イベント「旧暦のリズムで棚田を味わう」で話した「田毎の月」について
昨日は、イベント「旧暦のリズムで棚田を味わう」でした。
二十四節気に合わせた風景のスライドーショーは約1時間。途中休憩して棚田米の試食会もありました。
ところで今回もまた予想通り、というか、意識的に、「田毎の月」についての話がながくなりました。
すきなんですね、「田毎の月」の話が。
「田毎の月」は複数の田んぼの水に、それぞれ月が映るものですが、「非科学的だ」という人がいます。確かに光学的(科学的)には、月はひとつしか映りません。
でも、「田毎の月」は、日本人の心象風景、日本人の無意識にあるイメージを意識化したものと考えることもできるのではないでしょうか?
フランスの画家、マルク・シャガールは、現実ではなくて想像上の物を描いていると言われるのが嫌いで、「心的現実を描いている」と反論したそうです。
「田毎の月」も同じ、心的現実を描いたものだと思います。
その瞬間は月はひとつしか映りませんが、時間が経てば、月は田んぼを移動していくし、自分自体が動いても、月は田んぼを移動していきます。つまり時間を考慮するとすべての田んぼに月は映るのです。「田毎の月」はその全体を体験した時の「美しいなぁ」とか「怖いなぁ」とかいう感情を伴ったイメージなのでしょう。「嘘」ではないのです。
現代人にとって、そんな悠長なことをしている暇がないということなんでしょうね。なんでも科学で早く決着をつけたがるのは、まさに合理的で現代的です。
「日本人の」と書きましたが、もしかしたら「日本人の」という形容詞は必要ないのかもしれないですね。
そのことについては、以前も少し触れましたが、人類共通に持っている無意識のイメージなのではないかとも思うからです。どうして棚田を見て、癒されたり、美しいと感動するのでしょうか? そこには、文化の枠を超えた何かもっと大きな理由がありそうです。
それを探るために、いろいろやっているわけですが、いまだに答えはわかりません。今のところ。
ところで、ここからは写真についてですが、「カメラは、それが天国か地獄ででも使われるのでなければ、絵具とパレットにはかなわない」とエドヴァルド・ムンクは言ったそうです。
顔を両手で挟んだ『叫び』という絵で有名なノルウェーの画家ですね。こころの中にあるイメージを表現するには写真よりも絵のほうが優れているという意味なのでしょうが、その通りで、写真のあまりにも科学的で客観的なところが、心のイメージを表す手段としてはあまり向いていません。それは認めます。
「田毎の月」を写真で表現するのは難しいのです。それよりも、絵(版画)や詩(俳句)のほうがやりやすいし、「田毎の月」の本質を表現することができるでしょう。
でも、それだからこそ、とも思うんですよね。写真でやる意味があるのではないかと。科学的で客観的な写真で、人間の心のイメージという主観的なものを表現するという矛盾そのものが、イメージ表現の現代性といえるかもしれません。
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