2013/08/29
2013/08/28
NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」で、宮崎駿監督の『風立ちぬ』密着ドキュメンタリー
先日、NHKで宮崎駿監督の『風立ちぬ』密着ドキュメンタリーを見ました。『崖の上のポニョ』のときも密着ドキュメンタリーがあって、そのとき書いたものはこちらです。
NHKの番組 『プロフェッショナル仕事の流儀スペシャル▽宮崎駿のすべて~“ポニョ”密着300日 』
この中で、
「ストーリーや、キャラクターも、「こう作ってやる」といった能動的なものではなくて、「こうならざるをえない」といった、必然性みたいなものを、うまく取り入れることができる人なのかなと思いました。必然性があれば、形になり、そして動き出す、と言ってもいいかもしれません。「森を見てたら、トトロが浮き上がってきた。それを描いた」みたいな。もし、ならなかったら、それまでのこと。そういうことを、ひたすら「待つ」ことができる天才なのでしょう。たいていの凡人は、すぐに決着をつけようと、自分の「腕力」でキャラクターを作り、ストーリーを作ってしまう、ということなのかもしれません。」
と書きましたが、今回もまったく同じように感じました。映画の結末は最後までわからなかったのです。主人公たちが考え、行動する中から、必然的に出てくる結末をひたすら待つ監督。
宮崎監督のこの言葉が印象的でした。
「時代は選択できない。それはまったく今も同じ。そこでせいいっぱい生きるしかない。」
正確な言い回しは忘れましたが、だいたいこんな感じです。
二郎たちは「美しい飛行機を作りたい」という純粋な気持ちでやっていたことですが、それが「兵器」をつくることにもなっていた悲しい時代でした。
でも、二郎たちは選択の余地はなかった。こんな時代でもせいいっぱい生きるしかなかった。「こんな」と思わず俺は書いてしまいましたが、いつの時代も、生きている人間にとっては唯一無二のもので「こんな」とか、他の時代の人間が悲観的なことを言うのは筋違いなんでしょう。「だったら今はいい時代なのか?」と反対に聞かれても答えられないし。
宮崎監督の、時代を肯定するこの感覚がすばらしいんだなぁと思いました。矛盾をはらんだ時代そのものを丸ごと受け入れるような感覚。ファンタジーを封印し、真正面から時代と向き合った映画になりました。
だからそこで描かれる人間は生き生きとしているのでしょう。二郎と菜穂子の生き様は、時代を超えて、普遍性を持つのです。
宮崎駿監督のアニメ 『風立ちぬ』 タバコ喫煙シーンと、飛行機の「両刃の剣」的存在について 【ネタバレ注意】
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2013/08/27
東京ジャーミィ・トルコ文化センターで写真イベント
東京・代々木上原にあるイスラム寺院(モスク)、東京ジャーミィ(Tokyo Camii)に行ってきました。
今週の写真イベントの会場で、当日、モスクの写真も発表するからです。当初は当日撮影して、その場で編集しようと思っていましたが、時間的に無理だとわかったので、前もって撮影を済ませてきました。
以前からこのあたりにモスクがあることは知ってはいましたが、実際に訪ねたのは初めてです。
美しいモスクでした。基本見学は自由です。写真もOKです。ただ礼拝の時間は避けたほうがいいと思います。
東京ジャーミイは、トルコ共和国在東京大使館に所属していて、イスラム教(回教)やトルコ文化を紹介する「トルコ文化センター」が併設されています。
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2013/08/25
茨城県鹿島港 夏の工場夜景
暗くなるのを待っているとき、港に停泊中の船の船員と話をしました。
九州からきた海底ケーブルを埋設する船でした。聞き覚えのある九州弁。
今回は地震計のためのケーブルだそうです。全国を回りますが、震災で壊れた東北地方のケーブルも直したそうです。海底にちゃんと埋めれば、50年ももつらしい。意外と長持ちするもんだなぁと思いました。
