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2013/07/29

ビーグル犬、ヴィーノの新作オリジナル・ソング 『僕はイヌ、君はヒト』

久しぶりに、新作オリジナル曲ができました。

今回の犬歌は、『ダンボール犬ヴィーノの面白うた』、『いっしょに笑いたいよ』に引き続いて、犬歌シリーズ 第3弾になります。

タイトルは、『僕はイヌ、君はヒト』

歌: ヴィーノ
作詞: なおこ
作曲/PV制作: けんじ

簡単な曲なので、みなさんも歌って踊ってください。ヴィーノのダンスはPVの後半に出てきます。AKBegle 48のバックダンス付です。犬なので、あまり複雑なダンスはできないので、両手を左右に振る簡単なダンスですが。

カラオケ(mp3ファイルで音質は落としています)を用意しました。ダウンロードして使えます。日本人以外の方は、ご自分の母国語に翻訳して歌ってもらえたら嬉しいです。

Ya_2「僕はイヌ、君はヒト』のカラオケ
 
 
歌詞は次のとおりです。
 
1番

僕らは同じひとつの星 そう、生きるもの同士
僕はイヌ、君はヒト それぞれ違いはあるけれど
共に支えあい生きる 素敵な仲間さ
僕はイヌ、君はヒト それぞれ違いはあるけれど

でもヒトにはできて 僕にはできないことがある
あの箸をつかみたい でも肉球が邪魔をする
あのタコが食べたい でも僕には食べられないよ
ハッピーと言いたい でも僕は話すことできない

We’re born to be happy 僕には君が分かる
そうborn to be happy 君も僕が分かる
We’re born to be happy 僕には君が分かる
そうborn to be happy 君も僕が分かる


2番

僕らは同じひとつの星 そう、生きるもの同士
僕はイヌ、君はヒト それぞれ違いはあるけれど
共に支えあい生きる 素敵な仲間さ
僕はイヌ、君はヒト それぞれ違いはあるけれど

でも僕にはできて ヒトにはできないことがある
あの風を嗅いで でも忙しさが邪魔をする
あの森を駆けて でも君には履くものがある
ハッピーと言って でも君は時に憂鬱さ

We’re born to be happy その手を伸ばしてみて
ねえborn to be happy 僕が見えるでしょう
We’re born to be happy その手を伸ばしてみて
ねえborn to be happy 僕が見えるでしょう

Ya_2『いっしょに笑いたいよ』

Ya_2『ダンボール犬ヴィーノの面白うた』
 
 
 
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2013/07/26

モンゴルの大草原で聴いたБолд(ボルド)の歌

130726

夏になると、モンゴルの大草原が夢に出てきます。

血が騒ぐというか、ああいう遊牧生活に憧れる自分に気がつく瞬間です。もちろん今は、完全な遊牧民族はなかなか存在しにくくなっていると聞きますが、夏は、草原でゲル(天幕住居)を張って家畜の放牧をして暮らしています。

数年前、雑誌の取材でモンゴル国へいったときのことです。日本のような舗装道路がない草原を走ることも多く、どうやって目的地まで車を走らせているんだろう?と疑問に思ったので、聞いたのです。

そしたらドライバーは、

「周りの山の形で、方向を覚えている」

と言ったのです。

まるで、馬に乗ってる遊牧民だなと思いました。実際、彼のハンドルを持つ手は、馬の手綱をさばいているようだったので、モンゴル人にとって、乗るものは馬から車に変わっても、乗り方は同じなんだろうなぁなと感心しました。さすが遊牧民の末裔です。

車のドライバーが流すCDの音楽に、すごくひきつけられた歌がありました。高音の歌声が美しく、広々とした草原に合っていたからでした。

歌手の名前を聞いたら「BOLD(ボルド)」といいました。モンゴルでは「今週のCD売り上げベストテン」に入るくらいの人気歌手だそうです。もともと4人のグループを抜けて(解散して?)、ソロになったら売れ出したとのこと。

こういう歌です。

Болд-Хээрийн салхитай аялгуу /Melody with wild wind/
YouTube http://www.youtube.com/watch?v=Q61d4B7GCqM )

Болд - Дөрвөн улирал /Bold - Four season/
YouTube http://www.youtube.com/watch?v=ci-HLRwzAZo

BOLDを聴いて、モンゴルの草原にいった妄想にふけりたいと思います。
 
 
 
