「ニート」というカテゴリー
昨日のニュース番組で「ニート」のことをやっていました。
ニートは裕福な国に生まれたから存在できる。ニートを養っているのは裕福な社会です。
貧しい国や戦争をやっている国でニートが問題になることはありません。(やりたくても、できないという問題はありますが) これは個人の問題でもあるけれど、個人ではどうすることもできない社会問題でもあります。裕福にはなったけれど、「夢」を語らない社会で、いったいだれがやる気を起こすというんでしょうか。
もちろんニート的な人間はどこにでも、いつの時代にもいます。現に、俺自身が20代はニート的な生活を送っていました。ここで「的」と使ったのは、俺は就職も勉強もいやでしたが、かろうじて「旅」を続けたいという欲求は消えませんでした。(そういう欲求があるのはニートとは呼ばないのかもしれませんが) だから俺はなんとかそれにすがって生きがいを見つけ、やってこられたように思います。
ニートもそうですが、不登校もそうです。俺が幼稚園や小学生、中学生のころ、学校に行きたくなくて休むことが時々ありました。そのとき「怠け者」とか「ずる休み」と言われて非難されました。ところが今は、「不登校」というカテゴリーを与えられて、ある意味社会が認める地位を得たわけです。
「不登校」も「ニート」も数が増えたことでカテゴリーを与えられ、だからますます増えていくという循環に陥っているように見えます。 ある数に達しないとそれはカテゴリーとして認められないし、数が少ないと単なる「変わり者」と呼ばれ、周りも当事者も不安定で苦しむことになります。
中学3年になる俺の甥も不登校で苦しんでいますが、最近不登校の生徒が増えてきたということもあり、周りの人間も本人も「不登校」というカテゴリーを受け入れてしまうと、開き直ることができて精神的に楽になっているようです。「あの子も不登校だからいいんだよ」と。
カテゴリーを与えられると安心するし、それで周りの人間も当事者も安定してしまう。だから今のニートも不登校も、俺は裕福な国の象徴であり、裕福な国の現象だと思っています。別な言い方をすれば、何もしなくても生きられるんだから、これほど幸福な社会はないかもしれませんよね。(もちろんこれは皮肉ですよ。強烈な) それが「悪い」と一概に言えるのかどうか、ニート的だった俺にはわかりませんが。 世の中の価値観が変わる、兆候かもしれません。
ただ俺は、ニートの人たちに言いたい。何とかやりたいことを見つけてほしい。「夢」を見てほしい。何でもいいんです。多少イケナイことでも。なんなら外国へでもひとり旅してみたら? でも旅行代理店に電話するのも億劫なんだろうなあ。
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