ところで何をしてるんですか?と聞かれて、雑誌用の工場夜景の写真を撮っているんですと答えましたが、あまりぴんとこなかったらしく、この話はすぐ終わってしまいました。
最近はクルーズ船まで出るほど工場夜景がブームですが、鹿島港では日中はあるようですが、夜間はやってないようです。
夏場の湿気のある空気が明るい光をぼんやりと光らして、たぶん冬のきりりとしたクリアーな写真とはまた違った写真が撮れたのではないかなと思います。
雑誌では港の写真を使うことになると思うので、ここでは、鹿島石油の製油所をアップします。
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2013/08/24
茨城県鹿島港の鉄塔
夜も蒸し暑くてまいった。脳が融けそうでした。
工場夜景を撮影しに行きましたが、鉄塔があったので、ついでに撮影しました。
この風力発電のプロペラの列もすごかったですね。ひとつも動いていませんでしたが。
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2013/08/21
今日は、旧暦の七月十五日 「盂蘭盆」のルーツは古代イラン
(ゾロアスター教寺院「アーテシュキャデ」のアフラ・マズダ像(or フラワシ像))
今日2013年8月21日は、旧暦七月十五日 「盂蘭盆」です。
「盂蘭盆は、サンスクリット語の「ウランバナ」の音写語で、・・・(中略)・・・近年、古代イランの言葉で「霊魂」を意味する「ウルヴァン」(urvan)が語源だとする説が出ている。」
「日本では、この「盂蘭盆会」を「盆会」「お盆」「精霊会」(しょうりょうえ)「魂祭」(たままつり)「歓喜会」などとよんで、今日も広く行なわれている。」
(Wiki参照)
明治6年の改暦前は、旧暦七月十五日の今日がお盆でした。沖縄県では今でも旧暦の盆が主流だそうです。明治6年の新暦に合わせる苦肉の策だったのですが(旧暦の日付はほぼ新暦から1ヶ月遅れだったため)、いまでは全国的に、新暦8月15日(月遅れの盆)が主流になってきました。
それにしてもお盆のルーツが古代イランにつながるというのは興味深いですね。イランにイスラム教が入る前は、ゾロアスター教が信仰されていましたが、ゾロアスター教における霊的存在の「フラワシ」信仰が祖霊信仰と結びついたということらしいのです。
イランのヤズドには、ゾロアスター教寺院「アーテシュキャデ」があります。「火の家」という意味で、中には1000年以上も燃え続ける神聖な火が祀られています。
また郊外にはゾロアスター教徒が鳥葬の場に使った「沈黙の塔」もありました。1リットルの水を持っていきましたが、すぐ飲み干してしまいました。地元の暴走族が夕方になると集まってきます。遺跡のなかを我が物顔で乗り回していました。観光客には迷惑な存在です。一人で行くときは、注意したほうがいいと思います。
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2013/08/20
日本の無秩序に見える電柱電線が外国人にうける理由
こんなおもしろい記事が載っていました。
なぜ?外国人にウケるモノ「マンホール」「電柱」「五円玉」
(nifty ニュース http://news.nifty.com/cs/item/detail/mnwoman-20130818-mw538316/1.htm )
「マンホール」「電柱」「5円玉」そして「ホストクラブ」。たしかにねぇ。外国人の目には不思議で、面白いと映るのでしょう。
そういえば、フランス人写真家の友人が一番興味を持っていたのは台場とかの近未来的な建物だったような気がします。
わざわざ「日本的伝統の風景」を見せてあげようと、秩父の祭りや川越へ連れていったときは、それほど興味を示していませんでした。
ただ、俺が「電柱電線」の写真を撮っていることは、共感してもらえたようです。彼とふたりで、近所の電柱と電線を撮影して歩きました。東京のど真ん中よりも、その周辺の中途半端な街で電柱電線は目立つような気がします。
