人間が犬から学んだことと、オリンピック団体競技メダルラッシュとの関係
それは個人個人の能力以上の能力が発揮されることでもありますが、今回のオリンピックの日本人選手の団体競技のメダルラッシュを見ると、それが実感としてわかります。
選手たちのインタビューを聞いても「康介さんを手ぶらで帰すわけにはいかないと思った」とか、「周りで支えてくれたみんなのために」とか、人のために闘った結果がこんなメダルラッシュに結びついたわけです。
日本人は「集団行動が得意だ」ということは、昔から、自他ともにみとめる特性でした。それがこんなに目に見える形で再び現れたのは、311の震災があったからというのはこじつけかもしれませんが、日本人の潜在意識の中に、他人とのつながりの重要性が再認識されるようになったためではないか、とも思えます。「絆」というキーワードがやたら最近目にするようになったのも、その証拠でしょう。
戦後アメリカ型のものの考えかたとして、個性を伸ばそうとか、個人の意見をはっきり言おうとか、どちらかというと、「集団」よりも「個人」を尊重する文化の中にずっと俺たちは置かれてきたわけです。
うがった見方をすれば、アメリカにとっては、日本人がふたたび「集団」としての強さ(無謀さ・危険さ・バカさ)を発揮できないように、という思惑があったのかはわかりませんが、現実問題として、戦後の日本人は「個人」を重要視してきて、その反面「集団」をあまりいいとは思わない、少なくとも俺個人はやたらと「個性を大切に」と教育されてきたというふうに感じています。
そのことはいいこともありましたが、最近はあまりにも「個人」重視の社会、「俺さえ良ければ」という社会になってしまいました。でもやっぱり何かが違うと気がついてきた。どっちがいいか悪いかではなくて、両方のバランスなんでしょうが。
そこで犬の話です。
これは前にも書いたことですが、オーストラリア先住民アボリジニーには、「犬のおかげで人間になれる」という言葉があるそうです。
ある説では、人間がオオカミと接するようになって、オオカミのように行動して考えるようになりました。集団で狩をすること、複雑な社会構造、誠実な友情、縄張り意識などを、それまで持っていなかった人間はオオカミや犬から学んできたというものです。
集団で狩をすると個人では倒せなかった獣を倒すことができました。集団行動を取り入れたことが肉体的に弱かったホモ・サピエンスでも発展をとげることができた理由のひとつらしいのです。(絶滅したネアンデルタール人は、犬を飼っていなかったと考えられています)
つまり日本人の「和」を尊び、「他人のために」何かをやるということの原点には、大げさに言えばホモ・サピエンスが生き残ってきた「極意」があるわけです。
そう考えると、今、世界中にいろんな問題が起こっていますが、もしかしたら、解決策がこのあたりにあるのではないか、という希望のようなものを感じます。
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