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2006/08/29

残酷な現実。福岡の交通事故

060829
福岡の子ども3人死亡した交通事故。加害者は、飲酒運転をしていた市の職員。

突然襲った悲劇。後ろから追突され、車が海に落ちた。お母さんは、何度も海に潜って子どもたちを車から引っ張り出し、お父さんは立ち泳ぎでその子どもを抱えていた。でも、ひとり残したまま、車が海に沈んでいった。

この間、たぶん30分くらいではないでしょうか。その30分前まで、まったく予想もしない悲劇でした。お父さんとお母さんは、一気に3人の子どもを亡くしてしまいました。生半可なお悔やみの言葉をかけられないような気がします。

もし仮にこんな状況になったとき、発狂もせず、なんとか事態を処理していくことなど、俺にできるのだろうか?と思ってしまいます。俺には自信がありません。

いったいどうしてこの家族にこんなむごたらしい悲劇が襲ったのでしょうか? どんなふうに心をもっていけば現実を受け入れることができるのでしょうか? 時間が解決してくれるのでしょうか? 現実はそんなに残酷なものなのでしょうか? 

普通の人は、現実の残酷さを薄まった状態でしか見ることはありません。ゆっくりであれば、現実の残酷さに慣れることができるからです。ただ、突然の事故、病気などがあったとき、そのあまりにも大きな落差に、現実の残酷さを思い知らされるのかもしれないですね。

被害者だけではなく、加害者の青年も、もちろん飲酒運転というやってはならない原因を作ったのは彼だし、同情する余地もないですが、でも「どうして俺が?」と思っていることでしょう。

車を運転する俺も、いつ被害者、加害者になるかわかりません。酒を飲まなくても、事故に遭う可能性はあります。車は一種の凶器です。いや狂器です。そんなものを使わなければ成り立たない俺たちの生活、これも現実です。

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2006/08/28

中国の恐竜のふるさと

060828
(これは、雲南省元謀の「土林」の写真です)

中国でまた恐竜の化石が発見されました。小さい恐竜を想像させるような名前、マメンチサウルスという大きい恐竜だそうです。以下、asahi.comから記事を引用させてもらいます。

27日付の中国各紙によると、中国西部・新疆ウイグル自治区の昌吉回族自治州奇台県で26日、約1億6000万年前のジュラ紀に生息していたとみられる草食性恐竜マメンチサウルスの化石が発見された。中国科学院古脊椎(せきつい)動物・古人類研究所の専門家は、この恐竜は全長約35メートルに上り、アジア地域で発見されたものでは最長としている。(以上、asahi.comより引用)

中国では、こういった恐竜発見のニュースが多いので、今回の発見がどれだけ学術的価値があるのか素人の俺はわかりません。アジア地域で最長だというので、たぶんすごい話なのかもしれませんが。

俺が好きな雲南省も恐竜の発見場所として有名です。楚雄イ族自治州禄豊県もそのひとつです。ここは「恐竜のふるさと」として売り出しているらしいですが、まだ行ったことがありません。テーマパークもできたという話なので、だれか行ったことのある人がいたら教えてください。

また元謀県では、170万年前といわれる「元謀猿人」の化石も発見されています。元謀人展示館というものもあります。

郊外には、堆積した粘土と砂が長年の雨によって浸食されて、まるで林のようになっているので、「土林」と呼ぶ不思議な地形の観光地もあります。トルコのカッパドキアのような雰囲気ですが、石ではなく、土と砂なのでもろいし、穴を掘って住むというわけにはいきません。ここは、高倉健主演の映画『単騎、千里を走る。』にも出てきた風景です。

「土林」の中には動植物の化石も多く、象や犀の化石も出たようです。かつては、森林もあり、たくさんの生きものがすんでいたんですねえ。俺も普通に歩いていて、木の破片のような化石を見つけました。たしか、売店では化石を売ってたなぁ。

映画のロケ地としてもいいし、興味を持った人がいるならぜひ訪ねてみてください。それほどまだ日本人(外国人)にメジャーな観光地ではなくて、穴場的存在です。

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2006/08/27

謎の円盤UFO

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(これも昨日と同じ中国雲南省のタイ族仏塔と星の軌跡の写真です)

今日も「空」関連の話です。夏だから、話題としてはいいでしょ?

