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2011/03/30

陸前高田市の高田松原。津波で残った奇跡の「希望の松」

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高田松原(たかたまつばら)は、全長2キロメートルに渡る松林と砂浜が続く岩手県陸前高田市の景勝地。 日本百景、日本三大松原、国の名勝に選定・指定されている。(Wikiより

1本残った「希望の松」 陸前高田市の高田松原
産経ニュース http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110330/dst11033008170011-n1.htm

約7万本の松林のうち1本だけ津波で残ったといいます。それを「希望の松」と呼び始めているそうです。すごい生命力です。(本当はもう一本ありますが、枝がなくなり、幹だけで、しかも、海に浮いた島に取り残されて近づけません)

一番上に掲載のものは2年前、2009年5月9日撮影したもの。日本一周の旅の途中、千葉県から宮城県、岩手県の海岸沿いを旅したとき、陸前高田で撮影した高田松原の写真です。道の駅から海側に続く松林で、葦の生える古川沼ごしに、ちょうど月が出てきて、あわてて写真を撮ったことを思い出します。

下に掲載のもの3点は、震災後、2011年4月26日撮影のものです。樹齢200年以上、高さ約25mの松の木です。

樹齢300年を超えるといわれる赤松黒松もあり、7万本の松林の高田松原は潮風を防ぐために人間が作り上げたりっぱな文化的景観でした。

今、木の周りに壁を作って、海水が入らないような工事をしています。ただ、84cmほど地盤沈下してしまい、砂地なので塩水が染み出してきます。水を舐めたら、たしかに塩辛い。「希望の松」を残すのはそう簡単ではないということです。

「希望の松」はこれからの長い復興の道のりの象徴的存在になるのかどうか、まだ予断を許しません。

こちらにも「希望の松」の写真があります。

Ya_2「東日本大震災の現場 (15) 津波に耐えた陸前高田の「希望の松」」(2011/05/17)

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2011/03/27

おちまさと氏のブログを読んで、今の日本の空気を考えた

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地震津波から2週間、いろんなことを考えています。これだけいろんなことを考えたことはなかったくらいで、これはたぶん多くの人がそうだと思います。それだけこの震災の衝撃が大きいということです。

多くの命が一瞬で失われた悲劇。被災した人たちの避難生活の大変さ。ボランティア活動。募金活動。情報が作り出す風評被害。計画停電が続くこと。原発がどうなるのか。などなど。

これからの俺たちの生活は確実に何かが変わっていくでしょう。

そこで、昨日読んだおちまさと氏のブログは、最近漠然ともやもやしていたものが何だったのか気がつかせてくれるものでした。

「救済とは何か。」(2011-03-25) http://ameblo.jp/ochimasato/entry-10841467387.html

それは、日本の今の空気です。

俺は地震発生して、寄付やボランティア活動をしたいと思いました。それは本当です。でも、いまだにしていません。

急いでやることはないなと思うようになりました。それがひとつの理由。周りではいろんなグループができて、いろんな募金活動やボランティア活動が始まりました。ボランティア募集をみつけても、すでにたくさんの人が応募があり、締め切ったあとだったりします。やる人がいるなら、別に俺がやることもない。体力も技術も何もない俺が現地にいったところで足でまといになるだけ、と言い訳をしています。

募金は誰がいくら寄付したとか、いくら集めたとか、まるで競争しているように感じてくると、この競争からは早めに下りようとも思いました。

でも、そのうち「何かやらなければ」と感じる自分が「おかしい」「へんだ」と思うようになったのです。なんなんでしょうか? この強迫観念は。

別に、募金・寄付もボランティアも、やれないからといって、被災者のことに心を痛めていないなんてことはないのだし、やれる人だけやればいいだけです。どちらも、そっとやれれば一番理想かなと思います。募金・寄付もボランティアも自発的なものです。強制されてやるものではありません。そんなことわかっているのに、なぜか、今の日本の空気はそうではないような気がします。

もちろん今回の災害は、あまりにも衝撃が大きすぎて何かやらねばとあせる気持ちが多くの人に芽生えたのはあるでしょう。だから募金・寄付やボランティア活動をいっしょぷけんめいにやっている人を「偉い」と思うことはあっても、けっして非難するものではありません。誤解のないように。

