植村直己 冒険家は究極のエゴイスト (2)
(写真は中国青海省・メコン源流)
昨日の続きです。
植村直己は偉大な冒険家でした。
究極のエゴイストとして生きてきたはずでしたが、でも、そのうち、スポンサーなどとのしがらみができて、エゴイストであり続けられなくなったとき、偶然にも(もしかしたら、必然的に)、マッキンリーの山で行方不明になってしまいました。
まぁ、それでも、彼は普通の人にはできない、やりたいことをやって死んだのだから、幸せだったでしょう。自分のやりたいことをわかっている人は幸せです。たいていの人は、わかったつもりになっているだけです。
俺も、「本当に」やりたいことというのがわかっていません。とりあえず「やりたくないこと」の方がわかるので、なるべくやらなくてすむことなら、やらずにすましています。それでいいのかもしれません。
最近は、やたらと「やりたいこと」を探そうとしていて、それを「自分探し」などと言っている人たちもいますが、なんだか強迫観念にとらわれている気がしてなりません。そんなに「やりたいこと」を見つけなければならないんでしょうか。最近のリクルートのコマーシャルでもあるじゃないですか。「自分探し」を50年やっても見つからなくて、爺さんになってしまったという・・・。
これも前に書いたような気がしますが、また書きます。
メコン河の写真集、写真展のあと、「燃え尽き症候群」に陥り、一時は何もやる気が起こらなくて、半引きこもり状態になったことがありました。いまからちょうど10年ほど前です。
なんとかせねばとあせるのですが、どうも駄目。こういうとき、サラリーマンなら、とりあえず会社に行くこともできますが、フリーは、すべてにおいてフリーなので、やらなくても、誰も文句は言いません。そのかわり、やらなければ、確実に死んでしまいます。
そこで俺は考えたんです。ここで荒療治をしなければと。それは、カメラを持たないで旅にでることでした。そしたら、写真が撮りたくてしかたなくなるに違いないともくろんだのでした。
ところが、1週間、2週間、3週間たっても、いっこうに写真を撮りたいと思わなかったのです。ただ、旅していることだけで満足でした。それで俺は悟りましたね。あぁ、俺は写真撮らなくても平気な人間なんだと。荒療治は失敗に終わったのでした。
ただ、だからと言って、俺がやりたいことは、写真ではないなどと結論するのは、ちょっと違います。事はそう簡単ではないのです。
撮りたいと思わないときは、撮らずにすむということは、いいことでもあるし、また、悪いことでもあります。写真はなんだかんだ言っても、行為がすべてです。カメラを持ってシャッターを切るという行為がなくては写真になりません。頭で想像して「念写」でもできれば別ですけどね。それは冗談としても、とにかく、動かなければ駄目なのです。だから、無理してでも、撮り続けることは、スランプからの脱出につながるでしょう。
でも、一方では、やりたくないなら、徹底的にやらずにおこうとも思います。一番底まで行ったら、あとは上に登るしかない。俺はこの方法を取ったような気がします。「気がします」とは、あいまいですが、実際、どうやって、「メコン河燃え尽き症候群」から脱出したのか、俺もよくわからないのです。気がついたら棚田の写真を撮っていた、あれ、いつの間にか、また写真を撮っているなぁ、という感じなんです。
なんだかんだ言いながらも、かれこれ20年ほど写真は撮っているし、まだ飽きないし、だから、未だにほんとにやりたいことかどうかはわかりませんが、というより、そんなことを言ってもしかたないことで、写真は続けます。続いたことが、けっきょく「やりたいこと」なんではないでしょうか。
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