電柱電線がこれだけ無秩序に街中にはびっこっているのは、先進国では日本がダントツでしょう。確かにアジアではよく見る光景です。でも先進国である日本だから外国人はより不思議がるんだろうなと思います。どうしてこんなに進んだ国なのに?と。
電柱電線を「無秩序」と言いましたが、実は、そうじゃないとも思います。どうしてかというと、金がかかるから電線を地下に通さないらしいのです。つまりこれはEconomic Landscape (経済的風景)なんですね。だから「経費節約」という立派な理由はあるので、「無秩序」ではないかもしれないのです。
じゃぁ外国ではどうして電線を地下に埋めるのかというと、それだけの経費をかけても、景観を美しくしたいということなのでしょう。(街の作りの違いもあるかもしれませんが)
そこで俺はあることに思い当たります。日本では、「風景はただ」と思われていることです。日本の棚田を撮影するようになって、とくにそう感じるようになりました。
棚田の風景は、あたりまえのことですが、農家が稲を作って、農地を手入れしているから維持されるのです。つまり、農家の労働力のコストがかかっています。けっしてタダではありません。
電柱電線の話に戻りますが、風景がタダだと思うから、当然、そこに不必要なコストをかけたくない。そういう心理が働らいているのではないかなと思うんです。
「費用対効果」とはよく聞かれることですが、これだけのコストをかけて、得られるメリットはどのくらい?という計算でしょう。電柱電線を地下に埋めるコストを払ってまで、景観を美しく保とうとする気がないということなのです。
景観が人間に与える精神的な影響は、俺はかなり大きなものだと考えていますが、一般的にはそうは思われていないようだと日々感じています。
最近では、TPPの加盟問題ですね。俺は写真を撮っている立場上、TPPが日本の田園風景に与える影響は気になります。きっと田園風景は変わってきます。でも、ほとんどの人たちは、経済的関心からの議論で、失われるかもしれない風景が日本人に与える精神的影響を考えた議論なんて、ほとんどされていません。かなり大きな問題だと思うのですが、風景は経済の後回しにされます。これを考えても、日本では「風景はタダ」と考えるのが多数派ということがわかります。
話をふたたび電柱電線に戻します。
これがアジアの最貧国ならわからないでもありません。というか、経済的風景なのだから、電柱電線にコストをかけないのはあたりまえです。でも、先進国である日本が、このことに無頓着であることの不思議。すごくおしゃれな街並みなのに、突然頭上に電線が走っていて、しかも誰も気にしないなんて、日本では常識でも、外国人の目から見たら、不思議に見えるということなのでしょう。
とは言え、俺は、この電柱電線が面白いと思って写真を撮っています。たぶん、あと100年たったら、なくなってしまう風景だろうなと思っているところもあります。だから記録写真としてですね。この視点は外国人と共通するのかもしれません。
でも、そうじゃない理由もあります。それは、この無秩序に見える電柱電線の日本の風景に、気取った西欧文明に対する反発・反逆みたいなものを感じるのです。人間の欲望やらなにやらの、人間の正直な心が現れているというふうにも思って、写真に撮っています。
だから、正直言うと俺にとっては、電柱電線はなくなってほしくないのです。良くも悪くも、これが日本の「独自の風景」だと思うからです。棚田と同じレベルで、俺は自慢したいくらいです。
2013/08/18
宮崎駿監督のアニメ 『風立ちぬ』 タバコ喫煙シーンと、飛行機の「両刃の剣」的存在について 【ネタバレ注意】
宮崎駿監督のアニメ映画 『風立ちぬ』 を観てきました。【ネタバレ注意】
映画の感想・・・良かったですよ。宮崎アニメに出てくる飛行シーンは、今回もぞんぶんに出てきたので、あのなんともいえない浮遊感を満喫できました。
