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2005/09/29

九州から戻りました

昨日の夜、自宅に戻りました。

一昨日の夜は、大分県院内町の道の駅でレンタカーを止めて寝て、昨日は早朝から撮影開始。

この町は石橋の町としても有名で、5年前、ある棚田へいったとき、棚田の真ん中に川が流れていて、長さ6mほどの石橋がかかっていて、なんとも風情のある棚田だと感激したのを思い出します。

今回は、ちょうど稲が黄色くなっていました。まだ緑のやつもあります。声をかけられた地元のおじさんによると、今年の水不足で、7月まで田植えがやれなかったので稲の成長が遅れたからだそうです。

ここも数年前「棚田百選」に選ばれましたが、選ばれて何か良かったことは?と聞くと、「なんにもないねえ。あるとすれば、おたくのようなカメラマンが来て、写真をコンテストに出して、賞を取ったりしてくれることかなあ」

言葉どおりにとれば、自分たちの棚田が「美しい」と認められることは嬉しいことではあるんでしょう。でも、「そんなことぐらいしかないんだよ」と、冷ややかな見方にもとれます。時には農作業のじゃまをしてしまうカメラマンに、へきえきしている棚田も全国にはあります。写真を撮る俺としては耳の痛い話ですが、それも現実です。ここもそうなのかどうかはわかりませんが。

高齢者が多くなり、棚田は耕作されない田んぼも増えています。林に戻った田んぼもあります。おじさんの息子は、幸いにして、酪農とシイタケ栽培などといっしょに田んぼをやるつもりだとのことです。

今、観光客のために村にはトイレと休憩所を作っています。それも自分たちで?と聞くと、さすがにそれは補助金で作られているそうですが、おじさんは言いました。「トイレができたころは、みんな年寄りは田んぼを作らなくなっているかもな」と。

なんとも悲しい話ですが、ここばかりではありません。日本の田舎は、大なり小なり同じような問題で、廃れていっています。それを単に「時代の流れだ」といってあきらめるのは、なんか違うかなあと俺は思うんですが。

かといって俺は農村に住んでいるわけでもなく、都市文明のありがたさを享受しているんですがね。どうすりゃいいんだか。ただそういう田舎の「美しさ」を発見することが、せめて今の俺ができることだとも思っています。

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2005/09/16

「ニート」の続き

昨日「ニート」のことを書いて、思い出したことがあります。

今からちょうど10年くらいまえ前です。1年間ほど、やる気をなくして苦しんでいた (そう深刻でもなかったけど。いや、いや、今だからそう思うのかな。やっぱり当時は深刻だったかも) ときがあるんですが、そのとき「なにかやらなければ」と思うから苦しくなるんだったら、「何もやらない」と決めて過ごそうとしたことがありました。

そこで、日本では知人友人から電話があったり、わずらわしいので(仕事はほとんど無くなってしまったので、仕事関係は問題ありませんでした)、とりあえず、どこか外国でじっとしていようと思いました。それで滞在を決めたのが、タイのノンカイでした。

どうしてここにしたかというと、その2年ほど前、「メコン河」の写真集の撮影のため訪ねたとき、対岸がラオスで、メコン川に面したゲストハウスがあり、のんびりしていて気に入ってしまい、ゆっくりするならこんなところがいいなと思ったのでした。物価も安く、1日800円もあれば暮らせるところでした。

どうせ行くなら、カメラは置いていこうと決心しました。カメラをまったく持たないで外国へ出たのは初めてのことでした。

実は、そうやってカメラを持たないで、なにもやらずにいたら、きっと、いらいらしてきて、逆に写真が撮りたくなるのではないかと、ひそかに期待もしていたのです。

ところが、です。20日間ほど同じゲストハウスに泊まり、食事以外はほとんど外出もせず、毎日ぶらぶらしていたのですが、いっこうに写真が撮りたくならないんです。この荒療治で写真を撮る意欲を取り戻すという目的は果たせなかったのでした。

