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2005/10/30

西海

10月30日(日)、晴れ

今日は、御荘町の道の駅を、朝の撮影をするために午前6時半に出た。

西海町を一回り。湾に養殖いかだが浮かび、ちょうど日が出た。きらきら輝く海は美しい。そこから、半島の北西側に「外泊」という集落まで。ここは「石垣の里」として有名。民宿も3軒ほどある。観光地だ。それにしても、石垣の見事なこと。
ishigaki

3日にお祭りをやるとかで、今日は村人総出で草を刈ったり道路の清掃をしていた。車の周りにおじさんたちが集まってきて「所沢って、埼玉じゃないか」と話し合っている。それで俺は「そうです。埼玉です」といった。「大変だっただろ?」と同情してくれた。

あるおじさんと話す。おじさんは昭和20年に生まれたが、そのときは、村の周りの畑がなくなりつつあった。今はまったくの森に返って、当時の面影はない。「みかんだったんですか?」と俺が聞くと「まさか。みかんなんて贅沢品は、昔は作らなかった。作っていたのは、わしらの食べる芋や麦だった」

おじさんは、体を悪くしてから漁をしなくなった。以前は、イカやタイを獲っていた。「漁師は体力つかうでしょ?」「漁師ばかりじゃないだろ。サラリーマンだって同じこと。みんな大変なんだ。楽しているのは国会議員の先生たちかなあ」

「筏で養殖しているのは、タイ、カンパチ、ハマチなど。シマアジもやっていたが、採算が取れないんでやめた。タイは、養殖ものができてから安くなってしまった」
漁師は、養殖ものと天然ものとの区別、つくんでしょう?と聞くと、「ハマチは独特の臭みがあってわかるが、タイはほとんど変わらん」
black

おじさんは、タバコをふかしながら、歩き出した。おじさんが、防波堤に寝そべる猫に呼びかけると、返事をした。「おじさんのこと、知ってるみたいですね?」というと、「俺が飼ってる猫だから。家じゃなく、港に住み着いた」といって笑った。それでも所有権はおじさんのものなのだろう。猫の名前は「ぶらっく」だそうな。なるほど黒猫だ。あとで、俺も「ぶらっく」と遊んでやった。

村を出て、高茂岬へ向かった。たしか「こうも岬」と読むらしい。どこかに「コモリン岬」というのがあったなぁと、どうでもいいことを思い浮かべる。断崖の道を走る。が、それほど狭い道ではない。景色がいい。たくさん写真撮った。

御荘に帰り、一路国道56号で北、松山、今治を目指す。お遍路さんをたくさん追い抜いた。天気がいいので暑くて疲れるだろう。俺も、こうして日本をまわっているが、これも巡礼みたいなもんだ。ニッポンを知る巡礼だ。

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2005/10/29

宇和島

10月29日(土)、雨のち曇り

道の駅に泊まったが、明け方から本格的な雨になり、今、午前8時だが、まだやんでいない。これから回復すると天気予報ではいっていたが。これから宇和島を目指す。

田舎道を走っていると郵便局を見る。ほんとに小さな郵便局だ。今話題にもなっているが、民営化されると、郵便局はコンビニのような業務も始められていいではないか、ということをある政治家がいっていた。でも、それは都会にある郵便局の話で、田舎の郵便局の話ではない。だってこんな田舎の郵便局がコンビニになったとして、いったい誰が買いにくるのか? 猿、鹿、猪? 桃太郎じゃあるまいし。今までコンビニ作っても仕方ないからコンビニがないのだ。
akehama

国道56号線で明浜町をめざした。56号から分かれて県道に入り、峠を越えたとき雨は止んで、天気は回復していった。眼下に見下ろす海と集落。周辺はみかん畑だ。畑の石積みが白っぽい。白い石で積んである。みかん畑と、海が見える写真のポイントを探す。それなりにいいところを探した。それにしても、今日は風が強い。Tシャツでは涼しい。秋が深まっているのを感じる。

宇和島市へ出て、そこから県道を西へ向かい、水ヶ浦の段々畑へいった。途中、案内板が出ていて迷うことはなかった。ということは、逆に有名な観光地なのだろうか。輪島市の白米千枚田のように。
uwajima

それほど観光地というほどではなかった。もしかしたら、たまたま今日は俺だけだったのかもしれないが。それにしても、すごい。宇和海を望む斜面が全部石垣の段々畑だ。下の漁村から見上げたとき、度肝を抜かれた。まるで巨大な城壁。

