2011/10/31
2011/10/30
山梨県 廃校(旧学舎)を利用した「みなもと体験館 道志・久保分校」
前から気になっていた山梨県道志村の廃校(旧学舎)を利用した施設です。
「みなもと体験館 道志・久保分校は、廃校になった小学校を利活用し『みなもとからの体験ができる施設』として、道志村を訪れる学校や各種団体、家族までが体験型施設として平成22年5月1日にオープンしました。」(HPより引用)
詳細はこちらのHPで。
みなもと体験館 道志・久保分校
「「学校」は地域の「文化施設」として子どもだけでなく、おとなたちも集う場でした。」ともあります。そうですね。
学校の行事が村の行事でした。学校は村の中心でした。校舎がなくなるのは、自分と村の歴史を失ってしまうような気がするのかもしれません。
卒業生たちが中心になって、校舎を何とか残そうという活動は全国で行われています。そんな人たちを応援したいと思います。
2011/10/29
山梨県 道志みちに沿って流れる清流 道志川
雑誌の取材ででかけました。雑誌にさしさわりがない範囲で、周辺写真をアップします。
相模原市橋本から山梨県山中湖に抜ける国道413号線は「道志みち」という。何度か通ったことがありますが、いい街道です。
この道に沿って流れている清流が道志川。
まだ紅葉には早いですが、朝方は寒くなり、日々秋の気配が濃厚になってきました。秋の光が美しい季節です。
2011/10/25
映画 『リターン・トゥ・パラダイス』のような「マレーシア高裁、日本人元看護師に死刑判決」というニュース
「楽しめない映画 『リターン・トゥ・パラダイス』を観て」(2011/08/23)
8月に映画を観て、マレーシアの恐怖を書いたのでしたが、現実に日本人女性が死刑の判決を受けてしまいました。
マレーシア高裁、日本人元看護師に死刑判決
(YOMIURI ONLINE http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20111025-OYT1T00687.htm)
「マレーシアの高等裁判所は25日、同国内に覚醒剤を持ち込んだとして危険薬物法違反の罪に問われた元看護師、竹内真理子被告(37)に死刑判決を言い渡した。」
記事だけでは、本当のことはわかりませんが、以前、人に頼まれた荷物に麻薬が入っていて、知らないうちに「運び屋」にされることがあるという話はよく聞いていたことです。彼女のケースはその典型でしょう。イラン人の知人から荷物を預かったらしい。
だから先輩旅行者から、人に荷物を頼まれても、絶対親切心で引き受けてはいけないとアドバイスされてきました。
今回は「イラン人の知人」。どの程度の「知人」なのかは不明。彼女を信用させるために、まず「知人」になったとも考えられます。(彼女の主張通りなら)
俺は、中国から帰国するとき、チェックインカウンターの前で、中国人に荷物を頼まれたことがあります。もちろん断りました。このときは麻薬とかいうのではなくて、重量オーバーだったので、追加料金を払いたくないので「親切な日本人」に頼んだのかもしれません。
俺が断ったら中国人はムッとしていましたね。「普通の日本人は、それくらいやってくれる」みたいなことを言われた気がします。(逆ギレされました)
俺は見かけほど親切ではないので、「まさか」とショックだったのでしょう。(日本人にも不親切な人間はいるんですよ。覚えててぇ)
彼女が主張するとおり、無罪なのかどうか。裁判では、「何度も入国しており」、密輸に関わっていたとして有罪だという判断らしい。でも、「何度も」などというのは、他の人だってありえることで、それが彼女が運び屋である根拠としては弱い気がします。何かもっと証拠があるのかもしれませんが。
知人のイラン人も証言していないようです。あたりまえか? 彼女を助けるために自分が不利になるようなことは証言しないでしょう。映画とは違います。
もし彼女の主張通りなら、なんとしてでも助けなければならないでしょう。これから日本でも彼女を救う運動が起こっていくんでしょうか。
2011/10/23
「田毎の月 & 田毎の星」 すべての田んぼに月が映るというイメージ (補足します)
先日「田毎の月」のイメージについて書きましたが、今日はその続き、ちょっと補足します。
