「尊厳死宣言の米女性死亡」のニュース 「尊厳死」が「絶望」から救ってくれる「希望」
尊厳死宣言の米女性死亡
(nifty NEWS http://news.nifty.com/cs/headline/detail/kyodo-2014110301001320/1.htm参照)
予告していたので、事前に知っていたわけですが、もしかしたら、思いとどまったのではないかという憶測も流れていました。やっぱり「その時」が来たら、「生きたい」と思い、やめたのではないかと一時思ったのでしたが・ ・ ・
でも、実行してしまったわけです。
バチカンが批判するコメントを出しています。賛否両論あるのは当然でしょう。文化の違いや、考え方の違い、いろんな考えのある中で、結論が出る問題ではないと思います。俺も正直わかりません。
ただ、選択肢として認めてもいいのかも、とは思います。彼女もインタビューで答えていました。「尊厳死できるという選択肢があることで安心していられる」と。
この感覚は俺にもわかります。最終的に尊厳死を選ばなくてもいいのです。苦痛から逃れる最終兵器としての尊厳死、「楽に死ねる」という選択肢があるほうが、逆説的ですが「生きよう」というか「生きられる」と思うような気がします。
へんな言い方ですが、「尊厳死」が「絶望」から救ってくれる「希望」にも思えるし。
「人間は自分の意思で生まれたのではないから、死も自然に任せるべきだ」という意見もあります。
また、「人間」ということばに表されているように、「人は周りの人との関係で生かされているもので、自分だけで死を選択するのは自分勝手で間違っている」という意見もあります。
俺も人間はその個人がすべて個人の自由意思に任されるとは思っていません。人との「間」、つまり「関係」こそがその「人」を作っているんだろうと思っています。
ならば、「間」というのは、支えあうとか助け合うとか、いい意味ばかりではなくて、当然悪いほうにも作用するでしょう。
たとえば、「尊厳死」に肯定的な人は、「家族に迷惑をかけたくないから尊厳死を選ぶかもしれない」といっています。それも「間」から影響を受けての判断です。人とのつながりを考えるからこその選択です。
俺もその場になったらそう考えるかもしれません。
でも、これが社会の「風潮」になってしまうのは危ないかなと思います。みんながみんな、「家族に迷惑をかけないために死を選ぶ」などという方向へいったら、それはそれで違うかなぁとも思います。正直、まだ俺の中でも結論は出ていません。
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