上に登っていくと、おじさんがいた。玉ねぎを植え付けしているという。埼玉から来たと知って、驚いていた。仕事が終わって帰るとき、「いいの撮れた?」と声をかけてくれた。「すごいですね。こんな畑、初めてです」 水田(棚田)はよく見ているが、段々畑をそれほど見ていない。というか、あまり興味がなくて、見過ごしていたのだろう。今までは「棚田」にこだわっていたので。

ここでは、サツマイモを栽培する。11月に植えつけて、翌年4月に収穫。他の時期は何も作っていない。おじさんは漁師でもある。湾に浮いているのは、養殖筏。タイ、ハマチなどを養殖しているそうだ。ただおじさんはもうやめてしまったらしい。「養殖できるのは、お金がある連中。お金がないとできないよ」 借金して筏をつくるのだろうか。だんだん養殖も、うまみがなくなってきているようだ。孫が、都会から帰ってくるので、うれしそう。

宇和島からさらに南下して、途中、温泉で一休みし、夜、御荘町に到着。

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2005/10/28

愛媛県佐田岬

10月28日(金)、晴れのち曇り

昨日は、伊予から8kmにある双海の道の駅「ふたみ」で泊まる。眠はじめたとき、突然「すみません」と、懐中電灯を持ったおじさんから起こされた。「泊まるの?」と聞かれた。なんでも、ここは、午後10時から翌朝5時まで門が閉まってしまうのだという。だからそれまでは出られなくなると教えてくれたのだが、警察かと思った。

今朝は、まだ暗い5時半に道の駅を出た。国道378号線で保内町まで、そこから197号線で三崎町へ向かう。佐田岬半島の背骨を走る道。両側に海を見て走るいい道路。三崎に入ってすぐ、前方の半島の斜面に比較的大きな集落が見えた。ここが名取の集落。なんでも、伊達藩から分家だか婿入りだかしてきた殿様が、伊達藩からつれてきた農民や商人を住まわせたのだという。だから今でも、まだ言葉の訛りが、微妙に地元の人たちとは違うそうだ。(宮城県には「名取市」がある)

三崎から大佐田へ向かう。この集落には「船蔵」というものがある。船を入れる倉庫だ。防潮、防風の役目もあるらしい。この村のおじいさんと話し込んでしまった。80歳くらいだが元気。昔のことをよく知っている。名取の村の話も、このおじいさんが教えてくれたもの。
hunagura


ところで、船蔵だが、一軒の小屋を、まんなかに仕切りをして2軒で使っていた。台風が来たときは、船蔵の中の仕切りをはずして、奥の家の船も入れた。昔は漁をするためではなくて、肥料にする海草を採っていた村だそうだ。海草を乾燥し細かく砕いたものが肥料として使われていた。ところが化学肥料が使われだして、海草の需要がなくなってしまった。昭和4年ころまで、船蔵は海に面していたが、村人総出で山から羊歯の一種を取ってきて束にして敷き、上から土を盛って湾を埋めた。その後、海岸沿いに道ができた。だから今は、船蔵といっても、海岸からは30mくらい離れているし、船を入れるのではなくて、車庫や道具などの物置小屋として使われている。昔は、船蔵も、海に面していない奥のほうが喜ばれたが、今は、道に面したほうが喜ばれるらしい。どこかの研究者が前訪ねてきて、船蔵の図面を作っていったこともあるそうだ。

神武天皇の時代からここには人が住んでいたらしい。おじいさんの話は古代までさかのぼっていった。なんとかとなんとかの戦いでは、この山に陣地があった、とか。あるときの台風では、大きな漁船が50mも吹っ飛ばされて逆さになった。後ろの山に当たった吹き返しの突風というのは恐ろしいものだ、とか。佐田岬半島を通る国道を建設してくれるように田中角栄に陳情にいったことがある。直接本人に会うことはなかった。秘書もたくさんいて、いろんなところから来る陳情団に面会していたらしい。こりゃぁ大変だと思ったという。そんなこんな、いろんな話をしてくれた。お年寄りの昔話を聞くのは面白い。最後に記念写真を撮って分かれた。

午後、八幡浜と大洲経由で、内子町まで。ここには屋根つき橋がある。日本版「マジソン郡の橋」だ。昔は、10以上かかっていたそうだ。でも今は、新しく建てたものを含めて4つだけ。

ところで、俺も主人公と同じ写真家で屋根つき橋を撮影するためにここにきたが、地元の「奥さん(名前なんだっけ? 確かイタリア系)」と知り合う機会は残念ながらなかった。
uchiko

