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2014/11/03

『コリドールの寝台』 夢日記より

141102(『コリドールの寝台』 夢日記2014)

30代のころ、「夢日記」をつけようとしたことがありました。

「夢日記」は、枕元にノートを置いておき、起きたらすぐ見たばかりの夢の内容を書き込むのですが、これは長く続きませんでした。熟睡できなくなったからです。寝ているときも、これを書かなきゃなどという夢まで見て、疲れて疲れて。結局、そのときは10日間ほどでやめてしまいました。

でも今、また夢日記を付け始めています。ただ、昔と違って「書かなきゃ」とかいう強迫観念は無く、忘れてしまったときは書かないし、覚えている夢だけ。あとで記録しておく、ゆるいものなので負担はありません。

昔から夢には興味があったのですが、なぜかというと、夢はしょせん夢で、現実ではないといわれましたが、俺にとって夢は無視することができない現実味を持った身体的体験だったからです。

少なくとも夢で体験した感情は、目覚めてからもしばらく持続したり、テストの「予知夢」を見たこともあったし(山が当たったといえるかもしれませんが)、夢で嫌いなやつを殴ったら部屋の壁をたたいて痛かったこともあるし、浮かんだメロディを口ずさんでそれを曲に取り入れたりという体験をしていたからでした。夢の中で起きたことは、現実世界にも影響を及ぼしていたからです。

夢日記を付け始めると、夢を見やすくなるといわれていますが、無意識の中の言葉にならないものを映像として見ても、それを放っておくと、自然に忘れてしまいますが、言葉で書こうとすると、映像が固定化されて、記憶されやすいからではないかとも思います。

「夢を見ない」という人もいますが、夢はどんな人も見ているんでしょう。それを言葉にできるときは覚えているし、できないときは忘れてしまうということではないかなと思います。夢に対する興味の大小であるかもしれませんが。忘れてもいいと内心思っていれば、脳は、わざわざ記憶のための無駄なエネルギーは使わないというのもなんとなくわかります。記憶する容量にも限界はあるでしょうし。

さて、掲載した『コリドールの寝台』は少し前に見た夢です。

どこかギリシャのようなところで、石柱が並ぶ長い回廊「コリドール」がありました。そこにベッド「寝台」があって、俺はそこに横たわっていました。病気ではなかったようです。ただ昼寝していたのではないかと思います。すると、ベッドの下から得体の知れないものが出てきて、俺の脚を触ろうとするのです。それで俺は脚をばたつかせて、捕まらないように必死になっていました。蹴った足の動作で目覚めました。

怖い夢でした。起きてからも怖さが続きました。

これを夢分析すれば何かがわかるのでしょうが、それよりも、映像が印象的で、これはちゃんと記録しておかなくちゃと思ったのでした。

なぜ「コリドールの寝台」なのか気になります。そういう言葉が自然に浮かびました。「コリドールのベッド」でもいいし、「回廊の寝台」でもよさそうですが。ここにも何か意味はあるんでしょうね。
 
 
 
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