『謎の円盤UFO』というテレビドラマについては、以前の記事『サイン(兆候)』(06/08/20)でも触れましたが、この影響だったのか、当時は「UFO」という雑誌も発行されていたと思います。(月刊誌だったかなぁ)

その雑誌の中に、「UFO発見器」なるものの作り方が紹介されていて、実際作ってみました。名前ほど大げさな機械ではなく、その雑誌によると、近くにUFOが近づくと磁場が乱れる、だから、磁石が揺れる、その磁石が、電線に触れて、それがスイッチになりブザーが鳴る、という簡単なものでした。もちろん、そのブザーが鳴ったことはありませんでした。(映画『サイン』でも、エイリアンが近づくとトランシーバが雑音出してましたね。なんか似てなくない?)

ところが・・・。

高校時代、部活動が終わって暗くなりかけた道を、学校のあった寒河江市から8kmはなれたウチまで、親友といっしょに帰っていましたが、ある晴れた夕方、太陽が山に沈み、空はぐんじょう色に変わって、1等星が瞬き始めるころです。
 「あれ、なんだべ?」(あれ、なんだろう?)
親友が突然いうので、彼が指差す東南の空を見ると、山の稜線の上を光がひとつ、スーッと水平方向に飛んでいました。初めは飛行機か人工衛星かなと思いました。しかし人工衛星にしては、高度が低すぎる。そしたら飛行機だろうか? でも光が点滅していない。

すると、今度は反対の方から同じような光がやってきて、ふたつが擦れ違いざま、光がひとつにくっついたのです。そしてまたふたつに分かれて飛び去りました。
 「なんだべね?」(なんだろう?)
 「UFOだべが?」(UFOだろうか?)
 「んだがもすんね」(そうかもしれない)
俺たちは自転車を止め、東の空を眺めながら、ボーッと立っていました。なにかとんでもないものを見てしまったような気がしました。いつのまにか、山の稜線はぼんやりとわかりますが、空はすっかり暗くなっていました。

俺は宇宙や円盤には興味はあったし、もし宇宙人の円盤がほんとにいるなら見てみたいと思ってもいました。でも、このとき見たものを宇宙人の円盤だというふうに思っているわけではありません。

今でも、これはなんだったのだろう?と思っています。まぁ、不思議なことはあるものなので、無理やり「宇宙人の円盤」だとか「霊」だとかに結論付けることはしなくてもいいことではないでしょうか。もちろん「UFO(未確認飛行物体)」であるには違いありませんが。

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2006/08/26

宇宙とSF小説

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これは、中国雲南省タイ族の仏塔の写真です。後ろが明るいのは、月です)

この何日間の太陽系惑星騒動で、あらためて星や宇宙に関心を持ったのでしたが、そういえば中学生のころ、天体望遠鏡のキットを買ってもらって組み立ててまで星空の観察に夢中になった時期があったなぁと突然思い出しました。

もちろん冥王星など観察できる高性能の望遠鏡ではなかったので、主に見るのは月だったような気がします。それでも、子供心に、宇宙のロマンや神秘を感じていたようです。

初めて自分のお金で文庫本を買ったのもこのころだったでしょうか。SF小説でした。なんという本だったか忘れましたが、「創元SF文庫」とか「早川SF文庫」のシリーズだったような。宇宙旅行の話です。そのあとも、アイザック・アシモフとか、アーサー・C・クラークとか、レイ・ブラッドベリとか、外国もののSF小説にはまりました。

ところで、こんな小説がありました。(作者もタイトルも詳しい内容も覚えていません)

光の速度が遅い世界の話です。目の前にあるものにぶつかるんですよね。普通の光は秒速30万kmだっけ? つまり、日常生活で光は一瞬に届きます。ところがこの世界では、光は秒速10cmとしておきます。(小説ではどのくらいだったか忘れたので、仮にです)

すると、もし1m先に人が見えたとしても、それは10秒前の姿であって、今実際どこにいるか分からないんです。もしかしたら、俺とぶつかっているかもしれません。でも、その人は1m先に見えるんです。