「写真ギャラリー「田毎の月 & 田毎の星」 すべての田んぼに月が映るというイメージ」(2011/10/21)
このイメージが「日本的」と書いたことにもっと説明が必要かもしれません。
そこでまず、明治以降の近代科学的発想では、とうぜん「月はひとつしか映らない」というでしょう。「田毎の月」は想像の産物だと。
まったくその通りなのです。仮に近代科学的な世界がすべてであったならですが・・・。
日本人の発想で面白いと思うのは、田んぼすべてに月が映る、つまり田んぼそれぞれ、ひとつづつが、全世界であり、全宇宙であるという感覚です。
小さい田んぼが「全宇宙」とは大げさだ、と反論されるかもしれません。
でも、日本人にとって、大きさは関係ないのではないかと思います。小さな1枚の田んぼに生きている植物や小動物たち、そして水が循環し、2千回も稲を作り続けている。
極端に言えば、「すべてがそこにある」のです。それが日本人の世界観、自然観ではないかなと思うわけです。最近欧米でもてはやされている盆栽なんかもそうですね。大きな自然をわざわざ小さい自然に作り変えている。日本人にとっては同じなんですね。大きくても小さくても。
だから棚田を前にしたとき、「すべての田んぼに月が映る」のです。1枚ごとの田んぼがひとつの宇宙だということの表現ではないかなと思うのです。「田毎の月」は「想像の世界」ではなくて、少なくとも当時の日本人にとっては「現実の世界」だったのではないでしょうか。
もちろんこれは昔の話。今は、写真に撮って「ほら、ひとつでしょ?」と言うだけ。なんだか味気ない。科学的な世界観がすべてかなぁと疑問に思うようになったのは歳のせいでしょうか。
写真ギャラリー「田毎の月 & 田毎の星」(◆オリザ館(アジアの棚田)◆)
田毎の月 The moon reflecting in the individual rice fields (YouTube)
2011/10/22
「俺たちは不満がない!!」と叫びながらのデモなら正直だと思う
革命29周年の記念切手だったらしい。左上の人物は、もちろんリビアの独裁者カダフィ大佐です。
独裁者の末路は哀れなものでした。シルトで捕まえられたときまだ生きていたようですが、その後死亡しました。誰かが射殺したという情報もありますが、事実はまだわかりません。
カダフィ派の聖地になることを避けるために、遺体もわからないところに埋めるらしい。
まさかネットの力が、こういったことに繋がるとは、当のカダフィも想像していなかったでしょう。
今年2月、俺はブログにこう書いています。
「この個人個人の不満のエネルギーが、ネットというものによって束ねられて、同じ方向へのベクトルとなって走り始めたのではないか。そんな気がします。」
リビアの民衆蜂起、ネットで束ねられる民衆不満のエネルギー(2011/02/24)
北アフリカ、中東の民衆蜂起と、アメリカを発端にしたデモを同じように語ることはできないかもしれませんが、何か特定の信条や目的や目標がなくても、「不満である」という一点において連帯できるんだな、と思いました。
日本の「オキュパイ東京」デモもそうでした。いや、日本の「オキュパイ東京」デモは主張はばらばらで、切実度もまちまちでした。そういう意味で、少なくとも外国のデモと比べると「甘さ」はあったと思います。人数もそれほど集らなかったし。そもそも「仕事がない人」や「ネットが使えないほど貧乏な人」がどれほどいたのか?と疑問です。
たいした不満がなくて、お祭り気分で参加した人もいたようです。「世界でやるから日本でもやらなければ」とインタビューに答えた、妙に日本人的な迎合主義者もいました。 日本人はこの程度なんだなという感じですか。まぁ、不満がないというのが不満で、深刻なのかもしれません。
「俺たちは不満がない!!」と叫びながらデモするなら、正直でいいと思います。
「オキュパイ東京」より「反原発」のデモは、目的が絞り込まれている分、緊迫感、切実感がありました。
2011/10/21
写真ギャラリー「田毎の月 & 田毎の星」 すべての田んぼに月が映るというイメージ
「田毎の月」というのはいい言葉ですね。(「田毎の星」は勝手に名づけた言葉ですが、月以外の星が映った場合です)
日本人の自然に対する思いが凝縮されている言葉ではないでしょうか。
