心理学

2017年4月27日 (木)

知識が本質を見えなくする

放送大学「危機の心理学」では、おもしろいフォントの話が出てきました。以前ネットでも話題になったそうです。

日本人だからこそ読めないローマ字のフォントです。カタカナの知識が邪魔をするのです。日本語のカタカナを知らないほうがすんなり読めるというフォント。


(「寝ログ」参照)

たしかにそう。専門家と言われる人が深読みしすぎて的をはずす、本質を見誤るというのも、これと似ているのかも。

昔知り合った人が、

「なるべく長生きしたい。生きれば生きるほど知識が増えて賢くなるから」

と言ったことがありました。それを聞いて、本当だろうか?疑問がわきましたが、そのときはうやむやで聞き流すしかありませんでした。

それで、最近、「あぁ、やっぱり違うな」と思いました。知識が増えていくことがそんなに良いことでもないんじゃないかなと思ったのです。賢くはなるかもしれないですが、少なくとも知識が増えることと、幸せになることとは関係ないような、そんな気が。

『河合隼雄著作集5 昔話の世界』には、

「われわれは太陽について、雨について、あまりにも多くの知識を得たために、太陽そのもの、雨そのものを体験できなくなった。」

印象派の画家モネはこのことをこう表現しているそうです。

「もし私が盲目のまま生まれ、突然目がみえるようになったら! そうすれば目に映るものが何であるかを知ることなく絵が描き出せるだろうに。」

「モネの嘆きが端的に示すように、われわれ近代人はあまりにも多く知りすぎたために、何事かをそのまま体験することが困難になったのである。」

と、あります。

これを俺なりに次元を下げて考えてみると、例えば、美人やイケメンがいるとします。美人やイケメンをもっと知ろうとして、彼女や彼のレントゲン写真を見ているようなものかもしれません。

あるいは手足の長さの比は身長のいくらだとか、両目の距離が鼻の長さの黄金比になっているかどうかとか聞いても、それがどうした、というわけで、美人やイケメンを見てうっとりすることとはまったく別物です。(美人やイケメンは、欧米文化に影響を受けているということもあるでしょうが)

美人やイケメンにどうしてうっとりしてしまうのか、それを感じるのは、「知識」とは関係ないという話です。

知識が本質を見るとき邪魔をするという例は、他にもたくさんあります。専門家や頭が良い人の陥りやすい欠点はここにあるのかもしれません。
 
 
 
 

| | コメント (0)

2017年4月25日 (火)

森津太子/星薫著『危機の心理学』

ここ1ヶ月で、急に「戦争」が身近になった感じがします。

日本はてっきり戦争を放棄した国だと思ってました。学校でもそう習ってきたし、だから、一生もう戦争は起こらないんだろうと漠然と考えて生きてきました。

少なくとも、先制攻撃するなどということはありえない話だと思っていたら、安倍総理はそれをやろうとする同盟国アメリカを支持するという。もっとも、「先制攻撃しない」と言ってしまったら、抑止力がなくなってしまうわけですが。

誰も戦争は望んでないはずなのに、こうして戦争というのが始まる(かもしれない)んだなぁと、あらためて、どうしようもない、ふがいなさのようなものを感じます。

戦争をしたくないのは北朝鮮だって同じでしょう。キムジョンウンがまるで極悪非道な独裁者になっていますが、当人に会ったことはなく、どういう人間なのかは、本当は知らないのです。知らないから、極悪非道な独裁者のイメージが勝手に作られていくとも言えます。ジョンウンだって、彼自身の考えだけではなく、北朝鮮人民の何千万人の考え方の総意は多少でも、彼の行動に影響は与えているはずです。内外に向けて、極悪非道な独裁者を演じざるを得ない部分もあるのかもしれません。

相手の「わからなさ」と「脅威」と「不確かさ」が、戦争へ向かう原因になっています。北朝鮮、韓国、日本、アメリカ、中国、ロシアなど主な国々の何億人の人間の利害の調整は並大抵ではできません。人間の脳が大きくなったのは、この複雑な人間関係をさばくためという「「社会脳仮説」」があります。

