20年前の中国(5) 雲南省大理
(写真は雲南省大理アルハイ)
1984年初めての中国、シルクロード(西域)を旅しましたが、翌年、「去年が北なら、今年は南だ」と、中国南部へ向かうことにしました。
香港から陸路で国境を越え、広州からは船で梧州、それからバスで桂林まで。桂林で泊まった宿は、ドミトリーが20人の大部屋でした。ここでたまたま隣のベッドに泊まっていたのが、Sさんでした。「雲南には大理というところがあっていいらしいよ」とSさんは教えてくれました。ただSさん自身も行ったことはなく、又聞きだったので、どこがいいのか、なぜいいのかよくわかりませんでした。
俺は当時まだ写真家ではなかったし、いつまで帰らなければとか、何を撮らなければといった制約はまったくなかったので、「いい」というのだから行ってみよう、そんな軽いノリで桂林から列車に乗って雲南の昆明を目指すことにしたのです。これが今後20年も通うきっかけになるとは思いもよりませんでしたが。
昆明駅から、教えてもらった昆湖飯店という宿までは1kmほどありましたが、その間、まわりには畑が残っていました。肥桶を天秤棒でかついだおばさんが歩いている、そんなところでした。今は全部建物で埋め尽くされ、日本人もよく泊まっている高級ホテルも建っています。
昆明に3泊ほどして、バスで大理へ向かいましたが、街並、水田、アルハイ(耳海)湖というものにいっぺんで魅了されてしまいました。
毎日近郊バスに乗って周辺のペー(白)族村々を訪ねました。バスは窓にガラスがなく、雨が降ってくると、傘をさす乗客がいたり、またあるときは、俺の隣の乗客がニワトリさんだったり、なかなか楽しいバスでした。雨季なので毎日雨が降り、道は舗装してないのでドロだらけになって帰りました。招待所の近くには、大理石のバスタブにつかれる銭湯があったので、毎夕入りに行きました。仕切りがないので、個室ではありませんでしたが、それなりに快適でした。
ある日、地元の人に勧められて、大理の西側にそびえる蒼山の中腹にある中和寺に上ることにしました。今は、リフトができていて、山道を歩く必要はなくなっていますが、当時は、街外れの畑や民家の前、そして墓地を抜けて2時間ほど歩いて上らなければなりませんでした。
途中、墓地の入り口にさしかかったら、軍服を着た男が、プラカードみたいなものを持ってあわてて俺のところに走ってきて「止まってください」というのです。軍人でした。
なんだろうと思ったら、プラカードを高々とあげて、何か中国語で叫びました。そして俺を向こう側、つまり墓地の方へ行くように促したのです。そこから墓地までは50mほど何もない空き地でしたが、その空き地を歩いていったら、なんと右側に腹ばいになった兵士たちが、銃を持って並んでいたのです。左側には的のようなものが立っていました。どうもここは射撃場になっているらしいとわかり、俺は走るように、向こう側へ行きました。軍人は「撃ち方やめー!」と命令してくれたようです。撃たれたらたまりません。
それにしても、こんなに街に近いところで射撃練習をしているとは驚きです。もちろん当時は、中和寺に登る外国人なんて1日ひとりいるかいないかだったし、人通りは少なかったと言えますが。
墓地から上り始めたら、別な集団がいて、責任者らしい軍人が、また俺を足止めしました。みると、50mほど先で、ガスマスクをした兵士が地面になにか細工しているのです。毒ガス兵器の訓練か何かでしょうか。5分ほどして作業は終わったのか、行っていいと言われたので、恐る恐る息をつかないようにして進んでいきました。ガスマスクの兵士に「ニーハオ」と挨拶しましたが、無視されました。
こんなことがあって、ようやく上った中和寺から眺める大理の街と、アルハイ湖は、すばらしい眺めでした。この町にしばらくいてみようかなと思いました。本格的に大理の写真を撮ろうと決心したのでした。
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