大山千枚田から生まれたバレエ『里舞』での音楽もイメージの表現手段
昨日、『里舞(さとまい)』の東京公演が行われました。大井町駅前の「きゅりあん8階大ホール」で、1000人入りますが、ほぼ満席に近い状態でした。
曲とバレエが、アジアのどこか、稲作の国のような普遍性を持ったイメージが、俺のイメージと同じ方向性をもっていたので、個人的には良かったと思います。みんなも「いい」と言っていたので「里舞」は一応成功したといってもいいでしょう。
「次はフランス公演に向けて」というのが、関係者たちから聞かれた言葉で、俺も冗談ではなく、それを期待しています。
ところで、これだけ大きな会場で、自分の曲を聴くのは初めてです。どう聴こえるんだろうか?と少し不安もありました。でも、ちゃんと音響さんも関わっていて、心配していた低音は抑えられていたおかげで(抑えすぎのところもあったのが残念ですが)、聴きづらくはなかったので、一安心しました。
もちろん、俺の曲の次が、Deep Forestや、葉加瀬太郎さんの曲だったりすると、レベル(実力)の違いが恥ずかしくなります。それほど俺も音楽に関しては「身の程知らず」ではないので、自分の実力は自覚しているつもりなので、これは当然ですね。ただ、一方で、バレエであれ、なんであれ、有名な曲だけ使っていたのでは、曲だけに意識が行ってしまって、バレエのオリジナル性というものが薄れるのかもしれません。そういう意味で、つたない俺の曲でも、使ってもらう価値はあるのかなと。
もともとは自分の写真展のために作り始めた曲ですが、「音」というのも、自分の写真展では重要な要素だと考えるようになりました。写真展会場で、市販の曲(誰かの曲)をかけるのが、なんとなく「違うなぁ」と思うようになったのです。他人の曲のイメージで写真を見られることに、あまりいい気持ちがしません。それなら自分で作ったオリジナル曲を、と考えたわけですが、今はパソコンがあれば、自分のイメージを比較的簡単に(30年前と比べて)音楽に反映させることが出来ます。だから今では、曲作りと写真撮影は一体のものです。切り離せません。
だから俺にとっては、「写真」も「音楽」も同じことなのです。ある「イメージ」を表現する手段に過ぎません。このふたつに加えるなら「旅」や「文章」もそうです。その「イメージ」の表現の手段なのです。あくまでも「手段」であって「目的」ではありません。別な手段の方がイメージを表現しやすいとなったら、これからでも、その手段も使いたいと思います。
前々から言っているように、「写真家(という職業)になりたいわけではない」と言っていることは、こういう意味なのです。たぶん、「写真家と名乗っておいて、何をバカなことを言っているんでしょうか? この人は」と思われているんでしょうが。
「職業」というのは、何かを何人かで分業することから生まれたひとつのシステムです。ひとつのことだけをやっていたほうが、技術も高まり、効率的になっていきます。そもそも俺は、この「分業」という「効率化」が気に食わないのです。「人間は機械ではない」などと、さんざん言っておきながら、この「分業」こそ、人間の機械化の始まりでもあるのです。
こう考えていくと、
「効率的ではないことが人間らしさである」
ともいえるかもしれません。
ここで参考になるのは、バリ人の生き様でしょうか。昼は農作業をやり、夜は音楽をかなで、絵を描く。その全体がその人なのです。今は、観光客に音楽や踊りを見せる「職業」になってしまった感もありますが、もともとはまったく自家消費の芸術でした。食べ物の「地産地消」と同じように芸術の「地産地消」です。もちろん「地産地消」は一歩間違えると「自己満足」にもつながっていくわけですが。
今回、使ってもらった曲は、次の通りです。「里舞」のプログラム名と、曲名をあげておきます。曲名をクリックすると、サンプル曲が聴けます。(「棚田シンフォニー」だけはまだサンプル曲を作っていないのでありません)
1: 大山千枚田のスライドショー 「棚田シンフォニー」
2: 地 「PAPAYA SEEDS」
3: 種 「DANCING NAGA」
4: マーチ 「ASIAGE MARCH」
6: 魚 「TONLESAP LAKE」
7: 稲 「朝靄」
8: 華 「夜明け」
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