという犬種だそうです。大型犬なので、セバスチャンがベルの体にもたれて眠るシーンは、『フランダースの犬』や『アルプスの少女ハイジ』を思い起こさせたし、雪崩に巻き込まれた人間を掘り出すシーンは、新潟県の忠犬「タマ公」を思い起こさせました。いろんな犬物語のエッセンスが詰め込まれたような映画でした。

ただ、アルプスを越えて、隣国スイスに逃れるユダヤ人一家を助けるところなどは、この映画の特徴的なところでもあります。

雄大なアルプスの風景の中で、セバスチャンと野犬ベルがいっしょに遊ぶ様子は心洗われるようなシ-ンです。「純粋無垢」とは程遠くなってしまった俺は、やっぱりこういうものにあこがれというか、求めてしまうということなんでしょう。

映画なので、これはフィクションに違いないのですが、ただ犬にとっては、崖から吊るされるシーンなどは、現実そのものです。犬には「芝居」というものはありません。だからフィクションと言えども、犬の表情・行動は、すべて本物なのです。ベルを見ている限り、これはドキュメンタリーでもあるんですね。
 
 
 
 
にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2017/02/27

映画『オデッセイ』を観て。「絶対的孤独感」とは?

160206


『オデッセイ』は、アメリカのSF映画で、アンディ・ウィアーの小説『火星の人』が原作。監督はリドリー・スコット、主演はマット・デイモン。火星に一人置き去りにされた主人公の宇宙飛行士(マット・デイモン)の生存をかけた孤独な奮闘と、彼の救出作戦を描いた映画です。

なんだろう、この感じは? ちょっと変わった映画だと思いました。とくにSF、サバイバル映画としては。

妙に明るいのです。と、いうか軽いのです。

その理由のひとつは、悪者がまったく出てこないということでしょうか。人間もそうだし、エイリアンや細菌なども出てきません。

唯一、冒頭のアクシデント(そもそもこれがなければストーリーは成立しないわけですが)と、ジャガイモ畑が爆発によって失われたアクシデント、最初の補給ロケットの失敗のみ。そして人はひとりも死にません。

当然主人公は生還するだろうなと予想できてしまうので、あとは淡々とミッションが進んでいくことを、まったく心配もなく安心して見ていることができるのです。

しかも、この救出作戦に中国が自国の計画を断念してまで協力してくれるという、ちょっとここは中国に対する皮肉かなと思ったところですが、とにかく、中国が友好的なのです。さすが将来は、中国がアメリカと二分する超大国になっていて、だから、中国も成熟した大国になっているという希望的予想なのかもしれませんが。

悪人がいない、人が死なない映画なのです。

この映画の楽しみ方は、主人公が無事に地球に戻れるのかどうか、とかいったワクワク感などを期待してはダメで、むしろ、友情物語、仲間物語、という映画ではないでしょうか。

それにしても映画から受ける「明るさ」「軽さ」とは違って、物語の設定である「火星にひとり」という状況はとても深刻なもので、「絶対的孤独」を感じますね。

そういえば、以前当ブログでも書きましたが、実際今、「キュリオシティ」という火星探査機が火星で活動しているはずです。機械ではあるのですが、どうも擬人化してしまって、「彼」にも「絶対的孤独」を感じています。

だからなのか、この広い宇宙に地球外生物の存在を期待してしまうのは。

先日も、地球と似たような惑星が発見されたというニュースがありました。もし地球外生物の存在が見つかったら、地球人としての意識は確実に変わるでしょう。もしかしたら、戦争なんかもなくなるかもしれません。なくならなくても、少なくはなるでしょう。

俺たちは、この「絶対的孤独」に耐えられないのかもしれません。だから、気持ち悪いエイリアンでもいい、地球を侵略しようとする宇宙人でもいい、とにかく、どんな姿形でもいいので、地球外生物(宇宙人)が存在してほしいというのが、我々地球人の意識的、無意識的な願望ではないのかと思います。

この広大な宇宙空間の中に、地球人の俺たちだけしかいないと想像すると、とてつもない孤独感で気が狂いそうになります。

「人の意識」は、頭や脳にだけあるわけではなく、「関係」にこそ宿っているという説と、どこか繋がっているような気がします。主人公が食料確保と同時にいっしょうけんめいになったのは、地球(人)とのコミュニケーションだったのも、象徴的だと思いました。
 
 
 
 
にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2017/02/05

映画 『ルーシー/LUCY』 脳の機能を100パーセント使うこと

170204


前から観よう観ようと思っていた『ルーシー』をようやく観ました。

ルーシーという女性が、ある事件に巻き込まれ「CPH4」という薬を摂取してしまい(その摂取のしかたも大変なのですが、ここでは省略して)、それが脳の活性化を促し、最後は100パーセント脳の機能を使う、というものです。

