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2008/06/30

地震の予言者は起こったあとに現れる

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(写真は、イスラエル・エルサレムの「岩のドーム」)

最近、このブログに「予言」というキーワードで検索してきてくれる人が増えているようです。

以前「【ひとり会議 その十五】 予言者、占い師、霊能者について」で、予言者のことを書いたからだと思います。

アメリカ 911同時多発テロを予言した(?)と言われる、ブラジル人、ジュセリーノ・ルース氏の予言では、「2008年6月13日、大阪でM6.3の地震が発生」と言っていたそうです。正確には当たりませんでしたが、拡大解釈して「当たった」という人がいます。(すごい拡大解釈!)

そしてネットで話題になったのは、手塚治虫氏の漫画『ブラックジャック』第17巻・第158話「もらい水」の中で、「6月14日午前8時ごろ 東北一帯にマグニチュード7.5の地震発生」とあるそうです。(年は書いてません) それを今回の岩手宮城内陸地震の「予言が当たった」と騒いでいる人たちがいます。

このふたつ、ジュセリーノ・ルース氏の場合は「予言がはずれた」ということだし、手塚治虫氏の場合は、「予言」でも「予知」でもなく、単なる偶然。(あっ、「偶然」なんて書くと、怒られるか)

必ずといっていいほど出ますよねぇ。こういう大きな事件や災害が起こったあとは。

俺は、彼らの「予言」が当たっていても、外れていても、どっちでもいいです。予言の内容そのものにあまり興味がありません。

俺が興味を持っているのは、どうして、こういう大地震や大災害が起こったとき、「この大地震は予言されていた」とか「大災害の予言が当たった」と思う人たちが、起こったあとにたくさん現れるのだろうか?ということです。こういうのを「事後予言(じごよげん)」と呼ぶらしい。(Wiki 「予言」参照

ここに、人間の不思議さと、おもしろさと、いかがわしさを感じます。言うなれば、人間臭い部分です。こういう胡散臭いところ、嫌いではありません。(霊視や占いもしかり。信じませんが、おもしろい)

起こったあとに「予言」が増えるのは、やっぱり当たらないと思っている証拠でしょうか。ホントに信じていたなら、あとに、ではなくて、起こるであろう大地震に備えるからです。でも、そういう備えをしたという話は、いっさい聞きません。

つまり、「予言」というドラマを、ワクワクしながら楽しんでいるとも考えられます。逆説的に言えば「予言は信じます」という人ほど、「予言は当たらない」と無意識では思っているのかもしれません。「当たることはない」とわかっているからこそ、ワクワク感を安心して楽しむことができるからです。とくに災害の場合は。

予言者を期待する人間の気持ちというのはわかります。予言は当たっても外れても、結局たいした問題ではありません。(偶然に当たるときもあるでしょうが)

人間の能力を超越したところのものへの憧れ、あるいは、期待。いつの時代も、「予言者」の存在は必要でした。これからも存在し続けると思います。

社会が不安定であったり、先が見えないときは、とくにそうだと思います。今の時代がまさに「その時」なのでしょうか。

ただし、あくまでも「予言者」です。「予言」はその付録みたいなものでしょう。


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2008/06/28

コメの麺を食べたい (3) 中国の「粉」と、日本の「ライスヌードル」

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(写真は粉巻)

中国雲南省には、有名な「過橋米線(グォチャオミーシェン)」があります。これは食べ方に特徴があります。

熱々の沸騰したスープと、ゆでたコメの麺「米線(ミーシェン)」、生肉、ゆでた野菜などの具が付いてきます。まず、スープで生肉をしゃぶしゃぶのようにして熱をしっかり通してから、他の具を入れ、最後に米線をいれて食べます。スープはいろいろですが、俺が好きなのは、鶏スープの麺です。雲南ではどこでも食べられます。

米線のバリエーションも豊富で、ミャンマーとの国境の瑞麗にいったとき食べた米線は、黄色いポタージュのようなものに入った麺でした。大理では、辛味噌ソースを絡めて食べる汁無しの米線もありました。

また広東地方には、蒸したクレープ状コメ食品を細長く切った、「米粉」「瀬粉」「河粉」というのもあります。ラオスの田舎でも、同じ作り方をしていた麺屋がありました。

このクレープ状のものをヌードルにしないで、そのまま食べる方法もあります。雲南南部で食べた「粉巻」がそうです。生のライスパーパーですね。中に野菜、香草、豚肉などが入っています。屋台で売られています。(写真) 巻かずに細く切ったものは、麺としても食べられます。

中国語では、小麦粉を使ったものが「麺」で、コメから作ったものを「粉」といいます。日本語では、「粉」=「コメ」ではないので、「コメの麺」と表現していますが、むしろ、英語で「ライスヌードル」といったほうが、しっくりきます。

唯一「ビーフン」は昔から日本でもなじみのライスヌードルです。ルーツは中国南部だそうです。ようするに「米粉」のことでしょうか。

ところで、最近は日本でも、ライスヌードルが作られています。

秋田県の「あきたこまち」と酒米を使用して作った「こまち麺」や、新潟県のコメ100%で作られた「越の雅麺(」というのがあるそうです。

Ya_2「コメの麺を食べたい(2) 東南アジアのコメの麺」


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2008/06/27

コメの麺を食べたい (2) 東南アジアのコメの麺

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(写真はモヒンガーと、モヒンガー工場)

東南アジアのコメの麺で、今一番注目されているのは、ベトナムの「フォー」かもしれません。(おとといの写真

日本にも「フォー」専門の店ができました。きしめんのような平べったい麺で、あっさりしたスープで食べます。もっと細い麺は「ブン」といいます。

タイの「クィティアオ」もおいしいですね。太さの違いで、「センミー」、「センレック」、「センヤイ」などがあります。バンコクの屋台では、毎朝お世話になりました。

味付けを自分でする、というのもタイふう。テーブルには、ナンプラーや砂糖や酢や唐辛子などが置いてあるので、自分の好みに味付けをして食べるのです。麺に砂糖?と思うかもしれませんが、意外といけますよ。

ミャンマーに行くと、コメの麺は「モヒンガー」といいます。さつま揚げ、ゆで玉子、パクチー、バナナの茎(幹?)などが具として載っています。バナナの茎の薄切りは、シャキシャキ感があります。

あるミャンマー人は、日本に住んだとき、バナナの茎が手に入らなかったので、代わりにリンゴを使ったと言っていました。「味」というよりも、「食感」が大切なようです。魚で取ったスープ、とくにナマズから取ったスープで食べるのが、一番おいしいらしい。

