20年前の中国(6) 暗くて重々しい麗江
雲南の大理に行ったのが1985年。この翌年の1986年も雲南へ向いました。大理を本格的に写真に撮ろうと思ったのですが、行ってみたら、ちょうど雲南省の他の町も個人旅行者に開放したところで、大理の北200kmにある麗江も行けるようになっていました。
ただ個人で行く場合は、公安局へいって旅行許可証をもらわなければなりませんでした。この年は、「大理」「麗江」「石林」「景洪(西双版納)」がもらえたと思います。以後、この許可証があれば行ける町がだんだん増えていきました。
外国人の個人旅行者に麗江の許可が下りた初めての年だったので、まだ麗江に関しての情報はありませんでした。だからほとんど何の情報もなく(だから先入観もなく)、ただバスに乗って行ってみるだけでした。そういうところが好きなんです。何も情報がないところが。わくわくしました。どんなところなのだろうかと。
麗江は、いかにも「秘境」といった趣のある、やけに老人だけが目立つ埃っぽくて暗く重々しい感じの町でした。町で外国人が泊まれる宿は、1軒だけで、公安局の向かいにあった招待所です。ドミトリーに泊まりました。数人の外国人が泊まっていました。
毎朝6時ころ、街頭のスピーカーからけたたましい国歌と、それに続く放送がありました。当時はまだ中国語がわからなかったので、大いなる雑音そのものでした。こういう放送だったようです。
「今日は3月10日、水曜日、農暦2月15日。昨日、鄧小平同志は上海の@@工場の視察に出かけて云々・・・」
食事をするところが少ないというのも、俺たち外国人旅行者にとっては困った問題で、それが不便さや地味さに通 じるところもありました。ただ、そういった雰囲気がまた、雲南の奥地を感じさせる麗江という町の魅力でもあったわけです。
たまたま招待所でいっしょになった日本人旅行者と国営食堂に入ったとき、彼の頼んだ御飯の中からゴキブリが出てきました。彼が平気な顔で「これも蛋白質、蛋白質」と呪文のようにいって、その長さ2センチばかりのゴキブリの死骸を箸でつまみあげたとき、おい、それ食っちゃうのかァ?と一瞬驚いてしまいましたが、さすがにそれは床に捨てて、何もなかったように御飯を食べ始めました。
床に仰向けになっている死骸を指差して、俺は「こんなの入ってたぞ!」と服務員(従業員)の女に日本語で文句をいいましたが、彼女は表情ひとつ変えずにそれをチラッと一瞥しただけで厨房へ入っていってしまいました。中国での従業員の態度の悪さに慣れてきたとはいえ、さすがにこの時は腹が立ちました。しかし当の本人が黙々と御飯を食べ続けるのを見て「おたく、もう中国人になりきってますねェ」と、俺は怒りの気持ちもどこかへいってしまい、ひたすら彼を感嘆の目で眺めたものでした。
それがどうでしょうか。今では、世界遺産に登録され、観光客がわんさと押しかける観光地になり、当然ながら「御飯にゴキブリ」などという汚い食堂はまったく姿を消して、小綺麗なレストランやカフェがたくさんできたし、高級ホテルも営業しています。賑やかで華やかな町に変貌しました。当時からは想像もつきません。この20年の変わりようはすさまじいものがあります。
「昔は良かった」と言いたくないのですが、ただ麗江の、あの「秘境」を感じさせる独特の暗さと重さが懐かしく思い出されます。何かを得たら何かを失うということです。でも、そういう俺の感傷をあざ笑うかのように、麗江は今でも発展を続けています。
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コメント
コメント、ありがとうございます。
田舎は20年たっても同じですね。重さと暗さを持った田舎町、嫌いではありません。
投稿: あおやぎ | 2006/11/20 18:36
青柳さん こんにちは 対外開放された時の麗江のお話しですね
この重い、暗いお話しは今でもマイナーな田舎町では今でも
同じではないでしょうか? 麗江はその重さと暗さが現在の
繁栄と対比されますが 田舎の街は以前のまま、少しは改革開放
で変わってきてはいますが 同じです。そん雲南の重さと暗さは
なかなか文字にしても伝わりません。限界を感じます。
投稿: むりー | 2006/11/20 12:59