脳の機能を100パーセント使う映画として、『リミットレス』というものもあり、こっちはすでにブログに書いています。

どうしてこういう映画のテーマが生まれるかというと、もともと、人間の脳は10パーセント(あるいは20パーセント)しか使われていないという説があり、じゃぁ、100パーセント使ったら、スーパーマンが生まれるのでは?という、期待というか願望があるからなのでしょう。

でも、『リミットレス』の時にも書きましたが、10パーセント(あるいは20パーセント)しか使っていないということ自体俗説だという話もあります。仮にそれが本当だとしても、10パーセントしか使わないのは、使えないからではなくて、使わない方がいいからそうなっているのではないかと想像します。それを進化というのかどうかはわかりませんが。

もし100パーセント使ってしまったら、もはや「人間」とは呼べないんだろうな、別な生き物になってしまうんだろうなと思うからです。

そして『ルーシー』では、実際そのように描かれていて、『リミットレス』よりはリアリティを感じる話になっています。

こんなふうなセリフが、脳の活性化が70パーセントほどに達していたルーシーの口から出ます。

人間は自らの「独自性」を存在論の根拠としてる。
単位の基準は、「1」だが、本当は違う。
人間は理解しやすいように存在や情報を単純化する。
それは楽な尺度で物事を考え、無限の深淵を忘れるため。
「時」が存在の証となる。
「時」だけが真実の尺度である。
「時」が物質の存在を明かす。
「時」なくして何物も存在しない。

ルーシーの説明を聞いて、科学者は最後に、「時が支配する」と自分に言い聞かせるように言うのです。

この映画では、物が存在するように見える(感じる)のは、「時」があるからだということになっています。科学的にはどうかわかりませんが、映画としては面白い話です。

そしてルーシーの脳の機能が100パーセントに達してしまったとき、もう物質で存在する必要もなくなったルーシーは消えてしまいます。

いや、消えてしまったわけではありませんでした。普通の人間の目には見えなくなっただけで、「私はどこにでも存在する」のでした。

これを単なるSFの話だけではないところが面白い。たとえば、普通の人間には見えないもの、聞こえないものが現実にたくさんあります。

「見える」「聞こえる」「匂いがする」などの感覚は人間の能力の範囲内だけの話です。犬が嗅いでいる匂いを人間は気が付けません。魚が見ている色もわかりません。イルカの聴こえる音も聴けません。人間は知らないことだらけです。

でも、知る必要がないから、そういう程度の能力で充分なのでしょう。ルーシーが言うように「人間は理解しやすいように存在や情報を単純化する」のです。それは悪いことではないかもしれません。でないと、生きられないからです。

動物の究極の目標が、生きて、子孫を残すことなら、脳を100パーセント使うなどという、膨大なエネルギーは使わない方がいいだろうし、物事を単純化したほうが生き延びるチャンスは増えます。たとえば、画像を扱う人ならわかると思いますが、JPGデータを可能な限り圧縮した方が扱いやすいということと同じように。

だから、これで人間なんだろうなと最後は思うわけです。能力と環境は程よいバランスを保っているのではないかなと。

逆に言えば、バランスを保っているから人間が存在できているということでもあるのでしょう。あえて脳の機能100パーセントを使わないことで。
 
 
 
 
にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2016/12/27

羽田圭介著『コンテクスト・オブ・ザ・デッド』と、ドラマ『ウォーキングデッド』のゾンビ

161227

芥川賞作家の「又吉じゃない方の」羽田圭介氏が受賞後初めての作品を発表しました。

『コンテクスト・オブ・ザ・デッド』というタイトルですが、日本にゾンビが現れたら?といった内容らしく(まだ読んでいませんが)、ちょっとだけTVで紹介されていて、それがちょうど今観ているテレビドラマの『ウォーキングデッド』と繋がるので、思いを書いてみようかと。

日本でゾンビが現れたら、怖がられるよりも、むしろ気持ち悪るがられるか、笑われるか、という羽田圭介氏の指摘は、まったく俺も同感です。

どうも、俺はだめですね。この「ゾンビ」という存在は。

ダメというのは、怖いとかいう意味ではなく、むしろ、笑ってしまうし、リアリティを感じないのです。気持ちは悪いけれど、怖くはないのです。

だからゾンビが出たとたんに、映画やドラマには、入り込めなくなってしまう。だったらなぜ、今『ウォーキングデッド』というゾンビ・ドラマを見ているかという理由は、あとで書くことにして、まず、どうしてゾンビにリアリティを感じないのでしょうか。

