中朝国境の朝鮮族(2) 渤海鎮の民宿
今日は昨日に引き続いて中朝国境の朝鮮族について書きます。当時付けていた日記が見つかったので、あと2、3日はこの話題の予定。
昨日のトゥーメン(図們)の話から2日さかのぼります。黒竜江省にある渤海国遺跡を見たくて、渤海鎮へ行き、たまたま地元の人に教えてもらった朝鮮族経営の旅社に泊まることができました。
いわゆる民宿ですね。2階に通されましたが、部屋に入る前に靴を脱ぎました。清潔な部屋でした。すぐ、食堂に下りていって夕食をとりました。チャーシューのようにスライスされた犬肉。ニンニク・ショウガ醤油に付けて食べます。それとマーボー豆腐と漬物。こういうのが一般的な朝鮮族料理だったと思います。そしてコメがつるつるして、少し粘り気もあってまるで日本のごはんのようにおいしかったですね。
宿の主人は60何歳でしたが「南鮮」出身だと言いました。奥さんもそうでした。ふたりとも韓国人、つまり外国人です。主人は、韓国、日本、朝鮮、中国と渡り歩いて、ここに辿り着いたようです。中国に来たのは30年前だそうです。もし、南北統一したら、すぐに帰郷したいと言いました。
主人は、奥から緑色の外国人居留証と旅行証を持ってきて見せてくれました。居留証の方は、1年づつ延長手続きしながら中国内に住んでいるようです。
「私のお兄さんが東京にいるはずだが、消息は途絶えたまま。もう70数歳だし、生きてはいないんじゃないかなぁ」と、寂しそうに言いました。
翌日遺跡見学して、午後、トゥーメンへ行こうとしましたが、列車は午前10:55発一本しかなくて、この旅社にもう一泊しました。そのまた翌日、東京城という駅から列車に乗り、トゥーメンに向いました。
東京城駅に行くと、朝鮮族の女性がめだちました。服装でもそれとわかりましたが、荷物の持ち方が独特なのです。かばんや袋を頭の上に載せて、手はいっさい使わない。うまくバランスを取って歩いていました。
列車の乗客は7割以上が朝鮮族の人たちでした。俺の前に座っていた女の子は可愛らしいチマチョゴリを着ていましたが、名前を聞いたら「崔海燕」と紙に書いてくれました。俺が日本人だとわかって、女の子は歌と踊りを見せてくれました。
近くに座っていたおばあさんは、丁寧な日本語をしゃべりました。きれいな日本語です。
「60以上の人なら、みんな日本語を習いました。もうすっかり忘れましたけど」
また、隣のおばさんは、
「今、中学では、外国語として、日本語を勉強しているんです」
と教えてくれました。英語ではないらしい。(現在は、英語と日本語が選択できるが、英語の方が多くなっているそうです)
あとで、トゥーメン市内の公園でおじさんから聞いたところでは、朝鮮族と漢民族の学校は別々なのだといいました。だから朝鮮族は朝鮮語で教育を受けているとのことでした。(現在は、朝鮮族でも漢民族の学校に行くケースが増えている。結局、漢語ができないと中国ではいい仕事につけない事情があるようです)
確か、中国の少数民族の中で、大学進学率が一番高いのが朝鮮族だったのではないでしょうか。教育熱心な民族なのです。それは今も変わっていないと思います。
ところで、今日掲載の写真は、ある祭での、朝鮮族伝統競技「踏板」。シーソー状になった板を踏んで、その反対側に立っている人を空中に飛ばします。どれだけ高く上げるかを競います。昔は神事だったようです。高ければ高いほど、神に近づきます。写真からもわかるように、その高さは身長以上です。足の下から紐が垂れていますが、これは高さを計るメジャー。神との距離も今では「科学的」な方法を用いるようです。
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