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2013/07/25

2013年8月2日「棚田学会大会シンポジウム」  今年のテーマは「棚田と観光」

130725(中国雲南省元陽 多依樹の棚田)

今年の棚田学会大会シンポジウムのテーマは、「棚田と観光」です。

2013年8月2日(金)
三越劇場(東京日本橋本店6階)

パンフレットpdf (棚田学会HP)

今年、中国雲南省「紅河哈尼棚田群の文化的景観」が世界遺産に登録されたニュースは、富士山の世界遺産登録に沸く日本国内では、あまり目立たないものになってしまいました。

雲南の棚田を見続けてきた棚田関係者にとっては、これはけっこう大きなニュースです。

世界遺産の登録名にはひっかかるものを感じますが(それについては先日の記事参照)、その問題はおいておくことにして、棚田と観光ということで言えば、雲南省元陽と広西チワン族自治区の龍勝は成功している例でしょう。

中国の場合、ほとんどは観光発展の目的で世界遺産の登録を目指しているらしいので、これは当然の結果といえるかもしれません。

ただこれからは現地の若い人たちはますます都会に出たがるだろうし、棚田がちゃんと維持されるのかどうかわからない部分があります。

フィリピンのバナウエ棚田もそうだし、ベトナムのサパも棚田を観光に生かしているところですが、サパのモン族は、観光土産を作るのが忙しくなって田んぼをやっている時間がなくなってきたよ、などと、本末転倒なことも言っていました。

とにかく、今まではある意味「負の遺産」とも考えられてきた棚田が、逆に現代になって価値を認められ、年間何万人もの観光客を集めるものとなったことに、とりあえずは嬉しく思います。

それだけの集客力のあるものに対しては、対価を払うのが常識です。その点、中国、ベトナムで、観光客から「入村料」を取るのは当然だとも思います。

でも、日本はどうでしょうか? どうも、棚田などの田園風景は、「自然にできた」と思い込んでいるようで(農家の人たちの日々の努力があってこそなんですが)、「料金を取る」ことに違和感を持つ人が大半です。せいぜい「棚田米」や現地の農産物を買うことで、かろうじて普通の観光客は経済的な支援をしているかっこうです。

まぁ、日本人の心情からすれば、観光客の方も、農家の方も、そのほうが気持ちが楽なのかもしれませんが、「棚田は観光地」と認める棚田なら、積極的に入場料を取ってもいいと思います。

たとえば、福島県の「滝桜」でもちゃんと「観桜料」を取っています。棚田の保全も、ただではできないことを、アピールしていってもバチは当たらないでしょう。そのあたり、棚田学会大会でも議論されることを期待します。
 
 
 
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2013/07/23

今日から二十四節気の「大暑」  暑中お見舞い申し上げます。

130723_1

130723_2

暑中お見舞い申し上げます。

涼しくなるように、こんな写真をアップしました。

北海道の旭川市にある旭山動物園の「空飛ぶペンギン」です。それと水槽の中を元気に泳ぐペンギン。ペンギンたちは気持ちよさそうです。

今日(今年旧暦で六月十六日、満月)から、二十四節気の「大暑」です。

字面を見るからに暑い季節。とは言っても、今年も異常気象で、暑さのピークが終わってしまったような錯覚を覚えるほど、7月中旬の暑さはすごかったですね。

まだ暑い日は続きます。みなさん熱中症には気をつけて「大暑」を乗り切ってください。
 
 
 
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2013/07/18

静岡県で生まれた幻の品種「メイポメロ」

130718

去年の夏、伊東市に撮影に行ったときのこと。

みかん畑を探したのですが、その日、ちょうど畑で仕事をしていたのが農家のMさん。

撮影OKしてもらったので、仕事の様子を写真に撮らせていただき、帰宅後、記念写真を送ったのでした。

あれからほぼ1年。今回突然みかんが宅配便で届きました。最初、誰かなぁと思いましたが、Mさんからでした。

メイポメロと日向夏でした。

メイポメロは静岡県で生まれた品種。メイは5月、ポメロは文旦という意味からつけられた品種名です。名が示すように5月から6月ころが食べごろなので、7月では遅いくらい。おいしくできたので送ってくれたそうです。

品種登録されて25年もたっていますが、、まとまった産地はないそうで、静岡県内で流通しているだけです。(ネットでも買えるそうですが) 幻のかんきつ類と言えそうです。

大き目のグレープフルーツという感じでしょうか。甘酸っぱくて、冷やして食べると最高です。
 
 
 
