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2006/10/31

35年前の偽札事件

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写真撮影するつもりで山形に来たのでしたが、腰を痛めてしまって、それどころではなくなってしまいました。10年ほど前にぎっくり腰をやりましたが、それ以来の腰痛。立てないほどではないので、そのうち埼玉に戻れると思いますが。いや、仕事もあるので、週末には戻らなければ。

ところで、実家の俺の部屋をあさっていると、面白いものをみつけました。これは中学生のとき印刷した500円札と1000円札。ようするに「偽札」。(写真右上の一枚は当時使われていた本物の500円札)

中学校のガリ版で印刷して、校内にばら撒いた偽札です。単独犯です。ちゃんと裏も印刷してあります。当時の俺の「技術」と「美意識」では、かなり精巧で完璧なできだと思っていましたが、今見ると「子供銀行券」ですね。こんなにちゃちだったんだ。これじゃあ「偽札」ともいえませんねぇ。北朝鮮のスーパーKとは比較になりません。

でも、これを学校でばら撒いたとき、先生と親に知られ「こんなことすると、警察に逮捕されっぞ」と脅かされ、あわてて自主回収した覚えがあります。「体制批判」としては中途半端でした。いや、これは「表現」だったのではないでしょうか。確かにそのときの俺は、「よくできた」とは思いましたが、これを実際に店で使えると思うほど幼稚ではなく、あくまでもジョークとしてやったようです。でも、こういうブラックジョークは、なかなかウケませんね。大人には「不謹慎」に映り、同級生たちには「ひま人」に映ったようです。

これはそれほどの成果はありませんでしたが、高校では、クラスのみんなの噂話や先生の悪口を書いた「毎夜新聞」という壁新聞を作っていました。これはウケたような気がします。残っていないか、あとで探してみたいと思います。

どうしてこんなことをしたのか。よくわかりません。覚えていません。ただ、驚かせたかったんでしょうね。わくわくさせたいんです。いや、俺自身わくわくしたいんです。たぶん、今、写真を撮っていますが、何か関係あるのかもしれません。

懐かしい精巧な偽札を見つけて、「よし、初心に帰るぞ」と思いました。(どんな初心なんでしょうか)


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2006/10/26

20年前の中国(7) 西双版納の魔力

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「シーサンパンナ、シーサンパンナ・・・」
と呪文のように口にしてみる。そうするとブーゲンビリアやハイビスカスの香りが鼻先をくすぐり、体の芯からジワーッと暖かくなって、顔がデレーッと緩んでしまう。

そもそも雲南省そのものが、中国内では最もリラックスできる場所だと思っていましたが、その雲南省の中にあって、さらにリラックスできるところが、シーサンパンナではなかったでしょうか。

シーサンパンナの名を初めて聞いたのは、1985年だったと思います。言葉の響きが妙な感じで、これも中国語なんだろうか?と不思議に思ったものです。それは、雲南省南部の西双版納タイ族自治州のことでした。西双版納とはタイ語の「シップソン・パンナ」に漢字を当てはめたもの。「シップソン」は「12」、「パンナ」は「広い耕地」を意味します。

昆明からクネクネした山道をバスで走り、途中2泊して、自治州の州都景供には3日目の昼くらいに着く長旅でした。でも俺にはそれだけの時間をかけても行きたい、そして行く価値のあるところでした。景供にまだ飛行場がない1980年代半ばの話です。

景洪に着いた俺は、浮き浮きした(でも、膝はガクガクした)足どりで、バス・ターミナルから版納賓館へ向かいましたが、そのとき庄洪路を通りました。

長さ400mほどの通りは、農産物、肉、魚、食品などの生活必需品を売る市場で、いってみれば景洪を特徴づけているシンボル的な存在でした。売られているものの種類の多さや、売り買いする人々のカラフルな民族衣装など、漢文化とは違った華やかな空気は、東南アジアの市場に突然放り込まれたような錯覚に陥るほどで、長旅からくる疲れも、いつの間にかふっ飛んでしまうのでした。現在は玉石や木彫りなどのみやげ物通りになっているようです。

版納賓館に長く泊まっているときは、朝早く起きると庄洪路の市場へ行って、タイ族女性が売っているいろんな食べ物を買ってくるのが日課でした。白、黄、紫色の蒸したモチゴメ(おこわ)がありました。タイ族の主食はもともとはモチゴメだったのです。紫色のコメは表皮が紫色をしていますが、このモチゴメを朝昼晩3食食べた翌朝のウンコは、イカスミのスパゲティーを食べたときのように、みごとに紫色をしていて、初めて見たときは病気になったんじゃないかと心配になったくらいでした。

野沢菜漬けのような酸っぱい漬物を必ず買ってきました。たまに牛肉の漬物を売っているタイ族女性がいることもありました。そんな食べ物を賓館のベランダのテーブルに広げ、いったん飲み始めると病みつきになってしまう雲南特産のプーアル茶を飲みながら、そこで偶然出会った他の旅行者たちと、旅先での話をしながら、飲茶を楽しむことが好きでした。とにかく開放的でおおらかでした。気候もそうだし、人間もそうでした。そのために毎年通った気さえします。西双版納の持つ魔力にはまってしまったのでした。

そしてそれは、俺にとっては心地よい麻薬に犯されていくことでもありました。たぶん一生この麻薬からは逃れられないのでは?と脳裏をかすめ、罪悪感と安堵感の混じった複雑な感覚で、これからの人生を思ったのでしたが、案の定、それは現実になり、現在に至っている、というわけです。

Ya_220年前の中国(6) 暗くて重々しい麗江


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2006/10/25

20年前の中国(6) 暗くて重々しい麗江

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雲南の大理に行ったのが1985年。この翌年の1986年も雲南へ向いました。大理を本格的に写真に撮ろうと思ったのですが、行ってみたら、ちょうど雲南省の他の町も個人旅行者に開放したところで、大理の北200kmにある麗江も行けるようになっていました。

ただ個人で行く場合は、公安局へいって旅行許可証をもらわなければなりませんでした。この年は、「大理」「麗江」「石林」「景洪(西双版納)」がもらえたと思います。以後、この許可証があれば行ける町がだんだん増えていきました。

外国人の個人旅行者に麗江の許可が下りた初めての年だったので、まだ麗江に関しての情報はありませんでした。だからほとんど何の情報もなく(だから先入観もなく)、ただバスに乗って行ってみるだけでした。そういうところが好きなんです。何も情報がないところが。わくわくしました。どんなところなのだろうかと。

麗江は、いかにも「秘境」といった趣のある、やけに老人だけが目立つ埃っぽくて暗く重々しい感じの町でした。町で外国人が泊まれる宿は、1軒だけで、公安局の向かいにあった招待所です。ドミトリーに泊まりました。数人の外国人が泊まっていました。

毎朝6時ころ、街頭のスピーカーからけたたましい国歌と、それに続く放送がありました。当時はまだ中国語がわからなかったので、大いなる雑音そのものでした。こういう放送だったようです。

「今日は3月10日、水曜日、農暦2月15日。昨日、鄧小平同志は上海の@@工場の視察に出かけて云々・・・」

食事をするところが少ないというのも、俺たち外国人旅行者にとっては困った問題で、それが不便さや地味さに通 じるところもありました。ただ、そういった雰囲気がまた、雲南の奥地を感じさせる麗江という町の魅力でもあったわけです。

たまたま招待所でいっしょになった日本人旅行者と国営食堂に入ったとき、彼の頼んだ御飯の中からゴキブリが出てきました。彼が平気な顔で「これも蛋白質、蛋白質」と呪文のようにいって、その長さ2センチばかりのゴキブリの死骸を箸でつまみあげたとき、おい、それ食っちゃうのかァ?と一瞬驚いてしまいましたが、さすがにそれは床に捨てて、何もなかったように御飯を食べ始めました。

床に仰向けになっている死骸を指差して、俺は「こんなの入ってたぞ!」と服務員(従業員)の女に日本語で文句をいいましたが、彼女は表情ひとつ変えずにそれをチラッと一瞥しただけで厨房へ入っていってしまいました。中国での従業員の態度の悪さに慣れてきたとはいえ、さすがにこの時は腹が立ちました。しかし当の本人が黙々と御飯を食べ続けるのを見て「おたく、もう中国人になりきってますねェ」と、俺は怒りの気持ちもどこかへいってしまい、ひたすら彼を感嘆の目で眺めたものでした。

