カテゴリー「映画・テレビ」の206件の記事

2017/03/20

フランス映画 『ベル&セバスチャン』 を観て

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映画『ベル&セバスチャン』は、セシル・オーブリーの世界的ベストセラ―『アルプスの村の犬と少年』を、戦時中のアルプスを舞台に実写化したもの。日本では1981年に「名犬ジョリィ」というタイトルでアニメ放映されていたそうです。

公式HPはこちらです。

  第二次世界大戦中、ナチス占領下のフランス。
  ユダヤ人家族を救うため、冬の"アルプス越え"に挑む
  孤児セバスチャンと野犬ベルの絆に心洗われる感動物語。(公式HPより)

野犬役に選ばれた犬は、グレート・ピレニーズという犬種だそうです。大型犬なので、セバスチャンがベルの体にもたれて眠るシーンは、『フランダースの犬』や『アルプスの少女ハイジ』を思い起こさせたし、雪崩に巻き込まれた人間を掘り出すシーンは、新潟県の忠犬「タマ公」を思い起こさせました。いろんな犬物語のエッセンスが詰め込まれたような映画でした。

ただ、アルプスを越えて、隣国スイスに逃れるユダヤ人一家を助けるところなどは、この映画の特徴的なところでもあります。

雄大なアルプスの風景の中で、セバスチャンと野犬ベルがいっしょに遊ぶ様子は心洗われるようなシ-ンです。「純粋無垢」とは程遠くなってしまった俺は、やっぱりこういうものにあこがれというか、求めてしまうということなんでしょう。

映画なので、これはフィクションに違いないのですが、ただ犬にとっては、崖から吊るされるシーンなどは、現実そのものです。犬には「芝居」というものはありません。だからフィクションと言えども、犬の表情・行動は、すべて本物なのです。ベルを見ている限り、これはドキュメンタリーでもあるんですね。
 
 
 
 
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2017/02/27

映画『オデッセイ』を観て。「絶対的孤独感」とは?

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『オデッセイ』は、アメリカのSF映画で、アンディ・ウィアーの小説『火星の人』が原作。監督はリドリー・スコット、主演はマット・デイモン。火星に一人置き去りにされた主人公の宇宙飛行士(マット・デイモン)の生存をかけた孤独な奮闘と、彼の救出作戦を描いた映画です。

なんだろう、この感じは? ちょっと変わった映画だと思いました。とくにSF、サバイバル映画としては。

妙に明るいのです。と、いうか軽いのです。

その理由のひとつは、悪者がまったく出てこないということでしょうか。人間もそうだし、エイリアンや細菌なども出てきません。

唯一、冒頭のアクシデント(そもそもこれがなければストーリーは成立しないわけですが)と、ジャガイモ畑が爆発によって失われたアクシデント、最初の補給ロケットの失敗のみ。そして人はひとりも死にません。

当然主人公は生還するだろうなと予想できてしまうので、あとは淡々とミッションが進んでいくことを、まったく心配もなく安心して見ていることができるのです。

しかも、この救出作戦に中国が自国の計画を断念してまで協力してくれるという、ちょっとここは中国に対する皮肉かなと思ったところですが、とにかく、中国が友好的なのです。さすが将来は、中国がアメリカと二分する超大国になっていて、だから、中国も成熟した大国になっているという希望的予想なのかもしれませんが。

悪人がいない、人が死なない映画なのです。

この映画の楽しみ方は、主人公が無事に地球に戻れるのかどうか、とかいったワクワク感などを期待してはダメで、むしろ、友情物語、仲間物語、という映画ではないでしょうか。

それにしても映画から受ける「明るさ」「軽さ」とは違って、物語の設定である「火星にひとり」という状況はとても深刻なもので、「絶対的孤独」を感じますね。

そういえば、以前当ブログでも書きましたが、実際今、「キュリオシティ」という火星探査機が火星で活動しているはずです。機械ではあるのですが、どうも擬人化してしまって、「彼」にも「絶対的孤独」を感じています。