また例えば、ご飯の茶碗が口についているのに、まだ茶碗は、テーブルの上に見えるということです。

頭がこんがらがってきます。考えれば考えるほど気持ち悪くなってしまいます。でも、こんな感覚、嫌いではありません。視覚と触覚がずれている、視覚があとでついてくるという不思議な感覚を疑似体験できる小説、だったような、なかったような。ちょっとあいまいですが、すみません。

もし誰か知っていたら、タイトルを教えてもらえないでしょうか。

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2006/08/25

それでも冥王星は、太陽をまわる

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今までの人生で、これだけ冥王星のことを考えたことはありませんでした。そんなに俺は冥王星に興味があったとは、我ながら驚きです。

とうとう決着がつきました。さっき、ニュースステーションをみていたら、プラハで開かれている国際天文学連合の会議場から生中継され、午後10時半過ぎ、採決の結果、冥王星が惑星ではなくなりました。

アメリカの学者は、冥王星を惑星から外すことに反対していたらしい。(科学的良心から賛成したアメリカ人学者も多かったという話もあります) 冥王星の惑星の地位を守るために躍起になっていました。それは前にも書きましたが、9つの惑星のうち、冥王星だけはアメリカ人が発見したもので、アメリカ人にはとても思い入れがある星だからでした。

My Very Educated Mother Just Served Us Nine Pizzas.
(私の非常に教養のある母親は私たちに9つのピザをちょうど配りました)

日本人は、水金地火木土天海冥と覚える惑星の順序を、アメリカ人は、このセンテンスで覚えるのだそうです。 単語の頭文字が、各惑星の頭文字になっています。だから、これで冥王星のPlutoの「Pizzas」がなくなってしまうので、違った単語におきかえるんでしょうね。

「私の非常に教養のある母親は私たちにニュース(News)をちょうど配りました」とか。

(ちなみに、この写真は、マダガスカル(南半球)で撮影した星空です)

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2006/08/24

冥王星「惑星格下げ」 変わる「宇宙」のはなし

060824
昨日に引き続いて冥王星の話です。

3つ惑星が増えそうだという話を書いたあと、今度は一転して1つなくなりそうだというニュースが飛び込んできました。それが冥王星です。ネットでいろいろ調べてみました。

冥王星のことは英語でPluto(プルート) といいます。1930年2月18日、クライド・W・トンボーによって発見されました。アメリカ天文学の黄金時代の発見で、当時はかなりアメリカ国内がわいたようです。

最初地球ほどの大きさがあると考えられていたので「惑星」だと言われたのですが、観察されるたびにだんだん縮小していって、今では月よりも小さいことがわかってきました。

だから、冥王星は、だんだん「惑星」の範疇から外れていったようです。そもそも「惑星」の定義がはっきりしていなかったからこういう混乱が起こったので、今回の総会で決着がつけば落ち着くらしい。とは言え、「周囲の天体より圧倒的に大きい」というのが定義のひとつだけど、この定義自体「科学的」とは言えないんじゃないかと思えます。昨日のブログでも書きましたが、「政治的」な匂いがします。

定義しだいで、世界が右往左往する図、というのもすごいなぁと思います。ある意味、定義を決める評議委員会は、現代の「神」ですよね。冥王星自体がなくなるわけではありませんが、「宇宙」を変えてしまうのです。

わからないものを、わからないままにしておくのは気持ちが悪い。その気持ち悪さからの脱却が、科学を進歩させたと言えないこともありません。でも、「惑星」は昔から、暦、星占いなどとして生活に溶け込んできたもので「文化」のひとつです。「科学的」に定義しても、なかなか受け入れない人が出るかもしれません。


(ちなみに、これはマダガスカルで撮影した月です)


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2006/08/23

明日から「宇宙」が変わるかも

060823
国際天文学連合の総会で、「惑星」の新しい定義を検討中。それが通れば、ケレス、カロン、2003UB313の3つが新しい惑星として追加されるようです。採決は明日24日らしい。

学校では「水金地火木土天海冥」と覚えたからね。これに3つも増えたら、これからの子どもたちはますます覚えるのがたいへんになるなあ。日本では、この3惑星に漢字をあてるんだろうか。