それがどうでしょうか。今では、世界遺産に登録され、観光客がわんさと押しかける観光地になり、当然ながら「御飯にゴキブリ」などという汚い食堂はまったく姿を消して、小綺麗なレストランやカフェがたくさんできたし、高級ホテルも営業しています。賑やかで華やかな町に変貌しました。当時からは想像もつきません。この20年の変わりようはすさまじいものがあります。

「昔は良かった」と言いたくないのですが、ただ麗江の、あの「秘境」を感じさせる独特の暗さと重さが懐かしく思い出されます。何かを得たら何かを失うということです。でも、そういう俺の感傷をあざ笑うかのように、麗江は今でも発展を続けています。

Ya_220年前の中国(7) 西双版納の魔力

Ya_220年前の中国(5) 雲南省大理


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2006/10/24

20年前の中国(5) 雲南省大理

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(写真は雲南省大理アルハイ)

1984年初めての中国、シルクロード(西域)を旅しましたが、翌年、「去年が北なら、今年は南だ」と、中国南部へ向かうことにしました。

香港から陸路で国境を越え、広州からは船で梧州、それからバスで桂林まで。桂林で泊まった宿は、ドミトリーが20人の大部屋でした。ここでたまたま隣のベッドに泊まっていたのが、Sさんでした。「雲南には大理というところがあっていいらしいよ」とSさんは教えてくれました。ただSさん自身も行ったことはなく、又聞きだったので、どこがいいのか、なぜいいのかよくわかりませんでした。

俺は当時まだ写真家ではなかったし、いつまで帰らなければとか、何を撮らなければといった制約はまったくなかったので、「いい」というのだから行ってみよう、そんな軽いノリで桂林から列車に乗って雲南の昆明を目指すことにしたのです。これが今後20年も通うきっかけになるとは思いもよりませんでしたが。

昆明駅から、教えてもらった昆湖飯店という宿までは1kmほどありましたが、その間、まわりには畑が残っていました。肥桶を天秤棒でかついだおばさんが歩いている、そんなところでした。今は全部建物で埋め尽くされ、日本人もよく泊まっている高級ホテルも建っています。

昆明に3泊ほどして、バスで大理へ向かいましたが、街並、水田、アルハイ(耳海)湖というものにいっぺんで魅了されてしまいました。

毎日近郊バスに乗って周辺のペー(白)族村々を訪ねました。バスは窓にガラスがなく、雨が降ってくると、傘をさす乗客がいたり、またあるときは、俺の隣の乗客がニワトリさんだったり、なかなか楽しいバスでした。雨季なので毎日雨が降り、道は舗装してないのでドロだらけになって帰りました。招待所の近くには、大理石のバスタブにつかれる銭湯があったので、毎夕入りに行きました。仕切りがないので、個室ではありませんでしたが、それなりに快適でした。

ある日、地元の人に勧められて、大理の西側にそびえる蒼山の中腹にある中和寺に上ることにしました。今は、リフトができていて、山道を歩く必要はなくなっていますが、当時は、街外れの畑や民家の前、そして墓地を抜けて2時間ほど歩いて上らなければなりませんでした。

途中、墓地の入り口にさしかかったら、軍服を着た男が、プラカードみたいなものを持ってあわてて俺のところに走ってきて「止まってください」というのです。軍人でした。

なんだろうと思ったら、プラカードを高々とあげて、何か中国語で叫びました。そして俺を向こう側、つまり墓地の方へ行くように促したのです。そこから墓地までは50mほど何もない空き地でしたが、その空き地を歩いていったら、なんと右側に腹ばいになった兵士たちが、銃を持って並んでいたのです。左側には的のようなものが立っていました。どうもここは射撃場になっているらしいとわかり、俺は走るように、向こう側へ行きました。軍人は「撃ち方やめー!」と命令してくれたようです。撃たれたらたまりません。

それにしても、こんなに街に近いところで射撃練習をしているとは驚きです。もちろん当時は、中和寺に登る外国人なんて1日ひとりいるかいないかだったし、人通りは少なかったと言えますが。

墓地から上り始めたら、別な集団がいて、責任者らしい軍人が、また俺を足止めしました。みると、50mほど先で、ガスマスクをした兵士が地面になにか細工しているのです。毒ガス兵器の訓練か何かでしょうか。5分ほどして作業は終わったのか、行っていいと言われたので、恐る恐る息をつかないようにして進んでいきました。ガスマスクの兵士に「ニーハオ」と挨拶しましたが、無視されました。

こんなことがあって、ようやく上った中和寺から眺める大理の街と、アルハイ湖は、すばらしい眺めでした。この町にしばらくいてみようかなと思いました。本格的に大理の写真を撮ろうと決心したのでした。

Ya_220年前の中国(6) 暗くて重々しい麗江

Ya_220年前の中国(4) 漢民族と少数民族のイメージ


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2006/10/22

20年前の中国(4) 漢民族と少数民族のイメージ

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(写真は中国鄭州)

1980年代中頃は、ようやく中国旅行が個人でできるようになってきた時期で、外国人バックパッカーは、香港でビザを取って入国するのが一般的でした。ただ中国人(実際は、漢民族)との喧嘩が絶えず、だから漢民族が、俺たち外国人に、あるイメージを抱かせてしまっていました。

それまで俺たちが持っていた中国に対してのイメージは「悠久の歴史」とか「大陸のおおらかさ」とかそんな漠然としたものしかありませんでした。NHKの「シルクロード」が作り上げたイメージは大きなものでした。でも、それは中国という土地に対してのイメージではありましたが、「今の中国人」に対するイメージは、ほとんどなかったといっていいのです。

実際中国に来てみると、まったく度肝を抜かれてしまい、「悠久の歴史」だの「大陸のおおらかさ」だの、いっぺんに全部ふっとんでしまいました。どこへ行っても人人人・・・の大洪水。しかも、文化大革命が終わって10年経っていましたが、人心が荒廃した人の群れでした。

旅行者たちは、「没有、没有(メイヨー、メイヨー(無い、無い)」だけ聞かされ鉄道切符が買えないと嘆き、ホテルをたらい回しされると文句をいい、従業員の態度が悪いと怒っていました。食堂の中でさえ、平気で啖と唾を吐き、とくに日本でならすぐ女優にでもなれそうな美人が目の前で「カーッ、ペッ!」と啖を吐いたときには、人間不信に陥るくらいショックを受けて、啖唾のためにヌルヌルした床に滑りこけると、周りの中国人から嘲笑される惨めさに泣きそうになりました。

ウンコが山盛りのトイレは囲いもなく汚く臭く、他人に排泄行為をジッと見られてウンコをしたことがないひ弱な俺たちは、すぐ便秘になって体調を崩し、町ではしょっちゅう喧嘩を見て、「もうやだーッ!」と叫んで逃げ出す外国人旅行者もいたくらいです。

「だれも英語をわかってくれないョ」とシクシクと泣いている欧米人旅行者に、俺は実際に会ったことがあり、「あんたたち欧米人でもどうにもならない国が世界にはあるんだぞ。思い知ったか?」と、そのときだけは中国人に裏で拍手を送り、屈折した喜びに俺は打ち震えたものでした。(日本人は漢字で「筆談」ができたので、欧米人よりは有利でした)

それはともかく、外国人バックパッカーたちは、旅行が自分の思い通りにならないもどかしさから来るストレスを、中国人(実際は、漢民族)の悪口を言い合うことで解消していました。だからバックパッカーが集まる宿のドミトリーは、いつも悪口で盛り上がっていたものです。

どうも、中国やインドなど、酷い目にあわされる確率が高い国を旅する旅行者同士ほど、結束力は強くなるようでした。戦場でいっしょに戦った戦友が、一生の友になるようなものなのでしょう。

でも、いわゆる、北京、上海などの大都市から、雲南省の田舎にやってくると、人が静かで比較的嫌な思いをすることがなく、そこから旅行者の間では「漢民族のいる大都市は嫌いだが、少数民族がいる雲南は好きだ」あるいは、もっと極端には「漢民族は悪くて、少数民族はいい」という、今から思えば作られるべくして作られたステレオタイプに陥っていたのです。