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2013/07/15

戦後、分割統治か?という日本の危機を助けてくれた国がスリランカ

130714_1(キャンディアン・ダンス)

130714_2(ピンナワラ 象の孤児園)

130714_3(世界遺産の町ゴールの砦)

130714_4(天空の城 世界遺産シギリヤ)

130714_6(スリランカ料理 カリー&ライス)

土曜日の「日立 世界ふしぎ発見!」ではスリランカ特集でした。

シンハラ人とタミル人の間の約26年続いた内戦­が終結して数年。スリランカに観光客を呼び込もうとしているようです。その意気込みを感じたのは、番組内では大統領もインタビューに応じ、スタジオには在日スリランカ大使まで出演するという破格の内容でした。しかも番組時間も拡大でした。

俺は「棚田を探す」という特殊な目的があってスリランカへ行きましたが、行ってみたら、とてもいいところでした。とくに、人間が落ち着いて、静かで、あまりいやな目にも遭わず、旅がしやすかったのです。インドを想像して行くと肩透かしをくらうほどです。

戦後、あわや分割統治か?という日本の危機を助けてくれた国がスリランカ(当時はセイロン)でした。1951年サンフランシスコ平和会議でのJRジャヤワルデネ代表(のちに大統領)の演説では仏教の「「憎しみは憎しみによっては止まず、ただ愛によってのみ止む」」という言葉を引用し、戦後賠償を自発的に放棄し、日本が独立国であったほうがいいという演説を行ったそうです。サンフランシスコ講和条約締結後に一番早く日本と外交関係を結んだのもスリランカでした。

恥ずかしながら、俺も去年スリランカへ行くまでは知りませんでした。

スリランカの人たちはこれをみんな知っています。でも、残念なことに日本人のほとんどは知りません。スリランカ人はいみじくも「今は片思いですが・・・」と言いましたが、その通りです。日本が戦後、繁栄を謳歌したのは、すべて自分の力だったように錯覚してしまっているのかもしれません。助けられたことを忘れてしまっている。この件だけではなくて、他にもたくさんあるのでしょう。

日本人が観光することで、内戦で疲弊したスリランカの復興を、今度は助けることにもなるのではないでしょうか。

食べ物もカレーばかりではないし、宿泊施設もリゾートから安宿まで揃っています。風景は美しいし、文化はバリエーションがあり、野生動物もいます。まだ観光地になっていないところがたくさんあります。ぜひ行ってみてください。お勧めです。

以前アップしたものがあります。参考までに。

Ya_2マレーシア・スリランカの撮影旅 2012年

Ya_2Light of Sri Lanka スリランカの光 (YouTube)

Ya_2Trains in Sri Lanka. Kandy to Erra  スリランカの鉄道 (YouTube)
 
 
 
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2013/07/13

富田和明太鼓芸能生活36周年記念公演 『鼓(つつみ)かくさず叩きます2013』

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130713_3

昨日は、富田和明太鼓芸能生活36周年記念『鼓(つつみ)かくさず叩きます2013』の公演でした。

イギリスへ行って和太鼓を教えてきた話、イミグレでのトラブルの話。相変わらず太鼓が始まるまでの話は長いですが、話がうまいので、退屈しません。

今回は一人舞台(1曲だけ息子さんと競演)でした。最後の方で、「三尺二寸長胴太鼓」を打ちました。口径は三尺二寸(約96センチ)あって、重さは162キロもあります。なんという響き。魂が震えるような力強さがありました。

公演が終わってから、搬出の様子を見物しました。

エレベーターには入らないので、階段を転がしながら運ぶという、今まで見たこともない運搬方法にはびっくりしてしまいました。

ところで、これは今回の公演には関係ないのですが・・・。

お客さんには披露しなかった話ですが、メンタリストのダレン・ブラウンのショーをロンドンで見た話を楽屋で聞いたのです。

さすがに謎だらけ。富田さんは目の前で見てきたので、ショーなんだろうけれど、まったく奇跡としか思えないショーだった。信じられない、と言いいました。

「ダレンブラウンが仕掛ける史上最大のドッキリ」というのもありました。ひとりを騙すために大勢の仕掛け人を準備して、ありえない状況を信じ込ませるものでした。俺はこれをテレビで見ました。

