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2011/03/27

おちまさと氏のブログを読んで、今の日本の空気を考えた

110327
地震津波から2週間、いろんなことを考えています。これだけいろんなことを考えたことはなかったくらいで、これはたぶん多くの人がそうだと思います。それだけこの震災の衝撃が大きいということです。

多くの命が一瞬で失われた悲劇。被災した人たちの避難生活の大変さ。ボランティア活動。募金活動。情報が作り出す風評被害。計画停電が続くこと。原発がどうなるのか。などなど。

これからの俺たちの生活は確実に何かが変わっていくでしょう。

そこで、昨日読んだおちまさと氏のブログは、最近漠然ともやもやしていたものが何だったのか気がつかせてくれるものでした。

「救済とは何か。」(2011-03-25) http://ameblo.jp/ochimasato/entry-10841467387.html

それは、日本の今の空気です。

俺は地震発生して、寄付やボランティア活動をしたいと思いました。それは本当です。でも、いまだにしていません。

急いでやることはないなと思うようになりました。それがひとつの理由。周りではいろんなグループができて、いろんな募金活動やボランティア活動が始まりました。ボランティア募集をみつけても、すでにたくさんの人が応募があり、締め切ったあとだったりします。やる人がいるなら、別に俺がやることもない。体力も技術も何もない俺が現地にいったところで足でまといになるだけ、と言い訳をしています。

募金は誰がいくら寄付したとか、いくら集めたとか、まるで競争しているように感じてくると、この競争からは早めに下りようとも思いました。

でも、そのうち「何かやらなければ」と感じる自分が「おかしい」「へんだ」と思うようになったのです。なんなんでしょうか? この強迫観念は。

別に、募金・寄付もボランティアも、やれないからといって、被災者のことに心を痛めていないなんてことはないのだし、やれる人だけやればいいだけです。どちらも、そっとやれれば一番理想かなと思います。募金・寄付もボランティアも自発的なものです。強制されてやるものではありません。そんなことわかっているのに、なぜか、今の日本の空気はそうではないような気がします。

もちろん今回の災害は、あまりにも衝撃が大きすぎて何かやらねばとあせる気持ちが多くの人に芽生えたのはあるでしょう。だから募金・寄付やボランティア活動をいっしょぷけんめいにやっている人を「偉い」と思うことはあっても、けっして非難するものではありません。誤解のないように。

でも、それを考えてもです。

例として、「サンデーモーニング」出演の張本勲氏は、野球1軍選手みんな給料10パーセント寄付すべきなどと言いました。一見人情味のあるすばらしい意見のように思えますが、募金を強制しています。これはどうなんでしょうか? こういう人が声高に言うから俺は反発したくなってくるのです。

毎日「日本人は団結しよう」「日本人はひとつ」「みんなでがんばろう」「ひとりひとりができることをしよう」など、まるで呪文のように繰り返されています。できないことに後ろめたさを感じ、だんだん強迫観念にかられている人が増えているとしたら、まずいかもしれません。

俺はへそ曲がりなので、この「いいこと」であるかもしれないことでも、みんなが一方向を向くことに違和感を持つのです。もっと言えば怖いのです。

この「団結」に参加できない人が、非難されないことを願うばかりです。

たとえば日本を逃げ出した外国人を「フライジン」と言って揶揄したり、非難したり。募金・寄付しない人を白い目でみたり。笑いを自粛しろと言ったり。

妙な空気が漂い出したらまずいことだなと思います。

俺は最初から被災者以外は「普通に生活すべき」といってきました。ただ、東日本の場合、計画停電などもあり、やろうとしてもやれないという状況です。だからとくに西日本の人たちは普通に生活してほしいと思います。

