絶滅危機の言語の話の続き 宮古島の言葉で「もずく」は「すぬず」、「うみぶどう」は「んきゃふ」
昨日はGoogleのプロジェクトについて触れましたが、宮古島のページに、島の言葉を使って歌を歌っている下地勇さんというミュージシャンの動画があります。なるほどなと考えさせられる話がありました。
Isamu Shimoji on the Miyako language
http://www.endangeredlanguages.com/lang/4730/samples/4434
宮古の言葉(ミャークフツ)じゃないと表現できない世界観がある。だから宮古の言葉でやっているだけであって、宮古の言葉を後世に残そう、残さなければならないとはあまり思っていないと。その世界観に興味を持ってくれる人が増えれば結果的に島の言葉が残っていくだろうと。
そういえば、俺にもあります。どうしても方言でないと伝えられないニュアンスです。
たとえば、山形弁に「やばつえ」というのがあります。
水しぶきが当たったときなど使うことばですが、標準語に訳すと「冷たい」になるんでしょうか。 (県民の皆さん、もっといい訳語があるでしょうか?)
でも、「冷たい」というふうにいったん標準語で言い換えてしまうと、「やばつえ」のニャンスの大部分が抜け落ちていることに気がつきます。
まず「やばつえ」には、水しぶきを俺にかけた相手に対する「ちょっとした非難」のニャンスを含んでいるのです。
「やばつえな」、「やばつえがら、やめでくれ」
といって相手に文句を言います。たんなる「冷たい」なら「つったえ(冷ったえ)」でいいわけです。なら、何が違うのかというと、「やばつえ」には、他者との関係性を含んでいるということではないでしょうか。
自分ひとりで水しぶきを浴びたとき「やばつえ」とはあまり言わない気がするからです。ここは「つったえ」で十分でしょう。
「やばつえ」は単なる一例ですが、これひとつとってみても、方言は、ただ単に単語が違うというだけではなく、その背景にある世界観が興味深いのです。
逆に言うと、言葉がひとつ消えるということは、それに伴った大きな世界も消えてしまうということで、意外と深刻な問題なのかもしれません。
それと下地さんの話を聞いて思ったのですが、最近は郷土料理、ローカルフードが見直されていますが、料理と同じように、言葉も地元の財産だということです。
宮古島の言葉では「もずく」は「すぬず」、「うみぶどう」は「んきゃふ」というらしい。その島の言葉で表記したほうが、外の人たちに興味を持たれるのではないかと言っています。その通りだと思います。
方言を使った地域興しということもありえますね。
| 固定リンク
コメント