ヤンゴンの住宅街にあった小さな麺工場を見学したことがあります。コメの粉を丸めた団子状のものを、ところてんを作る器具のようなものでぎゅっと押し出して麺にし、それを熱湯でゆでて、乾燥させます。

別に「地産地消」などと意識したわけではなく、それが自然で、ある意味、それしかないし、しかたない、という条件で、それでもなお、具といいスープといい、、時間をかけながら工夫し一番おいしい料理に仕上げていく。

ローカルフーズとそれを考え付く人間て、面白いなぁと思います。

Ya_2「コメの麺を食べたい(1) コメの消費量を増やす」

Ya_2「コメの麺を食べたい(3) 中国の「粉」と、日本の「ライスヌードル」」


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2008/06/26

映画『インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国』を観て

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(写真は、映画とは関係ない中国貴州省黄果樹の滝です)

映画『インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国』を観てきました。

オフィシャルサイトはこちら

ネタバレしない程度に書くつもりですが、これから観る予定の人は、この先、読まないでください。

   ☆☆☆

最後、やっぱり「あれ」が出てきてさようなら、という話しなんだぁと思ってしまいました。「あれ」は、インディ・ジョーンズ・シリーズには、無くてもいいと思ったのですが。水戸黄門の印籠のようなものでしょ? 

古代人には、そんな高度の文明が築けるはずがないという、現代人の無意識のあらわれでしょうか? あるいは、「神」はどうしても、人間を超越したものであってほしいという宗教心のあらわれでしょうか?

ハリソン・フォードも歳だし、これが最後の『インディ・ジョーンズ』だからでしょうか。(ルーカスフィルムとパラマウントは全5作の映画化契約を交わしたそうなので、あと1本作るのかも) それならなおさらです。今までの謎が、すべて「あれ」で解決した、みたいな感じになってしまいました。

もうひとつ、違和感を覚えるシーンがありました。被爆国の日本人には特に・・・。(関係者には、強烈な、見ていられないシーンかもしれません)

もちろん、冒険活劇映画としては最高でしたよ。とくに、車が崖っぷちを走るシーンや、滝のシーンはすごかった。退屈しない、楽しませてくれる映画でした。

そして貴重な遺跡を惜しげもなく破壊する考古学者ジョーンズ博士も健在でした。いや、決して非難しているのではないんです。むしろ、逆です。あれだけひどいことをする学者に、なぜか、爽快感を覚えます。


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2008/06/25

コメの麺を食べたい (1) コメの消費量を増やす

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(写真は、ベトナム・ハノイで食べたフォー・ボー[牛肉入りフォー])

世界的な食糧危機が叫ばれる中、日本の「減反政策」は、見直さなければならない時期かもしれません。

「作れるのに作らない」というのは、それこそもったいない。

不自然に思えます。

コメあまりは戦後日本人がコメを食べなくなったことが大きな原因なのだから、やっぱりまずは、コメの消費量を増やさなければなりません。

そうしないと、農家の人たちも、安心してコメを増産できないわけですから。

ただ、「消費を増やそう」と声高に叫んでも、おいしくなかったら続かないし、無理して増やす必要もないとは思いますが。

そこで提案です。

アジア各地、とくに、中国南部、東南アジアを旅していると、必ずといっていいほど食していたのが、コメから作った麺です。

ベトナムの「フォー」、タイの「クィティアオ」、中国の「米線(ミーシェン)」、ミャンマーの「モヒンガー」など、たくさんあります。

そういえば、まえから不思議だったのですが、日本でコメの麺は発達しませんでした。韓国でも、コメの麺はあまりききません。「インディカ米」を食べる地域が、コメの麺を食べる地域と重なるような気がするので(でも、インドやイランでも聞きませんが)、ジャポニカ米の粘りは、麺にしにくいのでしょうか。技術的や食感の問題があるのかもしれません。あるいは、主食としての「銀シャリ」があまりにもパーフェクトだったから・・・。

そのあたり、調べていないのでよくわかりませんが、とにかく、日本では「ビーフン」以外、今までコメを麺として食べてきませんでした。「コメの麺」を表す日本語がないということからもわかります。

コメの消費量を増やすためには、あまり「銀シャリ」やブランド米にこだわるのではなくて、いろんなコメで、いろんな食べ方を試してみるのも方法かなと思います。

その中で、コメの麺は、かなりいけるのではないでしょうか。アジアへの旅行が珍しくなくなって、現地のコメの麺になじんだ人も増えているし、無理なく食べることができると思うのですが。

Ya_2「コメの麺を食べたい(2) 東南アジアのコメの麺」


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2008/06/24

オリンピックは、「平和」を演じるお芝居

080623
(写真は、銃弾の跡が残る、文革時代に壊されたというラサ市内の仏像)

中国に対する抗議活動の発端となったチベット・ラサで、テレビ画面に閉じ込められたような聖火リレーがありました。

以前、長野の聖火リレーが行われた日、「行列の外側の混乱と、内側の何事もないような笑顔。このギャップはなんなんだろう」と、欽ちゃんが笑顔で走っている姿を見て書きました。
長野での、オリンピック「呪火」リレー(2008/04/26)

リレーの行列は、実際のオリンピックと、もっと言えば、世界と相似形なのかもしれません。

世界各地で、戦争や紛争があったり、病気や飢えで人が死んでいたり、地球環境が破壊されていたり、いろんな混乱があるのに、「オリンピック 平和の祭典」という名で、世界の混乱から隔離されたところでの、「平和(笑顔)」を演じるお芝居なのです。この場合、「お芝居」と言うと、悪い意味に取られるかもしれないので、「儀礼」と呼んでもいいでしょう。

もちろん、俺は、オリンピックをやることは賛成だし、たとえお芝居であっても、いや、お芝居だからこそ、俺たち世界中の人に、必要なことでもあるように思います。「儀礼」と考えればなおさらです。混乱が大きいからこそ、なかなか「平和」は難しいからこそ、みんなで「平和」を演じてみようというわけです。

「感染呪術」というものがあります。たとえば、稲作の祭りで、男女の面を被った舞手が、ふたりで抱き合う格好をする。多産のシンボルです。稲もこれに感染して、たくさんの実(コメ)をつけるようにと願う。こういう儀礼です。

