アップルトンの「隠れ家理論」とネット上の匿名
アップルトンの「隠れ家理論」というのがあります。たまたま「景観」というキーワードで本を探していたとき、ふと目に止まった本でした。ただこの本は難しく、3分の2を読んだところで挫折してしまいました。
でも、大雑把に(俺が理解した範囲で)言うと、「眺望が良いところで、しかも近くに隠れるところがある場所というのは、生物学的に、人間が好ましいと思う空間である」ということらしい。(間違っていたらすみません)
つまり、これは動物である人間が、自分の身を隠しながら、敵を観察できるところでもあるらしい。なんとなくわかります。確かに落ち着けますね。
この話を聞いたとき、ネット上の「匿名」というものが頭に思い浮かびました。
ネット上に氾濫しているおびただしい数の情報。見たいと思えば簡単に見れる。意見を言おうと思えば簡単に言える。しかも、自分の身は隠してそれができるのです。これは、「隠れ家理論」で「好ましいと思う空間」そのものではないかと思ったわけです。ネットがこれだけ発展したのは、この人間の「好ましいと思う空間」が、自宅にいても提供されるようになったからではないでしょうか。この「匿名性」が快感なのです。
それまでも、匿名でいることの「快感」には気がついていました。以前このブログでも書いた「「ターミナル」を観て」の「山手線の内側で生きる男」も、ある意味匿名性があるから、なってみたいと考えた物語の主人公でした。
「全体」にまぎれることで、透明人間のようになれ、しかも自分は傷つかない。動物の生存本能として、これ以上重要なことはないと思われます。
じゃあ、俺は実名でブログやホームページを開設しているのは、どうしてでしょう。「隠れ家理論」からすると、自分をさらしていることは、とても危険なことをやっているわけです。少なくとも、これだけでは快感には結びつきません。
それは、俺の場合、仕事(経済活動)とも結びついています。だから、身をさらす危険や不快感、それと経済的メリットや有名になることなど、ふたつの相反するもののバランスを考え、今の時点で実名でやった方がいいと判断しているからこうやっているわけです。このバランスが崩れれば、俺も匿名になるでしょう。(最初から匿名でデビューして仕事になっている人もいますが、これは少数派でしょう)
ただ、ノンフィクションと匿名というのは、あまり相性がいいとも思えません。匿名の人が書いたノンフィクションでは説得力がないように思うからです。実在するこの人が書いているから(あるいは、撮っているから)、その文章(あるいは写真)を信頼するということがあると思うからです。
ところで、女性ノンフィクション作家にも年齢を隠している人がいますね。年齢という情報も、読者からすると、「ああ、こういう時代の人だからこう考えるのか」とか「この年齢だからこういう意見を持っているんだな」と、参考になるとこともあるんですがね。作品の中の他人の年齢はすべて正確に書いているのに、書いた本人の年齢だけは書いていない・・・。ちょっと引っかかります。これも「隠れ家理論」なのでしょうか。
もっとも、このことを非難しているのではありません。俺も、その女性ノンフィクション作家同様、「隠しておきたいこと」はもちろん隠しています。(たぶん、何でも正直に書いたら、とんでもないことになるでしょう) それはやっぱり、その点について目立ちたくない(敵から襲われたくない)という「隠れ家理論」で説明できるのかもしれません。
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