ここ20年で、このイメージがなくなったとは思えませんが、漢民族も生活に余裕が出たのか、かなり落ち着いてきたし、以前のような旅行のしづらさはだいぶ解消されてきました。俺たち旅行者も、カルチャーショックから立ち直って、冷静になり、漢民族も少数民族も、誰だっていいこともやれば悪いこともやる、という当たり前のことに気が付きました。

ただ漢民族が「没有」を言わなくなり、外国人と喧嘩しなくなって、良かったかもしれませんが、俺は一抹の寂しさを感じるのです。漢民族とぶつかっていたのは、良くも悪くも子供のように「正直」だから、という面はあったと思います。今は、「大人になってしまった」ということでしょうか。もちろん「お互いに」ですが。

Ya_220年前の中国(5) 雲南省大理

Ya_220年前の中国(3) 中国人と喧嘩ざんまい


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2006/10/21

20年前の中国(3) 中国人と喧嘩ざんまい

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(写真は中国雲南省タイ族少年僧)

昨日、中国ではよく喧嘩を見たと書きましたが、実は俺もよく喧嘩をしていました。

一番したのは、中国へ行くようになって2年、3年めくらいです。なぜそうなのかというと、中途半端に中国語ができるようになったからです。当時は、俺たちのような東洋人は、中国の中ではまったく中国人と区別はつかなくて、中国人に見られることが多かったのです。

そして中国語を少し話すので、俺が「外国人だ」と言っても信用されないという状況になるのです。日本人とわかると、当時は(今は違いますが)手のひらを返したように態度が変わって友好的になり、喧嘩になどならなかった、そういう事情があります。だから喧嘩するというのは、中国人と対等に付き合えたともいえるんですが。

中国は知っての通り大きな国で、いろんな民族、いろんな言葉があるので、多少北京語が下手でも、どこか山から出てきた田舎の人間だろうくらいにしか思わないのです。じゃぁ、英語をしゃべったらどうかと言われるかもしれませんが、当時はまだそんなに外国人と接している中国人は多くなかったので、英語なんて聞いたことある人もいなくて、やっぱり地方の方言くらいにしか思わなかったという事情があるのです。

一番悲しかったのは、雲南省西双版納のタイ族村での出来事でした。

村の子どもたちや老人たちは、俺が日本人と知って関心を持ち、俺を囲んで話をしていました。いい雰囲気だったのです。

そこへ、30歳くらいの青年がやってきました。そして俺をうさんくさそうに眺めると「あんた、どこから来た?」と聞いたので、もうすでに、周りにいる老人子どもに話したように、「日本から来た」と答えました。すると、ますます疑いの目をして「嘘つくなよ」と言うのです。「嘘なんかついてないよ」と俺は少しムッとして答えました。「お前の言葉の訛りは上海人だろう?」「違う、俺は日本人だ」「いや、上海人だ。日本人が中国語しゃべるはずがない」「いや日本人だ」「いるんだよなぁ。お前のように外国人を語って、悪いことをやるやつが」「俺は日本人だ」

ふたりのやり取りを聞いていた周りの老人子どもたちも、だんだん笑顔が消えていき、ほんとはこの人、上海人じゃないんか?という疑いの目で見始めました。気まずい雰囲気が漂いました。それで、俺は最後の手段として、懐からパスポートを出して見せたのです。嘘つきと言われたくなかったからです。

ところがなんということでしょう。当時の俺のパスポートは赤い色で、それは中国共産党の旗の色でもあり、しかも、書いてある日本語や英語は、タイ族にはさっぱり読めないわけで、「やっぱり上海人じゃないか」と言った青年の言葉に、俺はとうとうキレてしまったのでした。

「俺は日本人だ! 嘘なんかついてない!」

そう叫んで、俺は泣きながら---それは嘘だけど、でも気持ちの中では泣いていた---村を出てしまったのでした。

そんなことがしょっちゅうあって、俺は特に駅員とかチケット売り場のおばさんとか、バスの運転手や車掌と喧嘩になることが多かったのです。根本的に、中国人、特に都市に住む漢民族とメンタリティの違いで喧嘩になることが多かったようです。理不尽なことや不当なことや誤解に対して怒るわけです。

ただ喧嘩も正々堂々とやれるので、俺としては、リフレッシュできるレクリエーションでもありました。(半分、楽しんでいたと言ってもいいかも) 日本ではなかなかできないですからね。俺は、人から悪く見られるのを恐れる人間なので、よほどのことでも、公の場所で怒鳴り声を上げて喧嘩をするなんてことはなかったし。

中国へ行き始めて5年、6年過ぎたころでしょうか、どうも、外国人とバレない方が楽だなと気がついて、俺はあまり自分から「外国人」「日本人」と言わなくなってきました。中国人にまぎれる快感を知ってしまったのです。「どこから?」と聞かれたら「どこだと思う?」と逆に聞き返しました。たいていは「広東?」「上海?」とか言ってくるので「まぁ、そんなとこだな」などと、答えをぼかしていました。

そのうち、ある日本人が言ったことを聞いて「なるほど、そういうものか」と納得したのですが、それからはあまり中国人に腹が立たなくなりました。それはこういう言葉でした。

「中国人を理解しようなどと思うな。そんな人たちなんだと受け入れろ」

Ya_220年前の中国(4) 漢民族と少数民族のイメージ

Ya_220年前の中国(2) 犯罪者、喧嘩・・・

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2006/10/20

20年前の中国(2) 犯罪者、喧嘩・・・

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中国は、今の姿からは想像できないほど不思議な国でした。まぁ、中国人の名誉のために言っておくと、俺はこういう不思議さが嫌いではありませんでした。むしろ、そういうところも中国の魅力でもあったのです。昨日書いた「没有(メイヨウ)」と言う店員の応対などもそうです。

最近、というか、拉致被害者の問題がクローズアップされてから、北朝鮮の潜入ルポがたまに放映されます。

駅前で、ボロくずのように横たわる男、市場で物を拾って食べる子供たち、公開処刑などなど。それを見ていると、昔の中国を思い出します。80年代の半ばはこんな光景が中国でも見られました。そういう意味で、北朝鮮だけが特別の国だとは思えないんですよね。

公開処刑そのものは見たことはありませんが、トラックに乗せられた犯罪人が市中引き回しされているところとか、街の公安局の前に立たされた犯罪人は何度も見たことがあります。それも、当然と言えば当然なのですが、お祭りで人出があるときにやったりするんですよね。俺もその祭りを見るために街に泊まり、当日の朝、爽やかに目覚めて、さぁ、お祭りの写真を撮るぞーと意気込んでいるときに、このトラックの犯罪人を見ると、ちょっと暗い気持ちになってしまいました。

また、公安局の前に立たされた犯罪人は、数人が逃げられないように縄で縛られて一列に立たされているのですが、首からは、カードみたいな物を下げていました。さらし者ですね。

ちょっと日本ではお目にかからないし、ショックな場面だったので、見たいという気持ちと、見てはいけないという気持ちがあったのですが、素通りするふうを装って、ちゃっかりとカードだけは読みました。そこには自分の犯した罪名が書いてありました。「強姦犯」とか「経済犯」とか「強盗犯」とか。す、すごい人たちなんだぁ。

それと、喧嘩が多かった。街中でしょっちゅう喧嘩を見ました。だいたいは、口喧嘩なのですが、なかには取っ組み合いになることもあります。一番ひどい喧嘩を見たのは、雲南省の昆明で、こともあろうに、公安局のまん前でした。

女同士の喧嘩です。口喧嘩から取っ組み合いに発展していき、イヤリングを引きちぎったのです。耳からは血が出ました。まわりの人たちも大変だーと止めに入ったのですが、ふたりとも血だらけになってしまいました。そのとき、朝日が建物の間からふたりを照らしました。

そのとき俺が不謹慎にも思ったのは喧嘩のひどさではなくて、「血って、なんて美しい赤色なんだ」というものでした。女の耳から顎にかけて流れている血に朝日が当たってヌラヌラと輝いているんです。ゾクゾクっとしました。この美しい赤色が、今でも忘れられません。