屋根つき橋は、中国貴州省にもある。トン族の「風雨橋」と呼ばれるものだ。釘を一本も使っていない。この風雨橋も、地元のひとたちの集会所になったり、物置になったりする。ここでも、生活に使っている橋だ。ちょうど稲を刈って干したやつを取り込む作業をしている夫婦がいた。橋にトラックとコンバインを入れている。

橋を渡った対岸の田んぼはすべておじさんたちのもの。だからこの橋もおじさんたち専用といってもいい。稲はヒノヒカリを作っているそうだ。ここでは、川から水を引いてくるので、水田ができるという。ただ、この橋は、以前は普通の木の橋で、屋根つき橋になったのはつい最近らしい。

今日は、内子に泊まる。龍王温泉というのがある。5年前、「棚田百選」の五十崎町泉谷の撮影で内子を通り、そのときもこの温泉に入った。湯船にゆったり浸かっていると、小太りのやさしそうな青年が入ってきた。その背中を見て、「さすが龍王温泉だな」と心の中でつぶやいた。背中には立派な龍が踊っていた。

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2005/10/27

岡山から四国へ

10月27日(木)、晴れ

昨日は、岡山市の南、玉野市の道の駅「みやま公園」で泊まった。今朝は、7時に出発。近くの児島湖の撮影。これもまた残したい日本の景観のリストに入っている。朝もやが漂う湖は幻想的。漁をする小船が通る。湖には鳥の姿も多いね。俺は鳥に詳しくないので、名前はわからないが、けっこう大きな鳥も飛んでいた。

kojimako

1時間ほど撮影して、宇野港へ向かう。湖から30分で、高松行きのフェリー乗り場に着いた。俺の車は大きなフェリーだが、車は4台くらい。ぜんぜん混んでいないんだね。のんびりしていていい。この日記は、フェリーの客室で書いている。

5年前、棚田百選の撮影のために、小豆島へ渡ったが、島は、この航路の東側だ。あのときもいい天気だったが、今日もいい天気。ちょっとガスってはいるが。大小の島影が現れては消える。大きな白い貨物船なども通っている。たくさんの小船が浮いているところを通過。なんの漁だろう。

高松までは1時間だそうだ。ようやく四国に入る。昨日は、思わず牛窓湾に時間をかけてしまい、四国へ入れなかった。牛窓が思った以上に面白いところだったからだが。そういえば、昨日牛窓湾を見渡せる展望台へいったとき、ギリシャふうのモニュメントがたっていたが、ギリシャのどこかと姉妹都市関係があるのかもしれない。瀬戸内海は、気候風土が地中海、エーゲ海と似ていなくもない。しかも、オリーブも植えられていたし。これもニッポンの風景。日本も広いなと思う。いろんなところを見て、ニッポンを知りたいと思う。そのための旅だ。

そろそろ前方に町並みが現れた。あそこが高松港か。これから、徳島県の美郷町へ向かう。

高松から国道193号で南下し、山を越え、脇町へ。そこから美郷までは20分。美郷町は合併で町ではなくなっているようだ。市の名前は忘れてしまったが。
目指す段々畑が地図に載っていなかったので、役場にいって場所を聞いた。親切に教えてくれた。でもくれぐれも道が狭いし、山道は迷うと大変なので、気をつけてくださいといわれた。この段々畑では、ライトアップのイベントをやるそうだ。パンフレットをもらう。12月17日(土)、18日(日)の、午後5時から午後9時まで。写真コンテストをやる、と、ある。
misato

高開の石積みの段々畑。たしかに道は狭かったが、棚田撮影でこれくらいの道には慣れている。でも久しぶりの緊張する山道だ。地元の軽トラはすいすいと運転していく。
石積みはなかなか見ごたえがあった。見上げると城壁のようだ。民家のほうへ上ってみた。山と谷のパノラマがすごい。対面の山の斜面にも民家が点在している。昔、車がなかったころは、谷へ下りて、また上ってという「登山」状態で村々を行き来していたんだろう。中国雲南省の山村を思い出してしまった。

石積みを遠くから見ようと、谷の反対へいった。そこに民家があって、おじいさんが庭の畑仕事をしていたが、「こんにちは」と挨拶すると、「写真か?」と聞かれ「そうです」と返事をしたら、「庭から撮ったらええ」といってくれた。それで民家の庭に入り込んだ。奥さんがいたので挨拶する。ちょうど石垣がよく見える。
お礼に絵葉書をあげた。おじさんは徳島弁(?)でしゃべったが、わからないので、共通語に直して書く。
「最近、ここ2、3年、町の人たちが訪ねてくるようになった。石積みの体験とか講習会とか。今日も朝からやってるようだよ。こんど、ライトアップのイベントもある」
「このあたり、梅の木が多かったんだけど、枯れてきているのもあるし、梅が少なくなってしまった。」
水田はないんですよね?と俺が聞くと、「ない。畑ばかりだ。水がないから水田は作れないよ。」
そういえば、沢の水が流れているところを見ていない。