今回は主翼をバタつかせて飛ぶ飛行機とか、天空に浮かぶ城とか、豚のパイロットとか、箒に乗る魔法使いとか、奇想天外なものは出てきません。(夢の中のシーンでは一部出てきますが)
ほとんど正確に時代考証にのっとっていたといえるでしょう。いや、あまりにも時代考証が正確すぎたのかもしれません。やたらタバコを吸うシーンが多くなったのもそのせいなのかと。あの時代はタバコは当たり前のことで、なければないで、不自然さを感じさせるのかもしれないし。
この喫煙シーンについてNPO法人「日本禁煙学会」から「風立ちぬの喫煙シーンは条約違反」という抗議文(要望書?)が出されたようで、これについて、ネット上ではけんけんがくがくと議論が起こっています。
あくまでもこれはフィクションで、ちまたには、殺人シーンや麻薬を吸うシーンが満載のアニメどころか実写版の映画が氾濫しているのに、タバコだけを批判するのは、公平じゃないなと個人的には思います。そのことをもってきてこのアニメの評価をうんぬんするのはナンセンスではないのかと。
いや、むしろ喫煙シーンは必要だったのかもと思います。【ここからは特にネタバレ注意】
結核患者の妻、菜穂子が手を握りながら、夫、二郎に、結核患者には危険であるはずのタバコを許すシーンが好きです。どうして菜穂子はタバコを許したのか、そして二郎がそれを聞いて吸ったのか、ふたりの気持ちを想像すると、このシーンでふたりの関係の強さを感じるし、切なくなってきます。菜穂子が余命いくばくもないことをふたりも覚悟するのです。その覚悟の確認ではなかったでしょうか。悲しく、切なく、美しい印象的なシーンです。このシーンが必要だったために伏線としてタバコが何度も出てきたのかとさえ思うくらいです。(その証拠にモデルになった実際の堀越二郎氏は非喫煙者だったという話もある)
この映画の話だけではなくて、一般論ですが、人は「健康」だけで動いているわけではありません。むしろ健康に悪いことをやっている場合の方が多いと思うし(俺はそうです)、それがかえって生きていることを実感できることにもなっていたりするのです。(タバコじゃなくて酒はどうですか? 酒が体にいいなんてのは半分幻想です。脳細胞は破壊されるなんて聞いても、俺は酒は好きです)
もっとも「日本禁煙学会」の立場ではそう言わざるをえないんだろうなと理解は出来ます。それをしなかったらその存在意義もないですし。
別に宮崎監督も、教科書の教材作りをしたいわけではないのです。しかも今回の核心的テーマは、かなり深刻なものです。タバコのことにあまりにも気を取られていると、もっと大切な問題が見えなくなっていくようにも思うし。議論するならむしろこっちでしょ。
映画の見た目の美しさは、その深刻さを救ってくれたといえます。
物語中でもチラチラと触れられていますが、飛行機(あるいは技術)の両刃の剣的存在です。戦争の道具を作りたいわけではなく、純粋に美しい飛行機を作りたいんだと二郎たち技術者たちはいいます。
しかしどうなんでしょうか。「純粋である」ことで、すべてが許されるのかどうか。
飛行機(あるいは技術)、それ自体は、「善い」ものでも「悪い」ものでもありません。ただそれを使う人間によって意味合いは変わってきます。遠くへ人を運ぶことができて便利という立場になれば、高性能の飛行機は「善い」ものだろうし、爆弾を高速で運ぶことができるという立場に立てば、開発した人間には「善い」ものでも、爆弾を落とされる人間には「悪い」ものになってしまいます。
別に飛行機の技術者だけの話ではないし、戦争の道具を作ったから駄目なんだと非難しているのではありません。技術はつねに両刃の剣といいたいだけです。
たとえば、俺の写真についてだって言えます。いい写真を出すことで、そこへ観光客が押し寄せ、現地の人に迷惑をかけるということもあります。自分では「純粋にいい写真を撮りたいだけだ」と言っても、その写真は、ある人には「善い」もので、ある人にとっては「悪い」ものになる可能性があるということです。極端な物言いかもしれませんが、そういうことはつねに自分の中にジレンマとして抱えながら写真を発表するしかないのです。
