秋葉原で起きた無差別殺傷事件の初公判
秋葉原で起きた無差別殺傷事件。あれから1年半が過ぎ、裁判が始まりました。
元派遣社員・加藤智大被告は、遺族に謝罪の手紙を送ったり、一見すると反省しているように見えます。
でも、ずっと「いい子」を演じてきたという経緯を考えると、この「謝罪」も「いい子としての行動」と思われてもしかたないかもしれません。
俺も子どものときは「いい子」を演じてきたし、似た部分があると感じるので、加藤被告の偽善性を嗅ぎ取ってしまいます。
事件のときもブログに書きましたが、もう一度書きます。
被告の動機として、当時は、仕事に対す不安や不満、社会に対する孤独感や疎外感、親に対しての恨み。そんな「理由」が、もっともらしく語られていました。
あのとき、俺は、犯人のもっともらしい「不幸な境遇」を聞くにつけ、腹が立ちました。たとえば、外見が悪いだの、彼女がいないだの、仕事が無くなるだの、親が自分のエゴを押し付けただの、そんなこと、俺もまったく同じだったよ、と言いたい。
被告は、社会人として、あるいは、男としての理想像、たとえば、「勝ち組」だの「イケメン」だの、世間で作られた虚構に、まんまとハメられてしまったのかもしれません。だから、その理想像を外れるのが許せない。人生は終わりだと思い、やけっぱちになってしまった・・・。
そして一番気になったのは、被告に対する同情の声があったことです。たしか、労働環境改善の問題が注目されていたこともあって、被告の動機に同情するような意見も出たのではなかったでしょうか。
被告は、「誰かに止めてほしかった」といっているように、人の同情を引こうとしています。でも、被告は、殺人を隠れて犯したのではありません。だから、捕まってもいい、死刑になってもいい、ということなのです。「事件を起こした後のことは考えていなかった」と供述していました。つまりこれは「自殺」なのです。
たぶん、被告のような悩みで自殺してる人はいるだろうと想像できます。ただこの被告の場合、「ひとりで死にたくない」とか「幸せな人を巻き込んでやる」といった身勝手な理由で、何の関係も無い人たちを、なるべく大勢道連れにしようとしたところが特異です。
被告は、無差別殺人するほど必死です。これから続く裁判でも、あわよくば、世間の同情を引こうという、それこそ「いい子」を演じてきた被告の、最後のもくろみに乗ってはいけない。反省しているように見える「いい子」を演じる天才なんじゃないか、と俺は疑っています。
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