昔、「お天道様が見ている」や「世間の目」、今は、「SNS・動画サイト」や「防犯・監視カメラ」
幼児を女性が「蹴り倒す」動画――渋谷駅で撮影された「児童虐待」衝撃の現場
http://www.bengo4.com/topics/1657/
渋谷の動画の母親は特定され、本人も自分であることを認め、児童相談所が対処しているらしい。これで「一件落着、メデタシメデタシ」なんでしょうか。
いろいろ考えてしまいました。
もちろん虐待は悪い。もしこの嘉瀬さんが動画を撮影・投稿しなければ、この事実自体無かったことになっていたでしょう。そういう意味では、意義はあるだろうとは思います。
ただひっかかるのは、糾弾のされかたがあまりにもきつすぎて、バランスが悪い感じがするのです。これが殺人犯とか、強盗犯のビデオならわかるのですが。
顔にモザイクも無しで投稿されています。子供にもかかっていません。警察に通報されたのは、ネットでの反響が大きくなったあと、というのも気になります。それとコメント欄には、糾弾、非難するコメントが多く、どうして母親がこんなことをしたか原因を探ったり、気にしたりするものは少ないことも気になります。まるでひとつの動画だけを見て人を裁く人民裁判にも見えます。法律で裁かれる前に、すでに裁かれています。
母親を擁護するつもりはありませんが、顔出しで子供といっしょに公衆にさらされたということは、この動画の拡散からみて、彼女たちの周りの人たちも知ることになっただろうし、「あの親子だ」と言われ続けるかもしれません。
これだと、法律で罰せられるよりも、社会的な制裁が大きすぎるという気がします。母親の立ち直りに影響するのではないかなとも思うし。
一般論ですが、「見かけ上、虐待だ」というだけで、これだけの社会的制裁を課す権利というのは、一般人である俺たち(第三者)にあるのでしょうか。「悪」を糾弾することは100パーセント「善」なのなのだろうか?という疑問があります。
この渋谷駅の動画ばかりではなく、少し前に、列車内で泣き止まない子供にいらついて「チッ!」と舌打ちした女性を糾弾するようなものがツイッターに投稿され反響を呼びました。このときも、この投稿した人は、「チッ!」と舌打ちした女性の言い分をまったく聞かないで投稿したわけで、もしかしたら、子供の泣き声に舌打ちしたのではなく、何か他の事情があったのかもしれず、それをまったく聞かずに、自分の目から見て、「正しくない」と思った(思い込んだ)ら、糾弾してもいいんだという発想自体には俺は違和感を覚えます。
余談ですが、そもそも、うるさい泣き声に舌打ちするくらい何だ?というのがありますが。舌打ちすることで、もう一歩先のトラブル回避をしていることもあると思うので、舌打ちくらいいいだろうに、とは思います。自分が舌打ちする状況を考えれば、わかりそうなもんですが。
昔、「お天道様が見ている」とか「世間の目」とかは、悪いことをやらないような抑止力になっていましたが、今は、「SNS・動画サイトに投稿される」とか「防犯・監視カメラがある」というのに変わってきたということなんでしょうか。
昔はおせっかいな人がまわりにたくさんいて、こういう問題に介入してくれていました。今は、「ビデオを撮る」ということでその役目を果たしているなら、これも時代なんだろうなと思います。無視して通り過ぎるよりは、いいことでしょうし。ただアップするならそれなりの結果予想をしなければならないのでしょう。
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