近々未来予想ショートストーリー 『モスクワのトランジットホテルで出会った男』
成田発モスクワ行きのアヘロフロート258便の出発予定時刻、午後2時26分をすでに6時間も遅れ、午後8時40分にようやく離陸した。
雪田一馬はアヘロフロートはよく遅れると聞いていたが、まさか自分がこんな目にあうとは思っていなかった。
「まいったな。これで乗り継ぎ便にも間に合わないな」
雪田は、モスクワで乗り継いで、イランの首都テヘランに向かう予定だった。その乗り継ぎ時間は4時間あって、普通なら余裕のはずだったのだ。しかしすでに6時間遅れている。テヘラン行きには絶対間に合わないだろうと覚悟した。
アヘロフロート258便はモスクワのシェレメチェボ国際空港に到着した。雪田は機内から急いでトランジットのカウンターへ走った。
「テヘラン行きはもう出ましたか?」
「とっくに出ましたよ。次の便までお待ちください」
「次の便はいつ? 明日?」
それには係員はわざと知らないふりをしているのか、雪田と目を合わさずに、
「次の便までお待ちください」
と繰り返すだけだった。
ここでアヘロフロート便に乗り換える旅行者は雪田の他、10人ほどいたが、彼らはみなヨーロッパへ向かう人たちだった。
係員はみんなを集めて何か説明を始めるらしかった。俺には関係ないと少し離れて立っていた雪田にも手招きして、係員はいっしょに説明を聞くように促した。
ヨーロッパ便は明日の早朝発で、これからトランジットホテルへ連れて行く、宿泊や食事に関する費用はすべてアヘロフロート側が持つという説明を受けた。
みんなは遅れたことへの不満よりは、モスクワで1泊できることになった幸運に喜んでいるのか、笑顔が見えた。雪田だけは、不安を抱えたままだった。
空港内の複雑な通路を通って、あるエレベータの前に出た。従業員用のものではないかと思えるほどの、薄汚れたエレベーターだった。
8階のフロアでエレベーターを降りて、廊下を歩いていくと、ドアの前に警備員らしい男が座っていた。係員がロシア語で何か告げると、男はポケットから鍵を取り出し、そのドアを開けた。
「さぁ、みなさん入ってください」
と係員は言った。雪田たち全員ドアから中へ入ると、背後で、ドアに鍵が掛けられる音がした。
8階のフロアの廊下を進みながら、ひとりひとり名前を呼ばれ、部屋が割り当てられていった。そして最後に残った雪田には、8013号室が与えられた。
「いいじゃないか」
部屋は広く、ベッドがふたつ置いてある。家具調度品も、4つ星クラス程度の部屋だ。広い窓を覗くと、吹き抜けになったホテルの中庭で、下はレストランになっていた。上を見ると、さらに4階分ほどある。だから12階ほどの巨大ホテルであることがわかった。
雪田も、テヘラン行きがいつになるかわからずいらいらしていたが、この状況をみて、少し気持ちに余裕が出てきた。
さっそく下のレストラン行こうとした。廊下を歩いてみたが、エレベーターが見当たらない。さきほどのドアのところへ行くと、カウンターに係員がいたので、雪田は言った。
「下のレストラン行きたいので、ここを開けてくれませんか?」
「だめです。あなたたちはここから出ることが出来ません」
「どうして?」
「あなたたちはロシアのヴィザを持たないトランジット客なので、歩けるのはこのフロア内だけです。下のレストランはロシアに入国しないと使えないんです」
雪田は、ロシアは乗り換えのつもりだったので、当然ロシアのヴィザも取っていない。だからロシアに入国はできないのだ。ようやく自分の置かれた状況が理解できてきた。
「でも、お腹が空いたので何か食べたいんですよ。さっきの説明では、食事も出してくれるって言ってたじゃないですか? このまますきっ腹で寝ろとでも言うんですか?」
「もちろん、これからみなさんをレストランに案内するとことでした」
「そうなんですか、それを早く言ってくれれば」
腹が減っては戦ができず、みたいな言葉はロシアにもあるんだろうか。係員が各部屋を周って、ドアをノックした。いっしょに飛行機で来た全員が廊下に集まった。
「これから食事にでかけます」
「わーい」
みんな喜んでいた。寝るところも快適だし、あとは食事を楽しむだけだ。明日の出発も決まっている。雪田だけはいつ出発できるかわからなかったが、みんなのテンションに乗せられて、もう心配しても始まらない、今を楽しもうと開き直っていた。そこが「旅人の才能」といってよかった。
ドアが開けられて、向こう側に出ると、エレベーターに再び乗った。係員はB2のボタンを押した。地下2階のレストランらしい。