だから俺は富田さんに言ったんです。富田さん以外、全員サクラかも、と。でも、観客が2000人もいたそうなので、それはありえないというのです。

じゃぁ、富田さんが催眠術にかかったんじゃないか、それがまだ解けてないんじゃないか、と。

それで俺は、富田さんの催眠術を解いてあげようと、パチッと指を鳴らしました。
 
 
 
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2013/07/12

犬連れで茶臼岳に登る

130712

先週の日曜日、久しぶりに犬連れで登山しました。妻の妹夫婦は登山に慣れた人たちなのですべてお任せです。

この秋、ネパールへ行くつもりなので、その予行演習にもなりました。

那須高原のペット可の宿で一泊し、翌日、茶臼岳の山麓駅から山頂駅までロープウェイで。ヴィーノは売店で借りたキャリーバッグの中に入ってロープウェイに乗りこみます。

先々月に行った箱根のロープウェイのときには、見かねた外国人旅行者が手伝ってくれたほど、キャリーバッグに入れるまで悪戦苦闘しましたが、ここのキャリーバッグは大きかったので、ヴィーノはそれほど抵抗もせず、すんなりと入ってくれました。

那須ロープウェイ

山頂駅からは、那須岳の中で今も火山活動が続いている茶臼岳(最高地点1915m)へ。朝は小雨でしたが、登山を始めてからは、雨はなく、曇りだったので、暑くもなく登山日よりでした。

茶臼岳から峰の茶屋跡を経由して、駐車場まで戻りました。ヴィーノは急坂も、ガレ場も平気で上り下りしました。一番元気だったのはヴィーノだったかもしれません。

狭いところで登山者とすれ違うときは特に気をつけて、通り過ぎるまで待たせてから登るようにしました。とにかく事故がないこと。それでなくても犬連れ登山には批判的な人もいます。厳しいところでは犬連れ登山禁止の山もあると聞きます。

犬連れ登山に直接関係はありませんが、こういうニュースもありました。

愛犬放し飼いで有罪、横浜地裁
niftyニュース http://news.nifty.com/cs/headline/detail/kyodo-2013070801001329/1.htm )

ただ最近は思うんですよね。登山だけではなくて、たとえば公園や遊歩道とかで、「ペット禁止」「犬連れ禁止」「犬禁止」という立て札を見ると気持ちが沈みます。

「禁止」という文字が、すごく悪いことをしているような、「敵意」さえ感じさせるからです。

真珠湾攻撃を受けたときのアメリカの「犬とジャップは立入禁止」とか、中国上海の外国人居留区の「犬と中国人はお断り」も屈辱的でした。

飼い主のマナーが向上し、「禁止」看板を立てなくて済むようになれば、ほんとの意味で犬と人間との共存社会なのだろうと思います。でもそんな日は来るんでしょうか。当分は無理かなぁ。

 
 
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2013/07/11

映画 『ミッドナイト・イン・パリ』 を観て

130711(1982年、パリの街角)

映画『ミッドナイト・イン・パリ』 Midnight in Paris

「ウッディ・アレン監督・脚本によるラブコメディ。ハリウッドで売れっ子の脚本家ギルは、婚約者イネズと彼女の両親とともにパリに遊びに来ていた。パリの魔力に魅了され、小説を書くためにパリへの引越しを決意するギルだったが、イネズは無関心。2人の心は離ればなれになり……。」

公式サイト

とても楽しい映画でした。(少しネタバレ注意)

主人公、脚本家のギルが真夜中のパリで迷い込んだところは、憧れだった1920年代のパリ。そこには有名人がたくさん。

脚本家としては成功している彼でしたが、小説を書きたくて悪戦苦闘していたのでした。アドバイスをもらったのがスコット・フィッツジェラルドとか、ガートルード・スタインとか、アーネスト・ヘミングウェイという有名な作家たち。

パブロ・ピカソやサルバドール・ダリとも出会って交流します。だから彼は思います。1920年代は最高だと。

「昔は良かった」とすぐ言いたくなります。俺もそうです。

でも、言い訳じゃないですが、仕方ないのかもしれませんね。過去、現在、未来を比べてみたとき、現実問題として未来は知らないわけだから、あとは現在と過去を比べてしまう。

たぶん相対的なのです。でも、現在に生きている俺たちはそれを客観視できるほどの余裕がない。だから余裕を持って見れる、考えられる「昔は良かった」と思ってしまう。悪かったこともいっぱいあったはずなのに、それは忘れて。