3人でさえ喧嘩するのに、何億人となれば、もう個人の考えかどうかなんてどうでもいいのでは?と悲しくなってきます。その戦争へ向かううねりのようなものは、クジラが大量に海岸に突進して「自殺」するようなものなのかもしれません。

物理学者のアインシュタインと、精神分析学者のフロイトの『ヒトはなぜ戦争をするのか?』(花風社刊、浅見昇吾編訳)の中で、「人間は闘争本能を持っている」ということでふたりの意見は一致しています。

戦争は避けられないということでしょうか。「知性が高まり、攻撃本能が内に向けられれば、戦争をなくす方向に動いていくことはできる」と、表現は弱々しい。天才たちでさえ、戦争に対しては無力であるようです。戦争不可避の信念は、天才でさえ持っていたということなのでしょう。

とは言え、希望がないわけではありません。

最近では、個人の闘争本能と、戦争とは違うという研究結果もあるそうです。戦争を完全になくす方法は、今のところないかもしれませんが、遠い将来は、「しないで済む」ようになるかもしれません。

『危機の心理学』は、こんな時代だからこそ役に立つ学問かなと思います。今年4月新しく開講した科目です。

この中に「平和心理学」というものがでてきます。戦争不可避の信念に、なんとかくさびを打ち込もうとするのは、人類の多少の進歩とは言えるのかもしれません。

戦争にならない状況をいかに維持するか、ということに尽きるんでしょうが。

平和構築に貢献する2つの心理的要素があります。

ひとつは、外集団(相手)への共感と理解を増加させる。(一般論ではそうなのかもしれないですが、北朝鮮の今の閉鎖的環境では、これは難しい)

もうひとつは、「積極的傍観者」という存在があるそうです。

内集団(味方)を批判的に評価できる人のことで、たとえば、第2次大戦中リトアニアでビザを発給し続けて多くのユダヤ人を救った杉原千畝とか、ドイツのシンドラー、ベトナム戦争のソンミ村虐殺事件、イラク戦争でアブグレイブ収容所での虐待を告発した人たちのような存在です。それが「積極的傍観者」。

それをいかに増やしていくかが、戦争を回避するための課題だそうです。

自分の足をちゃんとふんばって、戦争へという流れに流されない、批判的な目で見ていないとダメなんでしょう。
 
 


| | コメント (0)

2017年4月23日 (日)

母の死による「喪の仕事」

『精神分析とユング心理学』(大場登・森さち子著/放送大学教育振興会)によれば、母親の死は、対象喪失の体験のひとつです。そして「対象を失うことの哀しみをどう哀しむか」というのが「喪の仕事」と言われる心理的な過程です。

フロイトは、父親の死をめぐる喪の仕事を行う自分の体験をしっかりと見つめました。

そしてわかったそうです。ただ単に死んだ人を懐かしんだり、再生を夢見ることだけではないと。

その人に抱いた憎しみや敵意、死を願う気持ちを自分の中に認め、そうした感情を抱いたことに対する悔みや償いの気持ちをたどることなのだといいます。そして失った対象との間に抱いていた、さまざまな感情を整理することが喪の心理過程において、とても重要だと学んだというのです。

親密であればあるほど、愛情と憎しみとの葛藤を抱きます。喪の仕事の大きな課題は、失った対象に対して、良い思い出だけではなく、傷つけたり、冷たくしたり、期待に添わなかったことを思い出し、償いや悔やみの気持ちをどう自分の中で整理していくか、ということが大切なのだそうです。

まだ、日が浅いので、フロイトのいうような深い部分に思いをはせる余裕はありませんが、なんとなくわかります。

この前の「母の葬儀」にも書きましたが、母親というのは「絶対的な愛情を注いでくれる存在」であると同時に「いつまでも放さない、囲い込む、干渉する存在」でもあります。矛盾したものを持っています。だからとくに思春期のころは、母親の干渉と囲い込みを強く感じて、「反発」しました。

でもこの年齢になってみると、あの時の「反発」は、むしろ「愛されたい」という感情の裏返しでもあった、あるいは、どんなことをしても見守ってもらえるという絶対的安心感があったからこそできた「反発」だったのかもしれません。