同じ方向を向いていたら、日本は共倒れになってしまいます。西日本の人がいっしょうけんめいに働いて遊んで笑って生活することが、日本全体の復興には必要なのです。


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コメント

なかいさん

一昨日の余震もすごかったですね。大丈夫でしたか。

>こんな時だから、いつものように花を楽しもうと思います。

私もその気持ちがよくわかります。この前、上野恩賜公園に花見に行ったとき、みんな静かに酒を飲んでいました。これは「弔いの花見」だなと感じました。こういう花見もあるんだなと思ったのです。
そのときは、「宴会自粛」の看板が立っていましたが、誰も騒ぐ人はいませんでした。みんなわかっているんです。看板なんか必要ないと思ったら、最近、外されたとのこと。
日常生活することが、けっして亡くなった人や、被災した人に対して不謹慎なことではなくて、むしろ、そういう普通の生活がなければ供養もできないということなのだと思います。
花見に罪悪感を抱かなくてもいいのです。桜の下で大いに呑みましょう。写真を撮りましょう。私も呑んで撮ります。

投稿: あおやぎ | 2011/04/09 09:34

あおやぎさん、初めまして。
宮城在住のアマチュアカメラマンです。

私自身被害はほとんどないのですが、知人は命をなくしたり、家を失ったりしています。
自分だけがこんな普通の生活をしていていいのだろうかと、被災後ずっと自問自答しています。
そして私も大したことをしないまま、今に及んでいます。

そして次週はこの十年近く、東京の友人と続けている、福島の花見山撮影会を今年も行うことにしています。

こんな時でも、こんな時だから、いつものように花を楽しもうと思います。
被災地にとっても、経済が活性化し、仕事が増え、仕事に戻れることを願っています。だからこそ、被災しない人たちは、今までのように花見などの飲食を含め、普通に生活して欲しいと思います。普通の生活、消費を続けることが被災地にとっても役立つことだと考えます。

いろいろな思い、意見はあるのでしょうが、こんな考えもあることをお伝えしたいと思います。

投稿: なかい | 2011/04/09 07:57

ひまわりさん

周りでも、何かやらなければと思いつつ、何もやれず、無気力感に襲われている人も多いですよ。被災してない俺たちでさえ、そうなんだから、気にすることはないですよ。
復興には長く時間がかかるわけだし、そのうち自分でやれることがみつかるかもしれないし、なかったらないでいいではないですか。誰か他の人がやってくれるなら、そういう人に任せておけばいいのだし。「ラッキー」てなもんです。
とにかく今は、自分の日常生活だけ考えていればいいと思います。

投稿: あおやぎ | 2011/04/07 16:41

仙台在住の自分の家は、中がぐちゃぐちゃになりました。けれども 津波による被害の悲惨さに、自分は被災者だなんて言ってはいけないような気持ちになりました。同時に被災地に近い自分も何かしなければならないのではないかという強迫観念に襲われ、感情のバランスが崩れ、日々何もできない自分に苦しみました。
何をすればいいのか、何が出来るのか全く分からず・・・。
でも、こちらのブログを読ませていただき、心救われた気持ちです。今は何もせず、自分の生活を守ることに専念しようと思います。平常心を保ちながら。m(_)m

投稿: ひまわり | 2011/04/07 13:48

こんな大災害を目の前にして、みんな動揺しています。
今まで考えてきたことが、根本から覆されたような衝撃があります。
だからなおさら「平常心」は必要になるんでしょう。自分でも「落ち着かなきゃ」という意味で、ブログを書き、気持ちの整理をしているように感じます。だから、正しいのかなんてわかりません。いや、まさに現在進行形の事態を自分で受け入れるだけでせいいっぱいです。

投稿: あおやぎ | 2011/03/28 23:19

青柳さんの考えに共感できることが多いです。
自分も震災以来、しょうもないブログなんか書いていていいのか…なんて思ったりして躊躇した日もありました。が、そんなことを言ってたら日本中が沈滞ムードに包まれてしまう。やっぱり自分はいつもの自分で行こうと決めました。義援金もある筋で行いました。勿論、強制ではありません。町を歩くと募金箱を持って呼びかける人を目にした時、そばを素通りにするのに少し後ろめたいような気もします。でも、他で既にやっているんだからと自分に言い聞かせます。

投稿: TKO | 2011/03/28 20:42

そうですよね。
遊んで、笑って、おいしいもの食べて。

投稿: あおやぎ | 2011/03/28 09:56

はい〜普通に生活が、まず一番大事だと思います。

投稿: ひなた | 2011/03/27 23:57

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