「田毎の月」は、すべての田んぼの水に月が映る光景で、松尾芭蕉など俳人たちは優れた句に詠んでいます。また歌川広重は『六十余州名所図会』の「信濃 更科田毎月鐘台山」(嘉永六年八月)や『本朝名所』の「信州更科田毎之月」などに、段々になった複数の田んぼに月を描いています。
しかしどんなに田んぼの数が多くても、実際には月はひとつしか映りません。それなのにすべての田んぼに月が映るように思ってしまうことを、「非科学的だ」と言い切ってしまうのもなんだか味気ない気がします。
その瞬間は確かに月はひとつですが、あたりを歩いてみましょう。すると、月は次々に田んぼを移動していきます。結果的にすべての田んぼに月が映ることになります。
それともうひとつ。時間が経てば月が次々に田んぼを移動していきます。
それが「田毎の月」の心象風景ではないでしょうか。すべての田んぼに月が映るという心象風景には自然を愛でる日本人の姿がだぶって見えてきます。田畑や山や川や空や月と身近に生活していた人々の姿も風景の中に含まれているようです。
現代人には、夜の田んぼを歩いたり、長時間月を眺めて過ごすなどということがなくなってしまいました。
時間も空間も区切りがちな現代人が忘れてしまった自然の愛で方がここにあります。月のドラマの全体(時間も空間も)を表現した「田毎の月」という言葉には、人間すら自然の一部になって生きていた日本人の、自然に対する愛着が感じられます。
「田毎の月を味わう」でいいのではないでしょうか。田んぼの水に月が映ったところに惹かれるなどというのは、ユニークで面白いと思います。しかも複数の田んぼだから棚田のことだろうし、農家の人たちの苦労を思えば、なおさら月も特別美しく見えたのだろうと思います。
写真ギャラリー「田毎の月 & 田毎の星」(◆オリザ館(アジアの棚田)◆)
田毎の月 The moon reflecting in the individual rice fields (YouTube)
2011/10/20
中国のニュース 「ひき逃げ2歳児、18人見て見ぬふり 人心荒廃嘆く」と言うが・・・
中国のこんなニュースがありました。
中国:ひき逃げ2歳児、18人見て見ぬふり 人心荒廃嘆く
(毎日.JP http://mainichi.jp/select/world/news/20111019ddm007030125000c.html)
この中で、
「「物質的に豊かになった半面で人心が失われた」「社会の道徳心は地に落ちた」との嘆きが中国全土に広がっている。」
とか、
「「発展とともに私たちの社会の中に(面倒なことに関わりたくないという)計算や欺く気持ちが広がっている」と社会道徳の崩壊を嘆く声が圧倒的多数を占めた。」
とありましたが、こういうことは1980年代からありました。今に始まったことではありません。中国では「トラブルに関わらない」が処世術です。むしろ最近はマシになったのではないかと思うくらいです。
俺が実際に経験したのは、事故車を横目に通り過ぎるバスです。これは何度も。80年代に旅行したことのある人は、みんな体験していると思います。事故は少なくなかったし、5、6時間のバスでは1回は事故を見るくらいに多かった。
そんなとき、バスを止めて、事故を起こした人を助けたことはありません。「どうして停まらないんだ?」と不思議だったですね。
ただ1度、こんなこともありました。
事故があったところでバスが止まったのです。(運転手が助けようとして止まったかどうかはわかりませんが) そのとき乗客が事故の男たちに何か言いました。すると、事故の男たちの何人かと言い争いになり、スコップを持った2、3人が車内に乗り込もうとしました。それであわてた運転手は急いでバスを出しました。
このとき、乗客の男が何を言って事故の男たちを怒らせてしまったのか、いまだによくわかりませんが、あのまま乗り込んできたら、きっと流血騒ぎになったと思います。それだけ激しかった。
このときは正直、「早くバスを出せ」と俺も思ったくらいです。
この事件は例外としても、トラブルに関わらないほうがいい、「話せばばわかる」ということが通じない荒々しい雰囲気は昔からあったし、それは「物質的に豊かになった」という理由とはあまり関係ないかもしれません。
これで大騒ぎしているけど、だったら、チベット問題、イスラム問題はどうなんだ?と中国人たちに聞きたい。もっと大きなトラブルには目をつぶり、目先のトラブルでごまかす、ということも昔から何も変っていないんじゃないでしょうか。