でも、それを考えてもです。

例として、「サンデーモーニング」出演の張本勲氏は、野球1軍選手みんな給料10パーセント寄付すべきなどと言いました。一見人情味のあるすばらしい意見のように思えますが、募金を強制しています。これはどうなんでしょうか? こういう人が声高に言うから俺は反発したくなってくるのです。

毎日「日本人は団結しよう」「日本人はひとつ」「みんなでがんばろう」「ひとりひとりができることをしよう」など、まるで呪文のように繰り返されています。できないことに後ろめたさを感じ、だんだん強迫観念にかられている人が増えているとしたら、まずいかもしれません。

俺はへそ曲がりなので、この「いいこと」であるかもしれないことでも、みんなが一方向を向くことに違和感を持つのです。もっと言えば怖いのです。

この「団結」に参加できない人が、非難されないことを願うばかりです。

たとえば日本を逃げ出した外国人を「フライジン」と言って揶揄したり、非難したり。募金・寄付しない人を白い目でみたり。笑いを自粛しろと言ったり。

妙な空気が漂い出したらまずいことだなと思います。

俺は最初から被災者以外は「普通に生活すべき」といってきました。ただ、東日本の場合、計画停電などもあり、やろうとしてもやれないという状況です。だからとくに西日本の人たちは普通に生活してほしいと思います。

同じ方向を向いていたら、日本は共倒れになってしまいます。西日本の人がいっしょうけんめいに働いて遊んで笑って生活することが、日本全体の復興には必要なのです。


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2011/03/25

計画停電には慣れていくしかない

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これからしばらく計画停電が続きます。今さらながら俺たちは電気に依存していたんだなぁと思い知らされます。

夜の停電では、「まるで車中泊の旅と同じだね」といっています。ランタンで灯りを取り、ラジオでニュースや音楽を聴く。暖房もないので厚着をする。旅先ではいつもこんなかんじです。

慣れているはずの状況なのに、やっぱり「旅」とは違う「日常」では、今までできたことができなくなる不自由さは正直感じます。

でも、電気がないならないで、何とか慣れるしかありません。意外と、電気がなくてもいい場合がたくさんあることにも気づいていくのではないかと思います。

夜、自販機が消灯していました(停電中ではないときも)。今までは人が通らなくても煌々と灯りが付いていた夜中の自販機にも何も疑問を感じませんでしたが、こうなってみると、この夜中の自販機の不自然さに気がついたり。

誰もいない駅の構内で動き続けるエスカレーターの機械音も、今となっては不気味なものに感じます。

電気(エネルギー)が少ないことに、「不便だ」と考えるとつらくて長続きしません。我慢するのではなくて、これからは、与えられた条件でやりくり、工夫していくことが「面白い」と思う感覚を持たなくてはならないのかもしれません。

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2011/03/23

受けなくてもいいはずの風評被害

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地震で被災した人には気安く「がんばろう」などと声をかけられるような状況ではありません。

ただ、予想を越えた自然災害は避けられなかったかもしれませんが(一部は人災でもあるでしょうが)、今、風評被害にあっているところは、まったくの人災です。受けなくてもいい被害を受けています。

「現代は情報化社会だ」などと、よく言ったものです(俺も含めて)。その「情報」が新しい災害を作り出しています。(情報が悪いんじゃない、扱う人間が悪い。だから「人災」というんでしょう)

たとえば、福島県いわき市。ここは、面積が広く、市のごく一部が原発の30km圏内に入っています。でも、いわき市のほかの部分は、まったく入ってもいないんです。

にもかかわらず、「いわき市」と聞いただけで放射能が怖いといって、運送業者などが立ち入りを拒み、結果として物資が不足するという事態になっています。

それと一昨日から話題になっている、ほうれん草、原乳など農産物、畜産物に対する「拒否」です。今、安全である産地のほうれん草さえ売れ残るという馬鹿げた現象が起きています。

もちろん、こういった風評被害の元は、政府発表のいい加減さに原因があるのはもちろんですが、俺たちが食品に対してあまりにも過剰反応することにもあります。

放射能の暫定基準値なんて、付け焼刃的に作ってしまうからこうなってしまう。あまりにも「安全」に寄った数値が混乱を招いています。基準を設けたら法律上は、規制するしかなくなる。