結局、主人公も気がつくのです。どこの時代でも、その時代に生きている人間にとっては、過去が素晴らしく、現在がおもしろくないと。とくに芸術家たちは。1920年代に生きた芸術家たちは1890年代に憧れ、1890年代に生きた芸術家たちはルネサンス期が良かったといい、ルネサンス期に生きた人たちはローマ時代が良かったといっている。

これは、時間的な話ですが、地理的な話に置き換えても、同じようなことはいえると思います。

ここはおもしろくない、もっといいところがあるはずだと。「桃源郷」が生まれるのもそんな背景があるんじゃないでしょうか。

隣の芝生は美しく見えるのです。でも、俺はそれが悪いことだとは思ってません。現状に不満だからこそ、変化を求める、そしてその変化こそが人間が地球に「はびこる」エネルギーになったのではないか。

かつて東アフリカを出たヒトの祖先たちが、どうして食料も豊かな土地から出たのかは謎です。俺はきっと現状に満足せず、もっといい土地があると思ったから出たのではないかと思っているのですが。それと旅がしたかったんじゃないかな。

映画は、どんなに過去に憧れてもしかたない、現在をせいいっぱい生きるしかない、ということを言いたいんでしょうが、俺はこの優等生的な答えにちょっとだけ不満です。
 
 
 
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2013/07/10

山形県 小さな恋人「さくらんぼ」 紅秀峰

130710

親戚がさくらんぼ農家なので、毎年さくらんぼが送られてきます。

今年は「紅秀峰」という実が大きい品種。

「佐藤錦」と「天香錦」との交配で生まれたもので、品種登録されたのが1991年(平成3年)です。

佐藤錦と比べると、収穫時期が少し遅く、7月上旬以降に出回ります。

少し硬めなので、日持ちが良いそうです。佐藤錦より酸味が少ないので、甘く感じられるさくらんぼです。

今やったら窃盗で捕まってしまいますが、昔、高校までの道中、さくらんぼ畑の中を通るので、友達とさくらんぼを(勝手に)とって、食べながら帰宅したものでした。マラソン大会でも、果物をとって食べながら走っていましたが、先生からしかられた記憶がありません。おおらかな時代だったんでしょうか。
 
 
 
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2013/07/08

近々未来予想ショートストーリー   『モスクワのトランジットホテルで出会った男』

130708

成田発モスクワ行きのアヘロフロート258便の出発予定時刻、午後2時26分をすでに6時間も遅れ、午後8時40分にようやく離陸した。

雪田一馬はアヘロフロートはよく遅れると聞いていたが、まさか自分がこんな目にあうとは思っていなかった。

「まいったな。これで乗り継ぎ便にも間に合わないな」

雪田は、モスクワで乗り継いで、イランの首都テヘランに向かう予定だった。その乗り継ぎ時間は4時間あって、普通なら余裕のはずだったのだ。しかしすでに6時間遅れている。テヘラン行きには絶対間に合わないだろうと覚悟した。

アヘロフロート258便はモスクワのシェレメチェボ国際空港に到着した。雪田は機内から急いでトランジットのカウンターへ走った。

「テヘラン行きはもう出ましたか?」

「とっくに出ましたよ。次の便までお待ちください」

「次の便はいつ? 明日?」

それには係員はわざと知らないふりをしているのか、雪田と目を合わさずに、

「次の便までお待ちください」

と繰り返すだけだった。

ここでアヘロフロート便に乗り換える旅行者は雪田の他、10人ほどいたが、彼らはみなヨーロッパへ向かう人たちだった。

係員はみんなを集めて何か説明を始めるらしかった。俺には関係ないと少し離れて立っていた雪田にも手招きして、係員はいっしょに説明を聞くように促した。

ヨーロッパ便は明日の早朝発で、これからトランジットホテルへ連れて行く、宿泊や食事に関する費用はすべてアヘロフロート側が持つという説明を受けた。

みんなは遅れたことへの不満よりは、モスクワで1泊できることになった幸運に喜んでいるのか、笑顔が見えた。雪田だけは、不安を抱えたままだった。

空港内の複雑な通路を通って、あるエレベータの前に出た。従業員用のものではないかと思えるほどの、薄汚れたエレベーターだった。

8階のフロアでエレベーターを降りて、廊下を歩いていくと、ドアの前に警備員らしい男が座っていた。係員がロシア語で何か告げると、男はポケットから鍵を取り出し、そのドアを開けた。