Ya_220年前の中国(3) 中国人と喧嘩ざんまい

Ya_220年前の中国(1) 「ありがとう」がない




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2006/10/19

20年前の中国(1) 「ありがとう」がない

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まず、日本での話です。

飲食店ですね。よくあるのは。店を出るとき、「ありがとうございました!」と店員さんが言うと、まわりの店員全員も言いますね。まるで、ニワトリかカエルのようです。知ってますか? ニワトリもカエルも一羽(匹)鳴き始めると、次々に広がって大合唱になるんです。(「いらっしゃいませー!」もそうですね)

俺はそれを聞くと、いつも「あっ、またニワトリだ」と思うんです。そして「嬉しい」なんてことはもちろんないし、なんだかこそばゆく、特に、人のおごりで食べたり飲んだりしたあとは、後ろめたさに変わります。「ぜんぜん金払ってないのに、ありがとうはいらないよ。しかも全員で」と内心恥ずかしい思いをしてしまいます。

もちろん、店員は、マニュアルに沿って言っていることくらい、俺にもわかります。「蛍の光・・・」と同じ、単なる「さようなら」の意味のBGMなんでしょう。そして俺が自腹で食べたか、おごりで食べたかなんて、店員は知ったこっちゃないしね。もっとも「また人のおごりで来れればいいですね。待ってます」なんて本音を言われるのも嫌ですが。

昔、中国へ行き始めたころ、1980年代の中ごろですが、中国人に「謝謝(シェシェ。ありがとう)」という言葉はないんだなと思いました。当時は、文化大革命が終わったものの、その荒廃した社会の余韻が残っていた時期で、社会主義的な国営商店へ行っても、食堂へいっても、まず日本的なサービスは期待できず、店で「ありがとうございました」など、言われることは皆無でした。

それどころか、商店では、目の前の商品(爪切り)を指さして「これ、ください」と言っても、店員はなぜか「没有(メイヨウ。ありません)」と言って売ってくれなかったこともあります。目の前の物が「ない」という。存在するものが、存在しないと店員の娘はのたまうのです。まるで禅問答しているようですが、真面目な顔で言うのです。(まぁ、これはあとでわかったことですが、「自分の担当ではない」「めんどうくさい」「今は休み時間だ」といった理由さえ、めんどうなので、一括して「没有」と言って済ませていたようです)

また、甘粛省のある食堂(餃子店)へ入ったときは「何しに来た?」と言われるしまつでした。何しに来たはないよな、食堂なんだから、食事にきまってるだろうが、と内心憮然としましたが、俺は大人なので、冷静に「食べるものはありますか?」と聞くと、店員たちは自分たちの食事をじゃまされて不機嫌になり、「俺たちが食っているんだから、待ってろ」と言って、餃子を食ってましたっけ。俺は店員の食事が終わるのを30分おとなしく待ってました。(大げさに言っているのではないですよ。ほんとにそんな時代だったんです) 「ありがとう」なんて言われる環境ではありませんでした。むしろ、客が「食べさせてくれて、ありがとう」と言わなければならないくらいでした。

ところが現在、店に入ると中国人も「いらっしゃいませ」と言うし、店から出るとき「ありがとうございました」とか「またどうぞ」と言うようになったのです。中国人もニワトリのように、意味のないBGMを大合唱するようになりました。変われば変わるもんだ。

これは日本的接客方法が真似られたんでしょうか? それとも、市場経済という仕組みが、同じような行動を取るように人間を仕向けるのでしょうか? 俺には、80年代の強烈な体験がトラウマになっているらしく、感謝の言葉を聞いたりすると、「きっと、裏があるにちがいない」「ボラれたかもしれない」と、つい思ってしまうのです。悲しいことですが。

世界の常識が通用しない独特の個性を持っていた中国人が、今や経済発展を自慢し、お客に「ありがとう」を連発する「普通の」人間になってしまい、俺は正直、寂しさも覚えています。

Ya_220年前の中国(2) 犯罪者、喧嘩・・・




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2006/10/17

被爆国という立場の日本

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(写真は2002年バリ島爆弾テロ後の追悼式)

テレビで北朝鮮人のインタビューを見ました。この核実験についてどう思うか?という問いに対して、彼らは「誇りに思う」「成功して嬉しい」と答えていました。それに対してコメンテーターやインタビューを受けた日本人は、とんでもない、何を考えているんだ、絶対核兵器はだめだと憤慨しています。

ただ、この北朝鮮の核実験にまぎれて、もうひとつの問題があると俺は思います。日本人も数十年前までは同じようなことをしていたんです。北朝鮮の人民だけが特別なんじゃない。日本人だって、他の国の人間だって、世界に通用しない危ない考えに犯される危険性はどこにでもあるんだということです。(北朝鮮は、戦前の日本と似たような状況になっているという人もいます)

この数日で、日本人の意識が急に強硬路線に変わったのでは?と、そして、「あぁ、こうやって戦争というものが始まるんだな」と思わせます。

国会中継をラジオで聞いていたら、安倍総理は憲法を議論することをすっ飛ばして、すでに変えることを前提にいろいろと答弁しているようだと感じました。安倍総理には追い風とも言えるこの緊急時にまぎれて、「世界と歩調をあわせるために」と言って、戦争の方向に傾いていくのでしょうか。

しかも一部政治家から「核武装論」まで飛び出しています。なんでこう極端なんでしょうか? この前も書きましたが、アメリカ、中国、韓国など、日本が核兵器を持つこと、核ドミノを恐れていると書きました。「どうやったら日本に核武装させないか」が議論されている最中に、この発言は、「やっぱり、日本はそう思っているのか?」と誤解を与えたでしょう。

一方、「核兵器絶対反対!」と叫ぶだけでは、どうして日本が核を持たないのか、核はだめなのか、世界の人を納得させることは難しい気がします。なぜなら、日本はアメリカの核の傘に入っておきながら、核は持ちませんというのは、説得力ないでしょ? 世界的常識からは信用されません。そこをどうするか? 「世界で唯一の核兵器の被爆国」「核兵器の被害者」という立場に安住してばかりいてもだめですが、でも、この立場を利用して核兵器廃絶を訴えていくしかないのだと思います。

俺たち日本人はどう見られているのか、この事実からはっきりわかります。あまり他人の意見をききたくないですが、自分が自分のことを一番知っているとも限りません。日本が核兵器を持つなんていうことは、俺たちは今のところありえないと思っています。でも、日本が、危ない国に再びならない保障はないんだなと、俺は最近の政治家の言動を見ると感じます。

他国を「危ない国だ」と非難だけしているうちに、自分の国自体がそうなって行くことが見えなくなるのは、不幸なことです。

Ya_2自爆テロ国家「北朝鮮」と、危ういトレンド国家「日本」

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2006/10/16

イタリア映画 『苦い米』 2 (ネタバレ注意)

061016

以前、イタリア映画『苦い米』について書いてから、観たい観たいと思っていましたが、ようやくビデオを借りて観ることができました。

『苦い米(Riso Amaro)』 1949年度作品
監督:ジュゼッペ・デ・サンテス。
出演:シルヴァーナ・マンガーノ。ヴィットリオ・ガスマン。

イタリア北部ポー川流域の水田地帯が舞台の季節労働者「田植え女」たちの映画です。イタリアはヨーロッパでの米どころ。FAOの資料(2004年)によると、コメ生産量は世界で27番目です。ちなみに、第1位は中国ですが、日本は11位です。

こういう「田植え女」は、機械化と除草剤の発達で、すでに過去のものになりました。だから、この映画は当時の様子を知る貴重な資料でもあるようです。最近はエジプトあたりから安いコメが入ってくるようになって、水田自体が減っているようです。

イタリア北部各地から集まった女性たちが、列車に乗って水田地帯へ向かうところから映画は始まります。

ワルターとフランチェスカは刑事に追われる泥棒カップルです。刑事に見つかった彼らは、ばらばらになって逃げます。フランチェスカは「田植え女」たちに紛れ込み、そこで、シルバーナ(シルヴァーナ・マンガーノ)と知り合い、彼女の口利きで、いっしょに働くことになります。ワルターも、あとで同じ水田地帯へ逃げてきます。

たくさんの女性たちがいっせいに田んぼで田植えをするシーンは圧巻です。そして歌をみんなで歌うんです。田植えの仕事の辛さを少しでも和らげようと、やっぱりアジア同様、田植え歌はあったのですね。