山を降りて、国道192号線をひたすら西へ進む。さすがに「うどん」の看板が多い。俺もそのなかの一軒でうどんを食べた。出汁がうまいね。

途中高速に乗って夕方、松山市の西、伊予まで来て降りた。これから国道387号線で佐田岬をめざす。

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2005/10/26

岡山県

10月26日(水)、晴れのち曇り

昨日は、京都から国道9号線を西へ約30分、亀岡市の道の駅に泊まった。

今日は、午前7時に道の駅を出た。372号線を西へ走る。霧が出て見通しがわるい。気をつけなければ。

30分ほどすると、霧が晴れてきた。亀岡市から園部町に入ったあたり、靄がかかった水路と民家が美しく、車を止めて写真を撮る。こういった何気ないところの一瞬の風景はいいね。会社へ急ぐ人たちは、何をやっているんだろう?という顔をして通り過ぎていく。

この国道372号線は、社町などを通り、姫路まで通じている。それほど交通量も多くなかったし、風景が典型的な「ニッポン」でなかなかいい道だった。途中、狸が車にひかれた死体と2回でくわす。あやうくひきそうになり、急ハンドルで避ける。

姫路市の真ん中を通り、2号線に乗り、さらに西へ向かう。道は走りやすく快調。備前市から権道9号線に入る。小さい港町があったので、スーパーで買い物。

39号線で南下。このあたりちょうど稲刈りのシーズンだった。他のところと比べるとずいぶん遅いようだ。もしかしたら、今年は雨がなかなか降らなくて、田植えが遅れたといっていた九州の院内町と同じで、田植えが遅れたからかもしれない。
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40分ほど、牛窓についた。ここの湾の風景と段々畑を撮るために、俯瞰できるところを探す。「オリーブ園」というのがあったので、上っていったら、そこから湾と町並み、そして段々畑が見えた。キャベツやレタス畑。オリーブ畑の隣に田んぼもあった。

町に戻る。フェリー乗り場のところに観光案内所があった。地図をもらう。牛窓は古い町並みが残っている。海に沿った「唐琴通り」。いくつか寺や神社がある。上ると、牛窓湾と民家の屋根が見えた。ちょうど午後の太陽が、ひつじ雲の隙間から差し込んで、遠くの海がきらきらと輝いている。ときどき、漁船やフェリーがその光る海面を横切っていく。

リゾートホテルのほうにも登ってみた。地中海風のホテルは、展望レストランがあるようだ。そのあたりは新しい家がいくつも建てられていたが、別荘なのだろうか。

もういちどオリーブ園へいく道を登り、畑の写真を撮った。雲が厚くなって、まったく太陽が見えなくなってしまった。現在16時40分。牛窓をあとにする。今日は、岡山市の児島湖あたりに泊まろうと思う。

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2005/10/25

京都

10月24日、晴れ

今日は午前11時に埼玉県の自宅を出て、八王子から高速に乗った。途中3回の休憩をして、きれいに色付き始めている紅葉も横目で見て、暗くなってから滋賀県彦根のインターを下りて、国道8号線沿いの道の駅(名前忘れた)に到着。午後7時。今日の走行距離は、470km。さすがに軽自動車では疲れるな。

隣に止まった地元のおじさんが、俺の「所沢」ナンバーを見て、俺の顔を見て、またナンバーを見た。そんなに珍しいかい? 所沢ナンバー。軽では驚くかも。「よく来たねえ」という同情というよりも、哀れみに近い表情が気になった。近くの食堂で食事して、午後9時には寝る準備。

国道に面しているが、奥まで入ると静かでいい。インドネシアのバティック布を窓につるして外光を遮断するから、家で寝ているのとあまり変わらない快適さ。外から見たら怪しいぞ。へんな車がいるなんて通報されたりして。
予想以上に寒い。でも大丈夫、そこは抜かりなく、布団も持ってきたので快適。


10月25日、晴れ時々雲

nagarebasi

午前5時に起きてしまった。どうも寝付かれなかった。まだ慣れないせいだろう。

出発。8号線を京都までいって、そこから1号線で大阪方面へ。まず今日の目的は、八幡市の木津川にかかる流れ橋。よく時代劇のロケとしても使われる有名な橋。ちょっと道に迷ってしまい、橋の休憩所とは反対側の土手に出てしまった。