3惑星の追加とともに、冥王星が惑星の地位にとどまったことも注目されているそうです。知らなかったけど、一部学者の間からは、「冥王星は惑星ではない」と言われてきたらしいのです。

まあ、どの星も、べつに人間の定義のために存在するわけでもないし、定義が変わって星自体が変わるわけではありません。あくまでも人間の頭の中の話です。だからこそというか、この定義しだいで、俺たちの「宇宙」というものが大きく変わってしまうことでもあります。もしかしたら、天動説から地動説へ変わったくらい大きな変化なのかもしれません。

冥王星は9惑星のうち、唯一アメリカ人が発見した惑星だそうです。ここで俺は意地悪な見方をしてしまいます。強いアメリカの影響力が働いた、冥王星を惑星の地位にとどめて置くための新定義、なんてことはないよね。その結果として3つ追加せざるをえなくなったような・・・。

まあ、学者の先生方には、学問的良心に従って、きちんとした定義をしてください、としか言えません。この前のボクシングの判定みたいに、「疑惑の定義」などと言われないように。明日から「宇宙」が変わってしまうんだから。

このブログの記事を書いてアップしたあと、昼のニュースを見たら、なんと一転して、「3つ増える」が「1つ減る」になりそうだとのこと。冥王星が惑星ではなくなるかもしれません。

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2006/08/20

『サイン(兆候)』

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昨日テレビで『サイン』をやっていたので久しぶりに観ました。

監督/脚本/レイ・レディ役 M.ナイト・シャマラン
主演 メル・ギブソン

『シックス・センス』や『ヴィレッジ』の監督でもあるM.ナイト・シャマラン監督の2002年に公開された作品です。好きな映画でした。

ある朝、突然トウモロコシ畑に巨大な「ミステリーサークル」が現われました。それが「サイン(兆候)」でした。その後怪奇現象が起きて、世界中パニックになっていくのですが、正体が知れないものに対しての恐怖はよく分かります。だから前半はとてもドキドキしてよかったのです。

でも、「結局宇宙人か!」とわかってしまったとたん、恐怖は薄らぎ、「宇宙人」の姿が実際に出できたときは、失笑ものでした。(当時映画館で観たときはもっと真剣に見ていたと思いますが)

「恐怖心」がテーマというわけではなくて、「信仰心の回復」にあるようなので、この映画はこれでいいのでしょう。ただ、もし俺が監督だったら、最後まで正体を明かさなかったですね。少なくとも「宇宙人」は登場させません。もちろん、その場合、ストーリー展開も変わってきていたでしょうが。

昔子どものとき、「謎の円盤UFO」というテレビドラマが日本でも放映されていました。あれも、宇宙人が出てくるのですが、姿がわからない。その恐怖心は今でも覚えています。確か、宇宙人も「宇宙服」を着ていて、中の姿が見えなかったように思います。へたにグロテスクな怪物ふう宇宙人が出てくるよりも、よっぽどリアリティーがあって怖かったですね。

ところで、東北地方の撮影旅行から戻った一昨日、昨日と、冷蔵庫とクーラーが冷えなくなっていました。これは何かの「サイン」かな? 電気を使いすぎるな、ということか? いや、古くなったから買い換えろというサインかもしれませんね。

                      ☆☆☆

上の写真の丸い空き地のような土地は、「ミステリーサークル」ではありません。マダガスカルのジャングルに点々と作られた畑です。今年3月、首都アンタナナリヴからムルンダヴァに飛んだとき、飛行機の窓から撮影しました。

マダガスカルでは次々とジャングルがつぶされて耕作地になっているそうです。貧しい事情を考えると、「ジャングルをつぶすな」と単純に非難できるものではありません。

よく「農業は自然破壊だ」と言う人がいますが、俺は反対です。人間も生き物である以上、必要最低限の自然破壊は必ずしてしまうからです。そしてその言い方には、他の生き物を食べながら生きている自分を棚に上げて、まるで自分も「自然」側に立ったような、被害者を装う言い方が好きではないからです。