物置のような廊下を進み、たどり着いたのは、さきほど吹き抜けの下に見えていたしゃれたレストランとは似ても似つかない、まるで会議室のような殺風景な部屋で、中華レストランに置いてあるような円卓が、4卓並んでいた。みんなの顔には、あきらかに期待をうらぎられた残念そうな表情が現れていた。
すでに欧米人の先客がいて、ひとり、黙々と食事をしていた。雪田は、この欧米人に、ひっかかるものを感じた。
背は高く、メガネをかけて賢そうだが、神経質そうでもあった。ズボンとシャツがよれよれで、長く旅していることがわかった。しかし不思議なのは、「旅人」が持っている、非日常を楽しむ独特の「匂い」がないのだ。時々、周囲を見渡すような警戒心を見せるのにも、違和感を持った。
雪田は、彼の後ろ側に、背を向ける格好で座った。
食事が運ばれてきたが、ボルシチ、ピラフ、コロッケなどだった。雪田は、まずくはないが、かと言っておいしくもない食事だと思った。隣に座った20歳くらいの日本人女性が雪田に話しかけてきた。
「1階のレストランじゃなくて、残念ですね」
「そう。てっきりあのしゃれたレストランかなって、俺も期待してたんだけど。アヘロフロートってケチだよなぁ」
「しかたないですかね」
「このボルシチ、味が薄くって食えたもんじゃないよ」
そのやり取りを聞いた後ろの欧米人が声をかけてきた。
「シ~ッ。駄目ですよ、そんな大きな声でしゃべったら。従業員に聞かれますよ」
「聞いてないですよ。彼女との会話は日本語だし。わからないでしょ?」
「あなたわかってないですね。日本語わからないふりをして、どんな会話をしてるかちゃんと聞いてるんですよ」
「そんなバカな」
「ひとりひとりの会話は些細でも、それが積み重なったデータは、大切な意味を持つし、世界を変えてしまうことも出来るんです」
「大げさですね。ただ食事が豪華じゃなくて、残念ていうだけなんだから」
欧米人は何か宙を見ながら考えてから、もう言っても無駄だと思ったのか、あっさりと話題を変えた。
「トランジットの客に豪華な食事なんて出さないですよ」
「そりゃ、そうでしょうが」
雪田は彼が嫌味を言ったと思った。自分だってトランジットの客だろう? 前からいるからって先輩面すんな。それにしても大げさなやつだ。
「慣れればおいしいですよ。ここの食事も」と欧米人は言った。
「長くいるんですか?」
話もしたくなかったが、成り行きで聞いてみた。
「1ヶ月くらいかな」
「1ヶ月? そんなに長く?」
雪田は驚いた。普通の旅行者ではないようだ。
「これからどちらの方へ向かうつもりなんですか?」
「さぁね」
この男はシニカルなやつだと雪田は思った。自分の行き先くらい自分でわかるだろうに。
「いろんな人が、うちの国においでとは言ってくれますけどね」
何言ってるんだ?この男は、と雪田は思った。
そのとき、廊下がどやどやと騒がしくなった。制服の男たち10人ほどが入ってきた。欧米人は青い顔をして雪田のズボンのポケットに手を突っ込んだかと思うと、急いで逃げだした。制服の男たちは椅子につまづいて床に転んだ彼を取り押さえた。
雪田をはじめ、トランジット客や、レストランの従業員も、この突然の捕り物劇を、あっけにとられて眺めていた。そして時間が経つにつれて、「さっきの男は何をしたんだろう?」と話題にしたが、従業員も含めて、それに答えられる人間は一人もいなかった。
その2日後、ようやくテヘラン行きが出て、無事にイランに入国できた雪田は、その夜テヘランのホテルで、あの晩の欧米人のことを思い出していた。
「そういえば、あいつは俺のズボンのポケットに手を入れたな・・・あっ、これは」
ポケットからは小さなメモリーカードが出てきた。さっそく雪田はパソコンを立ち上げて、メモリーカードを挿入した。すると次のような画面が現れた。
「国というのは、表で見せるタテマエの顔のほかに、裏の顔がある。私はこの資料を暴露することで、一般市民と国との乖離を世界に知らしめたいのだ。アドワード・スノーデン」
何か胸騒ぎがして、自分の名前「カズマ・ユキタ」で検索したら「ジャパニーズ カズマ・ユキタ」というファイルがヒットした。クリックすると、勝手にネットに接続し、このファイルが更新された。
「ファイルナンバー8013 ------- カズマ・ユキタ: トランジットの食事(とくにボルシチの味)について不満あり。将来アヘロフロートをハイジャックする可能性あり。要注意人物」
(おわり。これはすべてフィクションです)
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