車は通れないが、人や自転車やバイクは通る。生活道路なのだ。ちょうど学生が学校へ行く時間らしく、何人かこの橋を通っていった。なかなかいいね。単なる観光の橋ではなくて、地元でちゃんと使っているものというのは。だからこの景観を残そうというリストにも入ったわけである。
この木の橋は両側に欄干のようなものはない。バイクがスピードを上げて通るのでけっこう怖い。

写真を撮っていると声をかけられた。65歳くらいの地元のおじいさん。おじいさんも写真が趣味らしい。だから、どこから撮影すればいいか教えてくれた。いろいろ話していたら、俺が「プロ」らしいということがばれたので、雲南の棚田のポストカードをあげた。裏には写真集の宣伝が書いてあるが、気がついてくれるかな。

おじいさんの話では、2ヶ月ほど前、子どもたち(といっても、中学生か高校生らしいが)が橋で花火をして燃やしてしまったという。そこは焼け焦げていて、バリケード張られていた。ちょうどこのバリケードが、写真的には目立つ場所にあり、ちょっと困った。全体ではなくて、部分を切り取ることにする。

木津川をあとにして、また京都に戻った。そこから国道162号線で北山へ向かう。北山杉の林業景観である。
京都から北へしばらく走ると、道は狭くなり、カーブが多くなる。それでもダンプが猛スピードをあげてやってくるので、危ない道だ。「危ない道」と看板も出ていた。高山寺あたりから周りの山には杉林が多くなる。なかなか美しい。ほんとなら、冬景色なんかもいいのだろうが、とりあえず、今回は秋の風景を撮影しておく。まだ紅葉の盛りには早いようだ。あと1週間くらいだろうか。
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北山杉の資料館によってみた。川端康成の「古都」の一章を刻んだ碑が立っている。「北山杉資料館」という。レストランにもなっている。もともと材木屋さんだった個人が経営しているという。北山杉のことを知るにはいい場所だ。昔の写真もある。

奥さんが丸太を30cmくらい切ったやつを10個ほど並べていたので、なんですか?と聞くと、学生さんたちの杉の皮はぎ体験の準備中とのこと。

そのもっと先、京北までいってみた。帰りながら、北山杉の写真を撮る。そしてまた京都市内に帰ってきた。スパーの駐車場で、この日記を書いて、アップした。

これからどうするか? 明日は四国を目指す。昨日の長距離運転。そして今日は早朝からの撮影だったので、今晩は近くの道の駅でとまることにする。

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2005/10/22

新遊牧民

20代から旅をはじめ、そのほとんどはバックパッカーでしたが(昔は貧乏旅行者と呼んでいたな)、「棚田」と出会い、日本をまわることになって、旅のスタイルもちょっと変わってきました。

日本は宿泊費が高い。それでこの宿泊費をどうやって少なくするかと考えたとき、車に寝泊りするのがいいと結論を出しました。軽のワンボックスカーの後ろを平らにして、そこにマットを敷くとちょうど足が伸ばせる大きさのベッドの完成です。

もともと俺は「アウトドアー派」ではありませんが、昔ヨーロッパでバックパッカーをやっていたころは、ヒッチで野宿もやっていたし、「宿泊施設に泊まらない」旅に、それほど抵抗感はなく、それどころか、この車に寝泊りする旅が妙に肌にあっていて、面白さを感じています。

なぜ軽自動車か?というと、もちろん経済的な問題もありますが、棚田などの撮影に行くと、道は狭いし、運転に自信のない俺はなるべく小さい車にしたいという理由もありました。(恐れていた通り、初日に側溝に脱輪してしまいましたが) それと「自然」や「棚田」を撮影するのに、大きな車を使うことに違和感を持つからでもあります。とくに軽は長距離移動にはむかなくて疲れますが、なるべく必要最低限のもので(バックパッカーのように)旅をする精神(?)だけは忘れないようにしようと思います。

1999年の秋に「日本の棚田百選」をまわったときがはじめてでしたが、それ以降、日本を長期でまわるときはこのスタイルです。全国には「道の駅」があって、24時間水場とトイレが使えます。ここに車を停めて寝ます。こんな旅のスタイルは、ある程度定着しているらしく、全国の「道の駅」へ行くと、同じような旅人に出会います。

さて昔のエッセイにも書きましたが、こういった期間は、「旅」であると同時に俺にとっては「生活」でもあります。写真を撮るという「仕事」も兼ねています。パソコンを持っていって、メールをやり取りし、たまには、原稿なんかも送ったり、修正したりします。写真もデータで送ることが増えているので、デジカメとパソコンがあれば、全国どこへいても仕事は可能になってきました。