みなさんは、この緑の絨毯に空いた穴をどのように見るでしょうか。それこそ、何かの「サイン(兆候)」を感じると思うのですが。

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2006/08/08

中島峰広著 「続・百選の棚田を歩く」

060808
情報です。

棚田博士、中島峰広先生の著書「続・百選の棚田を歩く」が出版されました。2004年に出版された「百選の棚田を歩く」の続編です。

今回は、佐賀県玄海町浜野浦の棚田や、長崎県福島町土谷の棚田、そして俺の出身地山形県の棚田などが収録されています。棚田に興味がある人だけではなく、旅の紀行文としても読むことができます。(カバーの写真は、浜野浦の4月下旬の写真です)


「続・百選の棚田を歩く」
著者: 中島峰広
発行: 古今書院
発行日: 2006年8月6日
定価: 2500円 (税別)


ご希望の方は、古今書院(ご注文の方法)へ
Ya_01_11古今書院のホームページ


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2006/08/07

棚田の魅力って?

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昨日の日曜日、日本橋三越で棚田学会大会がありました。

前に、ブログでも書きましたが、俺は「棚田学会賞」をいただきました。昨日授賞式でした。今までやってきたことが評価されるのは、やっぱり嬉しいもんです。

棚田の魅力に取り付かれてしまい、棚田を巡る旅を続け、写真を撮っています。ただ、俺は「棚田保全」に積極的に取り組んでいるわけでもないし、実際棚田を作っているわけでも、手伝っているわけでもありません。「なにか社会のためになることをやろう」などと思って写真を撮っているわけでもありません。個人的興味からやっているだけです。

でも、その写真が少しでも棚田耕作者のためになっているなら嬉しく思います。受賞理由のひとつとして、棚田を一般の人たちに広めている活動だそうで、そうか、俺のやってきたことはそういうことなんだろうなと再認識しました。

なぜか理由はわからなくても、ひとりの人間が長い期間棚田にのめりこむということは、それだけ棚田には「なんらかの力」があるということでしょう。逆に言うと、最初から理由が分かったら、写真なんか撮る必要もないかもしれません。心が欲するから、それをやり続ける。水が飲みたくなったら、「なぜ?」なんて考えずに、水を飲むことと同じなのかもしれません。

ただ、俺が棚田に惹かれるのは、「まったくの自然の風景」ではなく、「人間が作った風景」というところにあるのは間違いありません。単なる自然の造形なら写真に撮りたいとも思わなかったし、今でも、いわゆる「自然写真」というものにはそれほど興味がわきません。

そう考えると棚田の魅力は、やっぱり人の魅力であるように感じます。たぶん、そうです。はっきりはわからないけど。

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2006/08/04

作られたキャラクター、「亀田興毅」

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テレビで試合見ました。判定が出たときは俺も驚きました。耳を疑いました。逆じゃないのかと。

ただそれまで、「負けた」とは思っていましたが、むしろ、日ごろの生意気な発言をするタレントの姿ではなくて、ボクサーとしての必死さが伝わってきて、感動すら覚えたのでした。朦朧としながらもリングに立ち続けた姿は、ある意味かっこう良かった。試合に問題はなかった。なのに、あんな疑惑の判定が出てしまった。そして、そのあとの興毅の言動にはだんだん幻滅していきました。

でも、「亀田興毅」を作り上げたのは、周りの人間なのかもしれません。ああ見えて、興毅は、近ごろまれにみる「素直」で「親思い」の子なのではないかと思わせます。父親の言うこともよく聞くし、父親のためにチャンピオンを目指すとも言っていたし、またスポンサーなどが望む「亀田興毅像」をきちんと演じているのではないでしょうか。痛々しく感じさえします。

どう贔屓目に見ても、口で言っているほど強くはなかったということを、この試合で証明してしまいました。なのに、あくまでも、強気の発言。だれがそういうキャラクターを望んでいるんでしょうか。自分だけの意志でやっているとしたら、単なるおバカさんでしょう。(それならそれでかまわないけど。そこが魅力とも言えるし)

もし、父親や周りの大人たちが「そういう発言はみっともない」と忠告すれば、素直に聞くはずなので、逆に言えば、父親や周りの大人たちはそういう忠告はしていない、あるいは、容認しているということになりますよね。だからやっぱり、あのキャラクターは、まわりが望んでいるものなのでしょう。