要するに、実家を出たという表面的な俺の行動の内側には、親に依存できるという安心感があったからではないかなと思います。一見、このとき親離れしたように見えますが、内面的にはまったく逆ではなかったのでしょうか。甘えていたのです。

だから前回、母親の死によって、本当の意味で親離れができると書いたのでした。
 
 
 
 

| | コメント (0)

母の葬儀

母の葬儀がありました。去年の秋以降、ほとんど寝たきり状態になっていましたが、4月7日、亡くなりました。

喪主である俺が写真を撮りながら葬儀をすることは、ある人には不謹慎と映ったかもしれませんが、葬儀記録を残しておくことは、写真家になったことを最後は喜んでくれていた母も認めてくれると思います。

まだ実感がありません。そして9年前に父が亡くなった時と今回の母との死では、微妙に感覚が違います。

何でも受け入れてくれる、なんでも許してくれる、絶対的な愛情を注いでくれる母親という存在がこの世からいなくなったということは、たぶん、これからボディブローのように、徐々に精神的ダメージを与えてくるのかもしれません。

でもその一方で、母親というのは、いつまでも子供を縛る、子供に干渉する存在でもあります。矛盾したものを持っています。だから母親の死によって、本当の意味で、「親離れ」することができるんだろうなと思います。

母は昭和9年生まれなので、終戦を迎えたのは11歳の時です。それからの日本は、右肩上がりに経済成長を続け、戦争もない平和な時代でした。天皇の生前退位で年号も変わろうとしています。まさに、母は、昭和と平成という、良い2時代を生きてきた人間でした。

母は俺が20代のころ「過激派だけには入らないで」と言っていて、実際俺は過激派には入らなかったし、犯罪者にはならなかったし、一応、この点については親不幸はしませんでした。なので、まぁまぁ幸せな人生だったのではないでしょうか。

今俺は、悲しみや寂しさという表立った感情よりも、幸せだったと言える母の人生を丸ごと肯定して、「良かったね」と見送ってあげたい、むしろ静かに海底に沈んでいるような気持ちなのです。でも、これは、俺が実家を出て、母とは離れて暮らしてきたので、母の死をどちらかというと観念的なものとして捕えているからなのでしょう。

いつも母といっしょにいて、だんだん認知症がひどくなり、衰弱していく様子を見ていた妹にとっては、もっと母の死は現実的で、具体的なものだと想像します。妹の悲しみ、寂しさは、俺から見ていても辛いほどでした。
 
 
 
 

| | コメント (0)

2017年2月28日 (火)

伝説は刻々と変化する心の処方箋

イメージの活用を目的に心理学を始めたのでしたが、「精神分析とユング心理学」を勉強していて、偶然なのですが、今回『愛犬物語』の原稿を書くにあたって、全国の犬像にまつわる伝説、神話が、残るべくして残ったという視点を与えてもらったのは良かったと思います。

犬の首が宙を飛び大蛇に嚙みついて殺したとか、犬が少女の身代わりで怪物と闘ったとか、これを「史実」と考えたら、単なる荒唐無稽な「嘘」になってしまいます。

ところが視点を変えて、この「嘘」こそが、人間の心が生み出した、何物かの表現であると考えるわけですね。「夢と似ている」と言えば納得してもらえるのではないでしょうか。俺たちが観ている夢も、覚醒時の現実世界では、「嘘」になってしまいますが、「夢は嘘だ」なんて言っても、まったく意味がないのと同じです。

伝説、神話は、夢と似ているのです。人間が共通して持っている普遍的無意識の反映とも言えます。しかも、これはある時期から固定してしまった「化石」ではなく、今現在も刻々と変化している「生もの」だということがわかってきました。

伝説は過去の事実がそのまま伝わることもあるでしょうが、その話が地元の人にとって何か有益なことがあれば、尾ひれがついて、変わっていくということは考えられることです。反対に不利益があったら削られていくということも同様です。