だからこの飛行機の技術者たちの心情に興味が沸きました。少なくとも二郎たちは戦争を肯定していたからこそ、飛行機を開発できたということはあります。どう見ても「強制されて」飛行機の設計をやらされていたとは思えません。それとも戦争には目をつぶっていたのでしょうか。
彼らは飛行機が作れたから満足だったのか、それとも、戦争に加担した罪悪感にさいなまれたのか、そのあたりを知りたかったのですが。
たぶん、誰にもわからないんでしょうね。本人たちにも。そんなに勧善懲悪的な出来事なんて世の中ないですよ。その矛盾というか、ジレンマを抱えながらも、青い空と白い雲には感動するし、愛する人のそばでは幸せを感じるし、武器であっても飛行機は美しいし、健康に害があっても酒やタバコはうまいのです。
宮崎監督は、そこを描きたかったのではないかなと思います。そういう意味で人間のリアリティは矛盾の中にこそあると俺は思っているので、 『風立ちぬ』 の中にもちゃんと描かれていて、好きな映画になりました。
監督自身が、「神」にならず、矛盾をさらけだしているところに好感を持つし、そこがすごいのです。
2013/08/17
近所の火事での意外な行動
昨日の夜、近所で火事がありました。
たまたまヴィーノの散歩で、午後7時過ぎに現場を通りかかったとき、1軒の民家から煙が出ていました。通りにはバイクが止っていて、ふたりの男が話をしていました。もうひとりの男もいました。
まったく3人ともあわてた様子はなかったし、車が1台来て、何事もなかったように向かいの駐車場に入ったのを見て、「これはほんとに火事なんだろうか?」と半信半疑で立ち止まっていたのです。もし火事だとしたら、すでにこの3人のうちだれかが消防に電話したろうし、と思いました。
1、2分後、窓から炎が出てきました。屋根からはもうもうと煙が上がっています。だれかが「火事だ!」と叫ぶ声、隣の家の住人が気がついて、窓から隣の火事の家へシャワーで水をかけはじめました。
俺はヴィーノを引っ張って火事の家の前まで行って、玄関の呼び鈴を鳴らしました。あとで妻に話したら、「はーい」とか言って人が出てくるはずないじゃないのと言われて、それはそうだと気が付いたのでした。この家の中に人がいたらなんとかしなければと思って、とっさにとった行動ですが、まったく無意味でおかしな行動をしたものです。
「誰も住んでいません」「空き家です」という声がどこからか聞こえました。それで安心しました。隣の家の奥さんはあわてて犬だけをつれ出して通りに避難してきました。
ようやく消防車が来ました。消化が始まり、火は消えました。幸いにも隣の家に火は移りませんでした。
それにしても、あとで不思議に思ったのです。あの緊迫感のなさはなんだったのだろうか?と。
バイクを止めて話をしていた男たちは煙が出ているところでまるで何事もないように話をしていたし、もう一人の男も静かに歩いているだけだし(そう見えただけかもしれませんが)、言い訳になってしまいますが、それで俺も最初は騒ぎませんでした。火事かどうか自信がなかったのです。でも、あの場合すぐに「火事だ!」と声を出すべきだったのでしょう。幸いにして人的被害もなく、大きな火災にはならなくて不幸中の幸いでしたが。
なんだか冷静すぎるのも考えものだなと思います。でも、動揺すると、意外と声が出ないものなのかもしれません。冷静に見えた男も、突然のことに何をやったらいいかわからなくなっていたのかもしれません。
1夜明けて、今朝の散歩のとき、現場には黄色の規制線が張られ、警官が立っていました。現場検証はこれからのようでした。
空き家だったという話なので、それだったら原因はなんだったのだろうと気になります。火は、建物の外側から燃えていたのではなく、明らかに、中から燃えていたので、外から放火されたというのは考えられません。
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2013/08/16
棚田をテーマにしたバレエ『里舞』のオープニング曲を作る
千葉県鴨川市大山千枚田のバレエ『里舞』の公演が、来年東京で行われることになりましたが(NPO 法人鴨川現代バレエ団 「里舞」のホームページ)、そのときのオープニング曲をこつこつと自宅で作ってきました。