オリンピックとは、「感染呪術」として見ると、「平和(笑顔)」を演じることで、世界も、それに感染し、実際に平和になるように願う儀礼と言えなくもありません。

ただ、このリレー自体は、無理してやらなくてもいいのではないでしょうか。オリンピックとは関係ない、政治的主張の言い合いの場でしかありません。他でやり合えばいい。

長野のリレーでは、マラソンの有森裕子さんのこわばった表情が、一番印象的でした。今でもはっきり覚えています。このとき、リレーの意味を一番正直に表現していたのは、彼女だったような気がします。


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2008/06/23

テレビ画面に閉じ込められたチベット・ラサでの聖火

080623
新疆に引き続いて、チベットのラサで聖火リレーが行われました。

これを「何事もなく」とか「無事に」と表現すべきかどうかわかりませんが。

なにしろ、許可証のない一般人の見物はできなかったし、公安が聖火のまわりを固めて、厳戒態勢で行われたリレーですからね。

リレーを祝って(?)、沿道には、動員されたチベット人たちはいたようです。レポーターが、その動員されたチベット人たちに、「ダライラマ14世についてどう思うか?」とか「ラサの暴動についてどう考えているか?」とか、質問していました。

可愛そうです。そんな質問に答えられるわけないじゃないですか。

いや、このレポーターも、わからないはずはないから、わざと訊いているわけですか。いったい何のためでしょうか。嫌がらせでしょうか。

それにしても、テレビの画面に閉じ込められた聖火は、温かみも情熱も、ましてや聖なるものも感じさせません。ただ、むなしさだけが漂っています。


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2008/06/22

映画『モーターサイクル・ダイアリーズ』を観て 2

080527
ちょっと時間がたってしまいましたが、前回この映画について書いた記事はこちらです。

Ya_2「映画『モーターサイクル・ダイアリーズ』を観て 1 (2008/05/26)」

映画の中で、アルゼンチンからチリに抜けて、アンデスの山越えのシーンがありました。

南米では1月は夏なのに、高さがあるからでしょう、雪が積もった危険な道です。

バイクを押しながら雪道を進むふたりのシーンを見たとき、俺は、ある旅を思い出しました。

それは、中国新疆のタシュクルガンからカシュガルまで、カラコルムハイウェーを、12日間ほどかけてロバ車で旅をしたときのことです。出発して2日目、4000m以上の峠を越えることになりました。

峠手前に1軒、道路補修のための小屋があったのですが、泊まることを拒否され、しかたなく歩き始め、疲れたので寝袋に入り、野原に横になっていると、顔に冷たいものが当たりました。なんだろうと、懐中電灯で照らすと、空から降ってくる無数の雪でした。このまま寝ていたら死んでしまうと思ったので、1晩中歩き続けたのでした。

そのとき、高山病もあったのでしょう。朦朧とした意識の中で、俺は、ロバ(名前は「ドン」。ドンキーの「ドン」と、鈍足の「どん」をかけた名前です)と、一晩中日本語で会話をしていたような気がするのです。そんな馬鹿なと思うのですが。しかも、普段は言うことをきかない頑固者なのに、この夜は歩き続けてくれたのでした。

「こんな目に遭わせて申しわけないね」
「いいよ、気にしなくて」
「疲れたろ?」
「ううん、まだだいじょうぶ」

このとき、「ドン」も、生き物の本能として、ここで歩き続けなければ死んでしまうと感じたのかもしれません。

空が白みかけたとき、ようやく峠を越し、広々とした草原に、キルギス族のユルト(天幕住居)から煙が立ち昇っているのが見え、あぁ、俺は生きていると思いました。(↑の写真) そして、すぐ、道路補修の小屋で朝食を作っていたウイグル族に声をかけられ、部屋に招き入れられたのです。

そのとき食べた水餃子のおいしさと、ストーブの暖かさは、一生忘れられないものになりました。ある意味、「死と再生」を体験し、そこが俺にとっての桃源郷だったかもしれません。

チェ・ゲバラは、「国境を越えるとき、胸をよぎるのは、いつも、2つの思いです。背にする国への郷愁と、新たな国へ入る興奮です」と、母親への手紙に書きます。

たしかに、このふたつを思います。それは、過去から未来へ、既知のものから未知のものへの精神的な移動。それこそが旅と呼べるものかもしれません。


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2008/06/19

新疆カシュガルの聖火リレー

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カシュガルで聖火リレー 厳戒態勢、沿道は外出禁止
(47 NEWS http://www.47news.jp/CN/200806/CN2008061801000252.html )

地震など大きな報道があいつぎ、聖火リレーの問題が、遠く感じられるほどですが、いろいろと問題を含みながら、聖火リレーは続けられています。

この新疆カシュガルは、反政府活動の拠点になる街で、当局は神経を尖らせていました。当日は厳戒態勢で、ようやくリレーの形を保ったということのようです。

俺もカシュガルへは、2回行ったことがありますが、そのとき、地元のウイグル人たちからこんな冗談をよく聞きました。

「今度戦争やるときは、俺たちが西から攻めるから、お前たち(日本)は東から攻めてくれ」

中国当局は、チベットよりも、イスラム教徒の問題の方が、重大だと考えているかもしれません。新疆のイスラム教徒の後ろには、巨大なイスラム諸国が控えているからです。


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2008/06/18

秋葉原での無差別殺傷事件 2 「誰かに止めてほしかった」

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ときどき訪問していた、あるお気に入りのブログが 最近閉鎖されました。

その理由として、こんなコメントが載っていました。

「私がどう考えているか、どう思っているかなんてあまり興味をもたれず、ただ、情報を求める人たちに、ああだこうだ意見を言われるのは疲れた」という意味のことです。

これを見て、ちょっと考えてしまいました。そして例の秋葉原無差別殺傷事件の犯人、加藤容疑者が言ったという「誰かに止めてほしかった」ということばとダブります。

このブロガーは、何を期待していたのでしょうか? 共感を求めているんでしょうか? それが、なかったということでしょうか? だからやめてしまう・・・。

もちろん、このブロガーの言いたいことはわかります。俺も、ブログや写真展で、写真を「表現」ではなくて「情報」として見られる方が多いとは日々感じています。「いい写真ですね」と言われたいところで、「いいところですよねぇ。ここ、私も行ったことがあります」と言われたときの、ちょっと期待はずれで、さみしい感想。

でも、それは、写真展や、ブログ(インターネット)を利用すると決めたときから覚悟(?)しなければならないことかもしれません。(そして俺の場合、情報量が多いドキュメンタリー写真という事情もあります)