心理学者・大場登著『精神分析とユング心理学』には、神話について、

「その国・その文化圏の人々の心が一致して「受け入れてきた」、その意味で個人を超えた、文化的、あるいは普遍的な「世界観」の表現とみることもできる。人々の心によって受容されないものが歴史を超えて残り続けることはほほとんどありえない」

と言っています。伝説は神話より、もっと具体的な物語ですが、残り方としては同じでしょう。

今も、刻々と伝説が変わっている現場を目撃しました。筑後市の「羽犬」の伝説のところでも書きましたが、伝説をしらべてみると、羽犬が死んだ原因が、「病死」と「弓で射られた」とふたつあったのです。

微妙な違いかもしれませんが、「病死」の方が加害者を作らず穏便に済むからかなぁと思うんですよね。物事にはかならず両面性があり、それをどっち側から見るかで、物語も変わってきます。

それと、こういうこともあります。最近は、桃太郎の「鬼退治」も「不公平で、可哀そうだ」との意見が出てきて物語が変わってきているという話も聞きます。

伝説が、別の話に突然変わったというようなこともあったようです。どうしてなんだろう?と思ったら、ちょうど今、高崎市のだるま市のことが話題になっていて、だるま市を開いていた少林山達磨寺と、業者の方でトラブルがあり、それと連動するように、市のHPから、今まで達磨寺に伝わっていた伝説が消え、「新説」に置き換わってしまったというのです。あぁ、こういうことで伝説がひっくり返されるんだなと妙に納得です。

だから「オリジナルの伝説」なんてないんでしょうね。伝説とは流動的なものなのではないでしょうか。

伝説は、化石のような過去の遺物ではけっしてないということ。伝説は刻々と変化して、必要な人にとっての、心の処方箋になっているのかもしれません。人間には物語が必要なようです。
 
 
 

| | コメント (0)

2016年12月10日 (土)

国立新美術館の『ダリ展』

サルバドール・ダリは、スペイン出身のもっとも有名な20世紀の芸術家のひとりです。シュルレアリスムの代表的な作家として知られます。「天才」と自称していましたが、数々の奇行やエピソードが残っています。

その『ダリ展』が国立新美術館で12日まで開催中です。

出口近くに「写真撮影可」の部屋があり、そこには絵画が2つ、鼻の暖炉と、真っ赤な唇のようなソファーが置いてあります。

ソファはダリがデザインした『メイ・ウエストの唇ソファ』です。メイ・ウエストは戦前アメリカのセックス・シンボル的な女優でした。

正面から見るとスペインのダリ劇場美術館の一室を再現した『メイ・ウエストの部屋』の写真を撮ることができるというもので、希望者が長い行列で順番待ちしていました。なので、並ばなくてもOKの、ちょっと横からの位置で写真を撮りました。

シュルレアリスムの作品は、教科書にも載っていたくらいなので、何点かは見たことがあるものでした。現実と夢のはざまのような不思議な感覚を呼び起こします。

ダリは、『反物質宣言』の中で、心理学のジグムント・フロイトに影響を受けて、無意識の視覚化を追求してきたことに触れています。かなり心理学に影響を受けた画家でした。

でも、その後量子力学に影響されたりしたようですが、その時々の最先端科学を取り入れようとしていたようです。今、ダリが生きていたら、DNAなどの絵を描いていたのでしょう。

心理学的な関心から言えば、ダリの生涯にわたって時々描かれている四角い窓があります。初期の作品にも、この窓が描かれているのに気が付きました。

窓から外の景色が見えるのですが、壁には厚さがあり、角度によってはその厚さがちゃんと描かれていて、景色が奥に広がっているのか、あるいは、手前に出っ張った四角い絵なのか、わからなくなるような描き方です。

「隠れ家理論」のように、自分は外敵の姿を見ることができ、かつ、敵からは見えないところに位置しているという状況にもなっています。

小さな四角な窓から、外界を覗いている自分がそこにいます。部屋の中は自分の内面の表現なのでしょうか。外からは厚い壁で囲まれて守られている、まるで胎内回帰のような安心感を感じます。
 
 
 
 

| | コメント (0)