もっとも日本でも、電車でトラブルに遭っている人に気が付かないふりをするということはよくあることで、中国人ばかりを非難できません。程度の差こそあれ、トラブルに巻き込まれたくないというのは、誰にでもあるものではないでしょうか。
「人のふり見て我がふり直せ」
2011/10/19
2011年、秋の旅 (22) 群馬県 渋川市 子持のこんにゃく畑
白沢高原温泉から渋川市に南下したとき、畑が目に付きました。しかも、どれも同じ作物のようでした。何だろう?と思っていたら、ちょうど道の駅があったので、確かめてみることにしました。
「道の駅こもち」の店員に聞いたら、「すごいでしょう? 全部こんにゃく畑です」とのこと。
「そろそろこんにゃく芋の収穫時期なんです」
こんにゃく芋は何度も見たことがありますが、畑をじっくり見たのは初めてです。
こんにゃくの主産地は群馬県で、全国の89.5パーセントを占めるそうです。このあたり、こんにゃくの一大産地だったようです。今まで気がつきませんでした。
日本以外でこんにゃくを食べるのは、中国、ミャンマー、韓国だそうですが、雲南省、貴州省の市場ではよく見ました。
屋台で、焼いたこんにゃくというものを食べたことがあります。「こんにゃくステーキ」みたいなものですね。
個人的には、真っ黒いくらいに醤油で煮込まれた山形の「玉こんにゃく」が好きです。
2011/10/18
2011年、秋の旅 (21) 群馬県 白沢高原温泉「望郷の湯」
新潟県から国道17号線、三国峠を越えて群馬県に入りました。
その夜泊まったのは、沼田市の東にある道の駅白沢。赤城山のふもとです。
ここには温泉があります。白沢高原温泉「望郷の湯」 です。
中国人観光客が2台のバスに分乗してやってきていました。ここから日光も近いので観光ルートになっているんでしょうか。
いま、中国人には日本の温泉は人気らしい。中国の都会近辺の事情は知りませんが、田舎の温泉では、基本、大きな湯船ではなくて、個室のバスタブです。
昔、雲南省大理市の温泉には、珍しく大風呂がありましたが、湯船の中で体を洗ったりするので、きれいとはいえませんでした。だからもう一度、個室のバスタブに入り直した記憶があります。
そう考えると、日本の温泉は清潔で広々としていて、ただ「湯につかる」ということだけではない、リラクゼーションの場として、中国人にとっては新しい観光スポットと言えそうです。
全国どこへ行っても温泉が楽しめる国も珍しいのではないでしょうか。観光資源としてもっとアピールしてもいいと思います。きっと外国人も「秘湯」は気に入りますよ。
2011/10/15
2011/10/14
2011/10/13
2011年、秋の旅 (18) 新潟県 寺泊のアメ横市場
日本海に面した寺泊は北陸街道の宿場町。何度も訪ねている港町ですが、この日はあいにくの雨でした。
古くから漁業が盛んで、港に隣接して海産物豊富なアメ横市場があります。
魚や貝の焼きものを買って食べながら歩くのもいいし、レストランでゆっくり食事をするのも楽しい市場です。
今回は刺身定食を食べました。
2011/10/12
2011年、秋の旅 (17) 新潟県 北国街道の宿場町 出雲崎
徳川幕府の直轄地(天領)だった出雲崎は、佐渡金銀の荷揚げや北前船の寄港地として栄えた北国街道の宿場町です。
ここには「妻入り」の街並みが残っています。「妻」とは、家屋の長手方向の端の面のこと。建物の玄関が妻側にある様式を「妻入り」といいます。海岸線に沿った約4kmの街並みは日本一の長さを誇ります。
間口が狭く、奥行きが長いというのが妻入りの特徴ですが、江戸時代の出雲崎は、越後で一番人口密度が高かったそうで、多くの人が居住できるように考えられた形だともいわれています。
また出雲崎は石油産業発祥地でもあります。『日本書紀』には「燃ゆる水」と「燃ゆる土」が献上されたと記されていて、古代から石油を産するところでした。日本では機械方式の石油掘削を最初に成功させたところです。
2011/10/11
2011年、秋の旅 (16) 新潟県 柏崎刈羽原子力発電所
原発のそばにあるサービスホールを訪ねました。実際自分の目で確かめたいことがあったからです。
5Fは展望室になっていましたが、雨だったこともあり、この日は建屋もよく見えませんでした。翌日、海岸の方から撮影したのが一番上の写真です。
