« 2005年3月 | トップページ | 2005年5月 »

2005/04/03

フランスでアルバイト 4

二日間だけでしたが、葡萄摘みの仕事もやれたし、そろそろ日本に帰ろうかなと思い、2週間後の日本行きを予約しました。

Oさんたちともペルピニャンで別れ、帰国便はフランスのパリからだったので、この2週間で最後の旅をしようと、南仏からスイス、ドイツ、オランダ、ベルギーをヒッチハイクで旅しながらパリに戻りました。そろそろ秋の気配も深まり、公園のイチョウの木は黄色く色付き始めていました。

さて、飛行機はあさって飛ぶという日の午後、たまたまサンジェルマンを歩いていたら、なんと、葡萄摘みでいっしょだった日本人のOさんが、カフェにいたんです。2週間ぶりでなつかしく、あいさつに行きました。「あさってもう帰るんですよ」というと、彼は「もう帰っちゃうの?パリで仕事すればいいのに」と言うのです。「でも仕事探しは難しいでしょう?」と言うと「俺が知っている店に行ってみるかい?」と、魔のささやきが聞こえてきました。

俺は、とにかく店を当たってみるだけでも面白いし、もし使ってくれるなら働いてみようと決心しました。Oさんの「こんな体験はめったにないでしょう」という一言が効いたかもしれません。そうなんです。ヨーロッパに旅行に来たのは観光のためではないことはもう自分でもわかっていたし、もうすこし、外国で働いてみたいという欲が芽生えてきたのでした。

まあ、でも、葡萄摘みの一件もあるし、フランス語もわからない俺が簡単に仕事に就けるはずもないし、だめだったら、このまま日本に帰ろうと思いました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

フランスでアルバイト 3

ユースには毎朝地元の葡萄農家が人手を集めにやってきましたが、なかなか仕事にありつけませんでした。でも、ある朝、俺たちも使ってもらえる機会がようやくやってきました。

雇う条件として「フランス語がわかる人」と言われて、俺とOさんは元気よく「ウィー(はい)!」と手を上げました。それで採用になったのでした。よほど人手不足だったんでしょうね。俺が明らかにフランス語ができないのは見え見えでしたから。

小型のトラックの荷台に乗せられて、葡萄畑へ向かいました。フランスの葡萄畑は、日本とは違っていて、お茶畑のような高さで木が生えています。だから葡萄は、中腰になって摘んでいくのです。ひとりひとり、籠を渡されました。その籠をいっぱいにしたら、もっと大きな籠にあけるのです。

俺とOさんは、やっとありついた仕事に嬉しくなり、張り切って摘みました。いや、張り切りすぎたのでした。何人かのバイトの連中と横に並んで、摘みながら前進していくのですが、あまりにも俺たちのスピードが速すぎたので、監督から注意されました。それで今度はなるべく遅くやったのですが、こんどは他の人たちから遅れてしまい、「もっと速くやれ」と注意されてしまいました。「日本人は働き者だと聞いていたが・・・」というような、嫌味を言っていたようです。

そのうちコツもわかってきて、他の人たちと同じようなスピードになってきました。他のバイトの連中は、ポルトガル人が多かったようです。出稼ぎですね。彼らもあまりフランス語ができないことをあとで知りました。彼らの仕事を見ていると、ときどき、木の下に頭を下げてなにかやっているようでした。それは、ワイン用の粒の小さな葡萄ではなくて、たまに、マスカットのような大粒の葡萄がなっていて、それを監督に見つからないように、木の下に隠れて食べていることがわかりました。俺たちもまねをして、喉の渇きを癒したのでした。その葡萄のおいしかったこと。

一日葡萄摘みをして体はぼろぼろでした。とくに腰が痛かったですが、仕事が終わったあとは、ポリタンクに用意されていたワインが飲み放題で、俺たちとポルトガル人たちは、言葉が通じませんでしたが、楽しい酒盛りをしました。

ユースに帰ったら、ベッドに倒れこんで、すぐ寝てしまいました。そして次の日も同じ仕事をやったのでした。ただ、このバイトもこの二日間しかありませんでした。バイト代は、一日6000円くらいだったと思います。二日だけだったので、結局十分な資金を作ることができませんでした。

やっぱり外国で働いて金を稼いで旅を続けるなんて、そう簡単ではないんだ、そろそろ日本に帰った方がいいかもしれないなという考えが、ふと頭をよぎったのでした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

フランスでアルバイト 2

ペルピニャンのユースに行ってみると、長期滞在者が多かった。俺と同じで、葡萄摘みのバイトを待っている人たちでした。ほとんどはヨーロッパの若者で、アジア系(日本人)は3人くらい。言葉の問題があり、フランス語がしゃべれる人たちが優先され、しゃべれない人たちは、バイトにあぶれて、日がな一日ユースや町のカフェでぶらぶらしていました。現実は厳しいものだと実感しました。

結局、俺もあぶれ組で、朝からカフェでビールを飲む生活が始まったのです。というのも、この日本人たちと付き合うようになったからです。そのうちのひとり、Oさんは、当時32歳くらいで、俺より10歳年上でした。彼は物書き志望の男でしたが、フランスには長くいて(数年はいたように記憶してますが)、パリでのアルバイトも経験していました。へぇ、パリでアルバイトができるんだぁ、とそのときはそう思っただけで、あとで実際自分もやることになろうとは、このとき思いもよりませんでした。

葡萄摘みのバイトは相変わらずヨーロッパ人たちに取られてしまい、毎日ぶらぶらしていましたが、これではいかんと一大発起して、こうなったら、こちらから自分でバイトを探しに行こうと思い立ちました。

このOさんに、「ここで仕事ありますか?」という意味のフランス語を教えてもらい、バスで郊外へ行き、農家の門を叩いて直接交渉です。中から出てきたおばさんに、さっそく習いたてのフランス語で「仕事ありますか?」と聞くんですが、おばさんは、、ぺらぺらとフランス語でまくし立てます。イエス、ノー、どっちなんだ?と思うんですが、結局、そのフランス語が聞き取れなくて、その農家から去らなければなりませんでした。

今から思えば無茶なことをやったと思いますが、突然言葉のわからない外国人が「仕事ありますか?」と来ても、「ありますよ」といってすぐに仕事をさせてくれるなんてことはないんだと、普通は気がつきますよね。俺はこのときどうかしてたんだと思います。お金がなくなってきて、あせっていたのかな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2005年3月 | トップページ | 2005年5月 »