だからなのか、この広い宇宙に地球外生物の存在を期待してしまうのは。

先日も、地球と似たような惑星が発見されたというニュースがありました。もし地球外生物の存在が見つかったら、地球人としての意識は確実に変わるでしょう。もしかしたら、戦争なんかもなくなるかもしれません。なくならなくても、少なくはなるでしょう。

俺たちは、この「絶対的孤独」に耐えられないのかもしれません。だから、気持ち悪いエイリアンでもいい、地球を侵略しようとする宇宙人でもいい、とにかく、どんな姿形でもいいので、地球外生物(宇宙人)が存在してほしいというのが、我々地球人の意識的、無意識的な願望ではないのかと思います。

この広大な宇宙空間の中に、地球人の俺たちだけしかいないと想像すると、とてつもない孤独感で気が狂いそうになります。

「人の意識」は、頭や脳にだけあるわけではなく、「関係」にこそ宿っているという説と、どこか繋がっているような気がします。主人公が食料確保と同時にいっしょうけんめいになったのは、地球(人)とのコミュニケーションだったのも、象徴的だと思いました。
 
 
 
 
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2017/02/05

映画 『ルーシー/LUCY』 脳の機能を100パーセント使うこと

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前から観よう観ようと思っていた『ルーシー』をようやく観ました。

ルーシーという女性が、ある事件に巻き込まれ「CPH4」という薬を摂取してしまい(その摂取のしかたも大変なのですが、ここでは省略して)、それが脳の活性化を促し、最後は100パーセント脳の機能を使う、というものです。

脳の機能を100パーセント使う映画として、『リミットレス』というものもあり、こっちはすでにブログに書いています。

どうしてこういう映画のテーマが生まれるかというと、もともと、人間の脳は10パーセント(あるいは20パーセント)しか使われていないという説があり、じゃぁ、100パーセント使ったら、スーパーマンが生まれるのでは?という、期待というか願望があるからなのでしょう。

でも、『リミットレス』の時にも書きましたが、10パーセント(あるいは20パーセント)しか使っていないということ自体俗説だという話もあります。仮にそれが本当だとしても、10パーセントしか使わないのは、使えないからではなくて、使わない方がいいからそうなっているのではないかと想像します。それを進化というのかどうかはわかりませんが。

もし100パーセント使ってしまったら、もはや「人間」とは呼べないんだろうな、別な生き物になってしまうんだろうなと思うからです。

そして『ルーシー』では、実際そのように描かれていて、『リミットレス』よりはリアリティを感じる話になっています。

こんなふうなセリフが、脳の活性化が70パーセントほどに達していたルーシーの口から出ます。

人間は自らの「独自性」を存在論の根拠としてる。
単位の基準は、「1」だが、本当は違う。
人間は理解しやすいように存在や情報を単純化する。
それは楽な尺度で物事を考え、無限の深淵を忘れるため。
「時」が存在の証となる。
「時」だけが真実の尺度である。
「時」が物質の存在を明かす。
「時」なくして何物も存在しない。

ルーシーの説明を聞いて、科学者は最後に、「時が支配する」と自分に言い聞かせるように言うのです。

この映画では、物が存在するように見える(感じる)のは、「時」があるからだということになっています。科学的にはどうかわかりませんが、映画としては面白い話です。

そしてルーシーの脳の機能が100パーセントに達してしまったとき、もう物質で存在する必要もなくなったルーシーは消えてしまいます。

いや、消えてしまったわけではありませんでした。普通の人間の目には見えなくなっただけで、「私はどこにでも存在する」のでした。

これを単なるSFの話だけではないところが面白い。たとえば、普通の人間には見えないもの、聞こえないものが現実にたくさんあります。

「見える」「聞こえる」「匂いがする」などの感覚は人間の能力の範囲内だけの話です。犬が嗅いでいる匂いを人間は気が付けません。魚が見ている色もわかりません。イルカの聴こえる音も聴けません。人間は知らないことだらけです。

でも、知る必要がないから、そういう程度の能力で充分なのでしょう。ルーシーが言うように「人間は理解しやすいように存在や情報を単純化する」のです。それは悪いことではないかもしれません。でないと、生きられないからです。

