宮崎駿監督の映画『借りぐらしのアリエッティ』を観て
『借りぐらしのアリエッティ』を観ました。【ネタバレ注意】
小人族の少女アリエッティは、人間に見られてはいけないという掟の下、ある古い屋敷の床下で、人間の生活品を借りながら、両親と慎ましく暮らしていました。心臓病を患う少年翔が、そこに引っ越してきます。そしてアリエッティは翔に見つかってしまいます。(Wiki参照)
小人族は、「精霊」とか「絶滅危惧種」とか「少数民族」と言い換えてもいい存在です。アイヌの「コロボックル伝説」を思わせます。(そんなふうに俺は感じました)。
自然、動物、植物、人間が境目がないひとつの世界に生きている感覚は、宮崎映画他の作品にも感じるものです。
少年はいわゆる「いい人」です。なので、アリエッティを見つけても、優しく接し、他の大人に教えたりしません。むしろ存在を隠し、大人たちからかばおうとします。角砂糖をあげようとしたり、ドールハウスのキッチンをあげたりします。
しかし、その親切心が、意外にもアリエッティたち小人族の存在を危うくしてしまう原因にもなっているのでした。
一番いいのは、極端に言えば、放っておくこと。気がつかない、もし気がついても気がつかないふりをすること、ただ「暖かく見守る」。でもないな、「暖かく思う」ことかな。へんな同情心は起こさないことではないかなと。
翔は人間は60何億人いるけど、小人族は何人いるの?とアリエッティに聞くシーンがあります。翔は、小人族は滅びる運命なんだといったことを言います。それを聞いたアリエッティは反発します。彼女はなんとしてでも生き延びると言います。
滅びるものだから手を差し伸べなければならないと考えるのは、滅ばない(と思い込んでいる)側からの、ある意味「上から目線」的な考えであることを気がつかされます。
いいことだと思って入れ替えたドールキッチンも、小人族にとっては地震と間違えるほどの建物が破壊されるような暴力的な出来事に映るわけです。力を持っている側は、力をもっていない側の立場で考えないと間違います。それがいかに「人道的」に見えようともです。
結局アリエッティたちの家族は、移住しなければならなくなりました。
翔との別れは切ないものでしたが、翔はあさってに控えた手術にもがんばろうと思います。生きたいと思います。なぜならアリエッティたちに出会って「生き延びる」ことへの強い決意が、翔の中にも芽生えたからでした。
ところで、アリエッティのお母さんを捕まえたお手伝いのおばさんハルは、声を、樹木希林がやっていたのですが、その存在感には圧倒されました。いい登場人物でした。
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コメント
ひまわりさん
「気がつかないふり」をするのは意外と難しいものです。気がついているのに、知らんぷりするのは、罪悪感を感じるからでしょうか。とくに日本人的な感覚ではそうかもしれません。困っている人を目の前にして助けないのは、「冷たい人」と思われてしまうのではないか、という他人の目もあります。
でも、そこで一歩踏みとどまって、「関心を持ちながら暖かく思う」ことがいい場合もあります。かなり勇気と決意がいりますが。だいたいは、自分の道徳心と他人の目のプレッシャーに負けてしまうので。
俺もその場になったら、同じように要らないおせっかいをしてしまうかもしれません。そして「俺は人助けをしたんだ」と自己満足するのです。
自己満足なら自己満足でもいいでしょう。むしろ自己満足であることを自覚しているならいいかなと思いますが。
ただ、こういった緊急の場合は、助けてしまうでしょうね。たとえば、目の前におぼれた人がいるような場合です。考える前に体が動いてしまう人助けです。
投稿: あおやぎ | 2011/12/19 10:13
私もこの映画観ました。
自分は子供の頃から『妖精』や『小人』の類は存在すると信じていまして、こういう世界もありなのだという思いで観てました。青柳さんの考え、なるほど・・・です。弱者(この言い方もどうかと思いますが)と言われる人たちへの接し方、難しいです。親切の押し売りにならないよう、「見守る」というよりもやはり「暖かく思う」ことが大切なのだと日々実感しています。押し付けがましくない思いやりが大切なのだと・・・。
ハルさんの存在が樹木希林さんと重なり、顔を知らない声優さんのほうがよかったかもです。^^
投稿: ひまわり | 2011/12/19 09:34