細かいことですが、苗をまっすぐにするために、田植え枠を転がすとか、縄や棒を使って、それに沿って植えるということは、映画の中では見当たりませんでした。大雑把な田植えという感じでした。

フランチェスカは、改心し、警察に行こうとします。一方、シルバーナはワルターに惹かれて、いっしょになることを決心します。ワルターは倉庫から米を盗もうと計画しますが、シルバーナはそれに加担してしまいます。祭の準備でみんな忙しくしている裏で、シルバーナはワルターの指示で水路の堰の板をはずして大量の水を引き入れ、田んぼを水浸しにしてしまいます。

それまでいっしょに何十日も働いてきた仲間を裏切ってまで、愛する男に従ってしまう女の性を見た気がします。俺が男だからでしょうか。正直、ここまでやってしまうシルバーナに違和感を持ちました。男女逆なら、こうはしなかったでしょう。男は、つい、社会的なことを気にしてしまい、あれほどまで「完璧」に水浸しにしない、と思うのです。だからといって、女はどうの、男はどうの、という話をしたいわけではないのですが。シルバーナが特別だったのかもしれないし、反対に俺の感性が変わっているのかもしれません。

みんな、たいへんだーッ!ということで、田んぼに行って排水しようとします。悪事に気が付いた、フランチェスカと仕事を監督する軍曹は、ワルターとシルバーナを探して追い詰めますが・・・。ここから先は語らないことにします。結末は意外な展開です。

この映画はドキュメンタリータッチということも相まって、シルバーナやフランチェスカという「田植え女」を通して人間を描いているいい映画だと思います。

ところで、『Riso Amaro』は『苦い米』という邦題になってなっていますが、「悲しい笑い」という意味もあるという情報を見つけました。参考までに。

「苦い」という形容詞 "amaro" を「笑い」の意味を持つ名詞 "riso" につけて "riso amaro" という熟語を作ると『直訳』の「苦笑い」ではなく「悲しい笑い」って意味になるんですよ
(http://www.juno.dti.ne.jp/~shuyo/italiano/totsugeki/it0033.txt 参照


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2006/10/15

秋晴れの川越祭り

061015
川越祭りへいってきました。久しぶりの外出です。

1648年(江戸時代)から続く伝統的な祭りだそうです。お囃子と踊る人を乗せた山車がにぎやかに街中を練り歩きます。川越は江戸との交易で商業が発達した街で、今でも江戸の風情を残す古い街並みが残っています。なので、「小江戸」と呼ばれています。

今日は、秋晴れということもあって、すごい人出でしたね。(110万人。過去最高だったそうです) 食べ物の露店が並ぶ通りは身動き取れないところもありました。中国雲南や貴州の祭りを思い出しました。昔は、よくこういう人ごみにはまりながら写真を撮っていたものです。

韓国の「トッポキ」というコチュジャンで甘辛く煮た餅も売っていました。これは2年前韓国へ行ったときよく食べたスナックです。ソウルの街角でも売られていて、OLたちが昼食代わりに食べていました。今日の「トッポキ」には、ウズラの玉子と魚から作ったさつま揚げみたいなものも入っていて、一皿400円。

つたない日本語を話す韓国人(たぶん)のおばさんが売っていました。おばさんは味見をするのですが、直接指を入れてソースの味を何度か確かめました。指のソースを舐めて「ん?」といって砂糖か何かを追加したあと、また同じ指を突っ込んで味見をしました。俺はあまり気にしませんが、気にする日本人は多いと思います。たぶん、まだ日本に来て日が浅いんですねぇ、きっと。

それとトルコの「ドネルケバブ」が多いのはびっくりです。牛肉を回転させて焼き、その表面をナイフでそぎ落とした肉片を、トルコふうパンに詰めてサンドイッチにして売っています。カセットデッキからは、トルコ音楽がかかっていて、不思議な雰囲気です。1個500円。

そのほか、タイふうラーメン、中国のシャオビン(焼き餅)などもありました。伝統的な「小江戸」の祭りも、だいぶ国際的になってきたようです。


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2006/10/14

中朝国境の朝鮮族(4) 吉林の老人節

061014
そのあと、バスを乗り継いで、白頭山(長白山)から、吉林市まで行きました。吉林に宿を取り、バスで郊外の朝鮮族の村へ。「老人節」で歌と踊りをやるかもしれないと噂を聞いたからでした。旧暦八月十五日の「老人節」とは、朝鮮族の敬老の日とでも訳せばいいでしょうか。

バスを降りたところは数軒の民家があるだけで、村の中心部は、そこから1.5kmほど歩いたところでした。

村はずれの工場か何かの広場に、民族衣装を着た人たちがおおぜい集まっていました。赤い垂幕にハングルが書かれています。漢字がいっさいないので、日付の「9.3」しかわかりません。

老人たちが歌と踊りをやっていました。太鼓、シンバルのリズムが軽快に鳴り響きます。マイクを持った人が、歌を披露します。カラオケ大会のようです。朝鮮族の歌のあと、日本の歌も飛び出しました。俺が日本人とわかったからでした。次から次と、俺の元へ日本語をしゃべる老人があいさつにやってきました。

あるおじいさんは、
「私は、朝鮮生まれですが、すぐ日本へ行きました。そして、名古屋の高校を卒業したあと、1920年の1月に中国に来ました」
といいました。あるおばあさんは、
「ずっと日本語をしゃべっていないので、忘れました」
戦後日本人を生で見たのは初めて、だからしゃべるのも初めてとのことです。

飛び入り参加で、俺も「北国の春」や「夕焼け」を歌いました。「歌いました」というのはもちろん正しくありません。正しくは「歌わされた。しかも強引に」です。祭に行くとなりゆきで、いつもこうなります。そして当然酒も飲まされます。

老人節には、男61歳以上、女55歳以上の老人が参加するのだという。ということは、若い人たちから祝ってもらうという祭ではなくて、自分たちで楽しむ祭らしい。初めは、朝鮮族ふうの伝統的な歌や踊りが多かったのですが、そのうち、碁盤の目状に整列して、中国ディスコふう体操が始まりました。そうか、この祭は老人たちの運動会なんだなと納得しました。

みんな親切でしたが、酒に酔ったせいもあるのか、何人かから、にらまれた瞬間もあります。彼らの目には、日本人に対する複雑な感情が感じられました。全体的には親日的といっていい迎えられ方でしたが、俺は、辛い歴史を思い起こさせる招かれざる客であったのかもしれません。朝鮮族は、日本の植民地政策に乗せられて中国へやって来た人たちや、食べられなくなって朝鮮半島からやってきた人たちの子孫だといいます。誰も文句や恨み言を直接口にしたわけではありませんが、正直、だんだん居心地が悪くなってきました。

夕方、引き止めてくれる彼らと別れてバス停に向いましたが、もう少しいたい気持ちと、早く帰りたい気持ち、両方あったのを覚えています。

Ya_2中朝国境の朝鮮族(3) 白頭山

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2006/10/13

中朝国境の朝鮮族(3) 白頭山

061013

図們から、延吉、二道白河とバスで移動しました。

二道白河に1泊し、翌日ふたたびバスに乗り、長白山へ向いました。「長白山」とは中国での呼び方で、朝鮮名では「白頭山」。朝鮮民族の聖地です。標高2744mの火山の頂上付近にはカルデラ湖、天池があります。平均水深は213mもあるそうです。

金正日(キム・ジョンイル)は、白頭山で生まれたと公式に言っていますが、本当はソビエト連邦の極東地方の軍事教練キャンプで生まれているそうです。自分に神秘性を持たせるための嘘でしょうか。

バスの終点からは絶壁と、67mの高さから水が落ちる長白瀑布が見えました。ポプラが黄色く色付き始め、滝から流れている川の水も澄んでいてきれいでした。川に架かる橋を渡ります。写真屋が客待ちしていました。観光客がたくさん写真を撮っていましたが、なるほどいいアングルには違いありません。俺も真似して写真を撮ります。

そこから200mくらい行くとガレ場になり、その急坂を登らなければなりませんでした。石が落ちてくる危険な道です。もっと楽な道もあったのですが、それは帰るときに気がつきました。