あるテレビにガッツ石松が出て、判定を批判していました。「ほとんどの人たちが負けたと思った」ということが、今回の正しい判定だ、みたいなことを言っていました。ガッツ石松が、これだけまともな発言ができる人だというのも驚きましたが、それはさておき、彼の言うことはもっともだと感じます。

ボクシングは、「ボクシングのプロ」だけのものではないでしょう。ファンのものでもあります。そのボクシングファンの人たちのほとんどが「負けた」と判定しているのに、「プロの評価はプロにしかわからない。プロに任せて、素人は口出しするな」と言われているようにも感じます。

今回の問題は、判定にあったと言えるでしょう。試合自体や試合中の興毅に問題があったとは思いません。

ただ、今後の興毅について思うのは、自分の弱さを自覚すること。強くなるにはそれしかありません。空威張りしても強くはなれません。これからも「亀田興毅」を演じ続けるのであれば、タレントとしてはいいかも知れませんが、ボクサーとしての将来はないでしょう。

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2006/08/03

新潟県まつだいの棚田と「大地の芸術祭」

060803
おととい、新潟県のまつだいへ。(今年何度目だろう?)

今年末に出版予定の写真集の準備中ですが、その中に使う写真を撮りに、棚田博士の中島先生、編集者、デザイナーの4人で行きました。

今の季節、棚田は青々としていて、なかなか良かったのですが、それと同時に、ちょうど「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2006」が開催中で、いろんなところでアート作品に出会うことができます。俺たちも撮影後2ヶ所だけ見学しました。

里山、棚田、廃校などにアート作品が展示してあり、地域全体が美術館になっています。アーティスト は、40の国と地域から約200組が参加しています。偶然なんですが、俺の高校時代の同級生も参加しています。松田重仁くんといいます。1本の大木から作った作品。タイトルは、「円 - 縁」。機会があったらぜひ見に行ってください。

それにしても、松田くんには最近会ってないので、どうしているかなぁ。去年写真展の会場になったまつだいの「農舞台」で、彼もここで展示したことがあると聞いて、懐かしく思い出したのでした。(これをもし読んだら、メールくれ)

多くの作品を見てまわるには、パスポート購入が便利なようです。詳しくは、「大地の芸術祭」のホームページで調べてみてください。

 http://www.echigo-tsumari.jp/index.html

最後、十日町市の「小嶋屋本店」で、編集者のお勧めで、名物だという「へぎそば」を食べて帰ってきました。山形の「板そば」のようなものです。俺は山形のそばに慣れている(うまいと感じる)ので、よほどのことがない限り、他の地方で食べるそばに感動したことはないのですが、この「へぎそば」は、悪くなかったです。編集者が「どうしても」と勧めるだけはありました。

独特の歯ごたえと喉ごしがいいですね。「へぎ」とは、そばを盛ってある器のことだそうです。つなぎに布海苔(ふのり)を使っているのが特徴だといっていました。

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2006/08/02

俺はどうして犬に噛まれるのか?(4)

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俺は犬に噛まれやすい性質なのではないかと気が付いてからは、犬には敏感になりました。だから現地の人間が犬をどうやって撃退しているかも注意して観察するようになったのです。

それで分かったのは、犬が吼えてきたら、地面の石を拾って投げつけるのです。そうすると、犬はあわてて逃げていきます。これが面白いほど、効果覿面です。石がなかったらどうするか? 心配いりません。石を拾う真似をするだけでいいのです。腰を屈めて地面の石を拾うような格好を見せるだけで犬は逃げていきます。

日本でも吼えられたときやってみました。ところが駄目なんです。犬はキョトンとして、吼えるのをやめません。これは学習の問題なんでしょう。日本の犬は、人間から石を投げつけられる経験が無いので、まったく効き目がないのでした。

チベット高原では、「俺はどうして犬に噛まれるのか? (2)」でも書いたように、石を結んだ長さ1mほどの紐を頭上でクルクル回しながら撃退します。俺を助けてくれた女の子とは別な女の子が、「なんとかちゃん、いるー?」といった感じで隣の天幕住居から現われたときも、やっぱり紐を回しながらやってきました。隣のうちに遊びに行くのも、命がけです。

