カテゴリー「犬連れ旅や犬にまつわる話」の357件の記事

2023/09/06

悪夢について

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犬と暮らしている人なら見たことあると思いますが、寝ているとき、手足をばたつかせたり、短い吠え声を何度も出したりしているところ。夢でも見ているんだろうなと思っています。

実際、眼球運動もしているようで、これは人間でいうところのレム睡眠で、夢を見ている状態です。だから犬も夢を見ているんでしょう。ただそれを証明することはできません。

仮に夢を見るとすると、イヌの心にも無意識の領域はあるんだろうなと想像します。おやつを食べたり、野原を駆け回っているように想像される犬の寝姿から、夢は願望充足でもあると思われます。

そこで、「悪夢」について常々思っていることです。

自分で夢日記をつけていて思うのですが、そもそも「悪夢」というのは何なのかはっきりした定義はないし、仮に「怖い夢」「うなされる夢」が「悪夢」としても、それは意識側から見た話で、無意識にとっては、その人にその夢が必要だから見ているのだろうということなのです。

たとえ、殺されるような夢を見ているとしても、実際に死ぬわけではなく、無意識内での「死」は、何か意識側で、今の自分を否定し(殺し)、新しく変わらなければならない、あるいは、新しく変わりたいという願望かもしれないのです。疑似的な死がなければ再生できないわけで、だから、意識側の人間が、勝手に「悪夢」と判断して、夢にうなされている人や犬を起こすのは、けっしていいことではないような気がします。そのままにしておく。妻にも俺が夢でうなされていても起こさないようにと頼んでいます。

うなされているとき起こされると「悪夢を見た」ことが記憶されてしまいますが、そのままスルーされれば、結局本人も、悪夢を見たことを覚えていないので、見なかったと同じです(意識上では)。

でも、そのままにしておくのは、意外と難しいものです。辛そうにしている人や犬を見ているのは忍びないということでしょうが、それは、そうしない自分に対する後ろめたさであるかもしれません。

 

 

 

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2023/08/04

「バイデン米大統領の愛犬、4カ月で職員10人に噛みつく」のニュース

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「バイデン米大統領の愛犬、4カ月で職員10人に噛みつく 腕や太ももに大ケガした職員も」のニュースです。

https://news.nifty.com/article/item/neta/12189-2472261/

これは仕方のないことですね。ファーストドッグでも、野犬でも、犬には変わりありません。

これがニュースになったのは、家族(あるいは仲間)同然と思っていた犬が、しかも躾が行き届いているはずのファーストドッグが人間を咬むなんて、ということでしょうか。でも、犬が咬むことで、犬も自然物であることを再認識せざるをえません。自然とは人間の意識でコントールできないものです。「犬が咬む」ことで人間に犬も自然の動物であることを思い出させます。

だからこういった咬む傾向のある犬を職場に連れてこないことですね。極端に言えば、ライオンを職場に連れてこないことと考え方としては同じです。犬にはまったく責任はないんですが、犬は「家族同然」「友人」ではあっても、人間でも、ロボットでもありません。

 

「自然との共生」とか言うわりには、たとえば街にサル1匹現れただけで右往左往する都会人。やたら「共生」と言いたがるのは、都会人に多いのかもしれないですね。

「共生」という言葉には、なんとなく、「仲良く暮らしてます」みたいな偽善を感じることがあります。だいたいにして、農業だって、林業だって、狩猟だって、漁業だって、ある意味、自然との闘いでもあるんです。やさしい自然なんて一面だけ。それをちゃんと分かっている人が、「共生」っていう言葉を使ってほしいですね。田舎では、自然と「共生」するために、どれだけ苦労しているのか、都会人はわかってないかもしれません。

都会とは、そういう異物を排除して快適さを得ている場所。その快適さを脅かすものは、たとえ小さくても取り除こうとします。

人工的な空間、都市空間は、人間の脳が作ったパラダイスです。サルなどという異物が入り込むと、苦痛でしかたなくなる。脳は、都会でサルと共生する方法をまだ考えられず、混乱してしまいます。