ある場所まで上ると、ようやく平地になりました。すると、目の前に天池の湖面が現われました。対岸は北朝鮮? 監視所や国境警備の兵士などは見当たりません。もっとも対岸へ渡るには、ボートなどはないので泳ぐしかなく、普通では無理です。湖の周りは想像以上に切り立った山で、一周する道などもありません。

天気が回復し、湖が青く輝いていました。ぽかぽかして気持ちがいい。それにしても、このせっかくの絶景なのに、観光客が落としていくゴミが多いのは残念でした。ビール瓶のかけらなども落ちていて危険です。

パンと缶詰の豚肉とピーナツで昼食。食事後、天池を見渡せる場所まで上りました。いい眺め。ほんとに対岸は北朝鮮なのだろうか。白い建物やパイプが見えたので、望遠レンズで覗いてみましたが、人らしき姿はありませんでした。

ハルピンの大学生と韓国人の5人のグループと知り合いました。韓国人は、オーストリアに住むエコロジストで、中国人学生たちと共同で植物調査をしにやってきたのだといいました。

韓国人は日本語をしゃべりました。「富士山に登ったことはありますか? 丹沢には?」と聞かれ「どっちも行ったことがありません」と答えると、「珍しいですねぇ」と軽蔑したように言われました。別に行かなくてもいいだろうと思いますが。

天池に棲む怪獣「テッシー」の噂を聞いていたので、彼らにその話をすると、「怪獣なんているはずがないですよ。第一、この天池は泉の水で、とても澄んでいるので、魚さえも棲めないんです。餌のいない湖に、どうして怪獣なんか棲めるんですか?」と言うのです。まったく理屈はその通り。でも・・・。

韓国人に「南北統一も近いのではないですか?」と聞いてみました。すると、韓国人は語気を強めて「とんでもない!あいつらの頭は固いんだ。統一を考えているようなジェスチャーを見せてるだけ」と言い放ちました。俺などが単純に口を挟める問題ではないなと、それ以上突っ込みませんでした。北朝鮮や韓国について、俺はほとんど何も知らないことに気がつきました。

俺が白頭山に行ったのは1991年ですが、1992年に韓国と中国の国交が樹立されてからは、多くの韓国人がやってくるようになりました。彼ら韓国人は、地元の朝鮮族からはあまり良く思われていないそうです。というのも韓国人は経済力を自慢し、地元の朝鮮族を馬鹿にするからだと言われています。白頭山に韓国の国旗を立てる輩も現れて、今は禁止されているようです。日本人も外国でひんしゅくを買うことがありますが、韓国人もあるようです。このエコロジストはどうか知りませんが、なんとなく人を馬鹿にしたような態度は、正直気にくわなかったですね。

たいていの観光客が引き上げてから、俺も下山しました。バス停の近くに温泉があったので入りました。中は薄暗く、5m四方ほどの湯船からは湯気もたっていません。入ってみると、35度くらいの温いお湯で、深さは予想以上に深くて80cmくらい。底はぬるぬるして滑って気持ちが悪い。でも一風呂浴びることができたので、さっぱりしました。外へ出ると、温泉玉子が売られていました。

宿に泊まり、翌朝5時半に起きて、もう一度天池へ向いました。朝の天池を見たかったのですが、あいにく山には雲がかかり、風も強い。天池に着いたはいいのですが、寒くてしかたありませんでした。雲がすごい速さで湖面を西から東へと移動しています。俺の鼻水も糸を引いて西から東へ飛ばされます。前日の天気とぜんぜん違う。やっぱりここは山なのです。たまに雲間から太陽が見えますが、すぐに隠れてしまう。

その雲の移動でできる湖面の影が不気味です。怪獣の正体はこれか? 神秘的な湖面に、雲の影が走るのを見て「怪獣」を想像するのは凡人だからでしょうか。韓国人にまた馬鹿扱いされそうです。ただ、金正日の嘘よりは夢があると思いますが。

俺は鼻水をシャツの袖でぬぐい、下山することにしました。

Ya_2中朝国境の朝鮮族(4) 吉林の老人節

Ya_2中朝国境の朝鮮族(2) 渤海鎮の民宿


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2006/10/12

中朝国境の朝鮮族(2) 渤海鎮の民宿

061012

今日は昨日に引き続いて中朝国境の朝鮮族について書きます。当時付けていた日記が見つかったので、あと2、3日はこの話題の予定。

昨日のトゥーメン(図們)の話から2日さかのぼります。黒竜江省にある渤海国遺跡を見たくて、渤海鎮へ行き、たまたま地元の人に教えてもらった朝鮮族経営の旅社に泊まることができました。

いわゆる民宿ですね。2階に通されましたが、部屋に入る前に靴を脱ぎました。清潔な部屋でした。すぐ、食堂に下りていって夕食をとりました。チャーシューのようにスライスされた犬肉。ニンニク・ショウガ醤油に付けて食べます。それとマーボー豆腐と漬物。こういうのが一般的な朝鮮族料理だったと思います。そしてコメがつるつるして、少し粘り気もあってまるで日本のごはんのようにおいしかったですね。

宿の主人は60何歳でしたが「南鮮」出身だと言いました。奥さんもそうでした。ふたりとも韓国人、つまり外国人です。主人は、韓国、日本、朝鮮、中国と渡り歩いて、ここに辿り着いたようです。中国に来たのは30年前だそうです。もし、南北統一したら、すぐに帰郷したいと言いました。

主人は、奥から緑色の外国人居留証と旅行証を持ってきて見せてくれました。居留証の方は、1年づつ延長手続きしながら中国内に住んでいるようです。

「私のお兄さんが東京にいるはずだが、消息は途絶えたまま。もう70数歳だし、生きてはいないんじゃないかなぁ」と、寂しそうに言いました。

翌日遺跡見学して、午後、トゥーメンへ行こうとしましたが、列車は午前10:55発一本しかなくて、この旅社にもう一泊しました。そのまた翌日、東京城という駅から列車に乗り、トゥーメンに向いました。

東京城駅に行くと、朝鮮族の女性がめだちました。服装でもそれとわかりましたが、荷物の持ち方が独特なのです。かばんや袋を頭の上に載せて、手はいっさい使わない。うまくバランスを取って歩いていました。

列車の乗客は7割以上が朝鮮族の人たちでした。俺の前に座っていた女の子は可愛らしいチマチョゴリを着ていましたが、名前を聞いたら「崔海燕」と紙に書いてくれました。俺が日本人だとわかって、女の子は歌と踊りを見せてくれました。

近くに座っていたおばあさんは、丁寧な日本語をしゃべりました。きれいな日本語です。
「60以上の人なら、みんな日本語を習いました。もうすっかり忘れましたけど」
また、隣のおばさんは、
「今、中学では、外国語として、日本語を勉強しているんです」
と教えてくれました。英語ではないらしい。(現在は、英語と日本語が選択できるが、英語の方が多くなっているそうです)

あとで、トゥーメン市内の公園でおじさんから聞いたところでは、朝鮮族と漢民族の学校は別々なのだといいました。だから朝鮮族は朝鮮語で教育を受けているとのことでした。(現在は、朝鮮族でも漢民族の学校に行くケースが増えている。結局、漢語ができないと中国ではいい仕事につけない事情があるようです)

確か、中国の少数民族の中で、大学進学率が一番高いのが朝鮮族だったのではないでしょうか。教育熱心な民族なのです。それは今も変わっていないと思います。

ところで、今日掲載の写真は、ある祭での、朝鮮族伝統競技「踏板」。シーソー状になった板を踏んで、その反対側に立っている人を空中に飛ばします。どれだけ高く上げるかを競います。昔は神事だったようです。高ければ高いほど、神に近づきます。写真からもわかるように、その高さは身長以上です。足の下から紐が垂れていますが、これは高さを計るメジャー。神との距離も今では「科学的」な方法を用いるようです。


Ya_2中朝国境の朝鮮族(3) 白頭山

Ya_2中朝国境の朝鮮族(1) トゥーメン(図們)


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2006/10/11

中朝国境の朝鮮族(1) トゥーメン(図們)

061011
(写真は中国吉林省トゥーメン(図們))