日本はだいぶ昔に土葬は行われなくなり、火葬になって、「死体」がそのまま存在している状況がなくなったことも関係していると思います。

火葬してしまうので、死体そのものがまずないし、それが生き返るという状況はありえないのです。

だから死体を伴わない、幽霊は怖いです。怖いのは「物」に対してではなく、「心」のありようなのです。幽霊を見るから怖いのではなくて、怖いから何でも幽霊に見えてしまうということでもあります。極端に言えば、「幽霊に見たいから見えてしまう」と言ってもいいかもしれません。

だから怖いものは、すごく文化に関わっていて、国や民族によって違ってきます。日本でならそれは幽霊、そして土葬の国ではゾンビ。

ゾンビは、死体です。動いてはいますが、もう死んでいます。死んでいるから「人間」ではありません。人間ではないから、ゾンビを殺しても罪悪感は生まれません。「ゾンビを殺す」という表現もおかしな話ですが。死んでいるものは、もう殺せないはずなのに。

そしてゾンビが出てきてしまうと、物語がすごく単純化してしまうということもあります。

でも、『ウォーキングデッド』を観続けているうちに、このドラマになぜ「ゾンビ」なのか、だんだん分かってきました。

宇宙人やエイリアンではなく、また、危険な猛獣でもなく、また、目に見えない細菌やウイルスで人が死ぬパンデミックでもない、ゾンビ。

ゾンビは、見た目が「怖そう」ですが、動きが緩慢です。走ったりできません。このスピードがちょうどいいという点。ヤラれそうになっても、ぎりぎり助かるスピードです。気を抜くとヤラれてしまいますが、いっしょうけんめいやれば、生き抜けるという、ちょうど良い「障害」になっています。

そういう「障害」がある世界で、どうやって生き抜くかというサバイバルドラマでもあるし、夫婦、親子、友人関係の人間ドラマにもなっています。一番怖いのは、人間でした。

ゾンビのほど良い「障害」にはまってしまったのです。
 
 
 
 
にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2016/08/29

レオナルド・ディカプリオの映画 『レヴェナント 蘇えりし者』は西部劇の進化形

160829_1(根室市 ミズナラの風衝林)

160829_2(札幌市 アイヌ文化交流センター「サッポロピリカコタン」)

160829_3(松前城 シャクシャインの耳を埋めた「耳塚」)


レオナルド・ディカプリオが、ついに悲願のアカデミー賞主演男優賞に輝いた映画『レヴェナント 蘇えりし者』を観ました。音楽は坂本龍一が担当しています。

「レヴェナント(Revenant)」とはどういう意味か調べたら、「帰ってきたもの」「亡霊」などという意味だそうです。

【ここからネタバレ注意】

映像はすばらしいと思うし、とくに熊との格闘シーンはすごかった。それと雪の大自然。朝夕の時間帯だけで撮影した「暗さ」が独特の雰囲気を醸し出しています。これだけでも観る価値はあると思いますが、ストーリー自体は単純で、要するにこれは「西部劇」ですね。

息子ホークを殺された主人公グラスが執念で復讐を果たすというもの。これを「ネタバレ」とも言わないほど、ストーリー展開は予想通りで、結果もその通りになったので「西部劇」という感想になったのですが。

唯一「西部劇」の進化形だと思われる部分は、先住民族、ネイティブ・アメリカンの描き方が、単なる「野蛮人の敵」といった単純なものから、むしろ白人側の蛮行を描いたり、先住民族に人間味を持たせた部分(公平さ)にあると言えるかもしれません。

主人公の立ち位置がまさにこの部分に関わるもので、先住民族、ポーニー族の中で生活をして妻と息子と暮らしていたグラスは、だから白人と先住民族との懸け橋になっている人物なのです。

熊に襲われることを含めて数多くのトラブルに見舞われるグラスですが、その度になんとか生きのびます。驚異的なサバイバル術です。普通の人間なら完全に死んでいたでしょう。

「生」に対する執念はすさまじいものでした。これは「息子を殺されたことへの復讐心」が支えていたのかもしれませんが。「生」に特化した動物に成り切ったグラスの姿は神々しくもあります。

「西部劇」のような単純なストーリーだからこそ、主人公グラスの動物的な美しさが強調されているのかもしれません。

それにしても、いつも映画を観ると、その中の印象的なセリフを思い出すのですが、今回はまず、グラスの息子を殺した裏切者ジョンが言ったセリフを思い出しました。

それは自分がグラスを助けなかった裏切り行為を、「神が決めたことだ」と言うのです。これは自分の行為を正当化するための方便なのでしょうか。とするならば、ジョンも、少しは良心の呵責は感じているということなのでしょう。