極端に言えば、定住する必要がなくなりつつあります。もともとこういうスタイルにあこがれていたんだと思いますが、「家」のような大きな物を持たなくても、生活はできるかもしれないなと、最近思っています。100パーセントそうするにはまだまだ問題はありますが、今は、実験段階といっていいでしょう。俺はこのスタイルを「新遊牧民」と呼んでいます。

ということで、24日から10日間ほど、またこのスタイルで旅をします。今回は、近畿、四国、中国地方を回る予定です。このブログにも、ほぼ毎日、日記を更新するつもりなので、興味のある方は、のぞいてみてください。


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2005/10/20

「桃源郷」と「写真」

「桃源郷」とは、晋代の陶淵明作『桃花源記』が元になった「理想郷」といった意味の言葉です。中国湖南省が舞台になっていますが、実際「桃源」という町があります。

町の名前としては実在しますが、「理想郷」といった意味の「桃源郷」は、ほんとにどこかにあるんでしょうか?

俺は「ある」と信じています。そして「ない」とも思っています。まったく矛盾することを同時に信じているわけですね。どういうこと? つまり、俺はこう感じています。「桃源郷」を「ある」と信じて「探している状態」が「桃源郷」なのだと。
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実際どこかの「桃源郷」にたどり着いたとしても、たどり着いた瞬間、「桃源郷」ではなくなってしまいます。どこの国、地域も旅行者にとっては理想郷でも、住んでいる人には生活の場であり、嫌なこともたくさんあって、決して理想的な「桃源郷」とは言えません。どこも一長一短あって、完璧な桃源郷はないのかもしれません。それもわかるんですが、「ない」と言ってしまうのも、なんか寂しすぎます。やっぱり俺は「ある」と思いたい。

それで写真を撮る行為なんですが、その理想とする「桃源郷」を探すことなんだろうなと思うんです。ただ「場所」ばかりではなく、精神的な「状態」も含みます。

この写真は「週刊朝日」に載せているミャンマーの親子の写真ですが、俺はこの親子の姿を借りて、俺の「桃源郷」を現しているんです。彼女たちの姿を見たとき「いいなあ」と感じました。もちろん俺はそれほど仏教を信じていませんので、仏教徒の理想としてではなくて、もっと根源的なこと、たとえば「生きることへのひたむきさ」とか「信じることの純粋さ」とかですね。そういった人間としての「理想」を目に見える形で表したもの、それが写真であったり、絵であったりすると俺は思っています。


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2005/10/16

「週刊朝日」ミャンマーの写真掲載

myanmar

10月18日発売の「週刊朝日」のグラビアにミャンマーの写真が掲載されます。

ミャンマー東北部シャン州にインレー湖がありますが、ここで行われる「ファウンドーウー祭り」の写真と、インレー湖から車で2時間のところにある「カックー」遺跡の写真です。

インレー湖上にある仏教寺院「ファウンドーウー」から仏像を乗せて、伝説の鳥カラウェイ船で村々を巡る祭りです。毎年10月ころ行われますが、写真はちょうど1年前撮影したものです。

また「カックー」は、外国人に開放されてまだ5年しかたたない遺跡ですが、ここには2000基を越すシャン、パオ、ビルマ様式の仏塔が林立する、凄みを感じさせる遺跡です。

ミャンマーは、アウンサン・スーチ氏の軟禁状態が続き、民主化の流れも滞り、先の見えない状態ですが、一般の人々の暮らしは仏教とともにあり、金箔が厚く貼られた仏像の前で一心不乱に祈りをささげている姿に、胸を打たれる思いがしたのでした。

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2005/10/10

新しい「車語」

土日、千葉県に撮影に出かけました。

あいにく雨で、撮影もほとんどできず、房総半島鋸南町の「ばんや」で安くて新鮮な魚料理(イカ刺し、キスの天ぷら)を食べ、ついでに隣の温泉に入り、ついでに隣の道の駅で寝て帰ってきました。まるで「ばんや」に食事しにいったかっこうになってしまいました。

ところで、今回運転していて気がついたのですが、例えば、自分の前に、割り込もうとしている車を入れてあげたとしますね。すると、その車が、ハザードランプを少し点滅させるのです。5、6回そういうことがあり、俺は、これは「感謝」の意味だろうと結論付けました。そうですか? 知っている人がいたら教えてください。車を運転する人には常識なんでしょうか? 