北朝鮮は2回目の核実験をするかもしれないという情報が入ってきました。(最終的には誤報だったようです。2006/10/11 11:00 p.m.記)

安保理の制裁決議はどうなるのでしょう。今まで北朝鮮寄りに行動してきた中国ですが、今回だけは、容認する以外ないと言われています。面子をつぶされるのを一番嫌う中国人ですから、今回はほんとに怒っているのでしょう。

今回核実験が行われたとされる場所から、約200km離れた中国の街、トゥーメン(図們)を訪ねたのは、1991年のことです。この国境の街は、トゥーメン江を挟んで北朝鮮に面しています。

ずいぶん時間が経ってしまったので、だいぶ様子が変わってしまったのではないでしょうか。当時はまだ脱北者などの話も聞かなかったし、いずれ北朝鮮も中国のように開放政策を取っていくんだろうな、などと楽観的に考えられていました。だから、国境はのんびりして、まったく緊張感もありませんでした。市場では、北朝鮮の海産物、農産物などを売っていました。こちら(中国)側に住んでいる朝鮮族の人が、向こうへいって買ってきたものでした。

中国側の朝鮮人たちはさんざん言っていました。「むこうはとても貧しい。コメはなくて、みんなトウモロコシを食べている」と。

街には、朝鮮族がたくさん住んでいるし、韓国人が北朝鮮を見にやってくる観光地でした。だから質の高い韓国料理店もあって、食べるものには苦労しなかった記憶があります。ただ、ある料理店で「炒肉」を頼んだら、大量の犬肉炒めが出てきて、びっくりしたこともあります。そこでは「肉」といったら「犬」だったのです。「豚」を頼みたいときは「大肉」と注文しなければならなかったような・・・。記憶違いならすみません。

丘に登ると、トゥーメン江と対岸に北朝鮮が見渡せました。橋が見える場所から、川と平行に南東へしばらく歩いていくと、なだらかな山並みと、そこに広がる畑や民家など、今から思えば、とても牧歌的な風景が広がっていました。まさか、その後、拉致被害者を帰さなかったり、核武装を宣言したり、偽札を作ったり、麻薬を売ったりというテロ国家になる、いや、テロ国家の本性を現すことになるとは思いもしませんでした。

対岸の山に大きく三文字ハングルが書いてありました。なんだろう?と思って地元の人に聞いたら、「速度戦」と書いてありますよと教えてくれました。どういう意味なんでしょうか?

Ya_2中朝国境の朝鮮族(2) 渤海鎮の民宿


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2006/10/10

自爆テロ国家「北朝鮮」と、危ういトレンド国家「日本」

061010
昨日、北朝鮮が核実験に成功したと自己申告しました。まだ、ほんとかどうかわからないですが、嘘だとしても、関係国に与える影響は大きすぎます。それなりの覚悟で発表したのでしょう。まるで、これは国家そのものが自爆テロをやっているようなものです。

ところで、今回の件で、日本がアメリカ(あるいは世界)からどう見られているかわかってきました。

米国で日本核武装への懸念が表面化
【ワシントン笠原敏彦】北朝鮮の核実験予告声明を受け米国では、実験が行われると東アジアの安全保障環境が激変し、日本が核武装するのではとの懸念が表面化している。ワシントン・ポストなど米主要紙が相次いで社説で言及したほか、国務省高官は毎日新聞の取材に対し、東アジアで核武装論議のドミノ現象が起きることに警戒感を示した。
 ポスト紙は5日付社説で、北朝鮮が核実験に踏み切った場合「東アジアの地域安全保障を変化させ、その帰結として日本は核兵器保有を選択するかもしれない」と指摘した。ニューヨーク・タイムズ紙も6日付の社説で「警戒すべきシナリオがある。日本や台湾、韓国が自分たちも核が必要だと考え始めることだ」と主張した。

Yahooニュース参照

アメリカだけではなさそうです。韓国も中国も日本の核兵器保有を心配しています。

韓国のネットではこんな書き込みがあるという。
「北朝鮮のアカどもめ!核実験なんかして日本が核兵器を持つ口実を与えやがって!この親日派!」
「薫のハムニダ日記」参照)

アメリカ、韓国の本音が出ているのではないでしょうか。日本が核武装を決断したら、短期間にやれるでしょう。もちろん、今の時点で日本が核兵器を持つなどということはありえないと俺たちは思いますが、アメリカ人からすると、「何を考えているかわからない日本人」であるし「何をしでかすかわからない日本人」なのです。実際、太平洋戦争ではそうでした。

日本の真珠湾攻撃は、よほどアメリカ人のトラウマであるらしく、911の同時多発テロが起こったとき、「真珠湾攻撃の悪夢がよみがえる」と言ったアメリカ人は多かったようです。その日本には絶対核兵器を持たせてはいけない。それがアメリカの本音でしょう。

そう考えると、昔からアメリカがやってきたことは、まさに日本に軍事力を持たせないためだったのかと納得できます。

アメリカは戦後「理想的」とも言える平和憲法を日本に与え、核兵器はもとより軍隊も持てないようにしました。そして戦争は、特定の戦争犯罪者だけに責任を押し付け、天皇や国民の罪は問わないことにしました。それによって、日本人は罪悪感なしに平和を単純に喜ぶことができました。そしてアメリカに感謝しました。アメリカが原爆を落としてくれたので戦争が早く終わったと考える日本人もいるくらいです。

その後アメリカは軍事的に日本を守り、「平和」という甘い飴を与えられ、アメリカ文化のさまざまな「快感」によって、日本人の意識は「軍備」に向かいませんでした。今、日本とアメリカが戦争をしたことを知らない若者さえいます。アメリカが意識していたかどうかはわかりませんが、こうしてアメリカの思惑はまんまと成功してきたのです。

ところがこの北朝鮮の核保有宣言によって、日本人の「本性」が目覚め、核武装が一気に進むかもしれないと心配するわけです。反米的な俺でさえ、そういうことは感じています。日本人の集団心理については、何度かこのブログでも書いてきました。ヨン様と言えば、ヨン様、斉藤投手と言えば、斉藤投手。トレンドに弱い国民性です。「核武装」については「違う」と否定することができるでしょうか? しかもグッド・タイミングで、タカ派の総理大臣が誕生しました。

今日の街頭インタビューでは、強硬意見が多いですね。(そういうのだけピックアップしているテレビ局の操作もあるのですが) やさしそうなおばさん、おじさんたちが「なめられてはいけませんよ」「もっと強硬手段をとるべきです」、若い人は「核武装すべきですね」としゃべっています。核武装? なんでそこまで極端な意見になってしまうの?

もちろん、俺も、断固とした態度は必要だと思います。北朝鮮から、なめられるのもイヤです。ただ、こういう人たちは今まで北朝鮮の核実験のことなど考えていたんでしょうか。ただ、「核実験した(かもしれない)」とニュースで昨日知って、そしてここが問題なのですが、まわりの人たちが強い調子で非難しているようだから自分もしなければ、しておこう、したほうが無難だ、という「場」を敏感に感じ取って発言しているだけに過ぎない人がほとんどなのです。(といって、何もしゃべるなというわけではありません。俺だってこうして勝手なことを書いています)

「空気を読めよ」と最近はよく耳にするようになりました。もともと日本人は「場」を大切にする民族で、空気を読めないやつは「ダメなやつ」「迷惑なやつ」「白けさせるやつ」なのであって、その「場」の空気を読むことが集団で生きていける必要不可欠な能力なのです。これが日本人特有の集団心理なのだと思います。

つい最近まで「平和こそ大切」と言っていたのではないですか? 一日でトレンドは変わってしまうこの日本という国の危うさ・・・。


Ya_2被爆国という立場の日本


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2006/10/09

とうとう北朝鮮が、核実験実施?