先日、主宰者の長村さんたちを交えて、曲を直接修正していきました。
音楽スタジオを借りてやりましたが(音楽スタジオも30年ぶりくらい)、ドラムセットが置いてあってテンションがあがりました。ドラムをやってる場合じゃないので、まじめに曲作りをしましたが。
自宅で聴いても大音量で聴けるわけではなく、ヘッドフォーンをしても、実際のバレエが行われるステージでの雰囲気はつかめないので、やっぱり音楽スタジオはいいですね。
以前、失敗したことがあります。自宅では「いいな」と思っていた曲でしたが、これを使ってスライドショーをやることになって、会場で大音量でかけたら、なんと棚田の水路の水音が、水洗トイレを流す水音に聴こえてしまったのです。
もちろんそのときは、そのまま進行したので、お客さんは気がつかなかったと思いますが、俺は顔が真っ赤になって、はやく水音が終わってくれないかと、恥ずかしさでいっぱいでした。
音楽の「音量」というのは、単に「音が大きい」というだけではなく、「音質」にもかかわってくるんだということをはじめて知ったのでした。たぶん、それは人間の耳のハード部分と関係があるのでしょうが、小さな音量を感知する細胞と、大きな音量で反応する細胞が違うんではないかな、と勝手に想像しているんですが。わかりませんよ。単なる想像です。
もしかしたら、音源からの距離なのかもしれません。水路の水音を、10cmほどに近づいて聞くことはなく、1m以上は離れています。
たとえば、虫の声なんかも、大音量で聞くと、「風情がある」というより、「怖い」というふうに印象が変わってしまうのかもしれません。
まぁとにかくああでもないこうでもないと、構成や長さを決めていって、最終的に、中国雲南省ミャオ族の旧正月で歌われていた歌を隠し味で入れて完成となりました。
このオープニングのあと、ディープフォレストの曲に繋がっていきます。ミャオ族の歌を入れるところなんか、ディープフォレストの真似だろうと思われるかもしれませんが、違うんです。ディープフォレストを知る前から、音楽には民族音楽を挿入していました。
サンプル曲はこちらです。
2013/08/13
2013年8月13日、今日は、旧暦七月七日の「七夕」
今日(2013年8月13日)は、旧暦七月七日の「七夕」です。
新暦(グレゴリオ暦)が取り入れられる前までの七夕はこの時期でした。梅雨が明け、夏空が安定し、昔は電気もなかったし、そして大事なことは、月は、必ず新月から6日が経過した月で、月が地平線に早く沈んでしまい、月明かりの影響を受けにくいので、星を見るにはよかったのです。
今は(日本では)、完全に旧暦で祝うところは少なく、「新暦の7月7日」か、月遅れの「旧暦ふうの8月7日」になっています。
月遅れの8月7日は旧暦の伝統的七夕と近いといえば近いのですが、ただ、「月の形」が毎年違ってしまいます。なので、七夕の節句こそ、旧暦で祝う意味はあるのかもしれません。
天空には1等星が3個の「夏の大三角」というのが見えます。織姫星であるベガ、彦星であるアルタイルは天の川をはさんで輝いています。美しい夜空を眺めていて生まれてきた物語だったのでしょう。
俺も今日、短冊に願いを書いてお祈りしようかな。
「世界が平和でありますように」(ウソです)
「お金が欲しい」(これ切実です)
2013/08/10
「e-ノンフィクション文庫」から『桜のように生きる』を刊行予定
「e-ノンフィクション文庫」から『桜のように生きる』を刊行予定です。
この「e-ノンフィクション文庫」というのは、国内最大級の電子書籍販売サイト「eBookJapan」から配信される電子書籍文庫です。すでに10タイトルほどが配信されています。
「週刊現代」編集長などを歴任された元木昌彦氏の責任編集によるもので、どこでも手軽に読めるワンテーマ・ノンフィクションとして新しく立ち上げられたシリーズです。
元木氏は創刊に際して次のようなメッセージを寄せています。