人それぞれ、写真展やブログを訪れる目的が違います。それを、こちら発信者の一方的な目的を押し付けることは傲慢だとも言えます。(似たようなところで言えば、「本物がわからない客はお断りだ」みたいなことを言う老舗料理店や寿司屋の頑固オヤジ)

そもそも、インターネットで飛び交うのは圧倒的に「情報」なのです。そこに「感情」を期待しすぎると「裏切られた」と感じるかも知れません。そして「誰も私(俺)の気持ちをわかってくれない」と不平を言い、犯人のように「それじゃぁ、実際にやってやる!」というところにまでいってしまう。

「誰かが見て、自分を止めてほしかった」って? あまりにも身勝手な言い分です。「誰も止めてくれなかったから、しかたなくやった」とでも言い始めるのではないでしょうか、この加藤容疑者は。すべて、他人のせいにする。

そんなに止めてほしいなら、まず、匿名ではなく、実名で書けばよかったでしょう。誰だかわからない人に、いったいどうやって「共感」できるのか、たとえ、「できた」と思っても、すごく浅い共感でしかないと感じています。「秋葉原で人を殺します」と書かれた匿名情報を、冗談だと思うほうが正常です。だから、犯人の「止めてほしかった」なんて本心かどうか・・・。

匿名はダメだと言っているのではないです。「深い共感」を得たい場合です。俺も、「浅い共感」を得るため、匿名で別なブログもやっています。そのうち公表するかもしれませんが。(公表したら、匿名ではなくなるなぁ)

まだ、ネットを道具として使う「技術」が未熟なのです。幼稚なのです。(もちろん、俺も含めて) みんなが使い始めて、まだ10年そこそこです。成熟していません。「感情」のやり取りまで含めて完璧にやれるようになるまでには、まだ時間がかかるでしょう。

たぶん、電話ができたときも、最初は、情報を伝え合ったのではないでしょうか。いきなり身の上話を語り合ったとは思えませんし。

とにかく、ネットでの一方的な思い込みは危ない。ネットで自分のことをわかってくれないと嘆くのは、ちょっと早いような気がします。


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2008/06/17

写真展『アジアの棚田 日本の棚田』の搬入、飾り付けをやりました

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今日、写真展『アジアの棚田 日本の棚田』の搬入、飾り付けをやりました。

写真パネルは、全部で35点になりました。

もう一度、写真展情報を書いておきます。

2008年6月19日(木)~6月24日(火)
入場無料(カフェとは別です)
OPEN: 10:30~19:30
(金・土: 10:30~22:30 定休日:水曜日)

GALLERY CAFE 亀福
〒186-0002 東京都国立市東1-14-21 グリーンライフ国立1F
TEL/FAX: 042-573-3580
URL: http://www.kamefuku.info/
※JR 国立駅南口より徒歩5分

スライド&トークショー『オリザを巡る旅』
6月21日(土)
19:30~(開場19:00)
料金: 2000円 (お茶・コーヒーまたはアルコールのワンドリンク付き。南部中国の風景・少数民族の写真を使った小冊子プレゼント)
お問い合わせ・予約は亀福まで

写真展告知(FLASH版)はこちらで。
『アジアの棚田 日本の棚田』写真展


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2008/06/16

秋葉原での無差別殺傷事件 1 どうして、こんな残虐な無差別殺人に走ったのか?

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オタク文化の世界的聖地である秋葉原で起きた無差別殺傷事件。亡くなった方のご冥福をお祈りします。

この犯人につては、これからいろいろと「分析」されていくのでしょう。どうして、こんな残虐な無差別殺人に走ったのか?

仕事に対す不安や不満、社会に対する孤独感や疎外感、親に対しての恨み。そんな「理由」が、もっともらしく語られています。

「理由」がはっきりしたものには、対策もあるし、納得もでき、安心することができます。でも、「理由」がわからないものに対しては、いつまでも恐怖心が付きまとい不安です。だから、社会の安定を維持するためにも犯行の理由、動機の解明が必要なのでしょう。

だからと言って、彼の凶行を社会・時代、親の教育の失敗と結びつけ過ぎるのはどうかと思います。そんな理由なら、今は先の見えない社会・時代なのだから、みんな殺人鬼にならなければならない。

俺は、犯人のもっともらしい「不幸な境遇」を聞くにつけ、腹が立ってきます。たとえば、外見が悪いだの、彼女がいないだの、仕事が無くなるだの、親が自分のエゴを押し付けただの、そんなこと、俺もまったく同じだったよ、と言いたい。

俺ばかりじゃありません。ほとんどの人が、不満や不安や孤独感や疎外感や怒りを持っていても、「だれでもいいから殺す」というところまではいきません。「殺人を思う」ことと「殺人を犯す」ことでは、まったく質が違います。

今回気になるのは、けっこう犯人に対する同情の声があることです。そういう不満を持っている人が、多くなっているということなのでしょうが、危ない兆候だと思います。同情する人たちは、秋葉原ではなくて、どこかの小学校や幼稚園だったとしても、同じように同情できるのでしょうか?

犯人は、社会人として、あるいは、男としての理想像、たとえば、「勝ち組」だの「イケメン」だの、世間で作られた虚構に、まんまとハメられてしまったのかもしれません。だから、その理想像を外れるのが許せない。人生は終わりだと思い、やけっぱちになってしまう。考え方の狭さ、硬さを感じます。

犯人は、「誰かに止めてほしかった」といっているように、人の同情を引こうとしています。人の話に耳を傾けてほしいという思いはわかるにしても、でも、それ以上は騙されないようにしないと。犯人は、殺人を隠れて犯したのではありません。だから、捕まってもいい、死刑になってもいい、ということなのです。「事件を起こした後のことは考えていなかった」と供述しているそうです。つまりこれは「自殺」なのです。

勝手に自殺する分には、まぁ、しかたないなぁと思うだけです。たぶん、彼のような悩みで自殺してる人はいるだろうと想像できます。ただこの犯人の場合、「ひとりで死にたくない」とか「幸せな人を巻き込んでやる」といった身勝手な理由で、何の関係も無い人たちを、なるべく大勢道連れにしようとした単なる異常者としか見えません。

犯人は、無差別殺人するほど必死です。世間をアッと言わせ、あわよくば、世間の同情を引くという犯人の、最後のもくろみに乗ってはいけない。労働環境改善の問題と、殺人は別に考えなければ。彼を英雄視するような人たちや模倣犯が、出ないようにするためにも。


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2008/06/15

『日立 世界ふしぎ発見!』 マチュピチュ遺跡の棚田?