動物の究極の目標が、生きて、子孫を残すことなら、脳を100パーセント使うなどという、膨大なエネルギーは使わない方がいいだろうし、物事を単純化したほうが生き延びるチャンスは増えます。たとえば、画像を扱う人ならわかると思いますが、JPGデータを可能な限り圧縮した方が扱いやすいということと同じように。

だから、これで人間なんだろうなと最後は思うわけです。能力と環境は程よいバランスを保っているのではないかなと。

逆に言えば、バランスを保っているから人間が存在できているということでもあるのでしょう。あえて脳の機能100パーセントを使わないことで。
 
 
 
 
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2016/12/27

羽田圭介著『コンテクスト・オブ・ザ・デッド』と、ドラマ『ウォーキングデッド』のゾンビ

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芥川賞作家の「又吉じゃない方の」羽田圭介氏が受賞後初めての作品を発表しました。

『コンテクスト・オブ・ザ・デッド』というタイトルですが、日本にゾンビが現れたら?といった内容らしく(まだ読んでいませんが)、ちょっとだけTVで紹介されていて、それがちょうど今観ているテレビドラマの『ウォーキングデッド』と繋がるので、思いを書いてみようかと。

日本でゾンビが現れたら、怖がられるよりも、むしろ気持ち悪るがられるか、笑われるか、という羽田圭介氏の指摘は、まったく俺も同感です。

どうも、俺はだめですね。この「ゾンビ」という存在は。

ダメというのは、怖いとかいう意味ではなく、むしろ、笑ってしまうし、リアリティを感じないのです。気持ちは悪いけれど、怖くはないのです。

だからゾンビが出たとたんに、映画やドラマには、入り込めなくなってしまう。だったらなぜ、今『ウォーキングデッド』というゾンビ・ドラマを見ているかという理由は、あとで書くことにして、まず、どうしてゾンビにリアリティを感じないのでしょうか。

日本はだいぶ昔に土葬は行われなくなり、火葬になって、「死体」がそのまま存在している状況がなくなったことも関係していると思います。

火葬してしまうので、死体そのものがまずないし、それが生き返るという状況はありえないのです。

だから死体を伴わない、幽霊は怖いです。怖いのは「物」に対してではなく、「心」のありようなのです。幽霊を見るから怖いのではなくて、怖いから何でも幽霊に見えてしまうということでもあります。極端に言えば、「幽霊に見たいから見えてしまう」と言ってもいいかもしれません。

だから怖いものは、すごく文化に関わっていて、国や民族によって違ってきます。日本でならそれは幽霊、そして土葬の国ではゾンビ。

ゾンビは、死体です。動いてはいますが、もう死んでいます。死んでいるから「人間」ではありません。人間ではないから、ゾンビを殺しても罪悪感は生まれません。「ゾンビを殺す」という表現もおかしな話ですが。死んでいるものは、もう殺せないはずなのに。

そしてゾンビが出てきてしまうと、物語がすごく単純化してしまうということもあります。

でも、『ウォーキングデッド』を観続けているうちに、このドラマになぜ「ゾンビ」なのか、だんだん分かってきました。

宇宙人やエイリアンではなく、また、危険な猛獣でもなく、また、目に見えない細菌やウイルスで人が死ぬパンデミックでもない、ゾンビ。

ゾンビは、見た目が「怖そう」ですが、動きが緩慢です。走ったりできません。このスピードがちょうどいいという点。ヤラれそうになっても、ぎりぎり助かるスピードです。気を抜くとヤラれてしまいますが、いっしょうけんめいやれば、生き抜けるという、ちょうど良い「障害」になっています。

そういう「障害」がある世界で、どうやって生き抜くかというサバイバルドラマでもあるし、夫婦、親子、友人関係の人間ドラマにもなっています。一番怖いのは、人間でした。

ゾンビのほど良い「障害」にはまってしまったのです。
 
 
 
 
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2016/08/29

レオナルド・ディカプリオの映画 『レヴェナント 蘇えりし者』は西部劇の進化形

160829_1(根室市 ミズナラの風衝林)

