中朝国境の朝鮮族(4) 吉林の老人節
そのあと、バスを乗り継いで、白頭山(長白山)から、吉林市まで行きました。吉林に宿を取り、バスで郊外の朝鮮族の村へ。「老人節」で歌と踊りをやるかもしれないと噂を聞いたからでした。旧暦八月十五日の「老人節」とは、朝鮮族の敬老の日とでも訳せばいいでしょうか。
バスを降りたところは数軒の民家があるだけで、村の中心部は、そこから1.5kmほど歩いたところでした。
村はずれの工場か何かの広場に、民族衣装を着た人たちがおおぜい集まっていました。赤い垂幕にハングルが書かれています。漢字がいっさいないので、日付の「9.3」しかわかりません。
老人たちが歌と踊りをやっていました。太鼓、シンバルのリズムが軽快に鳴り響きます。マイクを持った人が、歌を披露します。カラオケ大会のようです。朝鮮族の歌のあと、日本の歌も飛び出しました。俺が日本人とわかったからでした。次から次と、俺の元へ日本語をしゃべる老人があいさつにやってきました。
あるおじいさんは、
「私は、朝鮮生まれですが、すぐ日本へ行きました。そして、名古屋の高校を卒業したあと、1920年の1月に中国に来ました」
といいました。あるおばあさんは、
「ずっと日本語をしゃべっていないので、忘れました」
戦後日本人を生で見たのは初めて、だからしゃべるのも初めてとのことです。
飛び入り参加で、俺も「北国の春」や「夕焼け」を歌いました。「歌いました」というのはもちろん正しくありません。正しくは「歌わされた。しかも強引に」です。祭に行くとなりゆきで、いつもこうなります。そして当然酒も飲まされます。
老人節には、男61歳以上、女55歳以上の老人が参加するのだという。ということは、若い人たちから祝ってもらうという祭ではなくて、自分たちで楽しむ祭らしい。初めは、朝鮮族ふうの伝統的な歌や踊りが多かったのですが、そのうち、碁盤の目状に整列して、中国ディスコふう体操が始まりました。そうか、この祭は老人たちの運動会なんだなと納得しました。
みんな親切でしたが、酒に酔ったせいもあるのか、何人かから、にらまれた瞬間もあります。彼らの目には、日本人に対する複雑な感情が感じられました。全体的には親日的といっていい迎えられ方でしたが、俺は、辛い歴史を思い起こさせる招かれざる客であったのかもしれません。朝鮮族は、日本の植民地政策に乗せられて中国へやって来た人たちや、食べられなくなって朝鮮半島からやってきた人たちの子孫だといいます。誰も文句や恨み言を直接口にしたわけではありませんが、正直、だんだん居心地が悪くなってきました。
夕方、引き止めてくれる彼らと別れてバス停に向いましたが、もう少しいたい気持ちと、早く帰りたい気持ち、両方あったのを覚えています。
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