東日本大震災の現場 (2) 松島めぐり観光船の再開
松島の観光業は再開したが、なかなかお客は来ないそうだ。ゴールデンウィーク後半はどうだろうか。
店がまだ何軒か開いているだけで、その日手に入る品物によって店を開けているような状況だ。
でも、昨日から、松島めぐりの観光船が再開した。午前9時の便には約20数人程度。
店は少ないが、食事も出来るし、瑞巌寺入り口の店では土産も買える。
松島観光してみてはどうでしょうか? 観光客、少ないので静かでいいですよ。
松島の観光業は再開したが、なかなかお客は来ないそうだ。ゴールデンウィーク後半はどうだろうか。
店がまだ何軒か開いているだけで、その日手に入る品物によって店を開けているような状況だ。
でも、昨日から、松島めぐりの観光船が再開した。午前9時の便には約20数人程度。
店は少ないが、食事も出来るし、瑞巌寺入り口の店では土産も買える。
松島観光してみてはどうでしょうか? 観光客、少ないので静かでいいですよ。
風評被害はないほうがいいにきまってます。でも風評被害が止まりません。もしかしたら風評被害は必ず起こるものなのかも。
ならば、風評被害は必ず起こることを前提にして、じゃぁ、起こったらどうするか、どうやれば最小限の被害で済むのか、それを考えなくてはならないのかもしれません。
風評被害を逆手にとって、直接ネットで売るという方法もあるでしょう。(実際やり始めている人たちはいます) 『風評被害ベジタブル』とでもブランドを作って売り出す。応援してくれる人は、全国規模で見れば、ぜったいたくさんいるはずです。何も「怖い」と言っている人を相手に卑屈になって売る必要もありません。そんな人には、こちらから「売らない!」と拒否すればいいんです。
外国では、日本全体が放射能に汚染されているようなイメージで報道されているそうです。食品だけではなくて工業製品も、敬遠されるような状況です。
中国では、海が放射能に汚染されて(?)、そのうち塩が手に入らなくなるからというので塩の買占めに走っているとか。
でも、俺はこれを笑うことはできません。俺もまったく同じようなことをやっています。
たとえば、ベトナムでSARSが、マダガスカルでチクングンヤ熱が流行ったときは、いち早く国外に出ようとしたし、(たしかこのときベトナムに渡航自粛の措置が取られたような気がします)、帰国したとき、親戚からは、しばらく来ないで欲しいと言われたこともあります。
実際は、そういう危険場所は局地的なものだし、外国に対しては「危険」に過剰反応してしまうというのは、どこの国民も同じでしょう。
だから今までさんざん他人の国に対しては風評被害で迷惑をかけておきながら、今、逆の立場になって初めて被害者の気持ちに気が付いているという状態です。
国対国の風評被害なら、言葉も違うし、しかたないなぁと思うところもありますが、国内でもそうです。
今は、「安全だ」と言われている農産物、畜産物、海産物も、「安心できない」からといって買いません。
これだけみんな「安心」を求めるということは、今は、「安心」を得られないということの裏返しだろうし、それはどうしてなのか?と考えると、人を信用できないから、ということに尽きます。
政府の言うことはもちろん(?)、ジャーナリストの言うことも嘘臭いし、専門家の学者さえ、おかしいぞと思うようなことを平気で言っていたりします。ブログやツイッターでは、素人が適当なことを言っています(俺のことか?)。
かといって、自分に確固とした考えがあるのかというと、それもない。じゃぁどうするか。「危険」の匂いがするものを片っ端から拒否していく。「安心」を得るにはそれしかない。
だから風評被害は必ず起こると考えておくしかないのかもしれません。「風評被害をなくそう」といくら叫んでも今は難しい。前提となる「正しい情報」がないんだから。いや、仮にそれが本当に「正しい情報」でも、受け取る側が信じないなら、意味がないんです。
信じるには常日頃からのお互いの関係がちゃんとしていないとダメ、本当にそう思います。震災前から信じられない政府の発表することを、この異常事態の中で信じろと言われてもしょせん無理です。
それと、やっかいなのは、「安心」を感じるかどうかは、人によって「感度」が違うということもあります。あとはどこで、「安心」だと納得できるか、個人的な問題なので、難しい。