160829_2(札幌市 アイヌ文化交流センター「サッポロピリカコタン」)

160829_3(松前城 シャクシャインの耳を埋めた「耳塚」)


レオナルド・ディカプリオが、ついに悲願のアカデミー賞主演男優賞に輝いた映画『レヴェナント 蘇えりし者』を観ました。音楽は坂本龍一が担当しています。

「レヴェナント(Revenant)」とはどういう意味か調べたら、「帰ってきたもの」「亡霊」などという意味だそうです。

【ここからネタバレ注意】

映像はすばらしいと思うし、とくに熊との格闘シーンはすごかった。それと雪の大自然。朝夕の時間帯だけで撮影した「暗さ」が独特の雰囲気を醸し出しています。これだけでも観る価値はあると思いますが、ストーリー自体は単純で、要するにこれは「西部劇」ですね。

息子ホークを殺された主人公グラスが執念で復讐を果たすというもの。これを「ネタバレ」とも言わないほど、ストーリー展開は予想通りで、結果もその通りになったので「西部劇」という感想になったのですが。

唯一「西部劇」の進化形だと思われる部分は、先住民族、ネイティブ・アメリカンの描き方が、単なる「野蛮人の敵」といった単純なものから、むしろ白人側の蛮行を描いたり、先住民族に人間味を持たせた部分(公平さ)にあると言えるかもしれません。

主人公の立ち位置がまさにこの部分に関わるもので、先住民族、ポーニー族の中で生活をして妻と息子と暮らしていたグラスは、だから白人と先住民族との懸け橋になっている人物なのです。

熊に襲われることを含めて数多くのトラブルに見舞われるグラスですが、その度になんとか生きのびます。驚異的なサバイバル術です。普通の人間なら完全に死んでいたでしょう。

「生」に対する執念はすさまじいものでした。これは「息子を殺されたことへの復讐心」が支えていたのかもしれませんが。「生」に特化した動物に成り切ったグラスの姿は神々しくもあります。

「西部劇」のような単純なストーリーだからこそ、主人公グラスの動物的な美しさが強調されているのかもしれません。

それにしても、いつも映画を観ると、その中の印象的なセリフを思い出すのですが、今回はまず、グラスの息子を殺した裏切者ジョンが言ったセリフを思い出しました。

それは自分がグラスを助けなかった裏切り行為を、「神が決めたことだ」と言うのです。これは自分の行為を正当化するための方便なのでしょうか。とするならば、ジョンも、少しは良心の呵責は感じているということなのでしょう。

「神」は、ずいぶん便利なものなんだなと思います。(皮肉を込めてですが)「神の御意志だ」と思えば、このようにすべての行為も正当化できてしまうんだなと。

そういえば、最後のシーンでも「神」が登場します。今度はグラスが言うセリフです。ジョンと闘ってとどめを刺そうとしたとき、「これは神に任せる」といったことを言い、自分では最後の最期、ジョンを殺さず「神に任せた」のです。結果的にジョンは他の先住民族に殺されてしまうのですが。「神が決めたことだ」と言ったジョンのセリフは、ブーメランのように自分の運命に帰って来たということでもあります。

ところで、この映画の舞台は1820年代初頭のアメリカですが、たぶん北海道でもこんなことが起きていたのではないだろうかと想像しました。先住民族のアイヌと和人の争いです。

舞台が寒いところなので、余計北海道を連想させたのかもしれません。実際1669年6月には、松前藩に対するシャクシャインを中心として起きたアイヌの大規模な蜂起「シャクシャインの戦い」というものもありました。
 
 
 
 
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2016/08/19

NHK BSプレミアム『美の小壺』で「棚田」の放映

160819_1(長野県千曲市 姨捨の棚田)

160819_2(姨捨の棚田 田毎の三日月)

160819_3(姨捨の棚田 田毎の三日月)


