« 平成27年(2015年)版 「旧暦棚田ごよみ」 予約開始 | トップページ | 使いづらい、だけど美しい 「旧暦棚田ごよみ」 平成二七年(2015年)版PV »

2014/09/17

NHKスペシャル「臨死体験 立花隆 思索ドキュメント 死ぬとき心はどうなるのか」を観て

140917

先日、NHKスペシャル『臨死体験 立花隆 思索ドキュメント 死ぬとき心はどうなるのか』がありましたが、後半の半分くらい見ました。

番組HPはこちら。

http://www.nhk.or.jp/special/detail/2014/0914/

「『私』という存在は死んだらどうなるのか、死ぬとき『私』は何を見るのだろうか――。 20年余り前、臨死体験について徹底的に取材し考察を深めてきたジャーナリスト/評論家立花隆さん。74歳を迎え、がんや心臓の病を抱えて死を間近に感じる今、再び臨死体験の最新研究の現場を見つめ、“死”について思索しようとしている。」(HPより)

この中で「意識」というものにも触れていましたが、脳内の複雑な「ネットワーク」こそが「意識」であるという説明は、納得できるものでした。

以前『ひとり会議』の中で書いたコンピュータの関係性が意識を持ち始めるという話【ひとり会議 その八】 「インターネット」に「こころ」?(2008/02/17)、これと似たような話が出てきました。「ネットワーク」ができるのは何も生物だけではなく、機械にもありえるという話です。

人が死んだら、ネットワークも消滅するので、「意識」はなくなると俺も思っていますが(だから死んだ本人にとっての死後の世界というものは無い)、「魂」と表現される霊的な存在も信じていることは信じています。

ただ、幽霊などのように「死んだ人の魂」がこの世に存在し続けて動き回るようなオカルト的話ではなくて、むしろ残された人の心に宿るその「死んだ人の魂」ということです。つまり「魂は残された人にとってのもの」と考えます。とくに親しい間柄だったら、なおさら「死んだ人の魂」というものは残された人の心に存在し続けるのではないかと思います。よく言いますよね。「私の心の中で生き続けています」って。

葬式は、だから死者のためではなく、残された人のために行われるのはもちろんです。その死をどうやって受け止めて納得するかは、まったく個人の問題で、科学や法律や世間の常識が介入できる話ではないと思います。それぞれの人が、自分で納得できる葬式をやるしかないのです。

その点に関しては、最近、自然葬、樹木葬、宇宙葬、海への散骨など、いろんなバリエーションができてきて、既存の宗教には囚われない、それこそ自然な流れになってきたなと思っていますが。

また番組では、死後の世界を気にする、心配する、恐れるというのが人間だみたいな表現があって、これも納得できました。

脳を発達させた、いや、発達させすぎたがゆえの不安感というものなのではないでしょうか。

たとえばヴィーノと比べると、それがよくわかります。犬は、たぶん、「いつかは俺も死ぬんだ」とは考えていないでしょう。(本能として危険を回避する行動はとりますが) 死の不安がないというのはとても幸せなことです。

ただし、こう思うのも、死の不安を考えてしまう人間だからなので、犬が、犬の感覚でどう感じているかは、人間にはわからないわけです。まぁあくまでも人間の立場からみたときの幸せに過ぎないのですが。

番組では、死んでからも、わずかな脳波は確認されたようで、何かが活動しているのは明らかなようです。

そのとき何が起こっているのか、「死ぬとき『私』は何を見るのだろうか――」というテーマは、永遠にわかりません。臨死体験として、幽体離脱や、三途の川、光が導くなどのイメージは語られますが、そもそもまだ死んでないから生き返るわけで、完全に死んでしまって体験しても、それを生前の人間が知ることはできないという事実は永遠に残ります。

科学的な死への解明がいくら進んでも、死への不安はなくなりません。この死への不安を取り除いてあげるというのが宗教ということになるのでしょうが、ただ既存の宗教ではもう限界もあるような気がします。
 
 
 
 
にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
にほんブログ村


|

« 平成27年(2015年)版 「旧暦棚田ごよみ」 予約開始 | トップページ | 使いづらい、だけど美しい 「旧暦棚田ごよみ」 平成二七年(2015年)版PV »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 平成27年(2015年)版 「旧暦棚田ごよみ」 予約開始 | トップページ | 使いづらい、だけど美しい 「旧暦棚田ごよみ」 平成二七年(2015年)版PV »