でも、やっぱりおかしい。物不足なのはみんなわかっていて、しかも、健康に影響のない食品を廃棄するしかないなんて、これほど悲しいことはありません。


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2011/03/20

どうして「余裕のある者」がもっと物を独占しようとするんでしょうか。

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友人のフランス人が日本脱出しました。

一番の理由は、東電や日本政府の情報に不信感を持っているからというものです。彼らの行動が、過剰なものだとは思いません。「外国」にいたらお互い様です。

俺だってフランス滞在中同じ問題が起こったら同じように脱出を考えるかもしれないし、実際ベトナムで数年前SARSが流行ったときや、マダガスカルでチクングンヤ熱が流行ったときは、なるべく早く出ることを考えました。

でも、これはあくまでも外国人の話。「危険情報」に過剰反応するのはどうかと思います。

今、一部の人たちの買占めが問題になっています。

直接の被災者でないなら、動揺せず普通の生活をたんたんと続けたい。とはいえ、今、普通に買い物に行っても物が買えないという状況があります。普通にやりたくてもやれない状況です。普通に買い物へ行っても、なんとなく後ろめたさも感じてしまいます。

被災者ならしかたありません。それが死活問題にかかわるなら。でも、どうして「余裕のある者」がもっと物を独占しようとするんでしょうか。買占めそのものがストレス発散だという人もいるそうですが。

そこで「買占め」について思い出すことがあります。

昔、中国の四川省をバスで旅行していたときです。大雨で土砂崩れがおき、バスが立ち往生したことがあります。2、3時間経っても復旧工事は始まらず、これは1日、2日かかるんじゃないかと悲観的な雰囲気が生まれました。

それで乗客たちはバスを降りて、近くの村の売店に行き、食べ物の買占めが始まりました。俺は言葉の問題もあり、そこまで気がまわらず、出遅れてしまい、何も買えなかったのでした。村の売店なんてたかが知れているので、商品棚から、すべての食品がなくなってしまいました。

食べ物がないとわかると、とたんに腹が減ってきて、どうなってしまうんだろうと不安になってきました。さっきまで何ともなかったのに。

そもそもお金のない貧しい人たちは、バスを降りずに、ずっとバスで寝ていました。もう俺もなるべく動かないことにして寝ていました。

すると、程なくして道路が開通し、車の列が動き始めたのでした。今まで食べ物をたくさん抱えた人がうらやましく思えたのに、バスが動き始めたとたん、とてもこっけいに見えてきました。

食べ物を買い占めた人たちは、その食べ物の置き場に困って、しかたないので、みんなに配りはじめました。俺ももらいました。結果的に、みんながただでお菓子を食べることができてハッピーだったのですが。

結局、「余裕のある人」が、もっと欲しくなって買占めが始まったのです。欲が欲を呼ぶということでしょうか。言葉ができない外国人や、貧しくて余裕のない人は、買占めする発想がないんだなぁと知ったのです。


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2011/03/19

ヴィーノのへん顔

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「楽しいから笑うだけじゃない。笑うから楽しくなるんだ」

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2011/03/18

「楽しいから笑うだけじゃない。笑うから楽しくなるんだ」

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誰かがこんなことをいっていました。

「楽しいから笑うだけじゃない。笑うから楽しくなるんだ」

空元気なのかもしれません。でも、空元気でも、続けていれば元気になっていく、ということだと思います。

だから、おばかなヴィーノに笑ってください。元気になりそうな写真をアップします。

写真家ができることといえば、これくらいしか今のところありません。


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2011/03/16

自粛ムードに疑問あり 

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(東秩父村の花桃と桜。美しい季節になりました)

友人のフランス人カメラマンが東京に滞在しています。お台場で地震にあい、数時間歩いてホテルまで戻ったそうです。彼にとっては最悪の日本旅行になってしまったかもしれません。

昨日は電話がありました。日本語がわからないと不安らしいのです。「原発は大丈夫か?」と聞かれたので、「大丈夫」と答えました。「政府の情報は本当か?」と聞くので、「俺は信じる」と答えました。それで少しは安心したようです。本当は俺も不安なのに。

仏政府が自国民の日本脱出へ臨時航空便 報道陣も撤退
(スポニチhttp://www.sponichi.co.jp/society/news/2011/03/16/kiji/K20110316000437490.html)

ここまでするか?というのが正直な感想です。友人もこの飛行機で「脱出」してしまうのでしょうか? でも、外国で何か事件事故が起こると、国全体が危険なような感じがしてしまうというのは、俺も外国で同じようなことを経験しているので、わからないわけではありません。