でも、どうしてこんなこと、今回気がついたのかわかりません。今までさんざん車を運転しているのに。千葉県だけで通じる「車語」なのかなと思ったら、東京都内でも1回点滅されました。昔はなかったので、最近のことなんでしょうか。

前方の車に道を譲るときは、ヘッドライトを一瞬照らしますね。これは知ってました。

それなら、俺も新しい「車語」を考えました。みんなで流行らせよう!

1:割り込もうとしている車のドライバーが手を挙げて「入れてください」と言ってきたとき、「嫌です」という拒否の意思表示として「ウインドーウォッシャー液を出す」。
 (液は涙です。泣いているんです。クラクションでもいいのですが、クラクションでは露骨過ぎて角が立つので、控えめな「拒否」ですね)

2:後ろの車にパッシングを受けてしつこいなと思ったら、「リアウインドーのワイパーを動かす」。
 (イヤイヤしてるようで、なんとなくわかるでしょう?)

3:パッシングがあまりにもひどいときのために、ウインドーウォッシャー液を赤いものに換えておき、それを出しながらワイパーを動かす。
(突然赤い液が出てきたら驚いて離れていくでしょう。でも、後始末がたいへんだな。これは実用的ではありませんね)

どうですか。「感謝」があるなら「拒否」もあってもいい。そのほかも、考えてみます。

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2005/10/05

やってみたいこと。「ターミナル」を観て

トムハンクス主演の「ターミナル」を観ました。

何ヶ月も空港ターミナルに住んで、仕事も、恋愛までもしてますね。ありえない話だけど、面白い映画でした。

観てない人のためにあらすじを書くと、クラコージアだっけ? 東欧の架空の国からアメリカへやってきた主人公が、空港ターミナルに着いたとき、祖国クラコージアがクーデターかなんかで国自体がなくなり、彼が持っていたビザが無効になり、アメリカに入国できなくなり、ターミナルにずっといるという話。

どうしてアメリカに来たか?という理由は、俺には説得力がなかったので、それは省略することにします。俺が興味を持ったのは、こういう状況になったとき、ターミナルで暮らしていけるのか?ということでした。

実は、今から10数年前、まだ写真だけでは食ってなくて、いろんなバイトをしているとき、新幹線の清掃のバイトをやったことがありました。夜中です。だからバイトを終えて帰る早朝、駅の売店から出た前日の大量の売れ残り弁当が山積みされていました。捨てられるんだろうか? なんて日本は裕福な国なんだ、もったいないなあと思いながら、それを横目で見て帰宅したのを覚えています。

これを食糧にすれば、駅で生きていけるかもと、ひらめいたのです。たぶん、ホームレスの人たちは、やっていることなんでしょう。ただそれだけでは面白くないので、いろいろ考えました。実際やるのは面倒くさいし、その実行力もないので、あくまでも想像の世界で、ある「男」を作り上げました。当時は安部公房をよく読んでいたので、「箱男」などから連想したのかもしれませんが、「山手線の内側で生きている男」です。

切符を買って一度改札を入った男は、一生改札を出ないんです。でも、改札の内側には、トイレもあるし、水場もあるし、今では、シャワーも、ヘアーカットの店さえあるので、基本的な生活はできます。旅行したかったら、電車に乗ってけっこう遠くまで行けます。改札さえ出なかったら、ただですから。

ただ、問題は、夜になると駅員から表に出されてしまうでしょう。それをどうするか。どこかに隠れるしかないんでしょうね。それをうまくクリアーできれば、ずっと暮らせるはずです。

映画の中では、主人公は頭を使って小銭を稼ぎました。主食は、売店の売れ残り弁当でいいですが、やっぱりたまにはコーヒーも飲みたいし、暖かいそばも食べたい。そして服もたまには着替えなきゃ。そのための小遣い稼ぎをどうやるか。きっと何かあるはずです。もっと、考えてみます。

ところで、暮らせはするけど、いったいそれは何のためなの?と聞かれると、ちょっと困るな。毎日ひたすら駅を行きかう人間を見てすごす男。人々の服装の違いで季節を感じ、顔の表情で景気がいいのか悪いのかを知る。

どうですか、こんな男。哲学的な人間が生まれそうです。そういえば、「箱男」は元カメラマンという設定でした。見ることと、見られることとの関係。箱をかぶることで、男は匿名性を得るのですが、「山手線の内側で生きている男」も似ているかもしれません。