080615
(写真はマダガスカルの棚田)

昨日の『日立 世界ふしぎ発見!』で、ペルーの世界遺産、インカ帝国マチュピチュ遺跡をやっていました。

遺跡の周辺には、りっぱな石積みの階段状耕作地が造られています。ただ、残念ながら(?)、「棚田」ではなく、「段々畑」です。

ある人からは「南米でも棚田を見ましたよ」と、聞いたことがあるのですが、このマチュピチュの段々畑のことを、棚田だと勘違いした、ということのようです。

普通の人は(だから俺は普通ではないのでしょうが)、棚田を見るために南米くんだりまで行くわけではないので、「棚田」なのか「段々畑」なのか、わからなくて当然です。

今のところ、段々畑は世界中にありますが、棚田は、アジアが中心です。マダガスカルにも棚田があることは今までさんざん書いてきましたが、昔、マレーあたりからから移住した人たちが棚田文化(稲作文化)を伝えたわけで、だからこれも、アジア発祥の文化と言っていいでしょう。

世界的に見たら、「棚田」の稲作文化は、夏に雨が多い、アジアのモンスーン気候と、地形の斜面を利用した特殊な(?)文化なのです。その風土に合ったベターなシステム。よく、こんなことを考え付いたものだなぁと感心します。その土地で試行錯誤しながら、長い時間をかけて積み上げてきたノウハウです。

小さな沢にできた自然の棚田状の土地に、作物が育っていることに気がついたのかもしれません。周りの自然環境を注意深く見ている、感じている人たちが、思いついたに違いありません。人間の技術は、自然を模倣するところから始まっています。


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2008/06/14

岩手・宮城内陸地震

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(写真は、秋田岩手県境、胆沢川の上流。大森山トンネル付近。2007.5.22撮影)

岩手県宮城県を中心に地震がありました。

中国四川大地震から1ヶ月たちましたが、最近は、地震がしょっちゅうどこかで起きている感じがします。

震源地に近い平泉は、この前、世界遺産の「登録延期すべき」のニュースになったところです。
(「平泉の世界遺産登録「延期すべき」という評価」2008/05/23) 文化財や「骨寺荘園遺跡」近くの道にも被害が出ているようです。

平泉の北、奥州市水沢から、秋田へ抜ける国道397号線の仙北街道は、去年の5月に通りました。

ダムでしょうか、大きな工事現場があり、工事用の車がひっきりなしに行きかっていました。散居集落で、文化的景観の候補になっている胆沢の扇状地を潤す水はここから引かれています。テレビの映像からは、ダム付近の道が大きな土砂崩れで寸断されています。たぶん、この工事現場かもしれません。

険しい山道で、普段から通るのも怖い感じがしましたが、上空からの土砂崩れの映像を見てしまうと、こんなところを道が通っていたのかと、あらためて日本は山国だなと思います。そして、こういう災害と常に隣り合わせであることを、思い知らされます。

被害に遭われた方に、お見舞い申し上げます。

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2008/06/12

映画 『イン・ディス・ワールド IN THIS WORLD』を観て (2) 

080603
(写真はトルコ・イスタンブール)

監督は、世界中の難民を代表させる形で、アフガン難民を取り上げ、作品にしました。難民の現状を訴えたかったのだといいます。

トラック荷台の中や、イランからトルコに抜ける山越えのシーンでは、わずかな光で登場人物を照らし、コマ送りのような画面もあり、はっきり言って見づらいし、クルクル動く光で、目が回りそうになり、吐き気さえ覚えました。でも、この感覚が、この難民たちの感覚そのものなのかもしれません。

どこへ行くかもわからない、なぜ、ここにいるかもわからない。いつ抜けられるかわからない長いトンネル・・・。彼ら難民の気持ちを象徴しているのではないでしょうか。

ただ、監督は真面目なのか、あまりにも「難民の厳しい現実」にこだわったせいか、気の抜ける部分が少なかったかなと思います。

唯一、イランとトルコ国境の、たぶん、クルド族の村でしょうか、みんな親切にしてくれて、彼らふたりも村に溶けこんでサッカーを楽しむシーンには、ホッとしましたが。

主役のジャマールは、実際のアフガン難民であることは、昨日も触れましたが、なんと、映画撮影終了後、彼は、実際にパキスタンから再びロンドンまで密航して難民申請をしたそうです。

「事実」をもとにして「映画」が作られることは多いでしょうが、これは、「映画」が「事実」になってしまったということです。ただ、ジャマールの難民申請は却下され、18歳の誕生日の前日にはイギリスを出なくてはならないそうです。またパキスタンに帰されてしまう(しまった)のでしょうか。

映画によって人生が変わるという話は聞きますが、ジャマールの場合は、文字通り、直接変わりました。しかも自分の役に影響を受けて。この話も印象的です。


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2008/06/11

映画 『イン・ディス・ワールド IN THIS WORLD』を観て (1)

080611
(写真はイラン・ヤズド)

『イン・ディス・ワールド IN THIS WORLD』
監督: マイケル・ウィンターボトム
出演: ジャマール・ウディン・トラビ、エナヤトゥーラ・ジュマディン

アフガン難民の少年ジャマールと、エナヤットが、パキスタン・ペシャワールの難民キャンプから、ロンドンに亡命する話です。

闇ルートでヨーロッパまで連れていくブローカーのネットワークがあるんですね。ただ、実際の旅は、自己責任で、死んでしまうかもしれない過酷な旅です。我々のような、「楽しむ旅」とはぜんぜん違います。

これは、ドキュメンタリーふうフィクションですが、主役のふたりは、実際難民キャンプにいた少年たちを抜擢したそうです。出演者の多くも現実の人たちだし、カメラもほとんど手持ちなので、言われないと、これはドキュメンタリーじゃないかと錯覚してしまいます。だから、国境越えシーンに緊迫感がありました。

パキスタンから、陸路でイラン、トルコ、イタリア、フランス、そしてイギリスへ。テヘランやイスタンブールの街の様子も映し出され、懐かしかった。と、同時に、ドキドキもしました。とくに、イランの検問所で、ふたりがアフガン人だとわかり、バスから降ろされ、荷物検査をされるシーンです。

俺も、イランに行ったとき、パトカーに(無理やり?)乗せられたときのことを思い出してしまいました。もちろん、これは、ただ警官たちの親切心だったのですが。詳しくは、過去のページでどうぞ。(「イランから (2005/06/12)」

