映画 『ブラッド・ダイアモンド』 (2) 「悪い人ね」といわれると無性にうれしい
(写真はマダガスカル)
昨日、映画『ブラッド・ダイアモンド』のことを書きました。今日は、その続きです。
人間は、「善」でも、「悪」でもない。そのときの行動が、「善」か「悪」かだけだと、映画の中では語られていました。でも、俺には、行動の「善」「悪」さえも、時々わからなくなることがあります。
ディカプリオ扮するダイヤモンドの密売人アーチャーは、元傭兵で、人殺しを躊躇しません。それは、突き詰めると、「自分が生きるため」ということもできるでしょう。
人間も「生き物」である以上、たぶん、人間にとって究極の「善」は、「生きる」ことではないかと思います。何としてでも生きる。どんな手段を使っても生きるということです。そういう意味で、自殺は、明らかに「善」ではありませんが、アーチャーの行動は?
難しいのは、この部分です。自分が生きることは「善」なのに、それで他人(他の生き物)が死ぬことになっても、「善」と呼べるのか、あるいは、やっぱり「悪」なのか。
自分は生きたい、だから他人が生きることも認めなければならない。なので、正当防衛ではない殺人はやっぱり「悪」でしょう。そこまではわかります。でも、殺人のような、直接的手段ではなくて、見えないところで、人を殺す原因のひとつを、自分が作り出しているとしたら?
たとえば、映画のタイトルにもなっている「ブラッド・ダイヤモンド(紛争ダイヤ)」。昨日も触れましたが、ダイヤモンドが先進国で必要とされることが、まわりまわってアフリカの紛争を作り出し、殺し合いが行われているとしたら?
地球に、一人で生きているなら、問題なく「生きること」は「善」であるはずです。でも、実際は、そうではありません。何十億人の人間、そして、もっと何倍もの生き物が生きています。自分が生きることによって、ある生き物は死んでいるかもしれません。
それを考えると(気にしだすと)、単純に「生きる」ことが「善」とは言えなくなるような、なんとも居心地の悪い気持ちに陥ってしまいます。
とは言え、べつに、俺は、いちいち、蟻を踏み潰すことに恐れをなし、蚊を殺すことに「悪」を感じながら生きているわけではありません。自分が欲しいと思ったものが原因で、まわりまわって誰かを殺しているなどと考え始めたら、夜も眠れなくなってしまいます。
じゃぁ、どう考えれば、この問題が自分の心の中で落ち着くのだろうか?と頭をめぐらしても、俺はバカなので、その答えが未だに見つけられないのです。そこが、ふがいない。ただ、もしかしたら、「悪」を抱えたままで(「悪」を拒否しないで、自分の「悪」を意識しながら)生きることが「善」なのかも、とは思いますけど、わかりません。
ところで俺は、「いい人ね」と言われると、後ろめたさを感じながら、うれしくありません。とくに女性に言われた場合ですね。
自分で「善人」でないことを知っているし、というより、女性が男性に対して言う「いい人」には、「いても、害にはならない人」という意味を含んでいる、あるいは、「あなたは、今の位置なら許すけど、これ以上は絶対入ってこないで」という、ちょっとした拒否を含んでいると考えるのは、俺のひがみでしょうか。
だから、俺はむしろ「悪い人ね」といわれると無性にうれしくなってしまうのです、はい。(映画の話から、へんな方向にいってしまいました。すみません)
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