ただ、日本人が動揺していたら外国人はもっと同様するんです。脱出したくもなるでしょう。まるで日本全体が地震で壊滅し、放射能で汚染されているようなイメージを与えています。これは日本にとって良いことではありません。

たぶん、政府や東電の原発に対する正直で正確な情報開示ができていないことに問題あるのかもしれませんが、日本人全体の動揺も外国人は敏感に感じとっているせいだと思います。

被災していない人は、普通の生活をするべきなんです。笑ったり楽しんだりして何が悪いんでしょうか。いや、むしろ積極的に笑ったり楽しんだりしたほうがいいのではないでしょうか。地震災害にも動じない普通の生活を送る日本人の姿を見せることは、世界に対していいイメージを与えることになります。それは早い復興にも繋がるでしょう。

「自粛」「不謹慎」を叫んでいる人たちは、そもそも、いったいいつまで叫び続けるつもりでしょうか? この災害の復興には何年もかかります。おそらく少なくとも数年以上かかるでしょう。それまで叫び続けるなんて、ありえない。どこかで「飽きて」くるんじゃないですか?

誰だって、この大災害にショックを受け、被災した人に同情もしています。だからといって、日本人みんなが同じように自粛することがいいことだとは思いません。同じ方を向く危険性は、みんな感じているのではないでしょうか。


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2011/03/14

地震災害に遭われた方に、お見舞い申し上げます。

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(これは東秩父村の花桃の里。09年3月24日撮影。黄色いのはサンシュユ。ピンク色のが花桃。そろそろ見ごろです)

地震災害に遭われた方に、お見舞い申し上げます。

今回被災した東北地方の太平洋に沿った地域は、何度も訪れています。とくに、気仙沼や陸前高田は大好きな町です。旅で親切にしてくれた人もたくさんいます。だからそのうち何らかの形で復興の手伝いをしたいと考えています。今できることは節電くらいしかありませんが、通常の生活を続けることも大切なことだろうと思います。

こんなときこそ、お笑い芸人たちには大いに笑わせてもらいたいし、歌手にはラブソングを歌ってほしいし、写真をやっている人には春の美しい写真をどんどん撮ってブログで発表してほしいと思います。

人が生きるか死ぬかというときに「笑い」や「冗談」や「芸術」を「不謹慎だ」「自粛すべきだ」といって非難する人たちの気持ちがわからないでもないですが、戦時中、同じように「非国民」呼ばわりしたことがどれだけ馬鹿馬鹿しいことだったか、むしろ、戦時中だったからこそ「笑い」や「冗談」や「芸術」が必要であったかということは、今だからこそよくわかるのです。

だから俺もなるべく通常にブログを続けたいと思っています。


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2011/03/10

川越の、ある光景 (1)

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2011/03/09

秩父札所 第四番 金昌寺の千社札

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秩父札所第四番の高谷山金昌寺。

風雨にさらされて形がわからなくなってしまった仁王門に貼られた千社札。


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2011/03/05

秩父の祭り 3月3日、蒔田椋神社の「御田植神事」

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3月3日。椋神社の「御田植神事」に行ってきました。2年前訪ねたときは雪でしたが、今年は晴れ。ただ、まだ春を感じるには早すぎる気温の低さでした。

社殿の前に神田を作り、耕す、農耕馬の踏耕、代掻き、田植などの所作をします。稲作の一連の作業を、神様の前でやってみせて、今年の豊作をお願いする神事です。


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2011/03/02

リビア末期症状の現金ばら撒き

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写真は『緑の書 リビアのカダフィ大佐の理論』 著: カッザーフィ 訳: 藤田進

末期症状のカダフィ大佐。トリポリ市民に3万円ほどの現金をばら撒き始めたらしい。末期政権は、ばら撒きで不満を抑えるというやり方が古今東西同じで笑えます。

リビアの民衆蜂起の映像で、革命前の旗をかかげています。当時は王政でした。つまりみんなは「民主化」だけを叫んでいるわけではないようです。

この一連の北アフリカ、アラブの民衆蜂起は、明確なリーダーがいません。前にも書きましたが、個人個人の反乱です。

若者の失業率が高く、富は一部の人間に独占されている。とにかく、今の独裁政権に嫌気をさして倒したい、その思いだけです。

それでいい国になるかどうかなんて先のことはわかりません。でも、やらざるを得ないほど、彼らは切羽詰っているんだということだけは、はひしひしと感じるし、俺はそこに共感します。


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