サルとは違って、犬は人間の社会に入り込んでいます。普段はまったく問題がありません。犬も都会に完全に溶け込んでいます。ただし、何かのきっかけで、犬が人間を咬んだりすると大騒ぎになってしまう。そこに野生動物が突然現れたような感じです。

バイデン米大統領の愛犬も「しまった!」と思っているかもしれません。1万数千年前に、人間社会に入り込むことに成功した犬たちも、できれば問題を起こしたくない。このまま犬として種を永らえたい。犬が自然物であったと人間が気がつかないように、犬たちは願っているかもしれません。

16歳になろというヴィーノですが、今でも咬もうとすることがあります。これは「飼い主の躾がなってないからだ」という人もいるでしょう。でもどうなんでしょうか。100%飼い主の思い通りになる犬を飼って楽しいのでしょうか。そしたらアイボで充分かと。 

 「犬は咬む」と、「犬が好き」は、まったく矛盾しないのです。

 チベット高原や雲南省で、さんざん犬に咬まれたり、追いかけられて怖い思いをした俺でさえ、犬と暮らすことができています。もちろんその途中には、犬恐怖症状態があって、リハビリには時間がかかりましたが。

 

 

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2023/08/03

【犬狼物語 其の六百七十八】「イヌ」の始まり(2)

_mg_9987(国立科学博物館 ハイイロオオカミの眼。視線強調型)

_mg_2636(山梨県上野原市犬目宿 ヴィーノの眼。黒目強調型)

オオカミとイヌの違いは何かというと、いろいろありますが、たとえば目。オオカミは視線強調型であるのに対して、イヌは黒目強調型。

オオカミに比べて、全体的にイヌは丸っこく、体に対する頭の大きさも大きい。

オオカミは遠吠えはしますが、吠えることはなく、一方のイヌは吠えます。

オオカミは人間の意図を察することはありませんが、イヌは人間の意図を察して行動します。

オオカミは人間に懐くことはありませんが、イヌはもっと穏やかな性格で懐きます。

などなど、いろいろあります。昨日は、オオカミからイヌが分岐するとき、長年、何世代にもわたって、オオカミは人間の周辺で「野犬」のような状態で暮らしたのではないか、その中で、オオカミはもっと人間に近づく方法として、自分の姿を変えていったと思われると書きました。

どういうことかというと、「野犬」状態の環境の中で、イヌ的な突然変異がオオカミのある個体に現れたということなのでしょう。ただ、その変異は、1頭のオオカミにすべてのイヌ的変異が同時に現れたのではなく(1頭のオオカミが突然イヌになったわけではなく)、各変異が現れた個体はおのおのばらばらで、しかも、その変異が現れたのは「有利」だからはなく、ほぼ偶然、そういう変異が突然に現れたということにすぎなかったでしょう。

でも、その変異、たとえば黒目が増した個体、体に対する頭の大きさが大きい個体の方が幼く見えて、人間に脅威を与えず、人間が保護しようとして生き延びるチャンスが増したとは言えるでしょう。黒目になったり頭が大きくなったりという遺伝子頻度が高くなったと考えられます。

他の変異についてもそうです。「野犬」状態の環境下では、オオカミがイヌ的変異を持った個体の方が生き延びたと思われます。そうしてその変異は何世代ものうち固定され、変異は遺伝するようになりました。オオカミからイヌに変わるために、何世代、何年必要なのかはわかりませんが、だんだん「イヌ」に変わっていったということなのでしょう。ただし、オオカミとイヌの間の化石がほぼ見つかってないということなので、このイヌ化は意外と速く進んだ可能性もあります。

ここまでは、人間側からみたイヌの進化ですが、同様に、イヌからみた人間にも進化があったのでしょうか。

人間の中にも、オオカミを怖がらない個体が現れ、野犬状態のオオカミと友達になった個体、あるいは、狩に出たとき、オオカミを使えばもっと狩が楽になることを知った個体などあったかもしれません。たとえば外敵の接近を知らせてくれる野犬状態のオオカミをそばに置くことで、外敵に怯えるストレスは多少なりとも軽くなったなどはあったのではないでしょうか。

