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2008/06/18

秋葉原での無差別殺傷事件 2 「誰かに止めてほしかった」

080618
ときどき訪問していた、あるお気に入りのブログが 最近閉鎖されました。

その理由として、こんなコメントが載っていました。

「私がどう考えているか、どう思っているかなんてあまり興味をもたれず、ただ、情報を求める人たちに、ああだこうだ意見を言われるのは疲れた」という意味のことです。

これを見て、ちょっと考えてしまいました。そして例の秋葉原無差別殺傷事件の犯人、加藤容疑者が言ったという「誰かに止めてほしかった」ということばとダブります。

このブロガーは、何を期待していたのでしょうか? 共感を求めているんでしょうか? それが、なかったということでしょうか? だからやめてしまう・・・。

もちろん、このブロガーの言いたいことはわかります。俺も、ブログや写真展で、写真を「表現」ではなくて「情報」として見られる方が多いとは日々感じています。「いい写真ですね」と言われたいところで、「いいところですよねぇ。ここ、私も行ったことがあります」と言われたときの、ちょっと期待はずれで、さみしい感想。

でも、それは、写真展や、ブログ(インターネット)を利用すると決めたときから覚悟(?)しなければならないことかもしれません。(そして俺の場合、情報量が多いドキュメンタリー写真という事情もあります)

人それぞれ、写真展やブログを訪れる目的が違います。それを、こちら発信者の一方的な目的を押し付けることは傲慢だとも言えます。(似たようなところで言えば、「本物がわからない客はお断りだ」みたいなことを言う老舗料理店や寿司屋の頑固オヤジ)

そもそも、インターネットで飛び交うのは圧倒的に「情報」なのです。そこに「感情」を期待しすぎると「裏切られた」と感じるかも知れません。そして「誰も私(俺)の気持ちをわかってくれない」と不平を言い、犯人のように「それじゃぁ、実際にやってやる!」というところにまでいってしまう。

「誰かが見て、自分を止めてほしかった」って? あまりにも身勝手な言い分です。「誰も止めてくれなかったから、しかたなくやった」とでも言い始めるのではないでしょうか、この加藤容疑者は。すべて、他人のせいにする。

そんなに止めてほしいなら、まず、匿名ではなく、実名で書けばよかったでしょう。誰だかわからない人に、いったいどうやって「共感」できるのか、たとえ、「できた」と思っても、すごく浅い共感でしかないと感じています。「秋葉原で人を殺します」と書かれた匿名情報を、冗談だと思うほうが正常です。だから、犯人の「止めてほしかった」なんて本心かどうか・・・。

匿名はダメだと言っているのではないです。「深い共感」を得たい場合です。俺も、「浅い共感」を得るため、匿名で別なブログもやっています。そのうち公表するかもしれませんが。(公表したら、匿名ではなくなるなぁ)

まだ、ネットを道具として使う「技術」が未熟なのです。幼稚なのです。(もちろん、俺も含めて) みんなが使い始めて、まだ10年そこそこです。成熟していません。「感情」のやり取りまで含めて完璧にやれるようになるまでには、まだ時間がかかるでしょう。

たぶん、電話ができたときも、最初は、情報を伝え合ったのではないでしょうか。いきなり身の上話を語り合ったとは思えませんし。

とにかく、ネットでの一方的な思い込みは危ない。ネットで自分のことをわかってくれないと嘆くのは、ちょっと早いような気がします。


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