落語家の「間」、写真家の「間」
落語家、柳家小三治の「間」はすごいなぁと思いました。名人と呼ばれる人の「間」は、母性本能をくすぐります。
あれ、どうしたのかなぁ?と思って心配になるほど、無言の「間」は続き、これ以上長いと客が困惑してしまうという、その絶妙のタイミングで次の言葉を発する。こんな長い「間」を、堂々とやれるから名人と言われるわけで、俺には怖くて耐えられません。つい、言葉を次から次へと発して、「間」を埋めようとします。
それにしてもなんですねぇ。落語家でも、名人といわれる人は、話をしなくても、いやそれどころか、高座で眠っていても、客は喜んで見ているらしく、そこまでくると、存在そのもので認められるということなのです。(柳家小三治は全身落語家と言われているようです)
こんな名人になってみたいものです。俺は時々、「カメラを持たないで写真を撮りたい」「写真を撮らない写真家になりたい」などと、冗談で言っています。もちろん、「カメラを持たないで写真を撮ること」も「写真を撮らない写真家」も、矛盾していて、ありえないことなのですが、ただ、言いたいのはこういうことです。
写真も旅も、もちろん好きだし、やめるつもりはないですが、でも、これだけやっていてもなぁ・・・。何かが違うんですよね。別のことをやりたいということではないんですが。「いい写真」は撮りたいですが、少なくとも「じょうずな(つまり技術的にですが)写真」を撮る気はなくなりました。
それで、もしかしたら、こういうことかなと気がついたんです。この小三治の「間」を見て。つまり、落語家の「間」とは、空白であって、「言葉」の、それこそ間にあるものです。本来落語家がやるべき仕事と仕事の間の「間」。この「間」があるからこそ、その前後にある「言葉」が生きてくる。ここに実は、俺が求めるものがあるのではないかということ。
だから、言葉の表現としては「カメラを持たないで写真を撮る」とか「写真を撮らない写真家」とか言うしかないみたいな気がしますけど。写真家にとっての「間」、ですね。どうでしょうか。
なんだかわからない?
バカだなぁと思われるでしょうね。俺も自分でそうだと思ってます。
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