なぜかわからないけど、いまだにやってみたい気がします。匿名で生きることは、気持ちよさがあるからかな。映画を観て、思い出してしまいました。


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2005/10/04

バリ島爆弾テロ、再び 2

今回のバリ島のテロで、あらためて3年前に書いたレポートを読み返してみました。基本的には、テロに対する俺の思いなども変わっていないので、あえて書き直すところはありませんでした。

http://www.asia-photo.net/a-gallery/bali/terro/terro_02.html

あのあと、アメリカはイラクを攻撃しましたが、大義名分であった大量破壊兵器もみつからず、泥沼に陥っています。アメリカ型民主主義を押し付けようとしていますが、そんなにアメリカ型民主主義って、人の国に勧められるほどいいものなんでしょうか? 放っといてよ、と言いたくなる気持ちも少しわかります。

そして日本もその泥沼に片足を突っ込み、引き抜こうとしても引き抜けない状況です。テロの嵐は世界中に広がってしまいました。3年前素人の俺でさえ、こうなってしまうんじゃないかと思ったことが、現実になってしまいました。

そしてまたバリ島です。でも、考えてみると、バリ島がテロの被害にあったといっても、インドネシア国内ではしょっちゅう起こっていることです。そもそもインドネシアはテロが多い国なんです。それを知ってか知らずか、まるで台風が来るから注意してよと言われているところに飛び込んで行くようなものなのかもしれません。

今現実問題として、ここしばらくはテロはなくならないでしょう。テロを起こす側に、俺たちの理屈は残念ながら通じません。それが何年、何十年になるかわかりません。だから今は、テロをなるべく回避する方法を考えるしかないのかもしれません。テロにあいたくなかったら、テロが起こりそうなところには行かないと。(でも、そんなこと言い出したら行くところなくなってしまいます。俺は行きますけどね)

3年前、バリ島のテロのとき、デンパサールの病院でボランティア活動をしていた地元の大学生が言いました。
「バリは、外国人が死んだからこんなに注目された。でも、インドネシアではしょっちゅうテロが起こっているが、外国では無視される。それが問題では?」と、俺に詰め寄りました。俺は返す言葉がありませんでした。

今回だってそうです。外国人(とくに欧米人)が犠牲になったから世界で大きなニュースになっただけで、インドネシア人だけだったらそれほど関心を引いていなかったでしょう。

先進国と言われる国の人たちの、その無関心がテロが起こる背景にはあるんだよと、大学生は言いたかったのではないかと、今思うのです。


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2005/10/02

バリ島爆弾テロ、再び

1日、バリ島で爆弾テロがありました。またか?という感じです。今回も、日本人観光客が巻き込まれてしまいました。ひどい話です。

3年前の、2002年10月にもバリ島で爆弾テロがあり、200人以上が犠牲になりました。そのとき俺も現場から40kmほど離れたウブドゥに滞在していたので、それから1週間ほど、爆弾テロを取材していました。そのとき書いたレポートは、次のページに掲載しています。

http://www.asia-photo.net/a-gallery/bali/terro/index.html

今回の連続爆弾テロは、クタとジンバランで起きたようです。ジンバランは、数年前まで静かな漁村でした。最近は、シーフードレストランが立ち並ぶ、リゾート地になってきました。

海岸にレストランが並ぶジンバランのこの写真は、2002年9月下旬ころ撮影したものです。
bali_01

ニュース報道などによると、このレストランで数回爆発があったようです。ここは、もちろん外国人もやてきますが、俺がいったときのことを思い出してみると、外国人の数よりもインドネシア人の客の方が圧倒的に多かったようです。と、いうことは、少なくともジンバランに関するかぎり、外国人ばかりをターゲットにしたわけではないと思われます。ここには、金持ちのインドネシア人もたくさん来ますから。

2002年10月のレポートにも書きましたが、バリ島は、イスラム教徒の多いインドネシアの国内においては、特殊な場所と言えます。バリはヒンズー教徒が多く、観光地として成功している島です。ビーチでは裸で歩いたり、昼から酒を飲んでいる外国人たちを多く目にします。厳格なイスラム教徒にすれば、この島こそ、インドネシアではもっとも欧米文化にかぶれ、「堕落した場所」と映っているのかもしれません。

これも前に書いていますが、バリの爆弾テロを見ると、対岸の火事ではなく、日本もテロの危険にさらされている事実を再確認させられるのです。「テロリスト」にも故郷があり、家族があり、考えがあるならば、テロを起こしたらどうなるかという想像が働かないのか?と不思議に思ってしまいます。テロに対抗する方も、単純に「テロリストは悪い」とヒステリックに叫んで、暴力には暴力でというアメリカ的発想で解決できる問題ではけっしてないことだけは確かでしょう。

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