「ノンフィクションは大きな曲がり角に立っている。掲載する雑誌が次々に休刊していき、単行本は売れず、出版社もノンフィクションを育てようという気概を失いつつある。こうしたノンフィクションの閉塞状況を微力ながら少しでも打開できないかと考え、このたび、老舗電子書店「eBook Japan」から『e-ノンフィクション文庫』を、私の責任編集で創刊することにしました。いつでもどこでも手軽に読めるワンテーマ・ノンフィクションを創出することによって、これまでノンフィクションに馴染みがなかった若い世代の読者層も広げたいと思います。」
『桜のように生きる』は、今年の4月福島県の桜を追ったノンフィクションで、一部は当ブログで紹介しているものです。福島県富岡町、浪江町、南相馬市、三春町、二本松市などの被災地の桜と、桜にまつわる人々の様子を書いています。
短くて読みやすいと思いますので(写真も使っています)、興味のある方はぜひ。2013年8月26日から配信を予定しています。
2013/08/09
イスラム音楽を聴くと暑さが薄れたように感じる
気のせいなのでしょうか?
イスラム音楽を聴くと暑さが薄れたように感じます。
Persian classical music from Iran - Great masters of the Santur
たぶんイスラム国へ行ったときの暑さを思い出すからではないかなと思います。暑さの質が違うんです。カラッとした暑さが妙に懐かしい。俺の蒸し暑さ対策のひとつです。
それともうひとつ、暑さ対策にはお勧めの方法が。
それは「モロッコ・ティー」です。ミントの葉を入れたコップに熱い緑茶を注ぎ、砂糖を混ぜて飲むお茶です。
緑茶といえば、こだわりのある日本人には、砂糖を入れて飲むなんて邪道だといわれるかもしれませんが、世界は広い。
実際暑い気候のモロッコで飲む甘い緑茶は、おいしいのです。ミントの香りもあって清涼感が増します。
こういうのは生活の知恵ですね。それぞれの土地で、最良と思われる方法を考え出す人間というのは面白い。
司馬遼太郎だったかな、「文化とは、気持ちよいことだ」という意味のことを言っていた気がしますが、なんて分かりやすいんだと、すごく納得。
でも、勧めておいて言うのもなんですが、湿気のある日本の暑さの中では甘ったるくて逆効果かもしれません。日本では寒い季節に作って飲んだことはありますが、正直、夏はないです。
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2013/08/07
「開運!なんでも鑑定団」で鑑定された「田毎の月」の象嵌が施された煙草箱
テレビ東京の「開運!なんでも鑑定団」を何気に見ていたら、煙草入れのような金属製の箱が鑑定されていました。鑑定結果は本物で350万円の値が付きました。
でも、俺が気になったのは、その驚きの鑑定結果ではありません。
和歌の文字と、田んぼに映った満月3つが象嵌細工としてほどこされていて、「あっ、これは『田毎の月』だ」と思ったからです。
あらためて「開運!なんでも鑑定団」の公式HP( http://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/kaiun_db/otakara/20130806/02.html )で確認したら、
「明治を代表する彫金家、海野勝珉作 煙草箱」とあります。「田毎の月」の下には、片切彫という技法で描かれた水路まであるすぐれた芸術品です。
そしてなんと言ってもすごいのは和歌の作者は加藤千蔭という人らしいのですが(江戸時代中期から後期にかけての国学者・歌人・書家。 Wiki参照 )、作者の書をそのまま縮小して象嵌しているところ。書の文字を象嵌するというのは非常に難しいそうです。
加藤千蔭の和歌では、「千まち田」と表現しています。歌は覚えていませんが、かろうじてこの「千まち田」だけは覚えていました。ネットで調べたら「千町田」ですね。
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2013/08/04
2013/08/03