「さぁ、みなさん入ってください」

と係員は言った。雪田たち全員ドアから中へ入ると、背後で、ドアに鍵が掛けられる音がした。

8階のフロアの廊下を進みながら、ひとりひとり名前を呼ばれ、部屋が割り当てられていった。そして最後に残った雪田には、8013号室が与えられた。

「いいじゃないか」

部屋は広く、ベッドがふたつ置いてある。家具調度品も、4つ星クラス程度の部屋だ。広い窓を覗くと、吹き抜けになったホテルの中庭で、下はレストランになっていた。上を見ると、さらに4階分ほどある。だから12階ほどの巨大ホテルであることがわかった。

雪田も、テヘラン行きがいつになるかわからずいらいらしていたが、この状況をみて、少し気持ちに余裕が出てきた。

さっそく下のレストラン行こうとした。廊下を歩いてみたが、エレベーターが見当たらない。さきほどのドアのところへ行くと、カウンターに係員がいたので、雪田は言った。

「下のレストラン行きたいので、ここを開けてくれませんか?」

「だめです。あなたたちはここから出ることが出来ません」

「どうして?」

「あなたたちはロシアのヴィザを持たないトランジット客なので、歩けるのはこのフロア内だけです。下のレストランはロシアに入国しないと使えないんです」

雪田は、ロシアは乗り換えのつもりだったので、当然ロシアのヴィザも取っていない。だからロシアに入国はできないのだ。ようやく自分の置かれた状況が理解できてきた。

「でも、お腹が空いたので何か食べたいんですよ。さっきの説明では、食事も出してくれるって言ってたじゃないですか? このまますきっ腹で寝ろとでも言うんですか?」

「もちろん、これからみなさんをレストランに案内するとことでした」

「そうなんですか、それを早く言ってくれれば」

腹が減っては戦ができず、みたいな言葉はロシアにもあるんだろうか。係員が各部屋を周って、ドアをノックした。いっしょに飛行機で来た全員が廊下に集まった。

「これから食事にでかけます」

「わーい」

みんな喜んでいた。寝るところも快適だし、あとは食事を楽しむだけだ。明日の出発も決まっている。雪田だけはいつ出発できるかわからなかったが、みんなのテンションに乗せられて、もう心配しても始まらない、今を楽しもうと開き直っていた。そこが「旅人の才能」といってよかった。

ドアが開けられて、向こう側に出ると、エレベーターに再び乗った。係員はB2のボタンを押した。地下2階のレストランらしい。

物置のような廊下を進み、たどり着いたのは、さきほど吹き抜けの下に見えていたしゃれたレストランとは似ても似つかない、まるで会議室のような殺風景な部屋で、中華レストランに置いてあるような円卓が、4卓並んでいた。みんなの顔には、あきらかに期待をうらぎられた残念そうな表情が現れていた。

すでに欧米人の先客がいて、ひとり、黙々と食事をしていた。雪田は、この欧米人に、ひっかかるものを感じた。

背は高く、メガネをかけて賢そうだが、神経質そうでもあった。ズボンとシャツがよれよれで、長く旅していることがわかった。しかし不思議なのは、「旅人」が持っている、非日常を楽しむ独特の「匂い」がないのだ。時々、周囲を見渡すような警戒心を見せるのにも、違和感を持った。

雪田は、彼の後ろ側に、背を向ける格好で座った。

食事が運ばれてきたが、ボルシチ、ピラフ、コロッケなどだった。雪田は、まずくはないが、かと言っておいしくもない食事だと思った。隣に座った20歳くらいの日本人女性が雪田に話しかけてきた。