061009

とうとうやってしまいましたね。悪い意味で「有言実行」の政権だと言われていた通りのことが起きてしまいました。今のところ(13:20現在)、北朝鮮が「実験した」と言っているだけで、実験そのものがあったかどうか確認されていませんが。

一応、北朝鮮は「実験は成功し、放射能漏れなどはなかった」と言っていますが、今までさんざん嘘をついてきた政権ですからね。信用はできません。だから実験も、北の「見栄」かもしれません。

どうしてそんな見栄をはるのでしょうか? それはアメリカと有利に交渉を進められるように「核兵器保有国」であることを偽装するためでもあるだろうし、自分たちの兵器を外国に売るための「いい宣伝」かもしれない。

いずれにせよ、こうなってくると、融和政策をとってきた韓国、中国の立場も苦しくなるでしょう。面子をつぶされたかっこうです。

今までも感じていたことですが、韓国人はどうしてこういう政権と仲良くしようとしているのか疑問でした。日本の国旗を焼くヒマがあったら、北の一般市民を助けようとしたらどうか、つまり、金正日政権と対決することが優先するんじゃないかと思ってきました。同じ民族なんだから。

でもこれで、はっきりするでしょう。こういう政権をまだ認めるということであれば、韓国も、中国も孤立していくことになります。孤立してもいいから北朝鮮とともに歩んでいこうとするとは思えません。当然対決姿勢で臨むことを選択するのではないでしょうか。

今日は、東アジアの大きな流れが変わった瞬間の日になりました。

Ya_2自爆テロ国家「北朝鮮」と、危ういトレンド国家「日本」

Ya_2北朝鮮が2回目の核実験?

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2006/10/07

移動する快感

061007
(写真は中国広州市内)

先日、ある雑誌編集者と話をしていたとき、「移動の快感」の話題になりました。

以前、ホームページにも書きましたが、俺は雲南省に行くと元気になり、いいアイディアが浮かんでくるのですが、とくに振動を伴った移動のときですね。がたがたとバスに揺られるとき。日本のような立派な道ではなく、適当に悪いので、いい具合に揺れるんです。

あれは中学生のとき習ったんだっけ? 「フレミングの法則」。親指、人さし指、中指が、お互い直角になるように延ばすと、それぞれが、移動の方向、電流の方向、磁場の方向を表わします。コイルが磁場の中を移動すると、電流が流れるというやつです。

だから地球上の磁場のなかを脳が移動すると、電流が流れるのではないか、などと考えています。しかも適当な振動があればなおさらでしょう。緊張した体のネジが緩んでいくようにリラックスします。それでますます脳が活性化する。こじつけと言われれば、そうなんでしょうねぇ。そして脳がコイル状になっているのかどうかも、問題あるところです。(トルコで、ヒツジの脳みそサラダを食べたとき、魚の白子のようでした。参考までに)

ここ数年、携帯電話をはじめとして、モバイル・インターネット機器の普及率には目ざましいものがあります。移動しながら使える軽いモバイル機器は、これからのインターネット生活には欠かせなくなっていくでしょう。どうしてこんなにもモバイルが早く普及するのかというと、人間の本能と関係あるという説もあります。

人類の祖先は------話は大きくなりますが------、アフリカで誕生し、地球上に拡散していきました。モンゴロイドの一部はベーリング海峡を渡って、アメリカ大陸まで達しました。そこ後も、人類は拡散を続け、今では、宇宙にまで広がって行こうとしています。

それじゃあ、どうして人類は移動したのか? 食料が豊富なアフリカをどうして離れたのか? それはよくわかっていないそうです。どうしても、移動せざるをえないような、もっと本質的なところに関わっているのではないか。移動することが、快感であるということが、人類の本能だからではないか。だから、移動してできるモバイル・インターネットが、これだけ急激に普及するのではないかという説です。

面白い話だと思うし、実際移動することの快感は感じているので、うなずける話ではあります。

移動せざるをえない。移動することは、本能なのだ。とすると、地に足が着いていないような、いつも移動していないとダメな俺の性質も、人類のたどってきた歴史からみたら自然なことであって、なんら後ろめたさを感じることはないのだ。よかった、よかったと、俺は安心するのでした。


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2006/10/05

秋の味覚。マツタケ

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(写真は雲南省シャングリラのチベット仏教寺院、松賛林寺)

「秋の味覚。マツタケ」。マツタケ食べて「日本の秋はいいなぁ」としみじみする季節なのでしょうねぇ。

でも、ほとんど庶民が食べるのは、北朝鮮産と雲南産でしょ。「北朝鮮の秋」と「雲南省の秋」は、確かに感じられるかもしれません。(今年は国内産が大豊作とのことですが・・・)

10年ほど前、雲南省の中甸を訪ねました。中甸は、2002年5月、「香格里拉(シャングリラ)」と改名されました。「シャングリラ」とは、1933年に英国の作家ジェームス・ヒルトンが発表した小説「失われた地平線」 に出てくるチベットの山奥にある謎のラマ教寺院「シャングリラ」(サンスクリット語で理想卿の意)のことで、現在では「桃源郷」や「理想卿」を意味する言葉になっています。その小説に出てくる名前を地名にしてしまう中国は、すごい!!

まぁ、それはともかく、当時、中甸では、日本にマツタケを輸出して金持ちになった人たちの家を「松茸御殿」と言っていたようです。日本様様だったのですね。その後、マツタケは年々乱獲されて、取れる量が少なくなっているという話も聞きます。

日本が買ってくれるまでは、価値がない食材で、地元民は取りませんでした。取ったとしても、他のキノコと同じ程度の価値しかなかったようです。

だから、俺が地元の食堂で、マツタケの炒め料理をたらふく食べたことがありましたが、高くはなくて、普通のキノコ料理と同じ値段で食べることができました。中華風に炒めてしまうと、マツタケ特有の香りは感じなくて、もったいない気がしたのですが、そこは日本人の持つ特殊な香り文化のせいであって、地元民にはただ黴臭いだけだったかもしれません。今は、どうでしょうか。日本人の影響で焼いて食べる人もいるのかもしれませんが。

それにしても、日本人がマツタケを「秋の味覚」といって欲しがったことが、雲南省の山中の町の様子を一変させたというのはすごい影響力です。もちろん、変わったのはマツタケのせいだけではないし、変わったことが良かったとか、悪かったとか、俺が言えることでもありませんが。

ただ、日本人の庶民がささやかな食材を求めることさえも、地球のどこかを劇的に変化させるだけの「力」を持っているんだということを、ちょっと恐ろしく感じるだけです。ただ、日本人はすでに食糧の半分以上を外国からの輸入に頼っているわけで、そんな事をいちいちに考えていたら、おいしいものもおいしく感じなくなってしまうので、「鈍感に」ならざるをえないということなんでしょうねぇ。

「庶民以下」の俺は積極的に「マツタケを食べたい」と思ったことはありませんが、でも、もしどこかで出されたら、俺だっておいしく食べるだろうし、「雲南」や「北朝鮮」よりは、「日本の秋」をしみじみ感じてしまうのです。


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2006/10/01

写真は出会い頭の面白さ

061001
(写真は中国鄭州)

旅と写真について昨日書きましたが、写真の面白さは、俺にとって「出会い頭の面白さ」「偶然の面白さ」です。

パソコンが普及して、画像処理は当たり前になってきました。空に映った電線やゴミを消すのはさほど難しくはありません。きれいな写真を作る環境は発展してきました。でも、写真は、絵と違って、その場にいないと撮れないものです。 

ただし、実際現場に来ると、必ず予想していないことが起き、予想していない物に出会います。その出会い頭の面白さ、偶然の面白さは、写真ならではの素材です。

パソコン上で「きれいに」作り上げた写真や、演出をして「完璧な」写真に作り上げても、出会い頭や偶然の、圧倒的な力と面白さに比べたら、鼻クソほどにもなりません。それこそ予想できない「旅」の面白さと重なります。

俺が理想とするのは、「体で撮る写真」です。カメラがどうのとか、レンズがどうのとか、絞りがどうのとか、極端に言えば機材やテクニックはどうでもよく、それよりも、その現場に「わーッ!」と飛び込んで、頭で考える余裕を与えず、体で撮っていく。そんな感覚で撮る写真が好きだなぁ。(もちろん、ある程度の基礎があってのことですが)

だから失敗も多いです。収穫ゼロのときもあります。雲南元陽では、霧で何も見えなくて、1週間ゲストハウスで寝てたことがあります。でも、それも偶然の一部なんですよね。いいことだけじゃなくて、悪いことも受け入れなくては。

最初から俺はカメラやフィルムにはあまり興味がありませんでした。できればカメラを使わずに写真を撮れたらいいなと思っていたくらいです。その考えは今でも変わっていません。


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