それで俺は悟りましたね。俺は、写真を撮らなくても平気な人間なんだ、何もやらなくても平気な人間なんだと。

まあ、このあと、いろいろあって、ようやく写真が撮りたいと思うようになったのは、それから1、2年先になったのでした。

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2005/09/15

「ニート」というカテゴリー

昨日のニュース番組で「ニート」のことをやっていました。

ニートは裕福な国に生まれたから存在できる。ニートを養っているのは裕福な社会です。

貧しい国や戦争をやっている国でニートが問題になることはありません。(やりたくても、できないという問題はありますが) これは個人の問題でもあるけれど、個人ではどうすることもできない社会問題でもあります。裕福にはなったけれど、「夢」を語らない社会で、いったいだれがやる気を起こすというんでしょうか。

もちろんニート的な人間はどこにでも、いつの時代にもいます。現に、俺自身が20代はニート的な生活を送っていました。ここで「的」と使ったのは、俺は就職も勉強もいやでしたが、かろうじて「旅」を続けたいという欲求は消えませんでした。(そういう欲求があるのはニートとは呼ばないのかもしれませんが) だから俺はなんとかそれにすがって生きがいを見つけ、やってこられたように思います。

ニートもそうですが、不登校もそうです。俺が幼稚園や小学生、中学生のころ、学校に行きたくなくて休むことが時々ありました。そのとき「怠け者」とか「ずる休み」と言われて非難されました。ところが今は、「不登校」というカテゴリーを与えられて、ある意味社会が認める地位を得たわけです。

「不登校」も「ニート」も数が増えたことでカテゴリーを与えられ、だからますます増えていくという循環に陥っているように見えます。 ある数に達しないとそれはカテゴリーとして認められないし、数が少ないと単なる「変わり者」と呼ばれ、周りも当事者も不安定で苦しむことになります。

中学3年になる俺の甥も不登校で苦しんでいますが、最近不登校の生徒が増えてきたということもあり、周りの人間も本人も「不登校」というカテゴリーを受け入れてしまうと、開き直ることができて精神的に楽になっているようです。「あの子も不登校だからいいんだよ」と。

カテゴリーを与えられると安心するし、それで周りの人間も当事者も安定してしまう。だから今のニートも不登校も、俺は裕福な国の象徴であり、裕福な国の現象だと思っています。別な言い方をすれば、何もしなくても生きられるんだから、これほど幸福な社会はないかもしれませんよね。(もちろんこれは皮肉ですよ。強烈な) それが「悪い」と一概に言えるのかどうか、ニート的だった俺にはわかりませんが。 世の中の価値観が変わる、兆候かもしれません。

ただ俺は、ニートの人たちに言いたい。何とかやりたいことを見つけてほしい。「夢」を見てほしい。何でもいいんです。多少イケナイことでも。なんなら外国へでもひとり旅してみたら? でも旅行代理店に電話するのも億劫なんだろうなあ。

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2005/09/03

最近の自然災害

アメリカ南部のハリケーンの被害。信じられないひどさです。

最近の自然災害は、局地化、巨大化しているように見えます。ハリケーンや台風は、海面温度上昇によって巨大になるとのこと。地球的規模で問題になっている森林破壊や温暖化と無関係ではなさそうです。

近代文明は、自然を破壊し、物の豊かさを追求し、それが人間の幸せだと思ってきました。(いまだにそうかな? 物の豊かさが必ずしも悪いと言っているわけではありませんが。偏っているのでは?) 何万年何千年とかけて、徐々に作り上げてきた自然との付き合い方を捨て、たかだかここ2、3百年の浅知恵でもって、自然を人間の思いのままに支配しようとすることは、少し冷静になって考えれば、無理なのは明らかです。

近代文明は、自然から許される改造の限界点を越えてしまったのかもしれません。その限界内でうまくやることが、生き物が生き続けられる唯一の方法ではなかったのでしょうか。

そして話は強引に棚田にもっていくのですが(すみません)、棚田の曲線は、近代文明の対極にあるものであり、その「ぎりぎりの限界線」「自然との最後の妥協点」の目に見える形、とでもいったらいいでしょうか、そんなふうに感じられるのです。俺にとって棚田は、欧米主導型の文明に対する「ささやかな反抗」を象徴するものであるのかもしれません。

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