2016年6月25日 (土)

ボンゴフレンディに命を助けられたのか

日本一周するために手に入れたボンゴフレンディは、まだ16万kmで、ディーラーでは、エンジンは大丈夫と太鼓判を押されてはいましたが、次のボンゴフレンディに乗り換えることにしました。

車旅(とくに車中泊旅)には理想的な車種ではないでしょうか。もう新車は作られていませんが、まだまだ中古で探すことができます。

そしてネットで探して良さそうな中古車を見つけ、買うことを決めた途端、ボンゴフレンディーは時々エンストするようになったのです。

最初に同じ症状がでたのは、4年ほど前で、2年に1度くらいだったのでそれほど深刻ではなかったのですが、ディーラーで診てもらいました。1日預けたこともあります。でも、原因は特定できませんでした。その時に限って症状が出ないからです。

そしてこの1か月半は、日に日に頻度が高まるようでした。まるで、自分の運命を悟ったように。いや、「反逆」かもしれません。なんなんでしょうか。偶然とは思えないような調子なのです。(そのことについてはあとで書きます)

だから、この前の東北撮影の旅でも、よく自宅に戻れたなぁと。今だから言えるのですが、綱渡り状態が続いていたので、内心はらはらしていたのです。ブログでは触れませんでした。触れたら現実になる(車が完全に動かなくなる)ような気がしたからです。こういう綱渡りは、車だけではなく、いろんなことで、いつものことですが。

車(機械)とは言っても、北海道から沖縄まで、日本一周をした「同士」であり、廃車にしてしまうのは、正直寂しさを感じます。よく大きなトラブルもなく走ってくれたなぁと感謝の気持ちでいっぱいです。

最後の掃除をしながら、あんなことあったなぁ、こんなことあったなぁと思い出を反芻して、柄にもなく、ちょっと感傷的になりました。

先日も、ちょっとだけ供養について触れました。動物に対してだけではなく、日本には「草木」に対する供養塔もあるし、「針」や「パソコン」など、無生物に対する供養もやります。そこにはそのモノに対する感謝の気持ちがあります。

そしてここが仏教的というか、輪廻転生ではないですが、次は「車」ではなくて「人間」に生まれてくるかもしれない、などという気持ちも少しはあるんですね。車が死んでいく(廃車になる)姿は、どこかで自分の姿に重なるのです。

今度のボンゴフレンディは、自宅から2時間離れた千葉県の販売店まで取りにいかなければならなかったので、だから最後の運転は、供養の心を持ってやろうと思いました。

ところがです。なんと、一番止まってほしくない国道16号の交通量の多い春日部付近でエンストしてしまったのです。幸いにも渋滞していたので、スピードは出していなかったので、追突されることはありませんでした。

5分くらい悪戦苦闘してエンジンをかけようとしましたが、ダメでした。今までは、何度かやっていると、またかかったのですが、今回の不具合の程度がより深刻だなと感じました。

10分ほど経ったとき、後ろからパトカーが来て、「ここで停まっちゃダメだ!」と言われたのですが、「故障で動きません」というと、警官は、「ここでは危ないから」と、車を押してくれました。

これも不幸中の幸いで、50m先まで押してもらい、空き地があったので、そこに車を入れることができました。

結局、また国道でエンストするのは事故の危険もあったので、レッカーを呼びました。だから販売店までの残り10kmはレッカー車で行くことになったのです。

それにしても、最期の最期にこんなしっぺ返しがあるとは。俺を殺す気か?