彼らは密入国をくり返し、イスタンブールでちょっと働き、トラックの荷台に乗せられて、フェリーでイタリア・トリエステまで運ばれるのでした。そして最終的には、ジャマールはなんとかロンドンにたどり着きますが・・・。

とにかく、重いけど、いい映画だと思います。


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2008/06/10

アイヌ民族の先住民決議

080610
(写真は中国雲南省ミャオ族の帽子)

アイヌ民族:先住民決議 厳しい生活実態、実効性ある施策を
(毎日JP http://mainichi.jp/hokkaido/seikei/news/20080607ddlk01010283000c.html

記事によると、「アイヌを先住民族と認めるよう政府に求める決議が採択され、政府も有識者懇談会の設置を明言するなど、アイヌの社会的・経済的な権利回復に向けた新しい取り組みが始まる。」とのことです。

30年前、初めてヨーロッパ旅行をしたときに、ある日本人旅者と会いました。南部フランスでヴァンダンジュ(ぶどう摘み)のアルバイトをしたときペルピニャンのユースで知り合った人です。
(この話は「フランスでアルバイト」2005/04/03でどうぞ)

なかなか仕事にありつけなくて、暇で、いろんな話をしている中、彼は北海道出身なので、アイヌ族という人たちの話題になったのでした。

「アイヌ」という言葉は知っていても、その具体的なイメージはありませんでした。昔、俺が子供のころ、「日本は単一民族」と教えられたと記憶しています。しかも、北海道には縁がなかったし、アイヌの人に関しての知識はほとんどなく、無関心でした。「コロポックル」の話は習いました。フキの葉で雨宿りするエピソードは、記憶に残っています。ただ、それは昔話だし、このアイヌの人たちも、昔の話だと思っていました。

まさか、ちゃんと、と言うのも失礼な話ですが、今も北海道に「アイヌ族」として暮らしているんだ知って驚いたことを思い出します。しかも、差別があること、だから自分が「アイヌ」だということを隠している人がいること、そして、あまりいい暮らしをしていないという話に、「そんなこと、今の日本にあるんですか?」と、彼に聞き返したくらいでした。

また、ある欧米の旅行者からも、「日本の北海道には、アイヌという少数民族が住んでいるでしょう?」と聞かれたとき、俺は、何も答えられず、恥ずかしい思いをしました。いや、正直言うと、そのときは「恥ずかしさ」もなかったのです。それだけ無知でした。

そんなことがあって、日本にも、「日本民族」以外の民族がいることはわかったし、数年後、中国に行くようになって少数民族の人たちを知るようになって、少しは「民族」に関心もできましたが、正直言って俺自身、アイヌの人たちに、いまだに関心が高いとは言えません。

チベット問題で騒いでいたけど、アイヌの人たちも忘れてはならないのですね。とくに、日本人にとっては。

今のタイミングで、アイヌの人たちの先住民決議が採択されたのは、07年9月、国連総会での「先住民族の権利宣言」も、影響あったかもしれませんが、7月の洞爺湖サミットを控え、その北海道に住む先住民族に対して、国際社会の関心を引く(何もやっていないと非難される)ことは必至だからではないでしょうか。

この時期に間に合わせたのではないか、と思われます。まぁ、結果として、アイヌの問題が、前進することなら、いいことだとは思いますが。


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2008/06/08

【ひとり会議 その十五】 予言者、占い師、霊能者について 

080426
【ひとり会議 その十五】 予言者、占い師、霊能者について (これは、ジュセリーノ・ルース氏とC・D・ブロード氏の話以外はフィクションです)


ボゾルグ: 前に、予知夢を見るブラジル人予言者ジュセリーノ・ルースの番組をテレビでやってたね。彼は、911アメリカ同時多発テロ、サリン事件、阪神淡路地震などを予言したらしいよ。でも、うそ臭いなぁ。

さぶじい: これが本当かどうか、私にはわかりませんが、予知夢を見ることは可能性としてあるだろうと思いますな。実際、私が学生のとき、夢に出た試験問題が、翌日の問題と同じだったという経験があります。ただ、これを「予知夢」といえるかどうか、微妙ですが。

ボゾルグ: それは予知夢とは言わないんじゃないの? だって、試験前には山を賭けるのはあたりまえだし、「山を賭けた夢」がたまたま当たったというふうにも考えられるじゃない。

さぶじい: だから、私も、これが「正夢」「予知夢」だったと言うつもりはありませんが。

桃: 無意識が夢に反映されるといわれるわね。そして無意識は、民族、人類のレベルの歴史を背負っていて、個人を越えたところで活動しているらしいじゃない?

さぶじい: 番組の中では、彼の睡眠中の脳波を調べていましたが、夢を見ている時間が長く、しかも覚醒状態に近いところで夢を見ているらしいということでした。無意識をすれすれで意識できる、貴重な人間であるとは言えるようですな。だから夢で、人類の過去は当然としても、過去から続いていく未来に起こるであろう必然的な出来事も見てしまう可能性はあるのではないか、と思います。ユングが言っている「共時性」ということですかな。

ボゾルグ: でも、「日付」「名前」までぴったり当たるのは、ありえないよ。ここが、この予言者を信じられないところなんだよね。

桃: 予知夢を考えるうえで、もうひとつ参考になりそうな話を見つけたわ。茂木健一郎著『生きて死ぬ私』(徳間書店刊)の中に、イギリスの哲学者、C・D・ブロードの「制限バブル説」というものが出てくる。「ブロードの説に従えば、私たちの認識は、本来脳がなければ世界の全体を同時に認識できるのに、生存のために敢えてその一部だけを残して残りを除去してしまう、「引き算」の過程」ということらしい。あくまでも、これは特殊な説であることも付け加えているけど。

さぶじい: つまり、こういうことですかな。宇宙の森羅万象、一瞬のうちにすべて認識できるのが人間の本来の姿であるので、過去や未来を「知る・夢で見る」のもありえると。普通の人は、認識が「制限される」ので、見えないということでしょうか。

桃: あえて見えなく・知らなくなるように脳が進化(?)したとも言えるかもしれないわよ。なぜって、見ない・知らないことで、人生は、むしろ楽しく、おもしろいものになっているから。

さぶじい: そうかもしれないですなぁ。宇宙の森羅万象をすべて知りながら生きるなんて、苦しいだけです。アンドロメダ星雲X惑星に住む生物Yの遺伝子配列なんて知っても、私たちの人生に全く関係ないですからな。

桃: だから、この予言者ジュセリーノ・ルース氏は森羅万象が見えてしまう「不幸な人」なのかもしれないね。

ビーノ: でも、人間て変わっているね。これだけ科学万能の世界になったのに、予知夢とか霊とか占いとか、意外とそういうものを信じているよね。ボクなんか、「食べ物」しか信じてないもん。ボクのほうが、現実主義者ってこと?