「1階のレストランじゃなくて、残念ですね」

「そう。てっきりあのしゃれたレストランかなって、俺も期待してたんだけど。アヘロフロートってケチだよなぁ」

「しかたないですかね」

「このボルシチ、味が薄くって食えたもんじゃないよ」

そのやり取りを聞いた後ろの欧米人が声をかけてきた。

「シ~ッ。駄目ですよ、そんな大きな声でしゃべったら。従業員に聞かれますよ」

「聞いてないですよ。彼女との会話は日本語だし。わからないでしょ?」

「あなたわかってないですね。日本語わからないふりをして、どんな会話をしてるかちゃんと聞いてるんですよ」

「そんなバカな」

「ひとりひとりの会話は些細でも、それが積み重なったデータは、大切な意味を持つし、世界を変えてしまうことも出来るんです」

「大げさですね。ただ食事が豪華じゃなくて、残念ていうだけなんだから」

欧米人は何か宙を見ながら考えてから、もう言っても無駄だと思ったのか、あっさりと話題を変えた。

「トランジットの客に豪華な食事なんて出さないですよ」

「そりゃ、そうでしょうが」

雪田は彼が嫌味を言ったと思った。自分だってトランジットの客だろう? 前からいるからって先輩面すんな。それにしても大げさなやつだ。

「慣れればおいしいですよ。ここの食事も」と欧米人は言った。

「長くいるんですか?」

話もしたくなかったが、成り行きで聞いてみた。

「1ヶ月くらいかな」

「1ヶ月? そんなに長く?」

雪田は驚いた。普通の旅行者ではないようだ。

「これからどちらの方へ向かうつもりなんですか?」

「さぁね」

この男はシニカルなやつだと雪田は思った。自分の行き先くらい自分でわかるだろうに。

「いろんな人が、うちの国においでとは言ってくれますけどね」

何言ってるんだ?この男は、と雪田は思った。

そのとき、廊下がどやどやと騒がしくなった。制服の男たち10人ほどが入ってきた。欧米人は青い顔をして雪田のズボンのポケットに手を突っ込んだかと思うと、急いで逃げだした。制服の男たちは椅子につまづいて床に転んだ彼を取り押さえた。

雪田をはじめ、トランジット客や、レストランの従業員も、この突然の捕り物劇を、あっけにとられて眺めていた。そして時間が経つにつれて、「さっきの男は何をしたんだろう?」と話題にしたが、従業員も含めて、それに答えられる人間は一人もいなかった。

その2日後、ようやくテヘラン行きが出て、無事にイランに入国できた雪田は、その夜テヘランのホテルで、あの晩の欧米人のことを思い出していた。

「そういえば、あいつは俺のズボンのポケットに手を入れたな・・・あっ、これは」

ポケットからは小さなメモリーカードが出てきた。さっそく雪田はパソコンを立ち上げて、メモリーカードを挿入した。すると次のような画面が現れた。

「国というのは、表で見せるタテマエの顔のほかに、裏の顔がある。私はこの資料を暴露することで、一般市民と国との乖離を世界に知らしめたいのだ。アドワード・スノーデン」

何か胸騒ぎがして、自分の名前「カズマ・ユキタ」で検索したら「ジャパニーズ カズマ・ユキタ」というファイルがヒットした。クリックすると、勝手にネットに接続し、このファイルが更新された。

「ファイルナンバー8013 ------- カズマ・ユキタ: トランジットの食事(とくにボルシチの味)について不満あり。将来アヘロフロートをハイジャックする可能性あり。要注意人物」


(おわり。これはすべてフィクションです)

 
 
 
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2013/07/04

今日発売の「週刊新潮」(7月11日号)グラビアに「富士山が見える棚田」の写真が掲載

130703(掲載写真とは別バージョンの静岡県御殿場市の棚田)

2013年7月4日(木)発売の「週刊新潮」(7月11日号)、後ろのグラビア3ページに「富士山が見える棚田」の写真が掲載されます。

誌面の関係上、静岡県御殿場市と山梨県南アルプス市の2ヶ所の棚田だけですが、富士山周辺には数多くの棚田があるので、いずれまた別の媒体で発表する機会もあると思います。

富士山は独立峰で、ほぼ左右対称の整った優美な形だからこそ、特別な山になりえたのではないかと思います。信仰や芸術に影響を与え、日本を象徴する山です。

そしてこの形に対する思いは日本を越えて、世界の人も共感してくれることを、今回の世界遺産登録が証明したのではないでしょうか。

そういう「特別な山」という面がある一方、周辺の農民にとっては生活に密着した「身近な山」でもありました。農業には欠かせない山だったのです。

富士山からの豊富な水が、この地での農業を可能にしました。

また春には富士山に現れる残雪の模様「雪形」を見て農作業を始めるという「自然暦」の役目も持っていました。富士山北麓では、鳥が羽ばたく姿の「農鳥」と呼ばれる雪形が見えます。また葛飾北斎が「富嶽百景」の「甲斐の不二 濃男」に「農男」と呼ばれる農作業をする人の姿の雪形を描いています。
 
世界の「文化遺産」である富士山、そして先祖代々、自然とともに作り上げてきた農民の「文化遺産」である棚田。ふたつの「文化遺産」の競演、棚田ごしに見る富士山は、瑞穂の国、日本らしい風景といえるのではないでしょうか。
 
 
Ya_2「富士山が見える棚田」(オリザ館)
 