オオカミをそばに置いてもいいと思う個体は、そうでない個体よりも有利になったかもしれません。このように、人間側にも、形質的な進化というより、心理的な進化が起こったとしても不思議ではありません。

オオカミがイヌになることには、人間とオオカミの双方にメリットはあったと思われます。

 

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2023/08/01

【犬狼物語 其の六百七十七】「イヌ」の始まり(1)

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イヌはどのようにしてオオカミから生まれたのかが気になるところです。遅くても1万数千年前の出来事で、実際どうだったのかを証明することは不可能なので、想像するしかありません。毎日こんなことばかり考えている俺は、どこかおかしい、それは自覚しています。

それでいろいろと本を読んだりしていますが、定説は、もちろんありません。

ただ、野犬やアフリカのブッシュマンなどの狩猟採取民のイヌたちがヒントになるのではないか、という気がします。野犬(野良犬)は最近ではめったに見なくなりましたが、10年ほど前には、四国で何回か野犬を見たことがあります。

徳島県、高知県、香川県です。そのときはヴィーノも連れた「犬旅」だったので、とくに野犬には気がつくことが多かったようです。

香川県三豊市観音寺の公園には、同じような姿の薄茶色の2頭の野犬がいました。兄弟姉妹かもしれません。

1頭は4mほどまで近づきました。人間が嫌いなわけではなさそうです。でも、それ以上接近することはありませんでした。こちらが近づいていくと逃げていきます。もう1頭は、人の姿を見ただけで逃げていきました。兄弟でも人間に対する態度はかなり違うようでした。どちらも飼い犬にはない、緊張感が漂っていました。野生の匂いですね。

もちろん近づいてくるのは、人間が食べ物を与えるからでしょう。でも、飼い犬のように、すぐ近づいてくることがないというのは野犬らしいところです。

「付かず離れず」 この微妙な距離が、人間と野犬たちの関係を象徴しているようです。この距離が長くなればなるほど、「飼い犬」から「野犬」に近くなるということでしょう。「野犬度」と、この距離は比例しているといってもいいかもしれません。

この「野犬」の感じこそ、「イヌ」が「オオカミ」から分岐したころの姿に近いのではないでしょうか。ここからは、俺の想像するシナリオの一つです。

人が狩猟採取していた時代、人の近くに近づいたオオカミがいた。人が現れると、逃げて、見えなくなると、また人の捨てた残飯などをあさっていた。人も最初は追いはらっていた。それでも狼にとっては、確実にえさにありつける人のところは魅力で、追いはらわれながらも、隙あらば、近づいていた。人が狩をしたときは、残った骨などにかぶりついた。双方が警戒しながらも、半分存在を認め合う間柄だ。そんな「野犬」状態のオオカミが何世代も続いた。

偶然に人間に近づいたオオカミの個体がそのままイヌとして飼われるようになった、あるいは、オオカミの子どもを拾ってきて飼い始めてイヌになったということはあり得ないので、何世代もの「野犬」状態が続いたはずです。それは100年単位、1000年単位かもしれません。あるいはもっと10000年単位であってもおかしくはないでしょう。DNAとして固定されるまでには長時間が必要です。

「野犬」状態のオオカミの中には、ずっと人間のそばに居つくようになった個体もいたかもしれません。また、人間がこれは狩に使えると思った個体もあったかもしれません。とにかく、長い間、こんな「着かず離れず」状態が続いたのではないでしょうか。

やがて、オオカミはもっと人間に近づく方法として、自分の姿を変えていったと思われます。目を黒目に変えて、幼く見えるように変わりました。そして吠えることをおぼえました。幼く見せることは人間の警戒心を解き、より近づきやすくなったし、吠えることで、危険を察知する番犬として、また、狩をするときの合図として、人間の役にたつことにもなった。双方にとってメリットがあった、というわけです。

だから考えてみれば当然なんですが、「オオカミからイヌになった瞬間」なんてものはないということなんでしょうね。 

 

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2023/07/31

【犬狼物語 其の六百七十六】 映画『石岡タロー』を観て

170514_0(石岡駅前広場 みんなのタロー像)

 

170514_2(石岡駅前広場 みんなのタロー像)