さぶじい: そこが人間の不思議なところであり、おもしろいところでもあるんじゃないですかな。

ボゾルグ: 新聞に出てたけど、今の若い人たちの3分の1が、霊の存在を信じていたり、占いは「当たる」と信じているんだろ? 最近霊感商法で被害が増えているのは、こういった占いや霊を扱ったテレビ番組の影響があるんじゃないかって話も書いてあった。

さぶじい: そこは程度問題だと思いますな。私も、あまり信じるほうではありませんが、「参考」程度には信じてもいいのではないかなと思っています。まぁ、遊びですな。あまりにも、すべてのことを「科学的」に割り切ってしまうのも、なんとなく、つまらない。

桃: その通りよ。そもそも「科学的」と信じられていることも、将来は、かならず違った事実がわかってくるんだから、「占い」も「霊」も「科学」も、それほど大差ないのかもよ。50年前に「夢物語」だとバカにされてた世界も、50年たって実現してるじゃない。

ボゾルグ: いや、実害がなかったらかまわないんだけど、最近は、そうでもないだろ? そういうものを信じる風潮、他力本願な風潮ってどうかなぁ。ある意味、精神的な環境汚染だと思うよ。霊感商法は論外としても、たとえば、ある占い師が当たったりすると、その周りに信じる人たちが、集まりだして、いつの間にかその占い師自身、自分が特殊な能力を持っていると勘違いしだす。ずかずかと、人の心に土足で踏み込んできて、人の生き方に口出しするおせっかい。それが「いい」とか「悪い」とかは、あえて言わないけれど。だって、そういうのが好きだという人たちがいるから、ああいう占い師が存在するわけだしさ。

さぶじい: ボゾルグさんがおっしゃることはわかるのですが、欧米では、精神科医が活躍しているそうです。けっきょく、そういう心の処方箋をくれる人が、どんな社会でも、必要なのではないですかな。「科学的」に見える「精神科医」か、「非科学的」に見える「占い師」「霊能者」「シャーマン」という違いはありますが。

桃: そうねぇ。何を信じるかは、その人しだいね。信じるものでしか、その人は癒されないものねぇ。孤独な独裁者や政治家ほど、占いとか、予言者に頼ったりするものらしいわ。

ビーノ: どんなに強くても、どうでもいいものに頼る。それで、プラスマイナスゼロ。人間て、おもしろいね。

ボゾルグ: 友だちがいないんだよ。本音を語れる人が。家族や、「友だち」でさえ、気を許せないライバルだしね。だから、お金を払ってでも、本音を聞いてくれる彼らに頼るしかない。まぁ、この程度なら、俺も許せるんだけど、最近は、その「弱み」に付け込んで、商売にしようというヤツが増えていることに怒りを感じるよ。

桃: でも、ボゾルグが「非科学的」と言っている予言者や占い師や霊能力者を見ても、「嘘」をついていると思えないんだけど。

ボゾルグ: そりゃぁそうでしょ。彼ら(彼女ら)の内面では、「本当」のことだと思うよ。未来の大事件や、他人の将来や、霊が実際見えるんだろうな。だから、彼ら(彼女ら)には嘘という自覚はないはずだよ。むしろ「下々の人間」に、良いことを教えてあげているという感覚なんじゃないの。テレビに映ってる彼ら(彼女ら)の目、見てごらんよ。とても「嘘でしょ?」なんていえない、真剣な目をしてるよ。

ビーノ: それって、自分自身を騙すことができる優秀な詐欺師といっしょなの?

ボゾルグ: こらっ! ビーノ、それは・・・。

桃: ビーノ、ダメでしょ。すみません、占いや霊を信じているみなさん。こんな犬が言っていることなので、気にしないでください。

ビーノ: (こんな犬?) グルグルグル・・・。

ボゾルグ: とにかく、俺は、予知夢も霊も見えない普通の人間で良かった。自分の未来や先祖の霊なんか見えたら、疲れてしかたなかったよな。疲れるだけならまだしも、それを黙っていたら気が変になりそう。

ビーノ: あぁ、だから、あの人たちは、つい他人にしゃべってしまうのか。その重荷に耐えられなくなって。

ボゾルグ: それと、占い師が、自分自身の「未来」をしゃべらないのは、やっぱり、「未来」がわかったら、人生つまらないって、本能的にわかっているからかもね。

さぶじい: 自分の「未来」や「心」はわからないんです。「予言者」「占い師」「霊能者」は、あくまでも「他人」の心に処方箋を書くことができる人たちなんだと思いますよ。彼ら自身は、別な「予言者」「占い師」「霊能者」に頼っているかも知れませんよ。


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2008/06/06

ローカル文化の復権が、日本の食糧自給率を上げる

080606
(写真は佐賀県の浜野浦棚田)

昨日、報道番組で、日本の食糧自給率が40パーセントを切っている問題をやっていました。

その中で、減反政策に反対してコメを作り続けてきた農家の人が紹介されていました。

「どうしたら自給率を上げることができるでしょうか?」と尋ねると、「政府が何か決めることではない」、「日本人は主食を捨てた。そんな国は日本だけじゃないのか」、「消費者の食生活が変わらなければ」、「農家もコメの消費拡大のために、いろいろ努力しないとダメだ」という意味のことを言っていて、そうだなぁと納得させられる部分がありました。

とくに「消費者の食生活が変わらなければ」とは、俺も思います。戦後、「コメを食べるとバカになる」とか言われて、アメリカから小麦を買わされ、学校給食でもまずいパンを食べさせられ(強烈な思い出として残っているんですよね。これがうまいとみんな感じているんだろうか?と思ってました)、食文化は一気に欧米化してしまいました。

それと同時に「安いほうが良い」ということで、どんどん世界中から食糧を買いあさるようになってしまいました。あげくの果ては、日本の農業がダメになってしまいました。

イランの棚田地帯に行ったとき、ある30代の女性が、「太るからといって、コメを食べなくなっている人は増えています」と言ったことばに、ちょっとショックでした。この地方は、ひとり当たりの年間コメ消費量が90kgで、日本人の1.5倍コメを食べています。それでも、若い世代は、コメを食べなくなっているようです。

欧米とは敵対しているようなイメージのあるイランも、結局同じなのか。そういえば、マックやケンタッキーはないけれど、欧米ふうを真似たファーストフード店は多く、若者でにぎわってます。