タイの北部の山岳民族では、犬攻撃を防ぐのに棒を持って歩くのが常識らしい。また夜になると、トイレがない村では草むらで用を足すことになるのですが、やっぱり犬がやってきます。そのときは、懐中電灯で顔を照らし続けると近づかないことがわかりました。

それにしても、中国の犬はたいへんな境遇にあります。今は「ペット」、あるいは「家族」となった犬も多いようですが、昔は、半野良犬状態で、食糧事情が悪いときには、食べられてました。そんな事情を知るにつれて、犬に対しては、恐怖、同情、哀れみなど、複雑な思いを抱くようになっていました。

ところで、ここから本題です。俺は犬年であるにもかかわらず、どうして、犬に噛まれやすいのか?という問題です。

これだけ犬の被害に遭えばだれだって考えるでしょう。何か理由があるはずだと。そこで、いろいろ考えた末、自分なりに分析してみました。

俺は犬を飼ったことはないので、詳しくは知りませんが、犬をしつけるときには、仰向けに寝かせ、自分が主人であることを分からせるそうですね。犬は、主従関係がはっきりしているのです。それだけ社会的な動物であるらしい。猫とは対照的です。俺はどちらかというと、昔から(犬から噛まれる前から)猫が好きでした。子供のころは、実家でもずっと猫を飼っていたし。といっても、犬が嫌いだったわけではありませんが。

俺自身、猫型性格だと思います。上下関係に無頓着。どちらかというと一匹狼的で、群れをつくるのが嫌いです。人や所属集団に対する忠誠心が薄く、興味があるほうにすぐに流れます。「気まぐれ」といってもいいでしょう。そしてあまり常識にはとらわれない(ルールを覚えられない)。

以前、俺はどんな人も対等に見る癖があると書いたような気がします。その通りなんですよね。だから、子どもに対しても、初対面なら敬語を使っていることがあるそうです。「そうです」というのは、自分では気が付かなかったのですが、そばにいた人からそう指摘されたのでした。

逆にどんなに偉いと言われている人に対しても、崇め奉ったりしません。どうせ人はみんな同じだと思っているので、「偉い」なんて言われる人に限って、裏ではとんでもないことやっているんだろうなあと、すぐに思ってしまうのです。だから、可愛げがないんでしょうね。あまり好かれません。そのかわり、妙な宗教には絶対引っかかりません。教祖と言われる人も、普通の人だと思ってしまうので、尊敬するとか、信仰するとか、崇めるとかの対象にならないんです。(そういう自信のある人間に限って大きな嘘にはコロッと騙されてしまうんですが)

つまり、こういうことです。犬に対しても「対等」である目をするので、犬は「こいつは、上下どっちなんだ」と不安に陥り、混乱して噛み付いてしまうんじゃないでしょうか。犬にとっては、上下関係がはっきりしていないことは、情緒不安定につながります。ガツンと一発くらわせば、あるいは、俺はお前の主人だという態度で接すれば、犬も、精神的に落ち着いて、噛み付くこともないような気がするのです。

もちろん、噛まれてからは「怖い」というのが俺の態度に表れて、それを犬も察知してしまい、ますます噛まれる結果になったのではないかと思うのですが。一説には、「怖さ」や「不安」は科学物質を出し、それを感じて咬んでしまうのではないかという話もあるようです。

犬に対等な目をするというのは、「人間」と「犬」という上下関係ではなく、「生き物」として対等な立場に立ってしまうということです。というのも、犬の目を見たとき、一瞬ですが、俺は犬の目線で世界を見た気がするからです。犬が餌をあさって地面をはいずりまわっている感覚なんかが、リアリティーを持って胸に迫ってくることがあります。俺自身、一瞬犬になっているんでしょうか。犬のほうも俺を「こいつは犬だ」と意識するのではないでしょうか。

そのあたり、はっきり断言する気はありませんが、そうではないかなあと思っているだけです。いずれにしても、犬に噛まれやすい性質であることは疑いのないところでしょう。

こんな俺ですが、その後、友人宅や妻の実家のビーグル犬と付き合うことで、リハビリに努力し、今では犬を触ることができるまでに回復しました。噛まれてから回復するまで10年以上かかりました。ただ、やっぱり今でも、心の底では「怖い」という感覚はゼロにはならないんですよね。たぶん、一生なくならないと思います。

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