 

170514_3(石岡駅前広場 みんなのタロー像の後側)

 

170514_4(石岡駅の待合室 タローの紹介パネル)

 

170514_5(土浦市 タローが葬られた墓地)

 

170514_6(土浦市 タローが葬られた墓地 「愛」の碑)

 

映画『石岡タロー』の試写を観ました。

茨城県のJR石岡駅西口前の広場で「みんなのタロー」という新しい犬像の除幕式が行われたのは、2017年4月15日のこと。

忠犬タローの物語を語り継ごうと、犬と子どもたちのブロンズ像が建てられました。

そして、今回は、映画にもなりました。全国の犬像の中には、映画になった犬も多くいます。松本市の「校犬クロ」や「ガイド犬・平治」などです。タローもその仲間入りです。

タローが最初の飼い主に会いたくて何年間も学校から駅に通ったのですが、その犬の持っている一途さに胸がキュンとしてしまうわけですね。そして映画はそれを見守った石岡の街の人を描いています。これほど街ぐるみで飼っていた犬は珍しいかもしれません。いや、昔は放し飼いの犬が多く、自由に歩けたし、今の東南アジアで見る犬たちのような犬が昔はたくさんいたと思います。だから昔は良かったというつもりはありませんが。時代が変われば、犬を取り巻く事情も変わってくるのは当然のことです。

だから犬の話ですが、人の話、時代の話でもあります。タイトル『石岡タロー』の「石岡」にはそんな街の人や昭和という時代を抜きには語れない物語であることを思わせます。当時の車やバイクが多用され、昭和の街並みにこだわった感じがするのも、この時代を特別に描きたかったからではないでしょうか。

その物語に過剰な演出もなく、淡々とつづられるタローと石岡の人々との日常生活に、心地よさや懐かしさを感じたのでした。

10月20日には一般公開されるようです。まずは茨城県で先行上映し、いずれ全国で上映されることになると思います。

 

 

 

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2023/07/27

映画『石岡タロー』の試写会

170514_2(石岡駅前広場 みんなのタロー像)

 

_87a3775 (みんなのタロー、オリジナルの石膏像)

 

いよいよ映画『石岡タロー』の試写会が29日に迫りました。どんな映画になっているか、期待を持って観たいと思っています。

これは事実を元にした映画(もちろんいろんな演出はあるでしょうが)なので、「ネタばれ」もないとは思うので、以下、もう一度、タローとはどんな犬だったのか、ということを紹介しておきます。(詳しくは『犬像をたずね歩く』に書いています)

1964(昭和39)年、石岡市立東小学校に一匹の犬が迷い込んできました。その犬はタローと名付けられ、学校で飼われることになりました。

その後、タローは、学校から2km離れたJR石岡駅に通うようになりました。地元の人たちは、誰かを待って駅通いをしているのでは、と思っていたようです。

81年の夏、タローは亡くなりました。学校で追悼式が行われ、石岡市には動物の墓地がなかったので、20kmほど南にある土浦市内の墓地に葬むられました。

その後、奇跡は起こります。

同小創立50周年記念誌にタローの写真が載りました。その写真を見て、元の飼い主である女性から連絡がありました。当時彼女は自宅のある玉造から、石岡の幼稚園に電車で通っていたのですが、45年前に石岡駅で別れてしまった愛犬のコロではないかと。

毎日忙しい両親に代わってコロが自宅から玉造駅まで見送ってくれていました。頭をなでると、自宅に帰っていたのですが、その日、頭をなでるのを忘れたのか、コロは電車を降りずに、そのまま石岡駅までいっしょに来てしまいました。

石岡駅では、「お嬢ちゃんの犬?」と、改札口で駅員に聞かれました。犬を乗せたことを怒られると思って首を横に振りました。それでコロは追い払われてしまいました。それがコロとの別れになってしまいました。

彼女はショックで熱を出し、10日間寝込んでしまいました。家族は石岡駅周辺へ6回も捜しに行きましたが、見つかりませんでした。

そして45年後、コロの消息を知ったという奇跡の物語です。

彼女はずっと、後悔と自責の念にかられていたようですが、コロはタローとして子どもや町の人に愛された幸せな人生を送ったことを知って、安堵したのではないでしょうか。

 