以前NHK BSプレミアム「美の壷」で棚田特集がありましたが、その縮小版になる「美の小壺」が放送されます。

棚田の風景と棚田にかかわる多くの人々が登場し「棚田の美」をいろんな角度から探る番組でした。

「田毎の月」とはカメラ(鑑賞者)が動くことで全部の田んぼに月が映るということを実証したシーンもありました。番組スタッフは幾晩もかけて撮影に取り組んだそうです。

あるいは、カメラが動かなくとも、時間が経つと月が移動していくというように、時間の観念を入れないと、「田毎の月」のイメージが掴めません。

だから「田毎の月」は、固定されたものを鑑賞するのではなく、その場で全感覚を動員して味わう「体験」なのです。

短い放送時間なので、今回の「美の小壺」ではどのように編集されているのかわかりませんが、俺のインタビューの部分(もし入っていれば)は姨捨の棚田でロケをしたときのものです。

初回だけは放送日時がわかりますが、それ以降は不定期だそうです。

初回放送: 2016年8月21日昼12:45~12:50

http://www4.nhk.or.jp/tsubo/x/2016-08-21/10/521/2043543/
 
 
 
 
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2016/07/09

映画 『シェフ 三ツ星フードトラック始めました』 を観て

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映画 『シェフ 三ツ星フードトラック始めました』 を観ました。

2014年のコメディ映画でジョン・ファヴローが監督・脚本・製作・主演を務めました。原題は『Chef』。

公式HPはこちら

一言。楽しくて幸せになる映画ですね。そして「キューバサンドイッチ(クーバノ)」のおいしそうなこと。

主人公カールはあるレストランの総料理長を務めていましたが、大物料理評論家から料理を酷評され、怒りを爆発させたところをSNSで拡散されてしまい、料理人としての仕事を失ってしまいました。

失意のカールは故郷のマイアミを訪れたとき、キューバサンドイッチの美味しさに目覚めます。旧友のマーティン、前妻との息子のパーシーの3人でフードトラックでキューバサンドイッチの移動販売を始めることにしました。息子のSNSへの拡散などの効果もあり、カールの作るキューバサンドイッチはたちまち評判になりました。
Wiki参照)

美味しいものを作る・食べるフードムービーでもあり、息子と父親の関係修復のホームドラマでもあり、車で旅するロードムービー的な要素もあります。

とくに、ロードムービー的なところが楽しくて、車中泊の旅を思い出しました。

ところで、運転中3人の男が股間にコーンスターチを振りかけるのはなぜだろう?と思いました。汗疹予防のために使うベビーパウダー代わりに、料理人だからコーンスターチを使ったとわかれば、可笑しさもわかるのですが(ここ、アメリカでは大爆笑シーンなのかも)。

アメリカには「車中泊」という旅のカテゴリーはない(やっている人はいるでしょうが)とアメリカ人が言っていましたが、キャンピングカーやトレーラーハウスで旅をするのが一般的だそうで、車自体が大きいので、「車中泊」というイメージではないんですね。この映画を観て納得しました。

とにかく、おいしいサンドイッチを作って販売しながら各地を旅するなんて最高です。

映画にずっと流れているモダンなラテン・ミュージックや、ニューオリーンズのブラスが利いたジャズなどもいいですね。旅先で出会う土地と食べ物とマッチしています。

ファヴロー監督は、こう言っています。

「映画は「味わう」ことができないので、映像と音楽で「味」を表現した」

なお、公式HPにキューバサンドイッチのレシピがあります。そのうち作ってみよう。

コウケンテツ監修 キューバサンドイッチ レシピ
 
 
 
 
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2016/07/04

映画 『アメリカン・スナイパー』とバングラディッシュのテロリスト

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たまたま数日前に、映画 『アメリカン・スナイパー』を観ていました。今回のバングラディッシュの事件の前です。

どんなふうに「兵士」が作られていくかというところは、テロリストとも関係がある話ではないかと思います。

この映画は、イラク戦争に従軍したクリス・カイルが著した自伝『ネイビー・シールズ最強の狙撃手(英語版)』を基にしています。

監督のイーストウッドは、戦争経験で壊れていく人間の姿を描こうとしたそうです。

この主人公クリスが任務を終えて、アメリカの家族のところに帰ってきても、奥さんからは「あなたの心はここにない」と言われるシーンがあります。

ここで、以前観た映画『ハート・ロッカー』を思い出しました。この映画でも、主人公は帰国しても居場所がなく、結局は戦場に戻ることでしか生きていることを実感できなくなってしまった男でした。

