東日本大震災の現場 (6) 石巻市動物救護センターでのボランティア
石巻市に入ったのは、4月21日のことだった。それから4日間、動物救護センター(正確に言うと、この敷地で活動しているJARFという団体)で手伝いをすることになった。
俺は基本的にボランティアは好きではなかった。結果的にその仕事がボランティアになったということはたくさんあるので、ボランティアをやったことがないわけではないが、今回のように自分から進んでボランティアをやろうとしたことは初めてだ。
今回は俺ばかりではなくて、初めてボランティアする人が多いという。ここの動物救護センターでも聞いた話だ。それだけ今回の震災の衝撃は大きかったということ、そしてボランティア活動というものが、かなり一般的になってきたということが理由ではないかと思う。
ところで、俺があまりボランティアが好きではない理由は、「やる側」の理由よりも、「やってもらう側」の気持ちを想像してしまうからだ。
それはどういうことかというと、被災して疲労困憊しているときに、ただで仕事をやってもらって「ありがとうございます」と言わなければならない面倒くささといったらいいか、煩わしさというか、そんなことを想像してしまうからだ。たとえば、ここでテレビカメラでも向けられていたら「ほんとうに助かりました。ボランティアの人たちには感謝しています」と言わざるを得ないだろう。それが俺には苦痛だ。
その点、これがまったくのビジネス(仕事、アルバイト)であったら、「ちょっとここも掃除してよ」と、無理難題も遠慮なく言えるような気がする。被災者にとっては、自宅を掃除してくれる人が、善意のボランティアであろうが、金を稼ぐアルバイトであろうが関係ない。むしろ、気を使わないアルバイトの方が、俺は気が楽だ。そういうことを思っているので、ついボランティアに及び腰になっていた。
あるボランティアは言った。「ありがとうと言ってもらえると嬉しいです」と。俺はこの発言に違和感があった。彼(彼女)は感謝されたいためにやるのだろうか? じゃぁ依頼者が「ありがとう」と言わなかったら、彼(彼女)は、どう思うだろう? それでも「嬉しい」と思えるのかどうか。
俺がボランティアを躊躇してきたのは、まさにこの発言なのだ。感謝されることを期待されるのは、精神的な負担だ。ボランティアは自分のためにやるのではないか。ボランティアへ行っても仕事がないと「せっかく来てやったのに」などと言う輩がいるらしい。「ボランティアに仕事がない」ということは、被災地にとっては「いいこと」かもしれないのに。
感謝を期待するくらいなら、仕事としてアルバイトでやればいいのではないだろうか。無償の活動が純粋で、金儲けする活動が不純といった単純なものではない。無償とは言っても、「やりがい」や「満足感」を得て、ボランjティア自身も得しているはずだ。両者にメリットがあるから「無償でもいい」というボランティア活動が成立するのではないだろうか。あくまでも「対等」。俺は「対等」じゃないと気持ちが悪い。
そこで今回、動物救護のボランティアをやろうとしたのはどうしてか。
あるHPでJARFという団体の動物救護活動を知り、これならやれるかもと思ったわけだ。その理由は、保護された犬は、人間と違い俺に対して気を使ったり、感謝したりしないからだ(保護されて嬉しいのかどうかもわからないし)。「やってあげる」「やってもらう」という上下関係のようなものがない。ある意味、対等でいられる。気が楽だ。だから、俺にとってボランティアに入りやすかったということなのだ。
これを機に、人間相手のボランティアもやれるような気がしている。
(続く・・・)
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コメント
あくまでも、これは個人的な考えです。
みんなそれぞれでいいと思います。
ただ「俺の場合」に限定して、正直に書いてみようかなと。
一般化してしゃべるほど、ボランティアに詳しくもないし、思い入れもありませんし。
投稿: あおやぎ | 2011/05/06 18:20
理屈っぽい青柳さんらしい解釈の仕方だなあと
思い、まあ確かにそれはあると思うのも僕らしいところ。
ケージに入れられたわんこの目をどう見るか。
ボランティアってもっと純粋かと思っていたら
少し深く突っ込むといろいろあるようです。
僕はボランティアやった事ないからそういう心の
動きにはとんと疎かったです。
投稿: Mr.SCHOP | 2011/05/06 17:44