「ライフログ」という生き方には、ふたつのパターンがあるように思う
昨日NHKのクローズアップ現代で、「ライフログ」をつける人が増えているという話題をやっていました。
「ライフログ」とは何か?
日々の生活の記録を事細かにつけること、であるらしい。
番組はテーマが絞り込まれていなくてボワ~~ンとしたかんじでしたね。ゲストの糸井重里さんも、あんまり興味はないようで、考察は深まりませんでした。
いや、テーマが絞られていないというより、「ライフログ」というキーワードで語るには、「ライフログ」の目的も方法も多種多様すぎる、ということかもしれません。広い意味では、ブログやツイッターなんかも含まれるでしょうか。
俺が感じたのは、ライフログをつける人たちは、大きく分けて2つある、ということです。
ひとつは、何でも記録していって「人生の効率化」を図ろうとしている人たち。
もうひとつは、つけることで、「感覚を研ぎ澄ます」という人たち。こっちは、「自己表現」といってもいいタイプかな。
前者は、とにかく何でもかんでも記録するんですね。食べたレストラン、食事などはもちろんです。そして過去のログを調べて、そのとき食べる食事を決めるとか、歯ブラシを交換した日を記録しておいて、次回歯ブラシの交換日をスケジュールのソフトで教えてもらうとか。
そうして効率化を図るというのですが、要するに、本人たちはそれが効率がいいと思い込んでいるだけで、俺からしたら、何でも記録するわずらわしい時間が増えてしまって、逆に不効率だと思うし。いや、それを「わずらわしい」と感じる人はそもそもライフログなんかつけないわけですが。
今はすべてのことを自分で決められる「自由な時代」です。と、同時に、自分ですべて決めなくてはいけない「辛い時代」なのかもしれません。誰かに決めてもらいときは、俺にもたしかにあります。人の決定に従っているときの快適さったらないですね。
これは昨今話題になったオセロ中島さんのように、「占い師」や「霊能者」からの指図を求めるのと同じに見えます。この場合、指図するのが「占い師」や「霊能者」ではなくて、「自分の過去のログ」というのが違うだけで。
管理されたいんでしょうかね。誰もしてくれないから、自分自身で管理する・・・。ある程度管理されたほうがかえって自由を感じるということです。
もうひとつのタイプは、記録をつけることを意識していると、感覚が研ぎ澄まされていき、自分の心と向き合えるという人たち。
たとえば俺も「ライフログ」とまでは言えませんが、ブログを書いています。あることを体験して、それを書く。それはあたりまえですね。実は、ブログを書いている人は体験しているでしょうが、ブログを書くために体験を求めているんじゃないか、という感覚がたまに起きるのです。体験して、書く、じゃなくて、書くために体験する、という逆転現象。
つまり「書かなきゃならない」と常に意識していると、物事に敏感になるのです。それと仕事柄、文章を毎日書くことは文章の練習にもなって、「書くこと」が苦痛ではなくなるというメリットもあります。
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