心理学の授業で、米軍兵士の発砲率の話題がありました。

第2次世界大戦では、銃の引き金を引いた兵士はわずか15~20パーセントでした。それが朝鮮戦争では、55パーセントになり、ベトナム戦争では90パーセントに上がっています。

これは人を殺すことに抵抗をなくす心理学的知見を用いて訓練した結果でした。「敵」というのが「人間」ではないということを教えこませるのが基本だそうです。

 ● 相手の顔を見ないこと。
 ● 敵の非人間性や戦争の大義名分を教え込むこと。
 ● 物陰から出てきたものは何でも反射的に発砲することを繰り返し訓練させる。その的は「人型」を使う。

60年代のベトナム戦争時、新兵の訓練では目隠しして殴り合いをさせました。当時の訓練教官はこう言っています。

「敵を殺させるには、相手が人間だということを徹底的に奪っておくことが重要。なぜなら、敵も同じ人間だと感じたとたん殺せなくなるからです」

『アメリカン・スナイパー』 のクリスも、「祖国のため」という「大義名分」があります。だから戦場では子供であっても、「敵」=「非人間」であり、殺すことに罪悪感を感じなくて済むのです。

今回のバングラディッシュでの人質事件でも、テロリストは、人質にコーランの一節を暗唱させたという。これでイスラム教徒かどうかを選別したのでしょう。彼らの理屈はこうです。

「イスラム教徒=人間」対「非イスラム教徒=非人間」。非人間であり、かつ、「聖戦」という大義名分を与えられるので殺しても平気なのです。彼らは「イスラム教」という一点(しかもかなり狭い範囲で)だけで人間を判断しています。もっとたくさんの共通項があるはずなのに、そこは無視しています。いろんな共通項を見てしまうと、同じ人間だと思って殺せなくなってしまうでしょう。ナイフで殺害するところなどを見ると、かなり訓練を受けていたように感じます。

映画の話に戻りますが、でも、これは「意識」の範囲です。「無意識」では、やっぱり罪悪感を感じているはずです。まぁ普通の人間ならそうなんじゃないですか。

その無意識を無理やり押し込めておくことでしか正気を保てない。戦場とはそういうところらしい。だから帰還兵に、精神を病んでしまう人が多いのもうなづけます。

イーストウッドが描こうとした、環境がいかに普通の人間を変えていくかという意味でも、戦場の怖さはあるのですが、変わった自分、今度はそれが「普通」になってしまうという、2重の怖さを感じました。

そしてラストでは、あれだけ危険の多い戦争で生き残ったのに、自国で簡単に殺されてしまうところが、皮肉な結果といえます。
 
 
 
 
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2016/07/02

【愛犬物語百景 其の三十四】 埼玉県秩父市 三峯神社の「パワースポット」という「営業努力」

160701_1(三峯神社の「三ツ鳥居」とオオカミ像の狛犬)

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160701_3(文化7年(1810年))のお犬様(オオカミ)像とご神木)

160701_4(文化7年(1810年))のお犬様(オオカミ)像)

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160701_7(平成24年、辰年に現れた龍)

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埼玉県秩父市の三峯神社です。

駐車場から階段を上り、坂道を50mほど進むと一の鳥居が現れ、筋肉質のオオカミ像の狛犬に出迎えられます。この3連の「三ツ鳥居」は全国的にも珍しいそうで独特の雰囲気があります。

三峯神社は、秩父神社・宝登山神社とともに秩父三社の一社で、狛犬の代わりにオオカミの像が複数鎮座していますが、この中に、秩父で年代が分かっている最も古い、文化7年(1810年))の像があります。拝殿に上る階段の左右に鎮座しています。

細身の体形で、一見すると、キツネのようにも見えます。

秩父で「お犬様信仰」が始まったのは三峯神社で、山犬(ニホンオオカミ)の神札を信者に授けたことに始まるといいます。「お犬様信仰」の仕組みは神社経営の方策でもあったそうで、ここにも「営業努力」があったわけですね。