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2023/07/15

【犬狼物語 其の六百七十四】オオカミからイヌへ

2_20230714073301(出典:「社会実情データ図録」https://honkawa2.sakura.ne.jp/0455.html)

 

人間によって家畜化された動物はたくさんありますが、 家畜化されたのは、ほぼ、農耕が始まった時期以降です。

「社会実情データ図録」の図は分かりやすいので、引用させていただきましたが、その中でイヌが一番早く、遅く見積もっても12000年前になり、早い説では32000年前というのもあり、それだとホモサピエンスではなく、ネアンデルタール人まで遡ります。

まだこの起源ははっきりしませんが、はっきりしているのは、動物の中でも、イヌが一番家畜化が早かったということです。

どうしてなんでしょうか。

イヌがオオカミから家畜化されたのは農耕が始まる前、狩猟採取の時代。偶然に人間に近づいたオオカミが人間の食べ物をあさり、人間のそばにいるような個体が現れた、あるいは子オオカミを拾ってきて飼い始めたというのが一般的なストーリーだと思います。俺も今までそう思っていました。

ところが、このイヌの家畜化が他の動物と比べて早いことから、本当に「偶然に」なのだろうか?と疑問を持っています。そこには何かメリットがあった、あるいは、そうせざるをえなかった事情があるのではないか、と思えるのです。

一番のメリットは猟をするときに助けてくれる動物です。オオカミの猟の仕方については昔から観察していただろうから、その優れた能力は人間も理解していたでしょう。そこにあこがれ、トーテムにもなったくらいです。

だから「偶然に」ではなく、もっと積極的にイヌの家畜化が行われたのではないか、とも思うのです。つまり人間はイヌを意識的に作り出したのではないかということです。

先日も書きましたが、イヌ(オオカミ)の集団行動を取り入れたことで肉体的に弱かったホモ・サピエンスも発展をとげることができました。

それとは逆に、イヌの方が積極的に人間に近づいた可能性もありそうです。そのために、人間に怖がられないような外見(たとえば目)や人間に役に立つ(たとえば吠えること。オオカミは吠えない)ことが選択圧として働いたという説があります。イヌも生物としての生き残りをかけて人間に近づいたということもあり得そうです。

一方的にではなく、双方が、双方とも、近づいていったということのようです。(だからwin-winだった)

このことについてはまだいろいろと調べていかないとわからないのですが、今の段階では、そんな物語が自分にはぴったりくるかなぁと。

 

 

 

 

 

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2023/07/11

心の処方箋である昔話や伝説

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イメージの活用を目的に心理学を始めたのでしたが、ユング心理学は、『犬狼物語』の原稿を書くにあたって、犬像・狼像にまつわる昔話や伝説が、残るべくして残ったという視点を与えてもらったのは良かったと思います。

狼の喉からトゲを取ってあげたら狼に感謝されて獲物をもらったとか、犬の首が宙を飛び大蛇に嚙みついて殺して主人を助けたとか、犬が少女の身代わりで怪物と闘ったとか、これを「事実」と捉えたら、単なる荒唐無稽な「嘘」になってしまいます。

ところが視点を変えて、この「嘘」こそが、人間の心が生み出した、何物かの表現であると考えるわけですね。「夢と似ている」と言えばわかりやすいかもしれません。俺たちが観ている夢も、覚醒時の現実世界では、「嘘」になってしまいますが、「夢は嘘だ」なんて言っても、まったく意味がないのと同じです。

昔話、伝説、神話は、夢と似ているのです。人間が共通して持っている集合的無意識の反映とも言えます。しかも、これはある時期から固定してしまった「化石」ではなく、今現在も刻々と変化している「生もの」だということです。

とくに伝説は過去の事実がそのまま伝わることもあるでしょうが、その話が地元の人にとって何か有益なことがあれば、尾ひれがついて、変わっていくということは考えられることです。反対に不利益があったら削られていくということも同様です。