俺はまったく産地を気にしていませんが、それは、風評被害に対抗しているわけではなくて、まったく個人的に、「感度」が鈍いからです。もともと発展途上国では多少の「毒」は当然あるし、きれいな水道水が飲めるところも少ないし、100パーセント、クリーンなものなどない、しかも選択の余地がない、それが発展途上国の常識だからです。
裕福な国民、余裕のある国民は、「安心」に対して感度が高くなるのは、当然のことです。選択の余地があるからです。言い換えれば「風評被害が出る」くらい日本はまだ余裕があるというふうにも言えるのです。
まぁ、これは言い過ぎかもしれません。そもそも日本を発展途上国と比べることに意味はない、と言われそうだし、実際風評被害で苦しんでいる人がたくさんいる中で、「日本人として」今の段階でこんなことを言うことは不謹慎だと言われそうです。
犬の散歩へいったとき、3人のおばさんたちが世間話をしていました。
通り過ぎるとき、何気なく聞こえてきた会話に苦笑しました。
「私たちは幸せねぇ。ここには海もないし、山もないし、川もない」
ここは埼玉県南部。確かに海はないので津波はない。山はないので土砂崩れがない。川もないので洪水がない。だから幸せだというのです。
普段は、この3つがないことにコンプレックスを感じこそすれ、自慢できることではないのですが、大災害の直後では、こういう感想が出てきてしまうんですね。
でも、自然がどれだけ人間にとって大切なものか、今さら俺が言うほどのことでもなく、災害があるかもしれないけど、海や、山や、川がある土地は、やっぱりいいですよね。
石巻だったか、被災者のおじさんは、こんなことを言っていました。
「海に恨みはないよ。俺たちは海でしか生きていけないから、ここでまたがんばるよ」
さすがです。自然の美しさも怖さも丸ごと受け入れるこのおじさんのような人間が、本当の意味で「自然と共生している人」というんですね。
震災以来、茨城県で関連会社の復旧作業を手伝っていた友人と久しぶりで会うことになったので、どうせなら、今年の花見の様子を知りたかったので、上野に出ました。
上野恩賜公園は7~8分咲きといったところでしょうか、花見としてはいい時期でした。予想通りというか、意外というか、花見はちゃんと行われていました。もちろん例年よりは人出は少ないようです。そして看板が立っていました。
「恩賜公園での宴会につきましては自粛のご協力をお願いいたします」
ただこの看板は目に付いたのは2枚だけで、ほとんど目だたず、とりあえず置いたという感じがしました。まぁ、これならもしクレームが来ても公園側は、「自粛を促していた」という言い訳がたつし、賢いやり方かもしれません。
でも、こんな看板いらないのではないかなと思いました。実際騒いでいる人たちは皆無だったし、みんな状況はわかっているのです。何もこの美しい桜を愛でる習慣を例年通りやったからといって、被災者の人たちが怒るとも思えません。
片方では大惨事が現在進行形で続き、片方では淡い桜の下で酒を酌み交わす。一見平和な光景に見える花見ですが、話題は自然と地震や原発になります。まるでビール缶の触れる音が「献盃」にも聞こえます。けっして暗い感じでないのは桜の下だからでしょうか。
穏やかな顔をしている人たちを見るうち、なんだか日本人は、太古の昔からこうやって桜の下でドンちゃん騒ぎをするだけではなくて、死者の弔いを何度も重ねてきた民族でもあったような気がします。
誤解を恐れずに言えば、地震・津波も自然、桜も自然。同じ自然を受け入れてきたのが日本人です。自然は美しく優しいだけではありません。時には厳しく残酷です。いや、自然そのものは、優しくも、厳しくもありません。人間がそう感じるかどうかだけです。
みんなの顔には、あらためて自然を受け入れたような謙虚さが表れているようでした。(被災した人は納得できないとは思いますが) 俺の思い込みでしょうか? まぁ、それならそれでけっこうです。とにかく、うるさい音楽も宴会もない、今日は弔いのいい花見でした。
ところで、上野動物園では、パンダ焼きの店に行列ができていました。中年オヤジふたりしてパンダ見るという図は美しくないので、パンダを見るのは「自粛」しました。
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