愛媛県佐田岬
10月28日(金)、晴れのち曇り
昨日は、伊予から8kmにある双海の道の駅「ふたみ」で泊まる。眠はじめたとき、突然「すみません」と、懐中電灯を持ったおじさんから起こされた。「泊まるの?」と聞かれた。なんでも、ここは、午後10時から翌朝5時まで門が閉まってしまうのだという。だからそれまでは出られなくなると教えてくれたのだが、警察かと思った。
今朝は、まだ暗い5時半に道の駅を出た。国道378号線で保内町まで、そこから197号線で三崎町へ向かう。佐田岬半島の背骨を走る道。両側に海を見て走るいい道路。三崎に入ってすぐ、前方の半島の斜面に比較的大きな集落が見えた。ここが名取の集落。なんでも、伊達藩から分家だか婿入りだかしてきた殿様が、伊達藩からつれてきた農民や商人を住まわせたのだという。だから今でも、まだ言葉の訛りが、微妙に地元の人たちとは違うそうだ。(宮城県には「名取市」がある)
三崎から大佐田へ向かう。この集落には「船蔵」というものがある。船を入れる倉庫だ。防潮、防風の役目もあるらしい。この村のおじいさんと話し込んでしまった。80歳くらいだが元気。昔のことをよく知っている。名取の村の話も、このおじいさんが教えてくれたもの。
ところで、船蔵だが、一軒の小屋を、まんなかに仕切りをして2軒で使っていた。台風が来たときは、船蔵の中の仕切りをはずして、奥の家の船も入れた。昔は漁をするためではなくて、肥料にする海草を採っていた村だそうだ。海草を乾燥し細かく砕いたものが肥料として使われていた。ところが化学肥料が使われだして、海草の需要がなくなってしまった。昭和4年ころまで、船蔵は海に面していたが、村人総出で山から羊歯の一種を取ってきて束にして敷き、上から土を盛って湾を埋めた。その後、海岸沿いに道ができた。だから今は、船蔵といっても、海岸からは30mくらい離れているし、船を入れるのではなくて、車庫や道具などの物置小屋として使われている。昔は、船蔵も、海に面していない奥のほうが喜ばれたが、今は、道に面したほうが喜ばれるらしい。どこかの研究者が前訪ねてきて、船蔵の図面を作っていったこともあるそうだ。
神武天皇の時代からここには人が住んでいたらしい。おじいさんの話は古代までさかのぼっていった。なんとかとなんとかの戦いでは、この山に陣地があった、とか。あるときの台風では、大きな漁船が50mも吹っ飛ばされて逆さになった。後ろの山に当たった吹き返しの突風というのは恐ろしいものだ、とか。佐田岬半島を通る国道を建設してくれるように田中角栄に陳情にいったことがある。直接本人に会うことはなかった。秘書もたくさんいて、いろんなところから来る陳情団に面会していたらしい。こりゃぁ大変だと思ったという。そんなこんな、いろんな話をしてくれた。お年寄りの昔話を聞くのは面白い。最後に記念写真を撮って分かれた。
午後、八幡浜と大洲経由で、内子町まで。ここには屋根つき橋がある。日本版「マジソン郡の橋」だ。昔は、10以上かかっていたそうだ。でも今は、新しく建てたものを含めて4つだけ。
ところで、俺も主人公と同じ写真家で屋根つき橋を撮影するためにここにきたが、地元の「奥さん(名前なんだっけ? 確かイタリア系)」と知り合う機会は残念ながらなかった。
屋根つき橋は、中国貴州省にもある。トン族の「風雨橋」と呼ばれるものだ。釘を一本も使っていない。この風雨橋も、地元のひとたちの集会所になったり、物置になったりする。ここでも、生活に使っている橋だ。ちょうど稲を刈って干したやつを取り込む作業をしている夫婦がいた。橋にトラックとコンバインを入れている。
橋を渡った対岸の田んぼはすべておじさんたちのもの。だからこの橋もおじさんたち専用といってもいい。稲はヒノヒカリを作っているそうだ。ここでは、川から水を引いてくるので、水田ができるという。ただ、この橋は、以前は普通の木の橋で、屋根つき橋になったのはつい最近らしい。
今日は、内子に泊まる。龍王温泉というのがある。5年前、「棚田百選」の五十崎町泉谷の撮影で内子を通り、そのときもこの温泉に入った。湯船にゆったり浸かっていると、小太りのやさしそうな青年が入ってきた。その背中を見て、「さすが龍王温泉だな」と心の中でつぶやいた。背中には立派な龍が踊っていた。
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コメント
「マジソン郡の橋」のように 素敵な風景ですね。
主人公になった気分。。。>^_^<ニコッ
わたしも 旅してるようで 楽しくなりました。
山形に行って 月山の麓の五色沼の辺の「つたや」に泊まってきました。
紅葉して 桃源郷ノヨウデシタ。。。
車を運転しながら。。。あおやぎさんのふるさとだ!って思ったりしました。。。
投稿: lee | 2005/10/31 01:06