心理学者・大場登著『精神分析とユング心理学』には、神話について、

「その国・その文化圏の人々の心が一致して「受け入れてきた」、その意味で個人を超えた、文化的、あるいは普遍的な「世界観」の表現とみることもできる。人々の心によって受容されないものが歴史を超えて残り続けることはほほとんどありえない」

と言っています。伝説は神話より、もっと具体的な物語ですが、残り方としては同じではないでしょうか。

今も、刻々と伝説が変わっている現場を目撃しました。筑後市の「羽犬」の伝説です。伝説をしらべてみると、「秀吉の愛犬」というのと「秀吉を阻む暴犬」とのふたつの伝説が伝わっています。この両極端な伝説は何を意味するのでしょうか。

秀吉も信長同様、鷹狩りを好んだそうで、鷹狩用の犬である「鷹犬」(まさに鳥と犬の合体した「羽犬」のイメージ)は「御犬」と呼んで大事にされましたが、反対に、野犬は殺されて鷹の餌にされたという話があります。犬の運命は天国と地獄の、両極端の開きがあったんですね。そういった犬の祟りを恐れて犬塚を作り、供養したのかもしれません。そして気持ちを落ち着かせてくれるような物語を語り始めた。このなかに悲惨な餌になった犬の話はありませんが、両極端な羽犬の伝説には、人々の苦悩というか、葛藤が現れているように感じます。

さらに、のちの時代には、羽犬が死んだ原因が、「病死」と「弓で射られた」とふたつできたようです。

微妙な違いかもしれませんが、「病死」の方が加害者を作らず穏便に済むからかなぁと思います。「弓で射られた」となれば、「誰が?」ということが問題になってきます。

物事にはかならず両面性があり、それをどっち側から見るかで、物語も変わってきます。

それと、こういうこともあります。最近は、桃太郎の「鬼退治」も「不公平で、可哀そうだ」との意見が出てきて物語が変わってきているという話も聞きます。

数年前、高崎市のだるま市のことが話題になったときがあって、だるま市を開いていた少林山達磨寺と、業者の方でトラブルがあり、それと連動するように、市のHPから、今まで達磨寺に伝わっていた伝説が消え、「新説」に置き換わってしまったというのです。自分のブログから2016年~17年の話だったとわかりましたが、トラブルについては、こちらに載っています。

 https://www.sankei.com/article/20161222-DW4DKCMDSVIGRNI7GE5G4C7PXY/

具体的にどのような伝説か、忘れてしまいました。でも、あぁ、こういうことで伝説がひっくり返されるんだなと妙に納得したことをおぼえています。

昔話や伝説は流動的なものではないでしょうか。「生きている」と言えるわけです。

昔話や伝説は、化石のような過去の遺物ではけっしてないということ。昔話や伝説は刻々と変化して、必要な人にとっての、心の処方箋になっているのかもしれません。人間には物語が必要なようです。 

ただし、注意が必要なのは、高崎市のように、簡単に変えられてしまう(しかも公権力によって)こともあり、ある意味、怖いことでもあります。公権力が都合のいいように、あるいは、人々に耳障りがいいような物語を語り始めるということもないとは言えません。 

 

 

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2023/07/09

『オオカミ SPIRIT OF THE WILD』

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『オオカミ SPIRIT OF THE WILD』は大型のオオカミの写真集です。精悍な姿や、子オオカミのかわいらしさ。オオカミの魅力を余すことなくとらえた決定版。

この中にこのようなキャプションが載っていました。

「人間を別にすれば、かつてオオカミは、世界で最も生息範囲の広い哺乳類だった。地球上には100万頭以上のオオカミが歩き回っていたのである」

なるほど、そうなんだなと、あらためて気がつきました。オオカミの適応能力の高さを表すものでしょう。そして、かつて人間は常にオオカミと接触しながら暮らしていたわけです。

地球上の広範囲で、人間とオオカミは共存していました。

「オオカミは150万年前ごろに、その初期の小型のイヌ科動物の集団から発生した」「ヨーロッパでは40万年前にネアンデルタール人が出現(上)。5万4000年前には現生人類と共存していた(中)。4万年前にネアンデルタール人が絶滅し、現生人類が生き残った」(Wikiより)