販売店でレッカー車から下されたボンゴフレンディは満身創痍の姿。最後は気まずい関係になってしまいそうでしたが、やっぱり供養はしなければと思います。「タタリ」を鎮めないと。

人がある動物(もの)を供養するのは、もちろん感謝の気持ちもあるのですが、「「タタリ」を恐れ、それを「鎮める」という意味合いも大きかった。」と、長野浩典著『生類供養と日本人』には書いてあります。

ユングの「シンクロニシティ(共時性・同時性)」については前も書きました。偶然を単なる偶然だと気に留めずに流すのではなくて、そこに意味を考えてみるということですが、今回の件は、やっぱりこの「シンクロニシティ」と言ってもいいのではないでしょうか。

シンクロニシティは因果関係では説明できません。「俺が次のボンゴフレンディを買うと決めた」から「今のボンゴフレンディはエンストするようになった」というのは、どう考えても無理があります。そこまで擬人化してしまってはファンタジーになってしまいます。

妻からは「あなたの無意識が車に乗り移ったように見える」と言われました。俺もそう感じます。

俺の無意識内では、「16万kmも走ったし、そろそろ限界かも」とは感じていたはずなのです。そしてその「感じ」が「やっぱりそうだった」になったというわけです。

そしてこの偶然が、「いよいよ危ない」と、俺に意識させてくれて、だから今回最後の運転でも、無意識ではあっても、今までより注意して運転していたはずなのです。だからエンストしたときはすばやくハザードを出したのだろうし、それが追突事故を防いでくれたのかもしれません。

今日の「本番」に向けて、過去何度かエンストして「練習」した成果であるかもしれないとも考えられるのです。もし、今日が初めてのエンストだったら、慌ててしまい。対処が遅れて、下手したら死んでいたかもしれないのです。

だから「俺を殺す気か?」と書きましたが、そうじゃない、俺は助けられたんだなと思いますね。ボンゴフレンディに。

ボンゴフレンディの大往生です。

(合掌)
 

| | コメント (0)

2016年6月20日 (月)

NHKの番組『シリーズ キラーストレス』で推奨していたコーピングとマインドフルネス

現代社会は、ストレスに常にさらされ続けることで、心身に悪影響を及ぼしている時代です。「キラーストレス」とは現代のストレスの危険性を表している言葉です。

人はストレスを受けたとき、ストレスホルモンが放出され、とくに、コルチゾールというホルモンは多すぎると海馬の神経細胞を破壊します。海馬が小さくなることがうつ病の原因とも考えられているようです。

それともうひとつ、「マインドワンダリング」という状態が多いということです。

「マインドワンダリング」とは過去や未来のことをあれこれと考えすぎることです。

たとえば嫌なことがあった過去を悔んだり、もしかしたら同じことが明日起こるのでは?と心配したり。思考の負のスパイラルに陥ってしまい、ストレス状態が続き、それがうつ病の原因になってしまうということです。

平均的な人でも、半分の時間は「マインドワンダリング」状態にあるという結果になっています。そういえば俺もそうですね。過去や未来をよく考えてしまいます。くよくよと過去を後悔し、未来に不安を感じます。

とくに厄介なのは、未来のことかな。起きてもいないことを先回りして心配しているんだから。まったく馬鹿げたことだとはわかっていても、ついつい考えてしまいます。

そこで、このストレスを軽減する方法として注目されているものがあります。

ひとつは「コーピング」というものです。あらかじめ、ストレスを感じたときに、解消できる気晴らしになるものをリストアップしておくという方法です。番組では100種類挙げられていましたが、些細なことでもいいようです。

たとえば俺なら、

 1:  深呼吸する
 2:  空を見上げる
 3:  棚田に立つ
 4:  ヴィーノのお腹を触る
 5:  ヴィーノの肉球をつんつんする
 6:  写真を撮る
 7:  ブログを書く
 8:  かりんとうを食べる
 9:  小豆抹茶を食べる
 10: 映画を観る
 11: 音楽をつくる
 12: 温泉につかる

 ・・・・

まぁ100種類は難しいかもしれませんが、50種類くらいならリストアップできそうです。

そしてその効果を点数化してみることです。点数化することで、前頭葉で意識するということが、過敏になりすぎた偏桃体にブレーキをかけることにつながります。

そして今注目の「マインドフルネス」です。

「認知行動療法」の授業にも出てきていたので「マインドフルネス」については前も書きました。

新しい認知行動療法「マインドフルネス」と犬の散歩」(2015/12/31)