5Fには津波対策についてのボードが掲げられていました。
柏崎刈羽原子力発電所(Wikiより)
「2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)で高さ14~15mの津波をかぶり浸水、原子炉冷却機能が失われた福島第一原子力発電所事故の発生を受け、東京電力は本原発において海抜高さ15mの防潮堤を2013年6月までに設置すると発表。1~4号機の防潮堤延長は800m以上、5~7号機は500m以上となる。併せて2012年9月までに原子炉冷却機能を失った場合の注水の溢れを貯める貯水池も設ける。」
とのことです。津波、というより地震そのものが問題なのではないかと思っているので、このボードが「一応やってます」といったPRにしか見えません。
原子炉の模型の中を通って下りてくると、1Fには、ここを訪れた芸能人のサインが控えめに飾ってありました。
また喫茶室「はまなす」では、カレー300円、おにぎり100円、クリームあんみつ200円など、メニューはすべて安いです。この値段の差も電気料金に反映されているのだろうか?などと考えてしまうと、あんみつの味も複雑に感じるのでした。
2011/10/10
2011年、秋の旅 (15) 新潟県 木地屋民俗資料館
長野との県境、新潟県糸魚川市の山の中に、かつて木地屋の住む里がありました。
今、村には1軒、そば屋兼売店「栃の木」がありますが、ここの女将さんのお父さんの代まで木地屋をやっていたといいます。最後の木地屋が作ったという大きな鉢が店内中央に飾ってありました。
昔は良材を求めて、地方の山々を渡り歩いていたといいます。そして彼女たちの先祖がここに定住しました。
店の隣には、女将さんが実際に住んでいたかつての住居が移築され、「木地屋民俗資料館」として公開され、木地屋独特の道具類、古文書類の資料が展示されています。(入館料は300円)
ところで「木地屋」とは、白木のままの椀や盆などの器物を作る職人のこと。漆を塗る「漆師屋」とは分業していました。
「しかしここの木地屋は明治時代に漆塗りの技術を導入し、原木の伐採から金蒔絵をほどこした漆器椀までをわずか9戸で分業して行うという全国的にも珍しい生産体制をとっていました。こうして作られた漆器類は「椀講」という独特の販売システムで信州安曇野から糸魚川西頚城郡内一円に販売されていましたが、昭和十年代前半伝統の技に終止符を打ちました」と資料館の説明書きにあります。
木地屋は廃れてしまいましたが、こういった生業が成立できていた昔の山の豊かに思いをはせます。
2011/10/09
2011年、秋の旅 (14) 長野県 姫川温泉
2011/10/07
2011年、秋の旅 (12) 長野県 栃倉集落
長野県中条村(長野市に編入)は標高1378mの虫倉山のふもとにあります。この村が好きで何度も訪ねています。
虫倉山は山姥伝説で知られます。山姥といっても怖い存在ではなくて、子供を危険から守り、村人を災いから救い、「おおば様」と呼ばれて昔から慕われているやさしい山姥だそうです。
村のほとんどが傾斜地で、「日本の棚田百選」に選ばれた栃倉、大西、田沢沖など、棚田も多く点在します。
↑の写真はその中の栃倉集落です。
2011/10/06
2011/10/05
2011/10/04
2011年、秋の旅 (09) 長野県 おばすての棚田
2011/10/03
2011年、秋の旅 (08) 長野県 「いろりの里 大平宿」
2011/10/02
2011年、秋の旅 (07) 長野県 妻籠宿
長野県、妻籠宿は、国の重要伝統的建造物群保存地区のひとつ、旧中山道42番目の宿場です。
当時の宿場は、防塞施設としての機能も持っていて、敵の侵入を阻むために「枡形」という直角に折り曲げた道を設けていたそうです。(中の写真) のんびりしたように見えますが、当時はそれなりに危機管理も考えられていたんですね。
茶屋で「五平餅」250円を買って食べました。つぶしたご飯の串焼きに味噌が塗ってあります。「五平餅」は中部地方南部の山間部に伝わる料理ですが、地方によって形が違ったりします。以前どこかで食べた「五平餅」はわらじの形でした。
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