オリンピックは、「平和」を演じるお芝居
(写真は、銃弾の跡が残る、文革時代に壊されたというラサ市内の仏像)
中国に対する抗議活動の発端となったチベット・ラサで、テレビ画面に閉じ込められたような聖火リレーがありました。
以前、長野の聖火リレーが行われた日、「行列の外側の混乱と、内側の何事もないような笑顔。このギャップはなんなんだろう」と、欽ちゃんが笑顔で走っている姿を見て書きました。
(長野での、オリンピック「呪火」リレー(2008/04/26))
リレーの行列は、実際のオリンピックと、もっと言えば、世界と相似形なのかもしれません。
世界各地で、戦争や紛争があったり、病気や飢えで人が死んでいたり、地球環境が破壊されていたり、いろんな混乱があるのに、「オリンピック 平和の祭典」という名で、世界の混乱から隔離されたところでの、「平和(笑顔)」を演じるお芝居なのです。この場合、「お芝居」と言うと、悪い意味に取られるかもしれないので、「儀礼」と呼んでもいいでしょう。
もちろん、俺は、オリンピックをやることは賛成だし、たとえお芝居であっても、いや、お芝居だからこそ、俺たち世界中の人に、必要なことでもあるように思います。「儀礼」と考えればなおさらです。混乱が大きいからこそ、なかなか「平和」は難しいからこそ、みんなで「平和」を演じてみようというわけです。
「感染呪術」というものがあります。たとえば、稲作の祭りで、男女の面を被った舞手が、ふたりで抱き合う格好をする。多産のシンボルです。稲もこれに感染して、たくさんの実(コメ)をつけるようにと願う。こういう儀礼です。
オリンピックとは、「感染呪術」として見ると、「平和(笑顔)」を演じることで、世界も、それに感染し、実際に平和になるように願う儀礼と言えなくもありません。
ただ、このリレー自体は、無理してやらなくてもいいのではないでしょうか。オリンピックとは関係ない、政治的主張の言い合いの場でしかありません。他でやり合えばいい。
長野のリレーでは、マラソンの有森裕子さんのこわばった表情が、一番印象的でした。今でもはっきり覚えています。このとき、リレーの意味を一番正直に表現していたのは、彼女だったような気がします。
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