「神」は、ずいぶん便利なものなんだなと思います。(皮肉を込めてですが)「神の御意志だ」と思えば、このようにすべての行為も正当化できてしまうんだなと。

そういえば、最後のシーンでも「神」が登場します。今度はグラスが言うセリフです。ジョンと闘ってとどめを刺そうとしたとき、「これは神に任せる」といったことを言い、自分では最後の最期、ジョンを殺さず「神に任せた」のです。結果的にジョンは他の先住民族に殺されてしまうのですが。「神が決めたことだ」と言ったジョンのセリフは、ブーメランのように自分の運命に帰って来たということでもあります。

ところで、この映画の舞台は1820年代初頭のアメリカですが、たぶん北海道でもこんなことが起きていたのではないだろうかと想像しました。先住民族のアイヌと和人の争いです。

舞台が寒いところなので、余計北海道を連想させたのかもしれません。実際1669年6月には、松前藩に対するシャクシャインを中心として起きたアイヌの大規模な蜂起「シャクシャインの戦い」というものもありました。
 
 
 
 
にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2016/08/19

NHK BSプレミアム『美の小壺』で「棚田」の放映

160819_1(長野県千曲市 姨捨の棚田)

160819_2(姨捨の棚田 田毎の三日月)

160819_3(姨捨の棚田 田毎の三日月)


以前NHK BSプレミアム「美の壷」で棚田特集がありましたが、その縮小版になる「美の小壺」が放送されます。

棚田の風景と棚田にかかわる多くの人々が登場し「棚田の美」をいろんな角度から探る番組でした。

「田毎の月」とはカメラ(鑑賞者)が動くことで全部の田んぼに月が映るということを実証したシーンもありました。番組スタッフは幾晩もかけて撮影に取り組んだそうです。

あるいは、カメラが動かなくとも、時間が経つと月が移動していくというように、時間の観念を入れないと、「田毎の月」のイメージが掴めません。

だから「田毎の月」は、固定されたものを鑑賞するのではなく、その場で全感覚を動員して味わう「体験」なのです。

短い放送時間なので、今回の「美の小壺」ではどのように編集されているのかわかりませんが、俺のインタビューの部分(もし入っていれば)は姨捨の棚田でロケをしたときのものです。

初回だけは放送日時がわかりますが、それ以降は不定期だそうです。

初回放送: 2016年8月21日昼12:45~12:50

http://www4.nhk.or.jp/tsubo/x/2016-08-21/10/521/2043543/
 
 
 
 
にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

2016/07/09

映画 『シェフ 三ツ星フードトラック始めました』 を観て

160709


映画 『シェフ 三ツ星フードトラック始めました』 を観ました。

2014年のコメディ映画でジョン・ファヴローが監督・脚本・製作・主演を務めました。原題は『Chef』。

公式HPはこちら

一言。楽しくて幸せになる映画ですね。そして「キューバサンドイッチ(クーバノ)」のおいしそうなこと。

主人公カールはあるレストランの総料理長を務めていましたが、大物料理評論家から料理を酷評され、怒りを爆発させたところをSNSで拡散されてしまい、料理人としての仕事を失ってしまいました。

失意のカールは故郷のマイアミを訪れたとき、キューバサンドイッチの美味しさに目覚めます。旧友のマーティン、前妻との息子のパーシーの3人でフードトラックでキューバサンドイッチの移動販売を始めることにしました。息子のSNSへの拡散などの効果もあり、カールの作るキューバサンドイッチはたちまち評判になりました。
Wiki参照)

美味しいものを作る・食べるフードムービーでもあり、息子と父親の関係修復のホームドラマでもあり、車で旅するロードムービー的な要素もあります。

とくに、ロードムービー的なところが楽しくて、車中泊の旅を思い出しました。

ところで、運転中3人の男が股間にコーンスターチを振りかけるのはなぜだろう?と思いました。汗疹予防のために使うベビーパウダー代わりに、料理人だからコーンスターチを使ったとわかれば、可笑しさもわかるのですが(ここ、アメリカでは大爆笑シーンなのかも)。

アメリカには「車中泊」という旅のカテゴリーはない(やっている人はいるでしょうが)とアメリカ人が言っていましたが、キャンピングカーやトレーラーハウスで旅をするのが一般的だそうで、車自体が大きいので、「車中泊」というイメージではないんですね。この映画を観て納得しました。

とにかく、おいしいサンドイッチを作って販売しながら各地を旅するなんて最高です。

映画にずっと流れているモダンなラテン・ミュージックや、ニューオリーンズのブラスが利いたジャズなどもいいですね。旅先で出会う土地と食べ物とマッチしています。

ファヴロー監督は、こう言っています。

「映画は「味わう」ことができないので、映像と音楽で「味」を表現した」

なお、公式HPにキューバサンドイッチのレシピがあります。そのうち作ってみよう。

コウケンテツ監修 キューバサンドイッチ レシピ
 
 
 
 
にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

より以前の記事一覧