つまり、ネアンデルタール人のころにはオオカミも存在していたということになります。

ネアンデルタール人が滅び、ホモ・サピエンスが生き残ったことを「交替劇」と専門家たちは呼んでいます。ただ、東アフリカを出たホモ・サピエンスが、ネアンデルタール人を「駆逐」して広がったというイメージは間違っているようです。同時代に同居していたようでもあるし、混血もしていたようです。「ネアンデルタール人のDNAが現代の欧米人に受け継がれていることが判明した」(Wiki)ともあります。

そこはさておき、昔、何かの本で、「ネアンデルタール人はイヌを飼わなかったから絶滅した」といったような内容を読んだ気がします。

ある説で社、人間がオオカミと接するようになって、オオカミのように行動して考えるようになりました。集団で狩をすること、複雑な社会構造、誠実な友情、縄張り意識などを、それまで持っていなかった人間はオオカミから学んできたというものです。

そこで人間はイヌを作り出し、飼い始めたというのです。

集団で狩をすると個人では倒せなかった獣を倒すことができました。集団行動を取り入れたことが肉体的に弱かったホモ・サピエンスでも発展をとげることができた理由のひとつらしいのです。

 そこで今度はイヌの起源はどうかというと、約20000年~15000年くらいまえにイヌは東アジアでオオカミから分離したようだとのことで、イヌを「作った」のはやはりホモ・サピエンスで、ネアンデルタール人ではなかったということになるようです。

歴史に「もし」はありませんが、ネアンデルタール人が、もしイヌを創り出して、飼っていたらどうなっていただろうかと想像するのは楽しい。

実際、イヌの家畜化はネアンデルタール人が行った、という説もあり、まだまだイヌの家畜化がどこで、いつ始まったか、確実な説はないようです。 

 

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2023/06/07

犬の時間

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犬恐怖症だった俺が、ヴィーノと出会い、ヴィーノと暮らすようになって思ったことは、どうしてヴィーノはこんなにふてぶてしいくらい自信に満ち溢れているのだろうか、という感覚でした。この自信はどこから来るんだろうと、ずっと考えてきました。

人間の不幸のひとつは、過去と未来に縛られることにあるかもしれません。犬は、いや、オオカミや他の動物は、現在をせいいっぱい生きているということなんでしょう。

昔はできたのに、今はできなくなって悲しいとか、今これを食べてしまったら、明日のごはんがなくなって困るから、残しておこうとか、過去や起こってもいない未来のことを煩い、心配し、悩む。まさにこれがマインドワンダリングで、そういう雑念を払うことで精神衛生をいい状態に保つというのは、認知行動療法でもやったことです。

養老孟司さんと池谷裕二さんの対談で、「時間」というのは人間の脳の中にしかない、といったことを話していました。

でも、俺は、ヴィーノの様子から、多少の時間の観念は犬にもあるのではないかと思います。それは「待て!」と言われて待っているときです。これは必ずしも時間の観念があるから「長い」と感じているのか、それとも、単によだれが出て来て困るので、待っていられなくておやつを食べてしまうのかわかりませんが、待っている間はやっぱり過行く時間を感じているように見えます。

いや、時間の観念はあるけど、それを人間のように「単位」にはしないということではないのかな。人それぞれに進んでいる時間を、同じ「単位」で測ってしまうところに人間の不幸は生まれる気がします。

昔アルバイトで生産ラインに入って製品組み立てをやったとき、自分では速くやっているつもりだったのに、「遅い!」と注意されたときのショック。人との時間感覚のずれに気がついて、俺は人といっしょにやる仕事は向いてないなぁと実感。

犬たちは、自分に流れる時間をそのまま受け入れるだけで、けっして他の人(犬)と比べたりはしていません。

こんな体験があるんじゃないでしょうか。夢中になって何かをやっていると、あっという間に時間が過ぎていること。夢中でやることで、過去も未来もなくなる、時間が無くなるという感覚ですか。たぶん、こんな感じが動物の「今をせいいっぱい生きる」ということと近いのではないかなと思うのですが。

 

 

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