 
 
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2013/07/01

世界文化遺産になった富士山と、中国雲南省麗江

130701_1(中国雲南省麗江の旧市街  1987年ころ)

130701_2(中国雲南省麗江の四方街ふきん  1997年)

どのようにして富士山の文化遺産としての価値を保っていけるのか、難しい問題が山積みです。

登山客が増えることをどうするのか、今まであったレジャー施設との兼ね合いなど、いろいろあります。

それと、今回登録された構成要素のそれぞれを、全体としてどう統合して、大きな「富士山を中心とした信仰・文化的空間」を作り上げていくかが課題です。(文化遺産になったのは、ここが一番重要なポイントだろうし)

そういう意味で今回の世界文化遺産登録は始まりであって、「登録されて良かったね」で終わる話ではありません。「ゴールではなくてスタートだ」とはよく言われることです。

そこで「反面教師」としてよく例に出されるのが、中国雲南省の麗江(リージャン)という世界遺産があります。10年以上行っていませんが、最近の映像をテレビで見て愕然としました。まるで大都会の繁華街です。

登録前からカフェやレストランはありましたが、あのナシ族文化が色濃く残る麗江の雰囲気はすでにありません。表通りに面した民家はほとんど外から来た業者に貸してしまい、ナシ族は、郊外のアパートで暮らしているという話は、10年前にも聞いていました。お金が手に入ったので、働かないで、酒飲んで暮らしているナシ族が増えたという話でした。

そもそも、世界遺産に登録を目指していたころから妙なことはあったのですが。

大きな地震があった翌年(1997年)訪ねたとき、町の表通りの家並みを壊していました。残っている民家をコンクリートで補修していたのですが、そこの壁にペンキで「レンガ風の模様」を描いていたのです。俺は写真を撮ろうとしました。するとすごい剣幕で怒られたのです。普通、中国で工事現場で写真を撮っても、へらへら笑われるだけで、「撮るな!」などと言われたことはなかったので、かまわずまた撮ろうとしたら、奥から責任者らしいワイシャツ姿の男がやってきて、「写真を撮るな!」と叫んだのでした。これは俺もいよいよ本気だなと思ったので、その場から離れました。

でも、どうしてあんなに怒ったのだろうか?と不思議だったのですが、あとで、この工事は、地震の補修ではなくて、世界遺産登録に向けた補修だと聞いて、「もしかしたら・・・」と思ったのです。

つまり、「怒る」というのは後ろめたさがあるから怒るわけで、その後ろめたさとは、本物のレンガ壁ではなくて、映画のセットのような見せかけのレンガ壁であることで、それを写真(証拠)に撮られることに神経を尖らせていた、というふうに解釈しました。

昔、麗江を治めていた木氏の宮殿「木府」も、オリジナルとは似ても似つかない立派過ぎる建物だそうで、まったく新しく造ったものでした。

その後、麗江は世界文化遺産に登録されましたが、「あんな小細工をしても登録されるんだ」と俺は世界遺産に少し懐疑的になったのでした。もちろん中国側から言わせれば「騙されたほうが悪い」ということなのでしょう。

麗江は、世界遺産の登録を果たし、観光客誘致に成功しました。そのかわり「ナシ族文化なんてまったく感じられない」と中国人自身が嘆くほどの町になってしまいました。

当時は中国の改革開放政策が進み、沿岸部と内陸部との経済格差が開きはじめたときでした。それを埋めるために、政府は産業が少ない中国の内陸部では、元手も少なくて済む観光業を発展させる方針を決めました。だから最初から、世界遺産登録は観光業発展が目的だったので、こうなって当然だったのかもしれません。

なんだか本末転倒といったらいいか、悲しい話です。まぁ、裏を返せば、中国の内陸部は、世界遺産に頼らなければならないほど貧しいところとも言えますが。先進国の金も技術もある国の世界遺産と同列に扱うのも酷な話かもしれません。

富士山も、世界遺産になって「登ってみたい」と思う人は増えるでしょう。でも、事故が増えたり、周辺が汚くなったりしたら、元も子もありません。

だから「あえて登らない」という選択をする人が現れてもいいと思います。消極的で地味ですが、保全に協力するひとつの賢い方法だと思います。

幸い独立峰の富士山はかなり離れたところからも観ることができます。登らなくても十分に「富士山を中心とした信仰・文化的空間」を堪能することは出来る山なのです。

 
 
 
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