アジアでは、経済成長とともに、コメ離れが進み、食生活が欧米化する傾向があるようで、イランもそうだし、日本も韓国も中国もそうです。どうして、欧米文化の真似をしたがるのでしょうか。もちろん、そこには「心地よさ」があるからです。だから、完全に否定することはできません。俺だって、欧米文化の恩恵は受けています。でも・・・。

「地産地消」といわれます。(80年代の「地産地消」の意味とは違うようです) 旅行者の立場からしても、その土地に合った作物を、その土地で食べたいとは思います。どこへ行っても同じ風景、同じ食事というのではなくて、土地の独自性が復活し、地方それぞれの違いを体験できるようになったほうが、おもしろい。

ローカル文化(とくに伝統食)の復権が、日本の食糧自給率を上げることにもつながっていくような気がします。


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2008/06/05

食糧サミットで、非難されるバイオ燃料政策

080605
イタリアのローマで開催中の国連食糧農業機関(FAO)の食糧サミット。

地球温暖化対策にどれだけ効果があるのかわかりませんが、俺個人の感覚としては、食糧をバイオエタノールという車の燃料にすることに違和感を持っています。

俺の感覚は「古い」のでしょうか。「食べ物を粗末にすると、罰が当たるぞ」と教育されてきたせいかもしれません。車の燃料にするんだから、「粗末」にするわけではない、と反論されると困ってしまいますが。

もともとCO2を吸収した植物で作ったものを燃やすだけだから、CO2は新しく増えない、温暖化に関係ない、だから、京都議定書でもCO2削減対象にはならない、らしい。

これも、なんだか屁理屈に聞こえます。バイオ燃料生産には、熱源や化学肥料など、化石燃料を大量に使うらしいし、できたバイオ燃料を、たとえば、ブラジルやアメリカから地球の反対側、日本まで運ぶというときも、化石燃料は使われるわけで、けっして胸を張って「環境に正しい」とは言えないのでは?と感じます。世界的な穀物値上がりの原因のひとつにもなっているのです。

穀物輸入国の反発は理解できます。とくに貧しい国は。俺たちの食糧を削ってまで、車の燃料が欲しいのか? そういうふうに思うでしょう。

食糧サミットの演説で、福田首相も食糧を使わないバイオ燃料を提言しました。「稲わらなど食料と競合しない原料」で作るバイオ燃料の開発が進められていくようです。これなら「罰は当たらない」と思います。

バイオ燃料を批判するなら、日本にも、考えなければならない問題があります。作れるのに作らない、日本の「減反政策」のことです。これも世界の食糧危機から見ると、胸を張れない政策なのではないかと思うのですが。

問題は、米価でしょうか。ちゃんと価格が安定する保障があれば、なるべく多くコメを作りたいと思っている農家の人は多いと思います。


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2008/06/04

頭上にUFOを見たアマゾン先住民

080604
(写真はマダガスカル上空からのジャングル)

アマゾンで、文明に接触がない先住民「発見」のニュースがありました。ホントでしょうか。アマゾンのジャングルは広いから、まだそういう部族が住んでいても、不思議ではないかもしれません。

アマゾン奥地に新たな先住民、写真公開 違法伐採で生存の危機
AFPBB News http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2398493/2981641?blog=alcom )

記事によると、「この先住民の存在は数年前から知られていた」そうです。確かテレビニュースでは、「彼らと今後も接触するつもりはなく、見守っていく」といっていたようです。

公開された写真には、弓か槍をこちらに構えている先住民の姿が映っています。それを見たとき、俺は、彼らの方から見たらどうみえるのだろうか?と思いました。

空を飛行する得たいの知れない巨大な鳥のようなもの。うるさい羽音。何をされるかわからない。少なくとも、仲間には見えない。恐怖を感じた。だから弓を構えた。

航空機は、彼らにとって、UFO(未確認飛行物体)そのものですね。

映画や小説で、宇宙人(地球外知的生物)と最初に接触するとき、だいたい宇宙人は怖いもの、というふうに描かれるのもわかります。

「宇宙人がUFOに乗って地球を観察しているんだ」などという話がありますが、このニュースを聞いて、ほんとにあるかもしれないなぁと思いました。「先住民を見ている俺たち」を見ている宇宙人がいると。

宇宙人は、こんな状況にある人類と地球環境を、どういうふうに見ているのでしょうか。

ところで、もし、「先住民を見ている俺たち」を見ている宇宙人がいるとしたら、「先住民を見ている俺たちを見ている宇宙人」を見ている別な宇宙人がいる、と考えるのが自然ですよねぇ。


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2008/06/03

お知らせです。『アジアの棚田 日本の棚田』写真展/6月19日から

080603
写真展のお知らせです。3月に『トンパ展』をやった東京都国立市の「ギャラリーカフェ亀福」で、今度は、棚田の写真展をやります。

今回はアジアと日本の棚田の写真、約35点をパネル展示します。なお、21日(土)には、スライド&トークショー『オリザを巡る旅』があります。(「オリザ」とは、「稲」のラテン名です)
ゆったりと、お酒でも飲みながら、棚田の写真をお楽しみください。
日本、中国、フィリピン、インドネシア、イラン、マダガスカルの棚田はもちろんですが、中国のトン族の「ナレズシ」、マレーシアの「青いご飯」、ベトナムの「緑餅」など、アジア各地のめずらしいコメ食品も紹介します。サイクロンで大被害を受けたミャンマー・エーヤワディー・デルタの稲作地帯にも触れる予定です。申し込みは、亀福までどうぞ。

『アジアの棚田 日本の棚田』写真展

2008年6月19日(木)~6月24日(火)
入場無料(カフェとは別です)
OPEN: 10:30~19:30
(金・土: 10:30~22:30 定休日:水曜日)

GALLERY CAFE 亀福
〒186-0002 東京都国立市東1-14-21 グリーンライフ国立1F
TEL/FAX: 042-573-3580
URL: http://www.kamefuku.info/
※JR 国立駅南口より徒歩5分

スライド&トークショー『オリザを巡る旅』
6月21日(土)
19:30~(開場19:00)
料金: 2000円 (お茶・コーヒーまたはアルコールのワンドリンク付き。南部中国の風景・少数民族の写真を使った小冊子をプレゼントします)
お問い合わせ・予約は亀福まで

写真展告知(FLASH版)はこちらで。
Ya_2『アジアの棚田 日本の棚田』写真展


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