2014年(平成26年)用の、「日本一使いづらいけど美しい旧暦棚田ごよみ」制作始まる
来年はお得な年になります。なんと1ヶ月多いのです。
それは旧暦ならではのことで、「閏月」という月が入るからです。
旧暦は太陰太陽暦であることはすでに書きましたが、月の満ち欠けの周期(新月から新月までの時間)は29.53日という長さなので、これが12回だと、354.36日で、どうしても、1年(太陽年)の365.2422日に11日ほど足りないわけです。それで、3年に1度くらいの割合で、「閏月」という月を入れて、そのギャップを埋めるわけです。大雑把に言えばこんなかんじでしょうか。
このギャップを埋めないのが、「太陰暦」であるイスラム暦です。だから、イスラム暦ではどんどん月が前にずれていきます。
農耕民族は、この方法では不都合がありました。季節を無視して農耕を行うことは不可能だからです。季節(太陽の周期)と合わせる必要があって生み出されたのが「太陰太陽暦」。
だから、太陽の1年の周期365日が増えるわけではなく、あくまでも「旧暦の月(来年は九月)」が増えるというだけなんですが。
種明かしをしてしまうと、「なんだぁ」とがっかりされてしまうかもしれませんが、でも、得した気分になりませんか? 1ヶ月増えるのは事実なんです。もちろん新暦(グレゴリオ暦)で生活していたら、まったく関係ない話になってしまいます。
だから旧暦を意識していると、「閏月」にはお得感があります。それと、日々の生活も微妙にサイクルがずれた感覚があって面白いです。
と、いうわけで、旧暦のプロジェクト、今年も動き始めました。(結局PRか?)
2014年(平成26年)用の、「日本一使いづらいけど美しい旧暦棚田ごよみ」です。
1ヶ月前に第1回目の打ち合わせをやりましたが、昨日は2回目の会合で、棚田の写真はだいたい決まりました。それと、「おまけ」を付けることにしました。この「おまけ」については、まだ話せませんが、なかなかいいですよ。
来年用の棚田ごよみは、去年よりは早めに完成させるつもりです。期待していてください。
☆
平成26(2014)年版の「旧暦棚田ごよみ」 予約受付はじめました。初回特典「二十四節気&七十二候一覧(ポスター型)」付きです。(無くなり次第終了) ご予約は、NPO法人棚田ネットワークまで。
http://www.tanada.or.jp/tanadanetwork/goods/
PVはこちらです。
2013/08/01
明日(2013年8月2日)は、二十四節気「大暑」の末候「大雨時行」だが
明日(2013年8月2日)は、二十四節気「大暑」の、七十二候末候である「大雨時行(時として大雨が降る)」です。
でも、今年の大雨は、「時々降る」という感じではありません。中国地方を中心に大きな被害が出ています。
ここ10年でみても、雨の降り方が極端に激しくなっているという感覚は俺にもあります。夕方の「夕立」も、むかし経験した東南アジアでのスコールと似てきているなぁと。気候が亜熱帯化していて、大きな原因としては地球規模の温暖化にあるとはよく言われています。
むかし、ラオスのメコン川中州のコーン島に行ったとき、ゲストハウスでいっしょになった、スイス人旅行者とラオス人スタッフと話をしていました。
スイス人は、最近スイスも暖かくなってきているよと言ったので、俺も日本が暑くなっていると言うと、なんと、ラオス人さえも最近は暑くなってきたと言ったのです。
俺とスイス人には、ラオスはすでに十分に暑かったのですが、ラオス人にしてみたら、その暑さの中にもより暑さを感じているんだなぁと分かったのでした。それで3人して、地球が温暖化していることをあらためて確認し合ったのでした。
繊細な気候の変化を言葉で表した二十四節気と七十二候というものを変更せざるを得なくなってくるということでしょうか。気候が人間のライフスタイルに影響するのは当然です。当面は東南アジアのライフスタイルから学ぶことが増えていくのかもしれません。
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