雑念を振り払い、「今、この瞬間」を意識すること。実際の瞑想では、体と呼吸とに意識を集中させるということ。

「今、この瞬間」に注意をむけることで、過去と未来に蓋をして、「マインドワンダリング」状態から抜け出します。そうすると、小さくなっていた海馬が回復し、偏桃体は小さくなる、つまり、ストレスに強くなることが期待されるというものです。

「マインドフルネス」と横文字だし、GoogleなどIT企業が採用して、最近開発された最先端の軽減法かと言えば、まったくそんなことはありません。

これは日本には昔からあった方法、座禅の瞑想、武道、芸道と似ている部分があります。形や名前が変わっただけで、方法としては、ずっと人が実践してきた歴史があります。

それと、写真を撮るときは、それこそ「今、この瞬間」を意識しているわけで、これは「マインドフルネス」的な、ストレス軽減効果があるのではないかと思うので、そのことについてはあらためて後日書こうと思います。

ところで前も書きましたが、ヴィーノはまさに「今、この瞬間」を大切に生きている動物です。過去も未来もあまり考えません。だからストレスがないように見えます。そう見えるだけで、人間どもにはわからない、犬のストレスはまた別だと、ヴィーノたちは言うのでしょうが。
 
 
 
 

| | コメント (0)

2016年4月26日 (火)

正夢「トイレ掃除」

160426


先日、こんな夢を見ました。

「トイレに入って用をすまし掃除をしようと思ったら、急に洋式便器が手のひらに載るくらい小さくなった。洗剤の付いたスポンジでごしごし洗った。用を足す前にやっておけばよかったと思った。便器が見違えるほどきれいになった。まるで翡翠のような薄青色をした輝く便器がとても美しかった」

というものです。こんな夢を見ただけだったら、あぁそうかぁ、面白い夢だねで終わるところなのですが。

その日、突然トイレ掃除をしてほしいと妻に言われたのです。もちろん夢のことは妻には話していませんでした。そして俺がトイレ掃除するのは年末の大掃除くらいなのです。だから偶然にしても、かなり確率は低いということになります。

まぁいわゆる「正夢」と言ってもいいのかもしれません。ある種の「偶然」です。この「偶然」に意味があると思うのか、それとも単なる偶然だと思って無視するのか。

そこで、これはユングが言っている「シンクロニシティ(同時性・同一性)」というものかと気が付きました。因果関係ではない「偶然」にも意味があるという考え方です。

「シンクロニシティ」は、けっこう難しい概念で、よくわかりません。それでも、この本には、多少わかり易く書いているので、こちらを紹介します。

河合隼雄&茂木健一郎対談集 『こころと脳の対話』。

この本のP104~106「非因果的関係をおもしろがる」、「因果のしがらみを解きほぐす」に、

河合 僕なんかは、この非因果的連関のほうをけっこうおもしろがって見ているわけですね。もちろん因果的にはつながらないんですよ。ただし、ミーニング(意味)はあるわけだから、そのミーニングを知ろうというわけですね。

茂木 そのシンクロニシティで出てくるものというのは、じゃあ、自分の無意識の中で大事なもの?

河合 そうであると、僕らは見るわけですね。自分では知らなくても、非常に大事なものであると。

茂木 そうか、シンクロニシティというのは、外のものと外のものとがシンクロするんじゃなくて、自分の無意識と外のものとが呼応すると。

河合 絶対、そうです。で、無意識が動いているのが、外に出てきたりね。その出てきたものの背後には無意識がある。

「シンクロニシティ」というのはだから夢と似ているとも書いてあります。直観に従うということでもあるようです。

そこで、俺が今回見たトイレ掃除の夢と、妻から言われて実際にトイレ掃除することになったことを、「シンクロニシティ」と考えると、思い当たるふしがあります。

ここでは、詳しく公にするのは抵抗があるので、いつかまたの機会にしたいと思いますが、要するに、俺が「思い当たるふしがある」ということがミソなのでしょう。

単なる偶然とは思わずに、ちょっと考えてみる。すると、これは俺の無意識であることに気が付けるということなんですね。俺にとって、「便器」か「トイレ掃除」は大切な「何か」なのでしょうね。