そしてその「営業努力」は、現代では「パワースポット」という意味付けも付け加えられているようです。

「パワースポット」というのは現代版の自然崇拝とも言えるようで、その中のお犬様(オオカミ)は、自然を象徴とする存在ではないでしょうか。

宮崎駿監督の『もののけ姫』にもオオカミが登場します。白く大きな三百歳の犬神、モロの君です。もののけ姫のサンがモロの君に育てられたという設定でした。

日本ではオオカミは絶滅してしまいました。森のカミが消える(カミを殺す)ということの意味は、文字通りオオカミを殺すこと以上に、自然との繋がりを断つものなのだなぁと思います。都会化した人たちの自然回帰で「パワースポット」が人気になっているのは、自然の成り行きではないかと思います。

境内のうっそうとした森の中を歩き、ひんやりとした空気に緊張感を覚えます。こころが引き締まるようです。

秩父一古い狛犬のそばには、推定樹齢800年の杉の巨木、ご神木がそびえたっていますが、参拝客は、ご神木に体を預け、自然からの氣を受けています。

なお、拝殿前、お賽銭箱の手前の床には龍の模様が。これは平成24年現れた模様だそうです。その年、干支は辰年でした。
 
 
 
 
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2016/05/07

【愛犬物語百景 其の四~八】 秩父地方の、お犬様の札を替える行事「オイヌゲエ」

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4月上旬から始まって、このゴールデンウィークで、今年の秩父地方の「オイヌゲエ」のシーズンは終わりました。

俺たちもヴィーノを連れて、いくつかの「オイヌゲエ」を周りました。

5月3日には城峯神社(秩父市)と八日見龍頭神社、5月5日には城峯神社(神川町)と両神御嶽神社。

それと、オイヌゲエが先月18日に終わっていた両神神社のお札だけは、隣の両神山荘で譲ってくれるというので、管理人さんに頼んで譲ってもらいました。

オイヌゲエに関わる神社の狛犬は、お犬様の像ですが、中には、どう見てもオオカミではなくて、本当に犬のように見える狛犬もありました。

それぞれ、お札にも特徴があって面白いですが、その神社での物語がまた良かったのです。歴史を感じさせる使い込まれてすり減った版木の数々や、神社のロケーションと宮司さんのおもてなしには感動しました。

こんなところがまだ東京に近い関東圏に残っていること自体、奇跡と言えるほどで、もしかしたら、二ホンオオカミの目撃情報は、本当かもしれないなどと思ったくらいです。

宮崎駿監督の『もののけ姫』にもオオカミが登場します。白く大きな三百歳の犬神、モロの君。もののけ姫のサンがモロの君に育てられたという設定です。

日本ではオオカミは絶滅してしまいました。森のカミが消える(カミを殺す)ということの意味は、文字通りオオカミを殺すこと以上に、自然との関係性を断つものなのだなぁとあたらめて思うのです。

宮司さんが出してくれたおいしい山菜料理の数々は、どれもが山に自然に生えていたものだそうで、山に暮らす人たちが、山から恵みを受けてきた確かな証です。その感謝の表現としてお犬様(オオカミ)信仰があるというふうに見えてきます。

だから「オイヌゲエ」が古臭い行事なのではなくて、むしろ現代人には必要な行事なのかもしれないのです。もちろん、形としてはこのまま続いていかないと思うので、現代的なアレンジは必要だとは思いますが。

オオカミに育てられたもののけ姫のサンは、自然と人間の橋渡しをする立場でもあります。「オイヌゲエ」も、自然と人間の関係性を象徴するものではないでしょうか。

ちょうどこの前、築地市場では魚の供養祭が行われていることを知りました。これもまた日本人の、自然との関係性が垣間見えるものなのかなと思います。

日本人は、人間だけ独立して存在するのではなく、森や海やオオカミや犬や魚など、草木虫魚、あらゆる自然との関係性を大切にしてきたのではなかったでしょうか。
 
 
 
 
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