河合氏は、こうも言っています。

「いまの世の中は、そういう因果的な思考でがんじがらめになっている」

と。
 
 
 

| | コメント (0)

2016年3月28日 (月)

パリで出会った東洋人。「二重身(ドッペルゲンガー)の現象」

『河合隼雄著作集 ユング心理学の展開2』(岩波書店1994)に、「二重身(ドッペルゲンガー)の現象」というのが書いてありましたが、似たような体験があったので興味をひかれました。

ところでこの本によれば、江戸時代に「影のわずらい」とか「影の病い」と呼ばれるものがありました。またの名を「離魂病」。これは自分自身の姿を見ることだそうです。

自分の姿を見ると死ぬという言い伝えは、日本だけでなくドイツにもあるそうです。ただ魂が抜けた話でも、中国にはハッピーエンドになる話もあるようで、一概に自分の姿を見ることが悪いかどうかは言えないようですね。

「二重身」というのは、もうひとりの自分の姿が見えたり、その存在が感じられたりする現象のことですが、心の内に別人格があってそれが交互に出てくる「二重人格」とは違います。

芥川竜之介も二重身の体験があったといわれ、『二つの手紙』という二重身をテーマにした短編があるそうです。

二重身の体験には鏡が関わっていることがあります。フロイトもこういった体験がありました。旅行中、寝台車で、一人の老人が自分の部屋に入ってきたので、間違えてますよと説明しようと思ったら、ドアの鏡に映った自分の姿だったという体験です。

これは自分の映像を他人だと思ったので、二重身とは真逆の体験ですが、自分に対する存在感について不安を引き起こす点で、精神的には二重身体験と共通するものがあるのだそうです。

そこで、俺の体験はこういうものです。フロイトのと少し似ていますが。

それは20代に、ヨーロッパを旅していたときのことです。金がなくなって、いくつかバイトをしたのですが、最後に行き着いたのがパリの韓国系フランス人経営の日本・韓国レストランでした。

ある日、レストランが非番だったのか、街を歩いていたら、向こうから東洋人が歩いてきたのです。その姿はちょっと薄汚れていました。

当時は、薄汚れた格好をした東洋人は、日本人バックパッカーが多かったので、「あ、日本人だ」とピンときて、挨拶しようか、どうしようか迷いながら進んでいくと、向こうもこちらを見ながら歩いてくるのです。

そして、数メートルに近づいたとき気が付きました。そうです。それは店のガラスに映った自分の姿だったのです。

苦笑してしまいました。どうして自分だと思わなかったのかと。

長く外国へ行っている人は体験するのかもしれませんが、自分の目がフランス人になっているんですね。つまり、俺自身の姿(見かけ)も、周りのフランス人と同じだと思い込んでしまっていた、ということなんだろうなと思いました。あくまでも錯覚なのですが。慣れといってもいいかもしれません。

でも、この二重身の話を聞くと、この体験が別の意味を持っていたんだなとあらためて思うのです。

二重身体験の背後に、「ぼくは本当は何なのか?」とか「ぼくとは何か、人とは何か?」といった根源的な問いが存在していると、この本では指摘しています。

俺の体験で言い換えれば「日本人とは何か?」という問いになるでしょうか。当時を振り返ると、確かにそれはあったかな。

日本のど田舎から突然ヨーロッパへ行って、フランス人の中で暮らしていくということは、日本人というものを逆に意識せざるを得ない場面が多くあったはずです。

でも、「あの東洋人は、俺ではない」という否定から入っているわけですね。内心ではフランス人のようになりたいという(見かけも、文化的にも)願望があり、パリのレストランで働いてもいるし、既にそうなっていると自分では思っていたのに、でも、そうではないんだということを薄汚い東洋人の姿を見せつけ、俺に現実を突き付けてきた体験だったのかなと思います。

日本人はあくまで日本人でしかないんだということです。当時、正直言えば俺も西洋人に対して劣等感があったのは確かです。否定から入ったのはそのせいではないかと。今は、劣等感はなくなったと思っていますが、わかりませんね、心の中は。
 
 

| | コメント (0)

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

写真 | 夢日記 | 心理学 | 芸術療法